2012年01月21日 01:19 グーゴルプレックスの世界を、誰がために・・・。
我々は、不可説不可説転を超越した、グーゴルプレックスの世界で犇めいている。
人類は、無量大数で構成された地球の、那由他に遍く生命の、その数十億である。
さすれば、一人の存在とは・・・。
それを考察すると、その儚さは至極だ。
しかし、その一人の輝きが、太陽のように、至の星雲を照らす。
そして、多くの人々が協調し、事を成し遂げた、荘厳な輝きは、あらゆる天体へ、永劫の閃光を放つ。
そう、全人類が調和し、大きな目的意識を共有すれば、数の概念も、宇宙でさえも凌駕する。
だが、人類はそれを知らぬようだ。
故に、誰もがちっぽけな存在と、己をずっと見続けてしまう。
どれだけの財を成しても、永遠に癒えぬ虚しさは、それが叶わぬからだ。
人は、大切な事を忘れ、自我で周囲を破壊し、平然と侵食する。
そして、光に満ちた多くの蕾が、大輪の花を咲かせる、可能性を奪われ、その目映さを失い、連綿と消えて行くのだ。
生を受ける、全ての存在は、不可数の可能性を、内包している。
そう、人間とは、奇跡の結晶である。
故に、懸命に生きた者の軌跡は、とても美しい。
どのような技法を用いようと、再現不能な、洗練されたソクセキを残す。
しかし、その可憐な軌跡に、限りが見えてきた。
それは、社会の変化によって、歯痒くも齎された。
いつの間にか、見守る社会が、見張られる社会に変化し、そこに見捨てる社会が、押し寄せて来たのである。
誰しも、培われた社会の中で、人生を記すモノだ。
ならば、以下の事を考察してみよう。
一本の『鉛筆』と、一冊の『自由帳』を、与えられた者・・・。
一本の『シャープペン』と、一冊の『ノート』を、与えられた者・・・。
一本の『ボールペン』と、100枚の『レポート用紙』を、与えられた者・・・。
この三者で、より多くの情報を、正確に記録可能なのは誰か?
純粋に、フォーマットに従い、記載すると考えて頂きたい。
また、誰かに見守られて、記載する場合、誰かに見張られて、記載する場合を考察しよう。
さらに、媒体が費えた状況において、補充が可能な場合、不可能な場合を見つめてみよう。
先ず、最初に何が与えられるかによって、明確な差が生じるのは相違ない。
次に、見守られた場合と、見張られた場合では、比較的に前者の方が、良き成果を残すだろう。
最後に、補充が望める者が、可能な限りの結果を残せるのだ。
要は、その状況により、成果に大きな差が発生する。
確かに、ミスに関しては、人材に依存するがね。
だが、最初に同じモノを渡され、同一人物が並行する世界で、それに望むのであれば、
条件が好ければ良いほど、良き結果が伴うのは必然である。
それに、争いが絶えぬ世界では、最中に吹き飛ばされるかも知れん。
そう、条件と環境が悪ければ、それは限界に縛られる。
現状は、基盤となる社会を中心に、歯止が効かぬ、劣化の一途を辿っている。
結果、人々は可能性を、強奪される一方だ。
我々は、己が無限であると把握し、社会が有限であると、認識するべきだ。
社会が、我々のハードルになっている。
これを、真摯に受け止める事は、大きな飛躍の一歩となろう。
確実に、我々を研ぎ澄まし、躍進させるための鍵となるのだ。
無限である我々には、無限の社会こそが相応しい。
無限の社会の先には、無限の世界がある。
それは何より、永遠だ・・・。
そして、そこに君がいる。
そして、私もそこにいる。
私は、それを手繰り寄せよう。
そう、珠玉の一撃となり、怠慢と傲慢を粉砕するのだ。
未来と希望は、常に我等と共にある。
それを、聖なる錬成により、華麗な激動で満たすのだ。
全ては、あらゆる者の、家族と友人のために・・・。
そして、その友人や家族のために・・・。