2012年08月08日 23:55 残存アルゴリズム


近々は、去年の九月頃の日記に、高校時代の文章を混ぜて、再掲載をしていました。

今回の日記は、今後に掲載する予定の日記から、引用するための一つの要約となる内容です。

日記のタイトルですが、五年前に編纂していた、物語のタイトルとなります。

その物語では、超絶な大災害によって、日本国内の原子力発電所が粗方破局し、
韓国や中国の原子力発電所も、パニックにより放置され、次々と破局していきます。

それに関しては、まだ先となりますが、当サイトに資料を格納します。

長い日記となりますが、読んで頂けると幸いです。




伽藍堂に佇む空虚な存在は、空疎からの解放を熱望した。

だが、不憫な形式主義に漂流し、杜撰な先例主義に誘われ、見かけ倒しの抜け殻となった。

太古の人類は、事象を見つめながら、その理由を探究した。

当初は、自然により培われた思い込みが、数多の疑念を打ち消していた。

しかし、浮かび上がる疑問により、当然が奇跡となるのは勿論、実際は不明である事に、強く好奇心を擽られた。

対象によっては、最大の関心事が謎である事に、恐怖感・絶望感・失望感を覚えた。

これに関しては、現状でも曖昧であり、適当に誤魔化されるだけで、不動の証明は絶無である。

厳密には、形骸化した仮説を、信じるか信じないか、並べられる程度だ。

この、挑戦状のような世界で、解き明かす事に専念した、先祖の想いを察すると、私の心は踊ってしまう。

朝が来て、昼が来て、夜が来る・・・。

鳥が飛び、魚が泳ぎ、獣が駆ける・・・。

雨が降り、川が流れ、海が波を打つ・・・。

月が昇り、太陽が昇り、星が輝きを放つ・・・。

その、非現実的な空間に対する、解答を求めての考察は、興奮を呼んだに違いない。

幻想に満ちた世界で、湧き立つ探究心が齎す、高揚感による戦慄は、人類の空想を開花させ、数々の神話を創造した。

壮麗な神を描いたのは、無限の空間に不安を覚え、より絶大な存在によって、包容される事を願ったからだ。

それに、莫大な自然の恵みに、畏敬の念がみなぎり、尊崇すべき存在を渇望し、
甚大な自然の脅威に戦き、恩寵を求めるべき存在を、心から欲したからだ。

何より、己達が存在する理由を、存在して良き道理を、揺るぎ無い次元で、是非に表現したかった。

そうしなければ、その膨大な孤独感を、埋める事が出来なかった。

果てに、空想による穴埋に、限界を覚えた人類は、白昼夢よりの覚醒を始めた。

そう、実質を解き明かす事で、あらゆるを会得し、獲得する事を希望したのだ。

要は、辻褄が符合する、事実の獲得を開始した。

そして、ロジカルな検証により、想像の域を出ない、大言壮語が否定された。

当然であるが、空想によって確立された仕組みを、継承により確信している人々に、
事実は受け入れがたい内容であり、熱意にほだされる以前に、理解する能力すら欠如していた。

