2012年03月20日 18:10 大阪維新の会と、理屈と屁理屈の、境界における考察・・・。


大阪維新の会に対し、右に寄り弁している勢力、左に寄り弁している勢力が、独自の理由で敵意を抱いている。

右寄弁は、維新が左寄弁を刺激し、国家・国民を滅ぼそうとしている。

左寄弁は、維新が右寄弁を刺激し、国家・国民を滅ぼそうとしている。

実際は、複雑な主張だが、表裏一体の傾向を感じる。




異なる立ち位置ではあるが、類似性が高い目的のため、人が争うのは世の常だ。

しかし、匙加減を間違えれば、想像を絶する惨状へと到る。

現状は、人としての良き良心を根幹とする、倫理・道徳・常識を度外視した存在の、跳梁跋扈が、目に余る状態だ。

厄介なのは、己の多大なその欠損を、改めるべきと、気づかぬ人々だ。




例として、『阿部定が、阿部サダヲのステマだ!』、『阿部サダヲが、阿部定のステマだ!』は勿論、
私のこの書き込みに対し、『阿部定と阿部サダヲのステマだ!』と、批難する者が存在する。

そう、その次元の者が、見受けられる状況なのだ。

名前が似ている、ただ扱うだけで、目くじらを立ててしまう・・・。




要は、確定的な因果関係の有無ではなく、表面上の情報を狭い見識で見つめ、十分に精査する事も無く、
己の尺度で間違っていると判断し、不遜な行動をする者が、大多数存在するのだ。

