2011年09月07日 05:55

渋谷放火未遂と、悪化の一途を辿る、犯罪を見つめての考察・・・。(改良版)


近年、邪念が増殖を続け、犯罪は悪化の一途を辿っている。

その、手遅れとなるまで、魔道を突き進むかのような、重篤化を続ける事件を見つめ、幾度も考察する事がある。

それは、周囲の保身は当然とし、己の保身を完全に放棄し、最悪の末路すら望む存在に、贖罪を果たさせる方法があるのか?

要は、絶望たる死刑を渇望し、鬱積した鬱憤を晴らすため、超絶絶頂の大罪を犯した者に、
罪を償わせる事が可能なのか、思索を繰り広げているのだ。

己が破滅の末路のため、他者の生命を残酷に収奪する、死屍累々の状況を形成し、死刑によって本懐を遂げる。

それでは、悔い改めさせる余地が微塵もなく、刑の執行すら褒美となる・・・。

そう、その刑を執行した途端、自分の品性を蹂躙し、自分の存在を愚弄し、
自分の価値を抹殺し、マイナスと化した存在に、司法・刑法が屈服するのだ。




罪を裁けなければ、贖罪を果たさせなければ、罪悪の輪廻を断ち切る事は出来ない。

深まる『過失』を糧として、『罪』が転生を繰り返し、犯罪は無限に進化を続け、連綿と連なって行く。

それは、とある犯罪者に感化された存在が、より高度な犯罪を模倣犯となり実施し、
また何者かがそれに感化され、さらに過激化した犯行を繰り返す事に近い。

しかし、厳密な模倣犯とは言えぬ存在が、罪の重篤化をバトンしているのが実情だ。

そもそも、犯罪に関する情報が、意識的・無意識的にインプットされ、
精神許容が破局した瞬間に、深層心理に刻まれたそれが、アウトプットされるにすぎない。

その際、蓄積された情報を元に、不の応用力が働き、犯行は過激となる。

より、計画的な犯行の場合、不の応用力が効率的に働く。

突発的な犯行の場合は、闊達自在な判断力により、犯行が過激となる場合がある。

『犯行内容の残酷性の向上』『犯行動機の不純性の向上』『殺害対象の選択域の拡大』に至るプロセスは多岐に渡り、
ケースバイケースで見極める必要がある。

一つ明確に言えるのは、必然性論理によって、それらは齎されている。

そのため、全ての謎は分析によって、解き明かす事が可能だ。




私が言いたいのは、『嘘をつく』『人を殺す』のような、概念が存在しない社会であれば、
ノウハウがないため、何者かが実施し定着するまでは、それに及ぶ者は僅かであり、スケールにも限りがある。

だが、誕生し定着した概念は、無数に分岐し、発展を遂げるのが世の常だ。

例えば、世界初のゲーム機『オデッセイ』が登場し、各社がゲーム機の開発に参入し、
発展を続けている現状を見つめれば、それが哲理に近い事が伺える。

ゲームソフトに関しては、人気の高いジャンル・タイトルが進歩を続け、ゲーム機の進化に応じ、
グラフィックやユーザビリティが向上し、より膨大な利益の獲得のため、幅広い年齢層を意識した商品が増加する。

しかし、この流れに追いつけぬ存在は、内在する存在と共に消えて行く。

『幅広い年齢層を意識した商品が増加する。』と記載したが、汎用性の高い存在は、
世界全体を意識した存在へと、潰える事のない発展を遂げていく。

手合いと質は、大きく異なるが、このように考察すれば、惨憺たる近況が、特別な状況ではない事が把握可能だ。

逆に言えば、特別な規制が皆無であり、その発展を助長している状態である。

そう、改善に臨むべき者達が、有効な打開策を実施出来ず、犯罪の高度化を後押している状態なのだ。

このままでは、それは無限に膨れ上がり、それを見過ごしてきた因果の報いが、
我々へ執拗に降り注ぎ、全てが暗澹へと飲み込まれてしまう。

そうはならぬため、進化を続ける罪悪の輪廻を、断ち切らなければならない。




罪を裁くため、贖罪を果たさせるため、考察すべき事がある。

法律は、自己擁護が大好きで、己の適当な物差しでしか、
罪を見つめる事が出来ぬ、不完全である人間が、寄って集って形成した。

そのため、その物差で測れぬ存在が出現した場合、それは効力を失効する。

そもそも、建前・自己都合・利己主義が重なり、その物差しは非常に短いのだ。

何より、老朽化した固定観念は勿論、無数に分岐し発展を遂げる以前の概念で、
かなり粗雑に形成された結果、最初から限界がある事は当然とし、時代に落伍してゴミとなる。

既に、あらゆる断罪力は、その効力を大幅に欠損し、無意味となる一歩手前だ。

最悪なのは、間違った手段による規制が、手遅れになった段階で実施されるため、
それまでの猶予で分岐と発展が進行しているため、それが撲滅の決定打となる事がない。

それに、手段が間違っているため、新たな抜け道を明確に示す、失態を演じる事すらある。

あまつさえ、いたちごっこの果てに、手に負えぬ次元へと、犯罪が発展してしまう。

究極極大の問題は、バグフィックス・アップデート・アップグレードを実施すべき者達が、
己と全体で形成した袋小路に嵌り、己と全体に対してのそれすら、ままならぬ状態である事だ。

手遅れにならなければ、自覚していても治せない、それも第三者の後押しが必要なのだ。

これでは、何も変わりはしない。

もとより、罰を与える事は出来ても、贖罪を果たさせる事は、不可能なのが実情である。

現状の断罪手腕は、罪を犯して縛られている、近所で有名な糞ガキを見つけ、
何をしたのかを本人から聞いた第三者が、その悪戯の内容に憤慨して、拳骨を喰らわせる事と大差がないのだ。

それで、反省するかどうかは、拳骨を喰らわされた、本人次第であって、
縄を解かれた先で、何をするのかも、全ては本人に依存する。

結局、罰を与えるだけであり、罪を正当に裁き、贖罪を果たさせる事は、
臨界突破において、不可能な状態だったのだ。

だから、現状が齎された。




他にも、考察すべき事がある。

他者の生命を剥奪し、人生を放棄した存在に、どの程度の価値があるのか?