時には、事実として掲げられた内容が、拒絶する側によって指摘され、間違いと判明した事すらある。

結果、事実を主観とする人々と空想を主観とする人々が対立し、挙句には双方が入り乱れる状況が齎された。

雑然とした状況下で、既存の神話に関しては、信憑性の向上が実施された。

そうなるのは、研究者は信仰者であり、信仰者が研究者となったからだ。

また、より信憑性を高度とし、神の存在を誇示する、事実と空想が調和した、人間のバイブルが誕生した。

さらに、史実の伝承・確固たる支配・支配からの脱却のような、
様々な目的に合わせ、多くの神々が誕生し、栄枯盛衰を繰り広げた。

多くの者が、宗教的観念を利用したのは、主観を固定させる事で、その定着による維持を、心から望んだからだ。

時間の経過により、事実と空想が融合し、宗教と科学は溶け合い、互いを道具とする事で、その存在感を研ぎ澄ました。

そうして、宗教と科学が繚乱する、支離滅裂な現況が形成されたのだ。

これは、人類にとって幸福な結末ではなく、不幸と言える末路である。

確かに、神話や聖書と同じ手段で、良きコンテンツが誕生し、
宗教の布教と同様に、波及する事実を捉えると、
この至当の流れは、有効ではある。

だからこそ、今あるモノが、そこに実存する。

それ故、提供する環境がそれに伴わず、不適切な存在が普及する実情を、非常に残念と感じてしまう。

もし、思考能力と言語能力と記述能力の発展と共に、
不確実性管理能力を養う事が出来ていれば、
まだしも救われる世界が広がっていた。

現代に到っても、生き残りの演算手順である、理性・知性・品性の象徴たる、
リスクマネジメントが、オーソドックスなレベルで、浸透していない事が残念である。




宗教は、至当の流れにより、ただの御伽噺となり、現在に至るまでの、信仰の材料ともなった。

科学は、至当の流れにより、ただの勘違いとなり、現在に至るまでの、研究の材料ともなった。

それらは、稚拙な覇権争いや、矮小な策謀により、莫大な矛盾を抱えている。

そう、建前・自己都合・利己主義の跳梁跋扈により、重層的な二極化が発生し、ツバ競り合いを演じている。

要は、主張の相違により、分岐を繰り返しながら、対立を続けているのだ。

宗教は、様々な宗派に分岐して対立し、また穏健派や過激派に分岐して対立し、さらに不一致により、分岐して対立している。

科学は、様々な学派に分岐して対立し、また肯定派や否定派に分岐して対立し、さらに不一致により、分岐して対立している。

政治は、様々な党派に分岐して対立し、また小沢派や鳩山派に分岐して対立し、さらに不一致により、分岐して対立している。

世界は、様々な国家に分岐して対立している。

人類は、様々な人種に分岐して対立している。

我々は、不一致により、分岐して対立している。

この不協和音により、何が正当で、何が不当なのか、正当があるのか、不当があるのか、誰にも判らなくなった。

発端から、全てが定かではなく、手探りの状態だった。

それが、より曖昧模糊となり、焦点が定まらぬ状況だ。

もとより、確信となる部分が判らぬ限り、証明が実現する道理が無く、宗教と科学と政治に関しては、
その存在が正当なのか、不当なのか、どちらでもあり、どちらでもないのかは、チンプンカンプンである。

何より、宗教と科学と政治により、キツネにつままれたような状態に、我々は幾度も追い込まれ、不可解な辛酸を味わった。

福島第一原発の人身事故における、政治と科学サイドの対応には、
全身の関節が外れんばかりの勢いで、振り回されっぱなしの状態だ。

はたまた、宗教サイドに関しては、東日本大震災と福島第一原発事故による、
人々の多大な不安に付け込み、えげつない事を実施していた。

悲痛な叫びを上げる人々に対する、自分達の価値観の押しつけは、その杜撰な虚栄心の強制は、
品行方正な倫理・道徳・常識・正義に反し、真に神がいるならば、もれなく粛清の対象となり、
実存する神と言える、ナチュラルプロセスにより、その報いを受けるのだ。

ナチュラルプロセスに関しては、以下の日記に記載している。

☆ 世界を見つめるため、仮の話をしよう・・・。(改良版)

