2012年01月18日 19:25 私の表明
以下は、明瞭性の高い、演説版となります。
☆ 私の演説
現状の、政治家の多くが、使い捨ての人材として秀逸だ。
無知・無智・無恥の、三拍子が揃っている。
そう、使いやすい人材に要求される条件を、完全に満たしているのだ。
戦時下では、道具として重宝される人材である。
最も重要なのは、表面上の情報だけで、利用可能な人材である事だ。
そのような人間は、命令に従順である。
本質・事実・真実・現実を見極めない人間こそが、大日本帝国には必要だった。
だが、帝国は既に滅亡した。
旧世代の、社会構造の陳腐な香りを漂わせる、政治を遂行する政治家がのさばる時代は、遠に終わりを告げている。
しかし、連中は腐乱しながら、そこに留まろうとした。
そのため、処理能力が高い気狂が、のさばる結果を生み出した。
成長せず、回転する政治家共・・・。
そして、深く胡坐をかく官僚一同・・・。
確かに、優良な人材は大勢いる。
だが、不良な人材が突出して力を持ち、呑み込まれていくのが現実だ。
それは、連中自身が生み出した袋小路である。
ただの、道具へと流動する政治家が、官僚と不埒なワルツを踊る。
それを見つめ、不遇な政治家と官僚が、血の涙を垂れ流す。
そして、信念の象徴だった、己の理想がドロドロに溶け、果敢な心が砕け散るのだ。
狂った政治が、人々の切実な願いを打ち砕く。
それが世界に、犇めいている。
その跳梁する狂気に苛まれ、女と子供が泣いている。
家族と友人が泣いている。
そして、我々が泣いている。
未来は、何処かと泣いている。
悪習による蹂躙を放置すれば、昨日より良き明日は来ぬ。
全てが腐ったまま、同じ方向に転がり続けるだけだ。
何より、現状の打開に必要なのは再生ではない。
作り直す事である。
否、これから日本を、作らなくてはならぬのだ。
全ての根幹には、人間がいる。
全ては、人の力である。
私は、それを研ぎ澄まし、次の世代へと伝えたい。
そう、人間性の向上こそが、より良き明日への道標となる。
この、トラップ構造の社会における、閉塞状態の打開には、それが唯一の手段なのだ。
我々は、冷静な判断による、聡明な行動と、懸命な決断による、賢明な結論と、
人としての良き良心に基づく、倫理・道徳・常識・正義を、容易にふりかざす者になるべきだ。
それこそが、人の道である。
私は、その方法を模索し形成した。
だが、所詮は青臭い凡人の、理想の塊にすぎない。
それでも、私は先に行く。
諸君と共に先に行く。
そして、腐った連中の頭に、私の声を響かせてやる。
戦争ごっこは終わりだよ。
政治家ごっこは終わりだよ。
もう、逃げ回るのは終わりだよ。
当方は、政策と制作を基盤とし、双方における三段階の活動により、包括的な改善を実施する。
勿論、政策と制作の連携を駆使する所存だ。
しかし、誰しも政策が出来るとは限らない。
また、制作も同様である。
だが、どちらかであれば、出来ぬ事ではない。
政策と記載したが、政治をするのではない。
それが、何も変えられぬ事は、既に解りきった事である。
私は、諸君と策定した政策を、実施するだけだ。
主義の主張で終わるのではなく、目に見える成果を刻むのだ。
そうしなければ、何も変わらぬ。
主張だけで変えられるのは、上澄みだけである。
制作に関してだが、青雲の想いを果たす活動を実施し、夢が夢で終わらぬ事を証明する。
要は、多大な向上心を、多様な業界に定着させるため、
大衆が最も受け入れやすい方向から、段階的なアプローチをするのだ。
それには、ゼロからの出立が必須である。
我々は、三段階の活動を終えた後、固定観念を打ち破る、
斬新な発想で世界を見つめる、絢爛な活路が提供可能な、燦爛な組織となる。
段階的に、それは成就されるが、可能な限り研ぎ澄ます必要がある。
そして、日本を世界のプラットホームへと変えるのだ。
ノーミス・ノートラブルが、我々の多大な誇りとなり、
向上し続ける社会と世界を見つめ、我々が日本人である事を誇りに想う。
私は、その日々の到来を渇望している。
自分は、そのための導火線や、起爆剤になれれば十分だ。
何処までも、それに邁進出来れば十二分である。
私は、名も無き人間だ。
それに、空っぽの人間だ。
だが、それは伽藍堂である。
そう、目に見えぬ何かが、私の中を彷徨している。
しかし、空虚である事は、変わりはしない。
それに、その伽藍堂は、途轍もなく広大だ。
だからこそ、それを満たさんがため、何処までも歩めるのだ。
政治論理・報道論理・教育論理が、根本から間違っていた。
