2012年01月23日 17:18 私の演説
私は、己が理解可能な脈絡で、文章を綴る事が多い。
特に、日記となれば、尚更である。
以下に関しては、その傾向で記載している。
☆ 私の表明
表明は、決意を表すための、率直性が求められる。
しかし、上記に関しては、他者の前では、通用せぬ文章である。
業務に関しても、配慮を欠いた構成であるため、使用する事は絶無なのだ。
それでも、自己尺度で記載した文字列に、誰かが関心を示してくれる事は、理解者の存在を実感し、幸いと感じる事がある。
以下には、表明を演説にした場合を編纂している。
自己尺度を生かしている部分は勿論、己が未熟で抜け出せていない部分もあるだろう。
それでも、目を通して頂けると、当方は幸福である。
☆ 私の演説
現状の、政治家の多くが、使い捨ての人材として優秀だ。
無知・無智・無恥の、三拍子が揃っている。
無知、つまり知識がない。
だから、原発は吹っ飛んだ!
無智、つまり知恵がない。
だから、放射線は撒き散らされた!!
無恥、つまり恥を知らない。
だから、原発を吹き飛ばし、放射線をバラ撒いても、不気味にヘラヘラし、他人行儀でいられるのだ!!!
仕方がない?
その言い訳をしていいのは、ベストを尽くした者だけである。
何より、未然に防げる機会を、嘲笑うように退けた。
その時点で、最善には程遠い連中だ。
連中は、知識がなく、知恵がなく、恥知らずである。
使い勝手のいい、捨駒である人材に、要求される条件を、完全に満たしている。
厳密に言えば、それより質が悪い。
そんな、捨駒より劣る存在に、人々の命運を委ねる事は不可能だ。
確かに、三拍子が揃う人材は、道具として重宝される。
最も重要なのは、表面上の情報だけで、利用可能な人材である事だ。
そんな人間は、命令に従順だ。
そして、疑問も持たずに、戦場で人を殺す。
そう、これは兵隊に求められる三拍子だ。
無知・無智・無恥でなければ、他者を殺す事は出来ぬ。
モンスターには、なれぬのだ。
そんな人間が、政治をして良き道理がない。
それに連中は、戦場で部下や仲間を見捨てる、超絶・絶頂の、底抜けの恥知らずだ。
イタリアの、豪華客船の船長のように、問題が軽微な時点では、悠長に対応し、問題が発展すると、乗客を置いて一目散だ。
去年、連中によって、日本は大座礁し、我々はオキザリにされ、ひっくりかえる寸前だ。
言いなりであり、本質・事実・真実・現実を、見極めない人間が、大日本帝国には不可欠だった。
それは、泥沼の大戦争に、追い詰められたからだ。
その、瀬戸際で求められた人材より、遙かに劣悪な存在が、現代で政治家を謳っている。
これは、悪夢である。
旧世代の社会構造に準じた、陳腐な香りを漂わせる、カビが生えた政治を遂行する、
政治家がのさばる時代は、連中自身の消費期限切れで、遠の昔に終わりを告げている。
しかし、連中は腐乱しながら、そこに留まろうとした。
己が極限まで劣化し、時代と逆行しようとも、全身全霊で、その座にへばりついたのだ。
そんな連中を維持するには、不足を補う人材が必要だ。
そして、その人材への依存度は、何処までも膨れ上がった。
何より、腐敗を続ける亡者を、その場に留めるには、それを補う人材に、狡賢くなる事が求められた。
結果、政治のシステムそのものが、醜悪な人間性で、染め上げられたのだ。
そして、政治家が政治すら、出来ぬ状態が仕上がった。
では、結局の所、政治をするのは誰か?