残念なのは、それを押しつけられた人々も、満足・不満足に関係なく、同じ運命を辿る事だ。

だから、不浄な宣教は罪深い。

そもそも、信じて救われる宗教があれば、そのような政治や科学があれば、何もかも見違えていた。

だが、そうではないのが現実だ。

人類は、世界とは何か、人間とは何か、解き明かし手中に収める、神様ごっこに明け暮れた。

それにより、様々な枠組が無秩序に蔓延り、人々が乱離拡散し、多元的な立場において、群雄割拠を続けている。

そして、世界と人類の存在が、その空虚な争いによって、痛烈に脅かされている。

そうだ、トンチンカンな探究心が、楽園になり得る地上を、吹けば粉々に飛び散る、地獄へと変えてしまった。

地獄を引き寄せた、枠組を構築した人々は、崇高な精神で携わったが、それは思い込みにすぎない。

厳密には、最初にやるべき事を失念し、それらは腐れ果てる一方となる、レールへと放置されたのだ。

連中は、アフターサポートが劣悪な、そこいらのメーカーと大差がない。




現状では、家族の事は当然とし、己の事すら理解せぬ者が、したり顔で現を抜かし、
様々な枠組に感化され、己と第三者の首を絞め、無残に歪んで死んで行く。

これは、悪夢である。

現実が悪夢である限り、誰しも漠然とした状態で、表層からモノを見つめ、狭い見識で講釈をたれる。

最悪なのは、自分は全知全能と振る舞い、他人の意見を並べる者である。

その者は、自身の考えであると、思い込む内容を見せびらかせ、
それを批判する人々を、空っぽな状態で見下して、
わからぬ事は網羅したフリで誤魔化す。

何より、スケールを大きく見せる事に固執し、自身を磨く事を忘れており、陰湿な思考しか出来なくなっている。

そのため、相手の正当な批判を、不当な批難と誤認し、理解する能力を欠如したまま、
自分に都合のいい返事に没頭し、自己の多大な不足に気づかず、無様かつ卑怯に逃げ回っている。

それでは飽き足らず、批判する側の粗を探す事に必死となり、全く関係のない内容で、
第三者の情報を絶対と信じ、先入観と固定観念に振り回され、つまらぬ挑発を仕掛けてくる。

連中は、どんどん根拠が掲げられなくなり、表層にすぎぬ既知の事実で、相手を言いくるめようとする。

それは、真実を無視すれば、誰にでも可能な事だ。

要は、負けを認めるのが嫌で、どこまでも転落する。

捏造の論理的な思考から、主体性の放棄へと移行し、本来の無思考を見せびらかす。

これは、唾棄すべき振る舞いである。

吐き気を覚えるのは、相手を馬鹿にする事に必至となる点と、
自分に同調する人間を優遇するが、決して対等には扱わぬ事だ。

それでは、周りに人がいるのに、一人ぼっちになってしまう。

それに関しては、以下に記載している。

☆ 理屈と屁理屈の、境界における考察・・・。

他者の道具となり、向う見ずな行動をすれば、己を苦しめる末路を描く。

特に、福島第一原発の人身事故における、安全論者は良き典型である。

連中は、前提条件を極小化し、採用する仮説の選択で、安全・安心をバラ撒いた。

それに関しては、以下の日記から辿って欲しい。

☆ 放射線は、本当に安全なのか?

☆ 原発は、本当に安全なのか?

連中の問題は、解釈や仮説が多数あり、事故で何が放出されたか、実質は不明な状態で、
科学で検証が不可能な実情を無視し、己の狭い見識により、超希望的観測を垂れ流した事だ。

だが、所属する枠組と、そこで与えられる、有限的な情報のみに固執し、
それで己を正当と確信し、誇大妄想に耽るのは、悲しいかな人間の性質である。

その頂上の欠点は、都合の良きデータと好都合な事実しか採用せぬため、イレギュラーを全く考慮しておらぬ事だ。

そうなるのは、現実を見つめる事が出来ない、非常に繊細な敗北主義者であり、瀬戸際の自滅主義者だからだ。

だから、多大な失態の果てに、身を潜める破目となった。

超絶絶頂の問題は、作為的に間違いを犯した者が、圧倒的に多い事である。

そうだ、古い体質により、無意識的な挙動により、大失態を演じたならまだしも、実際はそうではない者が、
大多数存在した事が、特定の層に露呈した事により、降りかかる火の玉は、見上げるような大きさとなった。