最初から、不出来なガラクタだったのだ。
だが、それが正しいと、思い込み生きて来た。
良く出来た仕組みだと、摺込まれて生きて来たのだ。
それは、音を立て崩れ始めている。
このままでは、過去の瓦礫に圧殺されてしまう。
それは、超絶において、回避しなければならぬ。
私は、それを噛み砕くために生れて来た。
そして、大衆と共に、魂で満ち溢れる、人の血が通う日本を、築き歩むのである。
私は、小・中・高の教育を、大幅に是正する。
現状は、戦時中のソレに、汚い毛が生えた程度だ。
大学校における教育は、それを前提に改善すればいい。
既存の教育は、学童達の時間を、無駄に食い潰すだけだった。
子供が、人生の役に立たぬと、三文授業に唾を吐く時代は、終わりにしなければならない。
特に、社会・歴史の授業は最悪だ。
自国・各国の、捏造された歴史を、偏見に囚われた人間が、湾曲し教科書にする。
教師が、それを黒板に書き写し、生徒はノートに写す。
確かに、教師が補足をするが、所詮は不味い調味料だ。
そして、いつの間にか、ひっくり返る歴史認識・・・。
覚えた人間すら、永遠に報われぬ。
そもそもが、虚偽なのだ。
それを、絶対と押し付けるのは、教育ではなく、冷徹な拷問である。
先ず、あらゆる国家の歴史認識が、都合のいいように捻じ曲げられ、信用に足るモノは皆無である。
それを証明する事は、私には非常に容易い。
要は、教える価値がないのだ。
そう、最初から教えても意味がないモノを、ただ暗記をさせ、記憶力をテストする。
それでは、永遠に人は成長しない。
ならば、社会も寝そべり、いつかはベットから落ちるだろう。
しかし、限りない事実を並べ、子供達を狂わせ、過去に取り憑かれた、亡者にしてはならない。
誰かが、正しい歴史を教えろと言うが、現状のシステムで、それを実施すると、
偏見の塊となった、大量のモンスターを、荒野に放つ事となる。
当方は、社会・歴史の認識が、正しい保証がないと明言し、それでも学習する、明確なメリットを提供する。
私は、実存する当時の資料を主体に、分析と討論を授業の軸とする。
それにより、あらゆる事実を正面から受けとめ、それに振り回されぬ、見識を育てあげるのだ。
また、授業に国語的要素・古典的要素・人間性向上要素を盛り込み、多角的に子供の成長を促す。
さらに、様々な工業製品における社会と、 その歴史を授業に導入し、数学的要素・科学的要素・技術的要素を教授する。
私は、全てのカリキュラムにおいて、多角化・複合化を図る事で、子供が落伍しない状況を確実に形成するのだ。
算数・数学に関しては、1+1が2になる場合における、前提条件から授業を始め、
偶然と必然が齎す、数学的神話を若者達に享受する。
勿論、多角化により、エキサイティングな授業を実施する。
何より、授業内容を合理圧縮する事で、新しいカリキュラムを組みこみつつも、
生徒が疲弊せぬ、最適な環境を構築する。
新しいカリキュラムには、暗記法や速読法と言った、ディバイスとしての己を拡張する授業と、
資格や趣味の具体的な紹介を実施し、生徒の将来を拡張する授業を組み込む所存だ。
夢を知らなければ、抱く事も出来ぬ。
それを打開する事が、生徒にとって有益だ。
現状では、到底において、それが足りぬ。
個々のカリキュラムの詳細な内容や、既存教育からのシフトを含めた具体案は、
まだ編纂するには、現状の私では不十分だ。
それをまとめるには、私の成長は勿論、かけがえのない仲間達が必要だ。
政策と制作を基盤とした活動で、培っていく所存である。
必ず、無数に配置した受け皿により、取り残される事のない教育、突出する事に喜びを感じる教育、
劣等感に苛まれない教育、各々の特性・個性を最大限に引き出す教育を、ひとつに集約し実施する。
そして、己が理解していても、生徒が理解不能な状況を、
打破する事も出来ず、放置する教師を、もう一つの教育で相殺する。
不遜な人材が、のさばる状況を、終わらせる時期なのだ。
ここまでは、私が諸君と実現する、小さな一歩にすぎない。
我々は、連綿と未来を切り開き続けるのだ。
それが、私には出来る。
それが、諸君には出来る。
それが束になれば、出来ぬ事など、この世にある道理がない。
我々は、各々が唯一無二の、他の追随を許さぬ、至高の存在だ。
それを発揮すれば、世界は容易く変えられる。
それが出来なかったのは、忘れていたからにすぎない。
それを思い出した我等に、現状の世界と社会は、超絶・絶頂において、もう足りぬのだ。
さあ、新たな時代を創造しよう。
我々には、それが出来る。