一人の生命を奪った、罪の重さを起点に、精査を進めよう。

先ず、被害者は輝きを放つその命と、これまでの人生・これからの人生を奪われた。

この時点で、被害者への贖罪は、皆無である。

また、被害者から派生する命と、その人生を奪った可能性がある。

特に、若者の命を奪った場合は、そこから派生したであろう存在の、命と人生に対して、懺悔すべきだろう。

さらに、被害者の家族・友人は当然とし、その周囲の人生が狂わされ、元のレールを走る事はない。

あまつさえ、犯罪者は自身の家族・友人は確実とし、その周囲の人生を狂わせた。

異界侵略において、自身のこれまでの人生・これからの人生を、己で奪った事は絶対とし、
自分から派生する命と、その人生を奪った可能性すらあるのだ。

ここまでで、被害者側への贖罪は勿論・加害者側への贖罪すら絶無である。

そのため、謝罪は己への気休めや、周囲への建前にしかならない。

結局、一人の生命への贖罪すら、時空超越に不可能なのだ。

それに対し、服役と呼ばれる、料亭での住み込みのような生活や、
それが国民の税金で賄われる事実を加味すると、謝罪すら明確な価値を失う。

もし、そこでの生活に『不足』を訴えるのであれば、反省の念を微塵も抱いていない証拠となる。




肝心の、犯罪者の価値であるが、この世に価値のない命は存在しない。

そう、無価値もまた、一つの価値である。

それでは、己の勝手な欲望で、自分の品性を蹂躙し、自分の存在を愚弄し、自分の価値を抹殺した存在の価値とは?

それは、冒頭にも綴った通り、マイナスである。

その事実は、犯罪者にとって、強烈な深手となる。

死刑になろうと、無期懲役になろうと、どれだけ後悔し、謝罪をしようとも、
一滴の贖罪すら果たせず、ただの死を迎えるか、外に出されてしまうのだ。

深く悔い改め、被害者側に全霊で尽くそうとも、それはそれだけで終わってしまう。

真に贖罪を果たそうと、誠心誠意で邁進する者は、それを知っているからこそ、
被害者の遺族から、許しの言葉を得られても、それに甘んじる事無く、飽くなき懺悔を続けるのだ。

それが出来て、初めて謝罪が叶う事となる。

だが、本当に謝罪すべき存在が、この世に存在せぬ以上、
遺族の心の悲しみが、永久に癒えぬ以上、真の贖罪が永遠に叶う事はない。




現時点で為すべきは、罪の本質を理解させ、それに及ばぬよう、精神と肉体を育む事は当然とし、
犯罪者に非常に寛容な仕組みの矯正は勿論、人々を犯罪へと教唆する、社会の包括的な是正だ。

被害者・犯罪者の双方にとって、本当の救済とは何なのか?

それを、私なりに探究してみたが、完璧を追求するのは困難である。

罪を裁くため、贖罪を果たさせるための仕組みを、三つの段階に分けて模索した。

それに関しては、明瞭性を高めるため、コンテンツを形成し紹介する。

それが適用可能となれば、罪を実質的に裁き、贖罪を本質的に果たさせる事が、可能な限り可能となる。

それにより、0が1~無限へと変革する。




渋谷放火未遂を犯した島野容疑者が、永遠の流刑に彷徨する手前で、逮捕された事に安堵している。

彼には悔い改めて頂き、大きく曲がってしまった分も、真直ぐに生きて欲しい。

事件を起こすまでは、深い闇に蝕まれていたが、我々と同じ人間である。

確かに、それは表面上で、差があるのが実情だ。

だが、罪を犯す寸前までは、完璧な犯罪者ではなかった。

そう考察すると、彼が非常に気の毒である。

もしかしたら、多少の環境の違いで、思い留まれたかもしれない。

そう、全く違った人生を、痛快に突き進んでいたかもしれぬのだ。

それを考えると、深い悲しみに苛まれてしまう。

私は、誰しも幸せになれる権利を、所有していると確信している。

現状の社会は、それを大きく阻害する。

そのため、それを包括的に是正可能な、アプローチを実施する。




話が変わるが、政治・政治家は、己達が生み出した悪循環により、正当な分岐・発展を遂げられず、
それらしく見せる事に必死となり、偽物の政治を偽物の政治家が、実施している状態と化した。

要は、政治家がニーズに最適な存在に成長せず、国民に選ばれた人材が、
政治をしているかのように見せかける、滑稽なパフォーマーとなり、
政治は政治家との連動を断ち切られ、事務方の物差し内で可能な事しか、実現が不可能な状態である。

そもそも、本物の政治家が、本物の政治をする時代すら、相応しくなくなりつつある。

全ての大衆が、気軽に品行方正な政策を、実施し続ける社会が、そろそろ必要となる時期だ。

そうなれば、理不尽な涙を極限まで相殺し、罪を実質的に裁き、
贖罪を本質的に果たさせる事が、より確固たる次元へと到達する。

我々に必要な未来の根幹は、最初から決まっている。

それは、より良き運命を切り開くための、より良き人生を歩むための、最適なプラットホームである。