連中は、自分達の行動による、先の展開が読めず、適当なリスクすら想定していなかった。

その反動は、見るに耐えぬ次元だ。

しかし、連中より性質が悪いのは、どうなるかを十分に把握し、
どうするかを決めた上で、守銭奴を利用した者共である。

使い捨ての人材と言えど、実際に使い捨てる類には、強烈な恐怖を覚えてしまう。

可哀想だが、全てが手遅れとなり、自分を誤魔化せなくなり、
なんとか引き返そうとしても、もうどうにもならぬのだ。

そもそも、引き返す素振りを見せるが、結局は逃げ回る事を選び、何処までも沈んで行く。

そう、引き返す術が無い訳ではない。

連中自身の、仕様上の都合により、拒絶する事しか出来ぬのだ。

それだから、道具にされた。

あまつさえ、築いた根拠が自滅により消失し、発端からの不在が証明され、専門家すら役に立たぬ状況で、
専門家に感化された者が、その専門家の杜撰な見解を掲げ、自分を崇高と思い込み、墓穴を掘り続けている。

それは、自分を中心に考える事が、精一杯な人間による、不器用な自分を慰める、破廉恥な振る舞いだ。

はなから、改善をすべき立場の者達が、自分中心の腐った世界で、それに酔いしれている。

確かに、こんな滅茶苦茶な世界では、そうでもしなければ、言葉に出来ぬ虚しさと、葛藤を誤魔化す事は出来ない。

あらゆるが、ジキルとハイドである世界で、そのアンビバレンスを抱えて生きるのは、獄中で拷問を受け続けるに等しい。

そうして、人々は面倒な事に対しては、見ざる言わざる聞かざるに耽り、どうでもいい事にしか、反応出来なくなっていく。

だから、こうなってしまったのだ。

様々な枠組によって、大量の矛盾を抱えた社会により、己の事は当然とし、家族の事すら不如意な状態だ。

ならば、不要な枠組は切り捨て、堅実に歩みを進めた方が、遥かに人らしい人生を歩める。

ただでさえ、朦朧としているのだ。

それをさらに、不鮮明にするのは、絶対に適宜ではない。




我々が、事実を粉飾するばかりの、宗教や科学や政治に依存し、多様な枠組に固執する限り、
それらが巨大な足枷となり、真の黎明を人類と世界が、向かえる事は不可能である。

そのため、ポラリティーを調整し、矛盾を相殺する事で、枠組を最適化する必要がある。

そうだ、陰極である表裏一体の世界の、極性を陽極に傾ける事で、
全ての枠組を不極から正極に傾け、健全化を促さなければならない。

陰極である表裏一体の世界に関しては、以下の日記に記載している。

☆ 日本政府は、最大限に取り組むべき事を、未熟な策謀を優先するため放棄した。(改良版)

それが実施される事で、初めて枠組が真価を持つのだ。

現状では、全てがゴミ屑と変わりはしない。

負極からの脱却により、初めて品行方正となる、一貫した方向性が付与される。

それまでは、我々を惑わせる元凶であり、破滅の呼び水でしかない。

どれだけ、慈善的で献身的な枠組でも、それを気に入らない連中に、
暴行され・強姦され・皆殺しにされるのが、この世界の茶飯事である。

また、無償の行為を誹謗中傷し、ボランティア精神に唾を吐く。

さらに、偽物の博愛主義者の枠組に金を出し、自分は正しいと豪語する。

このままでは、同じ事を繰り広げ、悪化させながら繰り返すだけで、人類は終焉を迎えてしまう。

そう、様々な枠組に振り回された挙句、滅び去るのが時点の運命なのだ。

それは、受け入れる枠組による、概念と定義の違いにより、差別主義や排斥主義が蔓延し、
互いの存在を認められぬ果てに、全身全霊で一切合財を破壊し、一心不乱に殺し合うからだ。

何より、グローバライズが、通用しなくなる時が来る。

そうだ、グローバル化により、世界中の人々を交流させ、互いに人質とする事で、大量破壊兵器への抑止力としている。

その、効力が失効してしまうのは、もはや時間の問題である。

それは、悪循環の袋小路の坩堝で、人類が溺れ続けた挙句、重要なセクションの人材すら、
何が正当で、何が不当なのか、 機能不全を起こし、識別が不能となるからだ。

そうなれば、多種・多様な抑止力なんぞ、風前の灯と変わりはしない。

政治家のような、無知・無智・無恥な人材の、残り僅かな理性・知性・品性が吹っ飛べば、この世は一瞬で地獄と化す。

悪循環の袋小路に関しては、以下の日記に記載している。

☆ 今、必要なのは『反原発』や『脱原発』ではない。(改良版)