それは、あやふやである。
国民は、政治家に託す・・・。
政治家は、官僚と業者と専門家に託す・・・。
官僚は、同類と業者と専門家に託す・・・。
業者は、同類と専門家に託す・・・。
それが逆を辿り、紆余曲折して何かが変わる。
そう、既に構築された、膨大な仕組みにより、政治家がどれだけの肩書を見せつけ、
どれだけ華麗な御託を並べようと、何も変えられぬ状況なのだ。
業者とは、政治家と官僚の、低下した機能を、様々な方法で補う、それ専門の組織である。
そもそも、官僚に出来ぬ事が、政治家には出来ぬ。
最初から、政治家は飾りにすぎず、現状ではその官僚が、飾りになりつつある。
不浄な人間性が織り成した、不浄な組織が折り重なり、複雑極まったシステムが、目に見えぬ政治を断行している。
野田総理を見ればわかる、汚いモノには蓋をして、誰かが調整をしてくれる、
とても簡単な一体改革を掲げ、到底処理出来ぬ、TPP・日中FTA・日韓EPAに万歳をしている。
そう、自分が無能でも、誰かが水面下で調整し、やり抜いてくれる、従来のシステムがあるからだ。
そもそも、実行可能な政策を提案するのは、指針を形成ている、その誰かさんだ。
政治家は、政策の本質を、見極める力すら消失した。
それこそが、政治家に求められる、唯一の資質だった。
あまつさえ、人としての暴落に、歯止めが利かなくなっている。
だから、周囲と利害が一致した事しか、成就せぬとわかっても、大衆を欺き続けるのだ。
また、野田総理は、政治生命をかけなくとも、誰でも出来る事を、命がけでやると訴える。
さらに、命を投じて実施すべき、時間との戦いである問題は、様々な理由で、実現が困難と訴え、後回しにし逃げ続ける。
野田総理は、誰のために、何のために政治をしている?
国会が、誰のために、何のために存在するかも疑問だ。
成長を忘れ、同じ方向に、転がるだけの政治家共・・・。
腐敗した仕組みに、ドップリつかり、才能と本能すら、壊死した連中と、血を継いだ無能が転がり続ける。
そして、新規の人材が、成す術なく、最悪の仕組みに、呑み込まれる。
そもそも、真の政治とは、何かを知らず、不要な情報を蓄積し、理想ばかりを並べている。
さらに、深く胡坐をかく官僚一同・・・。
連中は、過剰に肥大化し、国益・省益の弊害となり、官僚政治すら不全になって、天下りで腐れ果てる。
確かに、双方に優良な人材は大勢いる。
だが、狡賢い人材が、突出して力を持ち、不敵な笑みを浮かべ、自我を満たす一方だ。
ただの、道具へと流動した政治家が、品質が下落した官僚と、不埒なワルツを踊る。
それを見つめ、不遇な政治家と官僚が、既に手遅れだったと、血の涙を垂れ流す。
結局、信念の象徴だった、己の理想がドロドロに溶け、果敢な心が砕け散り、不遜な連中と、肩を並べる末路を辿る。
政治家になっても、何も変えられぬ・・・。
官僚になっても、胸を張る事が出来ぬ・・・。
己すら是正出来ぬ政治家と、己すら是正出来ぬ官僚が、いつまでも互を是正出来ず、何処までも落ちて行く。
それは、連中自身が生み出した袋小路だ。
にしても、変わらぬ政治が続いている。
暫定基準値を飛び越えた、汚染食品が流出し、汚染建築物が建設されるのは、誰の目にも明らかだった。
それに対し、想定が及ばなかったと、虚偽で満たされた、言い訳をする。
御約束の、卑しい人間性が撃ち放つ、謝罪には程遠い、自己弁護をするのだ。
確かに、問題が発生してからの対応が、大きな反発を抑え込め、選挙への影響を緩和出来る。
何より、毎度の手法で、気楽に済んでしまう。
そもそも、誠意を果たす気持と、責任を取る覚悟がないから、卑怯な方法を選択する。
