2011年09月14日 04:51

日本政府は、最大限に取り組むべき事を、未熟な策謀を優先するため放棄した。(改良版)


我々は、『肯定』『傍観』『否定』により、『動揺』『衰退』『破滅』する世界に生存する。

現状は、『肯定』『傍観』『否定』が入り乱れ、『動揺』と『衰退』を迷走しながら、『破滅』へと向かっている。

ここに『繁栄』『発展』が無いのは、滅亡の志向性による、『表裏一体』の原理が、
人類に刻まれた結果、それらが本質と実質において、哲理から落伍しているからだ。

有限的な世界では、何かを削りながら、『発展』と『衰退』が繰り返される。

削れる存在の底が見えた頃より、社会による洗脳が綻び始め、それは縮小しながら、『発展』と『衰退』を繰り返す。

そして、それが尽きてしまえば、終焉を迎えるのが必定だ。

あまつさえ、『普遍性』『不変性』『不偏性』が、希薄な存在によって、この世界は鼓動を続けている。

それにより、誰かが幸せとなり、誰かが不幸となる状態なのだ。

それでは、未来が有限と自覚しながら、人々は煉獄を彷徨う破目となる。

そこから脱却するには、永遠を約束しなければならない。

要は、恒久の社会による、永劫の世界を築く必要がある。

さもなければ、釈然とせぬまま、流刑を続けるのみだ。

超絶絶頂に欠かせぬのは、固定観念を打ち破る、斬新な発想によって導き出した、希望を提供する事である。



それに対し、日本政府が実施してきた内容は、全てが一時凌ぎ風情の、チンケな時間稼ぎにすぎない。

その、酷く有限的なアプローチを、途轍もなく至れり尽くせりで、
あたかも神の所業の如く、連中が示して来た事には虫唾が走る。

実際は、真に実施すべきを見極められず、多大な失態を積み重ねてきただけだ。

あらゆる偽政者が、怠惰な策謀へと陥り、何もしなかったため、世界は『陰極』のままなのだ。

即ち、全人類はマイナスの世界から、いつまでも脱却出来ずに、『陰極』の『表裏一体』に蝕まれている。

ここ数十年で、政界が獲得した成果は、誤魔化しに取り憑かれ暴走し、
抜け出せぬ深みに嵌ると言う、無秩序で惨憺たる末路である。

これは、『陰極』で『表裏一体』となる世界に内包される、
人類と呼ばれる存在が、その世界と同類であるため、必然的に齎される結末だ。

そんな人類は、己と第三者の建前・自己都合・利己主義に弄ばれ、莫大な絶滅の袋小路を形成している。

厳密には、『行動』『主張』『主義』が、『正極』と『負極』のどちらであろうと、『陰極』の坩堝を構成する部品にすぎぬため、
しぼみ続ける風船のような世界で、消滅しかねぬ明日を憂え、腐った虹色の日々を、歩まねばならぬ状態なのだ。

このままでは、作為的茶番と必然的茶番による誤魔化しが効かなくなり、
それを実施した者達がその報いを受け、誰もがその巻き添えとなってしまう。

それは、適宜ではない。

究極極大において、狂気の沙汰に魅入られ、全てを破壊する事は避けねばならぬ。




先に、『肯定』『傍観』『否定』で、『動揺』『衰退』『破滅』する世界と記載した。

例えば、福島第一原発の状態を正当に評価し、品行方正な対応を実施すれば、
その先で数百万人が自宅を失い、数十万人が路頭を彷徨う破目となる。

そもそも、国民の生命と健康を優先とした、最低限の『杜撰な対応』すら不可能な連中だ。

故に、品行方正な対応を実施しても、所詮はつもりにすぎぬため、絶大な不具合が発生するのは確実だ。

何より、人間が勝手に付与した価値が、消失する状況が波及すれば、
その儚さに気付いた大衆が、無気力に苛まれてしまう。

そのため、最小の事実を『肯定』し、最大の事実を『否定』し、どうにもならぬ事実は『傍観』している。

また、実情を把握しつつ、政治家は保身を最優先とし、前提条件を限定した、安全論の流布を徹底させ、
一連で無数に可能だったアプローチを、責任を負いたくない一心で、放棄していた事を認めるのは絶無である。

さらに、脱原発デモを支援し、兼ねてから用意していた、タレントや著名人を投入し、有限的な活動に従事させ、
それを利用し大衆のガス抜きや、認識の調整まで実施している事を認めれば、死屍累々の状況が形成される。

それは、レールを用意する事で、基本に忠実となるデモを徹底させ、二束三文の人材を集結させる事で、
高度な人材の賛同を相殺し、反脱原発デモの風潮の形成は勿論、必要に応じて同調し道具とするため実施する。

脱原発デモのコントロールは、無数に存在するマニュアルに準じた、至極当然の事だ。

☆ 『全てを失う前に・・・。』『「原発推進用」世論対策マニュアル 』(改良版)

始末が悪いのは、それが生み出す歪みを、十分に考慮しておらぬ事だ。

時の経過により、先駆者の仮説が期限切れとなり、もしくは特定の人材が介在する事で、マニュアル通りが命取りとなる。

結局、間違った行為である限り、社会性と所属する人々の人間性が歪み、莫大なしっぺ返しが降り注ぐのだ。

このまま、連中が多大な不足を曖昧にしか認めず、十分な贖罪を果たす事無く突き進めば、
日本に対し本来想定されていた、チェルノブイリ級の事故が、数年以内に発生しても不思議ではない。




都合の良い事を肯定し、都合の悪い事は否定し、どうにもならぬ事は傍観し放置するのが、悲しきかな人間の性質である。

だが、世界の極性を、陰から陽へと傾ければ、全ては瞬く間に見違える。

さすれば、真に価値ある存在に包容され、新たな価値の獲得のため、誰しも邁進する事が可能だ。

まして、作為的茶番と必然的茶番を繰り返し、偽物の名誉と栄誉に、酔いしれるしかない、仮初の日々とはオサラバだ!

当方は、不憫な偽政者を、本物の政治家なんぞ、目ではない存在へ、洗練する事を渇望している。

臨界突破に、私は己を救うため、玉響に遍く全生命を、陽極の世界へと導きたい。

そして、限界までの屈託を打ち払い、極限までの理不尽な涙を相殺し、とびきり美味い飯にありつきたいのだ。

全ては、全てのために。