無知・無智・無恥な人材に関しては、以下の日記に記載している。

☆ 私の演説

それに、様々な枠組が作用する事で、とんでもない行動を促してしまう。

本人は、それを正しいと思い込み実施する。

それが、何より恐ろしい。

既に、多くの同胞が、危険な立ち振る舞いを実行している。

これは、適宜ではない。

人々は、枠組がある限り対立する。

そして、枠組が増えれば、新たな争いが生まれる。

そのせいで、どれだけ時間が経とうとも、争いが終わりはしない。

だが、枠組が無くなろうとも、人類は争いを続ける。

人間の仕様により、良き状況を形成する、斬新な枠組を形成しても、
それは至当の流れにより、新たな破滅の入り口となる運命だ。

そうなるのは、己達で迷路の出口を喪失し、彷徨い続けている状況下で、大した考察や検証をせず、
全く違う方向を出口と思い込み、壊してはならぬ支柱を破壊するような、見当違いの事を実施するからだ。

人類は、自分から率先して、枠組に飛び込む事により、より有限的な存在へ接近し、想像力が限界に縛られている。

はたまた、枠組による争奪戦に晒され、家族と過ごすべき大切な時間を奪われ、枠組を満たすだけに利用されている。

これでは、罪を犯すなと言う方が、無理な相談である。

我々は、至当の条件により、大罪を教唆される、理不尽な仕組に格納されている。

だから、胸苦しい想いに、君が苛まれている。

そして、それを救えぬ事に、私の胸がつかえている。

あまつさえ、正当に罪を裁くためは勿論、贖罪を果たさせるための仕組が存在しない。

そもそも、第三者が犯人を裁く、権利を持つ事すら、不当な状態である。

これに関連した内容を、以下に記載している。

☆ 人間は、歯車である・・・。

☆ 渋谷放火未遂と、悪化の一途を辿る、犯罪を見つめての考察・・・。(改良版)