これからも、既に手遅れの状態で、何を今更の状況で、やっと決断するのだ。
これは、連中が醜悪な仕組みに、囚われた証拠でもある。
そして、防衛知識は勿論、予備知識すらない人材を大臣に置き、素人と言うアリバイを持たせ、不穏な失言を誘発させた。
グダグダな状況を演出し、解決を先延ばしにし、可能な限り誤魔化すのは、民主党の十八番だ。
それが、作為的であろうと、そうでなかろうと性質が悪い。
そう、総理が最強で最善の布陣と言ったのは、民主党のパフォーマンスだけの政治に、特化したメンバーだからだ。
また、ハムナプトラのミイラのような、岡田副総理がいる。
さらに、バイオハザードのゾンビのような、輿石幹事長がいる。
そう、背景を見極めれば、それだけ二人は腐乱している。
従来の、政治が進まぬ仕組みを、腐った死体が演じているのだ。
そして、自民党の谷垣総裁も、野党の役所を演じ、人形劇の操り人形として、政治劇を長引かせている。
何より、独立行政法人の削減案は滑稽だ。
増やしすぎた組織を、表面上一つにまとめるだけで、身を切って捨てず、繋ぎ合せるだけに見える。
そもそも、組織・人員を削減したとて、切るべき者が、残留し続ける。
そうだ、議員や官僚が削減されようと、システムを変えなければ、何も変わりはしない。
そう、全ては茶番で終わるままだ。
それでは、意味がない。
何より、人としての誠意がない。
もう、昨日と同じ事を、繰り返すのは止めるべきだ。
だが、問題が連中自身である以上、連中が打開の術を、持ち得る事はない。
もし、内側に入り、それを是正すると、訴える人材がいたら、それこそ愚の骨頂だ。
その是正には、新たな競争勢力を、外部に形成する必要がある。
大衆は、原発事故が起きるまで、日本政府を過信していた。
少なくとも、『政府だから』と言った、信頼に近い、漠然とした通念が存在した。
そう、『東大の先生だから』と同じである。
しかし、政府も東大も、原発の一連で、化けの皮が壮大に剥がされた。
現状では、政治の腐乱が、大衆の通念となりつつある。
それが、大衆の通念となりつつあれば、その回復を図らなければならない。
今の所、それが微塵も見えない。
そう、従来の失墜する政治が、継続しているだけだ。
連中は、匙を投げ、誰かに潰されるのを、心の底では期待し、待っているのではないか?
しかし、既にいくつかのシナリオがあり、西の可愛い独裁者が、マリオネットに選定された。
状況次第で、その人材は、仕組に取り込まれ、不適材・不適所で、のさばる連中の代弁者となる。
あの、原発事故の直後、虚偽を垂れ流した、東大の連中と、変わらぬ道化となるのだ。
狂った政治が、人々の切実な願いを打ち砕く。
それが世界に、犇めいている。
その狂気に苛まれ、女と子供が泣いている。
家族と友人が泣いている。
そして、我々が泣いている。
未来は、何処かと泣いているのだ。
悪習による支配を放置すれば、昨日より良き明日は来ぬ。
全てが腐ったまま、同じ方向に転がり続けるだけだ。
何より、現状の打開に必要なのは再生ではない。
誠心誠意、作り直す事である。
否、これから日本を、作らなくてはならぬのだ。
全ての根幹には、人間がいる。
全ては、人の力である。
私は、それを研ぎ澄まし、次の世代へと伝えたい。
そう、人間性の向上こそが、より良き明日への道標となる。
この、トラップ構造の社会における、閉塞状態の打開には、それが唯一の手段なのだ。
我々は、冷静な判断による、聡明な行動と、懸命な決断による、賢明な結論と、
人としての良き良心に基づく、倫理・道徳・常識・正義を、容易にふりかざす者になるべきだ。
それこそが、人の道である。
私は、その方法を模索し形成した。