思考による、具体性の具現化が疎かであり、既知の第三者による情報を、具体性として扱う者が、陥り易い状況である。




注意すべきは、既知の情報で信念を固め、それを具体性(理由)としない事だ。

それでは、ただの寄せ集めになってしまう。

第三者による、信念の塊になっては、道義的判断を、見誤る恐れがある。

現状を齎した、問題を阻止出来なかった主義に依存し、情報を貪り取り憑かれれば、自身が同じ道を辿るのだ。

何より、卑屈な理屈屋となり、知識を無様にひけらかす、第三者による利己主義の、失墜を続ける怪物にはなるな。




そうならぬため、情報で主観を染めるのではなく、善道・邪道を見極め、
より規範となる道徳を主観とし、冷静な判断による、聡明な行動を、心がける必要がある。

それは、原発の一連を見つめれば、皆々様が御感じになる事だ。

しかし、倫理・道徳による主観が、極端に先行すれば、周りが見えなくなる。




そうだ、重要なのはバランスである。

ある程度の、知識を持ち・知恵を有し・恥を知る事で、人は大きな過ちと、決別する事が出来る。

既存の政治家には、無知・無智・無恥が目立つ。

官僚には、有知・無智・無恥が多い。

始末が悪いのは、知恵があっても、腐りきった、悪知恵の場合だ。

全ては、そこで破綻する。




陥ってはならぬのは、どれだけ周囲が諭そうと、金太郎飴のように、切っても変わらぬ存在だ。

それは、どんどん短くなって行く。

周りにいる人々は、それを知っているからこそ、いつの間にか諭す事を止める。

すると、本人は心配となり、己が正しいか確認する。

だが、周囲は面倒を恐れ、頷くだけとなる。




まあ、大概の場合、確認を求める者は、より的確に言われなければ、納得しない存在だ。

そのため、心にもない事すら並べ、周囲は対応するしかない。

そして、本人は自分が正しいと思い込み、どこまでも膨れ上がっていく。

末路、周囲に多くの人々がいるのに、笑顔で包まれているのに、独りぼっちだ。

結局、金太郎飴を短くするのは、己の多大な不足である。




最悪は、その人物が中心となり、進んだ社会において、それが間違っていた事が、露呈した場合である。

如何に、己の安全性を高め、それを徹底しようと、間違いの先では、そんなモノは関係ない。

そのための、法も武力も意味を消失する。

何処に居ようが、敵と認識され、その存在を絶滅されるのだ。

これは、極端な例だ。




現状は、金銭への依存度が強い社会であり、それに対する不安が、蠢いている状態だ。

そのため、綺麗な言葉を並べても、戯言と思われる事がある。

要は、裏に何かあるだろうと、推察されてしまうのだ。

まあ、何もない事はないだろう。

社会や他者へ、貢献したい気持ちがある。

者によっては、大きな打算もある。




指摘に対し、己の正当性を訴えれば、益々疑われる事となる。

真に、社会や他者へ貢献を目指す者は、己の正当性を誇張する無様を、滅多に演じる事はない。

打算がある者も、知恵があれば余計な事はせぬ。

余程、不器用でなければ、それを一蹴する事も可能だろう。

それが出来ねば、この世は腐る一方だ。




我々は、寛容な精神を育み、僅かな情報で相手の主張を分析し、理解ではなく、獲得する必要がある。

そして、それを噛砕け。

吸収するも、流し出すも、それは己の自由だ。

我々は、深い存在だ。

厳密には、何処までも深く、濃密になる事が可能である。

己を、己として、研ぎ澄まし、磨き続ければ、成せぬ事はない。




ある方から、このような御返事を頂いた。

『指導者の資格は、選挙によって与えられる。その足跡の是非は、
後世が判断する。しかし、その判断が正しいかは、わからない。』

内容は、同一であるが、文章を短縮している。

これは、無数に存在する、既成認識の一つだ。

なんとも、痛ましいジレンマである。




頂いたお返事は、その方の『ヒトラーが民意でユダヤ人を殺戮したのであれば、
ヒトラーにユダヤ人虐殺の直接的な罪は無いことになるが・・・』に対し、

『直接的に人を殺し、間接的に人を殺す。両方が犯罪者である。
大衆を正しき道に誘えぬ者に、指導者たる資格はない。』と、当方が意見した結果に頂いた。

御返事の内容を拝見する限り、自分の考えを否定し、私の意見もその可能性があると、指摘されている。

当方は、卑屈な理屈に対し、窮屈な理屈をぶつけた。

まあ、赤ちゃん同士が戯れている間に、私も赤ちゃんとして、飛び込んだだけだ。

所詮、このやり取りは、茶番である。

それを見つめ、考える者だけが、その遥か先へと進んでいく。




後世の判断に委ねるのは、ニッチもサッチも行かぬ状況で、多くの権力者が抱いた、最低の逃げ道だ。

そして、後世の判断を打ち消すのは、敗北主義者の戯言である。

今を生きる者が、過去の概念をおしゃぶりに、ベビーベッドから出られないでいるのだ。

類似した認識が念頭にあれば、必然的茶番・偶然的茶番・作為的茶番を、執拗に繰り返す破目となる。

その茶番には、破滅の末路が到来する。




茶番となるのは、是非を判断する能力は勿論、その指針が非常に曖昧だからだ。

破滅の末路が到来するのは、いがみ合いが終わらぬのが原因だ。

仮初の秩序は当然とし、それすら無き国家・個人が、無数に犇めいていては、
より未熟な者から暴走を始め、周囲が巻き添えとなり消えて行く。

それは、悲しすぎる。




現状まで、大衆による是非の判断が、ファジーな状態だった。

結果、それっぽい存在が政治家に選ばれ、指導者っぽい気分を味わっている。

実質的には、指導者には程遠い人材が、政治家とは何かすらファジーな状態で、適当な茶番を演じているにすぎない。

今後、その判断力は、より混濁を極めて行く。




理系や文系である事を強みとし、己のジレンマを叩きつける者を、随所で見受ける事が出来る。

結局は、それに束縛され、自分がその程度の存在と自負し、構って欲しいと泣いているだけだ。

誰かに認めて貰いたくて、自分にすら気に入られたくて、嫌いな存在を否定する。

だから、傲慢なのに、酷く怯えているのだ。




子供は、己より弱い存在に強気になる。

大人にも、その傾向がある。

同じ程度の相手であれば、不毛なやり取りを繰り返す。

その場合は、客観的な優位性に関係なく、どちらも可愛い存在だ。

そして、大人は聞き分けのない子供に対し、優しく諭す方法を忘れ、子供に戻りつつある。




勿論、私もその一人だ。

ただ、第三者が披露してきた知識を、間接的にひけらかし、相手を軽くあしらう事に飽きた人間だ。

それは、知識を収集可能な者なら、誰しも出来る簡単な事である。

まあ、一定のコツさえ掴んでしまえば、知識が無くとも相手を屠るのは容易だ。

それは、体たらくの骨頂だ。




私は、より多くの人々と、そこから抜け出す所存だ。

だが、所詮は数多く点在する、たったの一つである。

そう、巨大なコミュニティーには、一定の確率で方向性が近い、より良き現実を目指す者が存在する。

ただし、私は決して諦めない。

何より、コッテリしている。




人は、理屈と屁理屈を見極め、屁理屈による茶番から脱却し、他者の存在を認める事で成長する。

現状は、同じ一本道で、追いかけっこをしている。

それが、間違った道ではないか、冥府魔道へと到る脇道なのか、本道とは何かを誠心誠意で、導き出す必要がある。

私は、先へ到るために必要な、障害を切り裂くための、たった一本の剣だ。