これでは、現況を打破せぬ限り、未来がないのは明白だ。




我々は、中途半端かつ不完全な枠組によって、重要な事を阻害されている。

天地制圧において、ヒューマニティーを研ぎ澄まし、継承する事が不可欠なのだ。

政治と宗教に関しては、悪循環の袋小路により、銀河掌握にそれが望めん。

そもそも、宗教に関しては、ドクトリンが固定されている事で、最初から発展性がない。

科学や医学のように、発展が必需となる枠組ですら、余計な枠組の介在で、頭打ちとなる部分がある。

発展せぬ枠組に拘束されれば、我々は手足を縛られ、立ち消えを余儀なくされる。

また、枠組の組み合わせにより、どうにも譲れぬ部分が発生し、立ち行かなくなる場合がある。

さらに、間違った枠組に足を突っ込めば、ナチュラルプロセスにより、その報いを受ける事となる。

何より、人間と呼ばれる枠組ですら、親から子への継承が叶わない。

そうだ、研ぎ澄まされた、人間性の継承は困難であり、単純な財産の継承すら、限りが見えている。

より多くの枠組に感染すれば、親は子に対し何を教えればいいか、何をすればいいかが曖昧となる。

はたまた、正当なのか、不当なのが、実際はわからぬ事を、枠組によって正しいと思わされ、無残にも刷り込む破目となる。

例えば、社会が齎す枠組に、万人は誕生より束縛され、生産・消費・消耗する事を、不当な条件で強請られる。

そして、大人は会社に格納され、子供は学校に格納され、必然的に距離が離される。

そこに、様々な枠組が、災厄となって降り注ぎ続けている。

それによって、大人と子供は、別々に歪んで行く。

親は、子供を委ねる仕組みは勿論、自分が働かねばならぬ仕組みにより、子供の変化を察知出来ない。

専業主婦であろうと、様々な枠組に弄ばれ、万人が子供との距離が、望ましい状況とは言えぬ。

あまつさえ、自分の変化にすら、曖昧な認識である。

究極極大において、悪化して繰り返されるのが、この社会の仕組みであるため、大きな不具合が発生するのは当然だ。

それが、瞬時に大気圏を貫き、月を粉砕する次元で、臨界突破に愛していた子供を、親が絞め殺してしまう悲劇を齎す。

そのような、非情な惨憺たる惨劇が、繰り返されるのは何故か?

それは、そうなってしまうのが、当たり前の社会構造だからだ。

そのため、それを見つめての是正が、時空制覇に必須である。

だが、改善が可能な立場にアサインした者達は、それを誰一人として実施しなかった。

この事より、現在まで適正な人材が、不在だった事が証明される。

大人は、幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校と呼ばれる枠組に、子供を甘んじて委ねる。

親によっては、己や周囲による、先入観や固定観念によって、
全部をそこで学ばせるのだと思い込み、指導力を微塵も発揮しない。

それにより、自身の経験値の子供への継承が、非常に疎かな状態だ。

それなのに、その子供の面倒をみる教師に関しても、様々な枠組の介入により、上辺だけの対応が限界である。

対応に限界が生じるのは、枠組による自由度の損失もあるが、教師自身が親が指導力を発揮せぬ、
家庭環境で育った場合は勿論、様々な原因や要因により、必要な概念や定義を欠損し、
不要なそれらの獲得によって、歪んだ子供への対応に、擦り減らされるからだ。

参考として、無分別な概念と定義の獲得が、何を齎すかを以下に記載している。

☆ 私の考察と父の言葉・・・。(改良版)

要は、最初から不十分な対応しか、出来なかったにも関わらず、
莫大なイレギュラーの流入により、より不十分な対応を余儀なくされている。

おまけに、その子共の親御さんまで、想像を絶する怪物である場合、教育現場の対応能力では、どうにもならぬのが実情だ。

最悪なのは、教師自身がイレギュラーの場合だ。

そのような存在が発生した場合は、特段の対応が必要となる。

当方は、経験値の獲得を求め、あちらこちらを彷徨って生きて来た。

その経験により、イジメ問題への対策に関し、若干ではあるが記載している。

以下には、記載しなかったが、恐怖と痛みを理解させる事が、常套となる手段である。

陰極の世界では、負極の対応が、有効となる場合が多々ある。

☆ 大津いじめ自殺事件への考察

教育現場は、ノウハウの不在により、イレギュラーへの対応能力は、当初から持ち合わせていなかった。

結果、イレギュラーが増える上に、様々な枠組に追いつめられ、
臭いモノには蓋をする事を、暗黙の了解とするのが、当然の状態に成り果てた。

これが、多くの枠組にも適用されている。

我々は、その状況を打破するため、各々が真の黎明を迎えるため、
自身を拘束する枠組を見極め、己を研ぎ澄ます必要がある。

以下は、少々手合いが異なるが、類似した内容を扱っている。

☆ 拘束される、自由の中で・・・。

☆ 己の鎖

人類は、必要な枠組と不要な枠組を選定し、最強のウォーリアへと、己を鍛錬すべきである。

そのうえで、把握して退ける事も重要だ。

例えば、作為的茶番・必然的茶番を、政局が実施している。

そう、与党や野党に共通となる、筋書きや台本が存在する。

のみならず、各々が描くシナリオも、様々な枠組に拘束された結果、それと大差ない流れを形成する。

まあ、事前の調整により、拮抗が保たれる仕組みを見れば、
国会中継を観る余裕がある人々は、それがやらせである事を感じている。

それでも、多くの人々は信じる努力をし、何度でも裏切られて、悲しみを握りしめた。

しかしながら、その莫大な償いを暴力的な手段で、求めなかった事は賢明な選択である。

宇宙創成において、陰極となる表裏一体の世界では、全てが紙一重の状態であり、
その極性が齎す末路により、もとより政治に関しては、茶番となる仕組みである。

その状況下で、それを破壊しようものなら、状況は劣化する一方となる。

政治家は、選挙と呼ばれる仕組がある限り、それで選ばれる事に没頭し、
原発事故における記録映像の公開を、東京電力に押し付け、
至当で並べていた御託すら、利用しようとする。