だが、所詮は青臭い凡人の、理想の塊にすぎない。
それでも、私は先に行く。
諸君と共に先に行く。
そして、腐った連中の頭に、私の声を響かせてやろう。
戦争ごっこは終わりだよ。
政治家ごっこは終わりだよ。
もう、逃げ回るのは終わりだよ。
当方は、政策と制作を基盤とし、双方における三段階の活動により、包括的な改善を実施する。
勿論、政策と制作の連携を駆使する所存だ。
しかし、誰しも政策が出来るとは限らない。
また、制作も同様である。
だが、どちらかであれば、出来ぬ事ではない。
政策と紹介したが、政治をするのではない。
それが、何も変えられぬ事は、既に解りきった事である。
私は、諸君と策定した政策を、実施するだけだ。
主義の主張で終わるのではなく、目に見える成果を刻むのだ。
そうしなければ、何も変わらぬからな。
そう、主張で変えられるのは、上澄みだけなのだ。
制作に関してだが、青雲の想いを果たす活動を実施し、大衆の夢を現実に展開し、夢が夢で終わらぬ事を証明する。
要は、多大な向上心を、多様な業界に定着させるため、大衆が最も受け入れやすい方向から、アプローチをするのだ。
勿論、人間性を向上する、マルチコンテンツを提供する。
それには、ゼロからの出立が必須である。
大衆が、直接のスポンサー・スタッフとなる、政策と制作の、実行組織を形成する。
そして、国会の機能を末端まで網羅し、さらに飛び越えた、代替すら容易い組織を形成し、
日本政府を外部から改善しつつ、新たな日本を構築する。
私は、あらゆる人材を、路頭に迷わすのは御免だ。
そのため、この国家を構成する全ての存在に、明瞭たる役割を持たせ、 明確たる自尊心を抱かせ、
概念の外延が明晰な存在とし、国家そのものを改めるのだ。
だが、大衆を束縛する気は毛頭ない。
我々は、三段階の活動を終えた後、固定観念を打ち破る、斬新な発想で世界を見つめる、
己と人類に、絢爛な活路が提供可能な、燦爛な組織となる。
段階的に、それは形成されるが、可能な限り研ぎ澄ます所存である。
そして、日本を世界のプラットホームへと変える。
ノーミス・ノートラブルが、我々の多大な誇りとなり、
向上し続ける社会と世界を見つめ、我々が日本人である事を誇りに想う。
私は、その日々の到来を渇望している。
自分は、そのための導火線や、起爆剤になれれば十分だ。
何処までも、それに邁進出来れば十二分である。
私は、名も無き人間だ。
それに、空っぽの人間だ。
だが、それは伽藍堂である。
そう、目に見えぬ何かが、私の中を彷徨している。
しかし、空虚である事は、変わりはしない。
それに、その伽藍堂は、途轍もなく広大だ。
だからこそ、それを満たさんがため、何処までも歩めるのだ。
政治論理・報道論理・教育論理が、根本から間違っていた。
最初から、不出来なガラクタだったのだ。
だが、それが正しいと、思い込み生きて来た。
良く出来た仕組みだと、摺込まれて生きて来たのだ。
それは、音を立て崩れ始めている。
このままでは、過去の瓦礫に圧殺されてしまう。
それは、超絶において、回避しなければならぬ。
私は、それを噛み砕くために生れて来た。
そして、大衆と共に、魂で満ち溢れる、人の血が通う日本を、築き歩むのである。
私は、小・中・高の教育を、大幅に是正する。
現状は、戦時中のソレに、汚い毛が生えた程度だ。
大学校における教育は、それを前提に改善すればいい。
既存の教育は、学童達の時間を、無駄に食い潰すだけだった。
子供が、人生の役に立たぬと、三文授業に唾を吐く時代は、終わりにしなければならない。
特に、社会・歴史の授業は最悪だ。
自国・各国の、捏造された歴史を、偏見に囚われた人間が、湾曲し教科書にする。
