2012年03月14日 16:31 拘束される、自由の中で・・・。


我々は、何かに拘束され生存する。

だからこそ、人は生きられるのだ。

では、何故かを考えてみよう。

先ず、以下を補足する。

倫理、それは規範となる道徳を、見極める力である。

道徳、それは正道・邪道に対する、判断の基準である。




主に、我々を拘束するのは、法律や常識は勿論、人生の中で培った、倫理・道徳である。

それらを、向上させるのは、義務教育は当然とし、日々の学習だ。

我々は、全ての科目を通し、思考能力・運動能力を獲得する。

そう、多様な知識の確保と、使いこなすための、思考術・体術を、合理的に習熟するのだ。

その発展により、倫理・道徳が向上する。

それは、知力・体力の成長が、心の進歩を必然的に促すからだ。

故に、無駄と言える科目は、本質的・実質的に存在しない。




厳密に言えば、義務教育は、容易い予習にすぎない。

主に、日々の学習とは、社会に出て働く事だ。

それが、我々を何処までも、気高く養ってくれる。

そうだ、仕事と言う勉学に励む事で、我々は無数の価値を獲得出来る。

そして、天空を突き抜ける、大輪の花を咲かせるのだ。

しかし、これは旧来の論理である。

そのため、新鋭化する必要がある。

近年、いくつかの要因で、それに不具合が発生している。

そもそも、学習の必要性を、精確に説明出来ぬ者が、教師になる状況だ。

そう、教育者への教育が、心もとない状況なのだ。

実に、残念である。




法律は、解釈の曖昧があるが、ほぼ共通の認識を抱く事が可能だ。

要は、罪を犯したら罰を受ける。

その、基本原理さえ、把握すればいい。

綿密な理解は、必要性に準ずる。

常識に関しては、育った環境に依存し、多様な個人差が発生する。

しかし、周囲の状況を見つめる事で、周囲が諭す事で、比較的容易に、改める事が可能である。

そう、周囲の環境により、問題は速やかに改善される。

要は、当たり前を、識別すればいい。

まあ、癖の修正には、一悶着あるだろう。

時に、その当たり前を、良き方向で超越した者が、多大な成功を獲得するのだ。




だが、人が養う倫理・道徳には、非常に大きな格差がある。

表面上では、大差が無いと思えても、そうではないのが実状だ。

それが現状に、大きな混迷を齎している。

その形成がより未熟な場合、人は取り返しのつかない罪を犯し、人ではない別の何かになってしまう。




倫理・道徳は、最終的判断の尺度となる。

罪を犯した場合、どうなるかを知っていても、それは知っているだけである。

そもそも、罪を犯す事が、間違いだと判断する必要がある。

そして、常識を受け入れる判断も、それに大きく依存するのだ。

何より、周囲が正しいとは限らない。

だからこそ、各々が独自の視点で、倫理・道徳を磨かなければならぬ。




落伍し、発展要因の期待値が低い、倫理・道徳の是正には、組成の改善が必要だ。

それは、社会を形成した、成分の見直しだ。

それをしなければ、何をやっても結果が伴わない。

改善は見られても、本質が袋小路である限り、行き着く先は、破滅である。




自由とは何か?

環境依存性の高い、法律・常識は当然とし、倫理・道徳から解き放たれた状態か?

そう、あらゆる拘束具を外され、全ての者が何をしても許される世界・・・。

それは、絶頂の開放感があろうとも、次の瞬間には、全てを収奪される地獄だ。

我々は、それに接近した第三国の状況を、まざまざと見せつけられて来た。

そんなモノは、願い下げである。

我々が、恵まれているのではない。

あちらが、より悲惨なだけなのだ。




倫理・道徳の質が、低下する現代では、法律が最大の、拘束具の役目を持つ。

厳密には、情勢の進捗に、それらが追い付けぬのは勿論、必要性に応じ発展せぬのが問題だ。

最悪なのは、履き違えた者が、改善ではなく、改悪をする事だ。

しかし、その拘束具ですら、他の拘束具に亀裂が入った頃から、小さな傷が目立つようになって来た。




そうだ、全ての拘束具が破壊されれば、不条理・理不尽に、世界が支配される。
現状の社会は、捻くれた自由に、疾走しているように感じる。

そう、一部の人間がエゴで渇望する自由が、それを強固に加速させていると、危機感を覚えるのだ。

何かを履き違えてるのは、ほんの一握りである。

しかし、その少数派が、我々の未来と、派生する命の将来に、大きな影を落とす・・・。




自由とはなにか?

それを考察する事によって、人は聡明にもなれば、愚昧にもなる。

本質を見極める者が前者となり、表面上で判断する者が後者となる。

私は、全ての人々に、前者に帰属して頂きたい。

それが実現すれば、大きな飛躍を迎えられる。

不自由があるからこそ、人は自由を求め発展する。

その方向性を過誤すれば、地獄に向かってまっしぐらだ。




不自由の捉え方で、視界は大きく変わる。

我々は、短絡的にならず、何より消極的になる事なく、不自由の中に存在する事により、
自由を求める事が出来る喜びを知り、より先進的な生活を目指しながら、不自由すら研ぎ澄ませばいい。

そう、より良き法律は勿論、常識を鮮明に洗練し、倫理・道徳を高めるアプローチを続ければ、
果てない世界に辿りつく事が可能だ。

そこで、人は真の自由に抱擁され、自由とは何かを、語り合う事が出来るのだ。

人よ、より良き明日に、飽くなき欲望を抱け。

未来は、万人のために・・・。




何を成すにも、注意すべきは、偏見を生みださぬ事である。

それは、後戻り出来なくなるからだ。

そして、右手(利き手)に失敗があり、左手に成功がある。

その認識を心に刻んでおけば、大きな失敗を減らす事が出来るだろう。

私は、そう感じている。