連中は、何時の段階でも、出せた情報を公開せず、出来た対応を実施せず、
あからさまな事を、平気でしてしまう、可哀想な存在なのだ。

それを把握する事で、連中に対する殺戮や抹殺の衝動を、抑制しなければならない。

さもなければ、ナチュラルプロセスの報いを受け、地獄を見るのは断罪者となった大衆だ。

ある者が、党派・派閥に関係なく、政治家を皆殺しにする発想を掲げ、
人を集めていた事を、知人から拝聴してはいるが、
それは短絡的かつ消極的な考えだ。

他国の大衆は、そのような存在を魅力と感じ、一緒に地獄に向かってまっしぐらが、その趣向に合うようだ。

諸賢に、それは相応しくない。




我々は、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事を発揮するため、つまらぬ先入観や固定観念を、
その仮初を維持するための蜃気楼を、掻き消し先へと進む事で、いいように欺かれる事を、拒絶する必要がある。

さもなければ、その外側からの猛攻に、晒されるがまま、成されるがままである。

例えば、原発事故の実質を把握せず、根本となる問題点を押さえられずに、
先入観や固定観念や既知の事実で話す限り、己が無能である事を証明する破目となる。

要は、簡単に自滅してしまうのだ。

その時点で、己が役立たずだと露呈し、敵と識別される事すらある。

少なくとも、頭がカチンコチンであるため、一人ぼっちになってしまう。

何より、討論に必要な材料が、完全に不在の状態で、他者を見下げた態度では、
糞の役にも立たない、猥褻なオシャブリで終わってしまうのだ。

そうだ、その高度と見せかけたおしゃべりは、己をあやすためのオシャブリにすぎない。

それでは、 四方八方で反復している、有象無象の一端で終わってしまう。

その限りでは、ニセモノの人工地震説や陰謀論で人々を弄ぶ、
永遠に真実には到達出来ぬ、無残な連中と同じ道を辿ってしまう。

ホンモノが、馬脚を現す事は滅多にない。

それに、そこいらの陰謀論者風情では、一生辿りつけぬ仕組みである。

おまけに、それで商売をしている連中は、真実に辿りつく事を拒絶する。

あまつさえ、掃除をされぬために、解き明かす事は、避けねばならない。

まあ、その正否に関係なく、自然作用と正真正銘の存在によって、因果の応報に晒される。

新星爆発において、解き明かす事を目指す者が、人工地震説や巷の陰謀論で、現を抜かしていれば、人間として五流である。

原発問題における、安全論者と危険論者は当然とし、推進派と反対派は勿論、
陰謀論者に関しても、根拠と決めつけた存在を掲げ、時間を無駄に食潰すだけだ。

だから、何も解決しない。

根拠がないため、解決出来ぬ事に関し、以下に記載している。

☆ 抗議活動への参加に、意義があるのか?(改良版)