教師が、それを黒板に書き写し、生徒はノートに写す。
確かに、教師が補足をするが、所詮は不味い調味料だ。
そして、いつの間にか、ひっくり返る歴史認識・・・。
覚えた人間すら、永遠に報われぬ。
そもそもが、虚偽なのだ。
それを、絶対と押し付けるのは、教育ではなく、冷徹な拷問である。
先ず、あらゆる国家の歴史認識が、都合のいいように捻じ曲げられ、信用に足るモノは皆無である。
それを証明する事は、私には非常に容易い。
要は、教える価値がないのだ。
そう、最初から教えても意味がないモノを、ただ暗記をさせ、記憶力をテストする。
それでは、永遠に人は成長しない。
ならば、社会も寝そべり、いつかはベットから落ちるだろう。
しかし、限りない事実を並べ、子供達を狂わせ、過去に取り憑かれた、亡者にしてはならない。
誰かが、正しい歴史を教えろと言うが、現状のシステムで、それを実施すると、
偏見の塊となった、大量のモンスターを、荒野に放つ事となる。
当方は、社会・歴史の認識が、正しい保証がないと明言し、それでも学習する、明確なメリットを提供する。
私は、実存する当時の資料を主体に、分析と討論を授業の軸とする。
それにより、あらゆる事実を正面から受けとめ、それに振り回されぬ、見識を育てあげるのだ。
また、授業に国語的要素・古典的要素・人間性向上要素を盛り込み、多角的に子供の成長を促す。
さらに、様々な工業製品における社会と、 その歴史を授業に導入し、数学的要素・科学的要素・技術的要素を教授する。
全てのカリキュラムにおいて、多角化・複合化を図る事で、子供が落伍しない状況を確実に形成しよう。
算数・数学に関しては、1+1が2になる場合における、前提条件から授業を始め、
偶然と必然が齎す、数学的神話を若者達に享受する。
勿論、多角化により、エキサイティングな授業を実施する。
何より、授業内容を合理圧縮する事で、新しいカリキュラムを組みこみつつも、
生徒が疲弊せぬ最適な環境を構築するのだ。
新しいカリキュラムには、暗記法や速読法と言った、ディバイスとしての己を拡張する授業と、
資格や趣味の具体的な紹介を実施し、生徒の将来を拡張する授業を組み込む所存だ。
夢を知らなければ、抱く事も出来ぬ。
それを打開する事が、生徒にとって有益だ。
現状では、到底において、それが足りぬ。
個々のカリキュラムの詳細な内容や、既存教育からのシフトを含めた具体案は、
まだ編纂するには、現状の私では不十分だ。
それをまとめるには、私の成長は勿論、かけがえのない仲間達が必要だ。
政策と制作を基盤とした活動で、培っていく所存である。
必ず、無数に配置した受け皿により、取り残される事のない教育、突出する事に喜びを感じる教育、
劣等感に苛まれない教育、各々の特性・個性を最大限に引き出す教育を、ひとつに集約し実施する。
そして、己が理解していても、生徒が理解不能な状況を、
打破する事も出来ず、放置する教師を、もう一つの教育で相殺する。
不遜な人材が、のさばる状況を、終わらせる時期なのだ。
ここまでは、私が諸君と実現する、小さな一歩にすぎない。
我々は、連綿と未来を切り開き続けるのだ。
それが、私には出来る。
それが、諸君には出来る。
それが束になれば、出来ぬ事など、この世にある道理がない。
我々は、各々が唯一無二の、他の追随を許さぬ、至高の存在だ。
それを発揮すれば、世界は容易く変えられる。
それが出来なかったのは、忘れていたからにすぎない。
それを思い出した我等に、現状の世界と社会は、超絶・絶頂において、もう足りぬのだ。
さあ、新たな時代を創造しよう。
我々には、それが出来る。