当方の家系には、満州へと渡り、多数の仏閣の建立と、日蓮宗の布教により、満州皇帝に表彰された者がいる。

勿論、日本国内での布教も実施している。

また、創価学会の存在に、貢献した者が数名おり、その一人に関しては、
脳のレベルが低下した状態で、何もかも創価会員に奪い取られ亡くなった。

さらに、当方自身は母と共に、エホバの証人となり、脱退後は主流となる宗派を渡り、
現状は世界最大規模となる、全ての神が信仰可能な、お手軽な団体に所属している。

だが、私は人間が存在を唱える、神々の存在を否定する。

私は、聖職者に以下を述べたい。

己が信仰する宗教が正しく、それが人類を導いてくれる、そんな先入観や固定観念は廃棄せよ。

もし、聖職者である事を望むのなら、掴むべきはここが箱の中である事だ。

しかし、その箱がいくつあるかは、誰にも判る道理はない。

真に創造主がいるとすれば、それは箱の外側であり、箱の外へ飛び出すため、
解き明かす努力をする者が、本当の聖職者となれるのだ。

それには、人類の英知が必要だ。

既成の宗教は、莫大な不足により、解き明かす事に失敗した者達の、残骸と言っても過言ではない。

解き明かす事によって、それらが完全なゴミではない事が、
その倫理観・道徳観が正当だったと、証明される可能性はある。

それまでは、あらゆる聖典が、参考資料にすぎぬ。

我々は、数の本質により、自分達がどの程度の存在かを、熟知する必要がある。

☆ グーゴルプレックスの世界を、誰がために・・・。

これにより、箱が複数あろうが、一つしか無かろうが、気にも止められぬ存在と把握可能だ。

それを決定づけるのは、人類が極度の限界に縛られ、社会が極端な限界を、演出している事である。

全体として、その体たらくでは、各々の存在なんぞ、気に留める理由がない。

その醜態を改善しなければ、最大の試練を乗り越えねば、どれほど清く生きたつもりでも、
臭い事に蓋をして逃げ惑う、罰当たりとする連中と、なんら差がない状態だ。

己を清廉潔白と思い込み、政治家のように逃げ惑い、現実を見つめ是正せぬのであれば、それは完全な負け犬だ。

醜状を晒さぬため、自身の状況を、見極める必要がある。

そして、己が何をすべきかを、手中に収めなくてはならぬ。

☆ 我々は、貧相な吸血鬼である。我々が、目指すべき世界とは・・・。

そもそも、神の明確な『定義』『概念』は、ここ数千年で生まれた程度の、とても青臭いものだ。

それを絶対の存在と捉え、信心深く祈りを捧げるのは、力無き者の悲痛な叫びとなる。

まして、それに対する祈りで、人生を食い潰しては本末転倒だ。

結局、己の人生を良くするも、悪くするも自分次第である。

それを、多くの人々が、胸に刻んでいれば、世界は満遍なく輝いていた。

我々は、己を信じ、信じられる他者と繋がり、より良き道を歩む必要がある。

それが出来るのも、互いの力だ。

箱の外の存在を、神と崇め依存するのではなく、立ち向かい突き進む事が出来れば、
もう逢えないあの人に、また会える事は当然とし、箱の外の存在にすらなれるのだ。

そうだ、成すべきは神への信仰ではなく、箱の外にいる者への挑戦である。

人類が、その目標・目的を共有し、前進する事が出来れば、
ナチュラルプロセスによる報いを、大幅に軽減する事が実現する。

現況において、世界に正しい人間は存在しない。

そのため、私も傀儡にすぎない。

だが、断言したい。

我々は、人としての良き良心を根底とする、品行方正な倫理・道徳・常識・正義を育み、
冷静な判断による、聡明な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断を心掛け、
真摯に現実・事実・真実・本質・実質を見極め、解き明かす必要がある。

さすれば、とても、とても、素晴らしい事が起きる。

このままでは、進化をしているつもりでも、同時に退化をする矛盾に苛まれ続ける。

それは、我々には相応しくない。

私は、先頭に立ちながら、偉大な諸賢につき従い、解き明かす事を切望している。

模範解答や証明の手段すら、最大の疑問に対し存在せぬ世界に、至当により人間は誕生した。

その意味を見極め、解き明かしてこその人である。

もしかすると、箱の外の存在は、友人の到来を待ちかねているのかもしれない。

我々が、一人ぼっちで泣いている、その存在の肩を叩き、人類が築いた楽園に、招き入れる時が来るかもしれない。

さあ、先入観と固定観念と既知の事実ごときに振り回され、
己と第三者の建前・自己都合・利己主義に振り回され、
己を無作為に食い潰す日々とオサラバしよう。

さすれば、無限に広がる宇宙すら、その手の中の宝箱となる。