2011年09月26日 21:41 私の考察と父の言葉・・・。(改良版)
人類は、無分別な概念と定義の獲得により、己の不偏性・普遍性・不変性の損失を続けている。
人間の仕様に準拠すれば、増加する概念と定義には、対応が可能な存在と、不可能な存在がある。
また、対応すべき存在と、すべきではない存在がある。
さらに、概念と定義を明確な次元で、持たせるべきではない、自然・偶然・必然による、当然となる摂理がある。
それは、不要な概念と定義の形成が、新たな差別や偏見の、根源や実体へと成り果てるからだ。
そもそも、人類の仕様と環境に基づく、原理・哲理・心理に導かれ、自然・偶然・必然を源流とする、
当然となる流れにより、森羅万象の意図に則り、適当な概念と定義を、形成してきたにすぎない。
それらが、正当なのか、不当なのか、どちらでもあり、どちらでもないかの分類は、
形成される社会は当然とし、そこで曖昧に養われる、個々人の定規に委ねられる。
その、定規による見解は、絶対であり、相対であり、どちらでもあり・どちらでもない。
即ち、わかっているようで、わかっていない状態であり、わかっていないようで、わかっている状態なのだ。
そして、人類は生誕の頃より、己と第三者の建前・自己都合・利己主義に操られている。
その状況で、下される判断と決断が、正当な道理はなく、不当な道理はない。
結局は、明々白々であり、有耶無耶なのだ。
旗艦轟沈の問題は、その本質を理解せぬ存在が、権力を掌握する構造だ。
現状は、傲慢な権力者が宿した、建前・自己都合・利己主義による、
頻々の莫大な失態が齎した、不浄な幻想の末路たる世界である。
政治組織は、有知・有恥・有智となる人材を喪失し、無知・無恥・無智の坩堝へと成り果てた。
まあ、現況の惨憺たる状態を見つめれば、もとより不在だったと伺える。
どうやら、先の大戦より現在に至るまで、この日本に政治家は不在のようだ。
少なくとも、人類史上において、先導者が存在した痕跡がない。
何より、福島第一原発の人身事故への対応は勿論、過去の公害問題への対応を拝見すれば、
強烈な異臭が漂う汚泥人形が、国会に並んでいるだけだったのは、誰の目にも明らかである。
確かに、血の滲むような苦心惨憺の末に、称賛すべき結果を齎した者が大勢いる。
だが、陰極となる表裏一体の世界は、一切合財が紙一重の状態であり、
一見は正当と評価される、レギュレーションの可決すら裏目となり、
因果の報いが積算され続け、全てが茶番となる末路を辿るのだ。
天地万物が、完全無欠に無意味となる、終焉を描かぬためには、極性を変更する必要がある。
先導者が原初に実施すべきは、陰極を陽極へと傾ける事だ。
それが伴わなければ、己達が愚図に形成した、悪循環の袋小路に弄ばれ、政治家は腐れ果てる一方だ。
そう、無限の雇用を生み出そうと、恒久のエネルギーを手に入れようと、それは何処までも腐り続ける。
まして、そのような状況となれば、連中は瞬時に腐って落ちて、我々も瞬く間に腐れきる。
そんな、当たり前の事を把握し、現実と呼ぶには余りにも出来が悪すぎる、
何処までも腐れるだけの、襤褸な幻想の世界から、脱却しなければならない。
それまでは、自動で形成された仕組みにより、はなから選択肢が存在せぬ、
選挙と呼ばれるゴミ拾いで、税金で養う有象無象を、選び続ける破目となる。
我々による、適宜なリクエストを、実現するのではなく、手持無沙汰とならぬよう、
国家・国民を完全に放棄した状態で、己と同類による腐った策謀を、政治組織は掲げている。
あまつさえ、それで国民に選ばせた人材が、官僚の踊りゴマである事を隠し、
民主主義と見せかけた、実質的には独裁となる、怠惰な政治ゴッコに耽っている。
おまけに、築き上げた根拠を、己達が消失させた事実を認めず、開始早々からの根拠の不在を隠匿し、
財源を確保しようとも、それが何かを出来る証明には、到底においてならぬ状況で、
それがあれば、どうにかなったかのような、猿芝居すらしている。
それでは飽き足らず、些少の責任すら取らぬだけでなく、発端からとれぬ仕組みを築いてきた。
次元陥落において、連中が己の首をはね、国民に差し出そうとも、もはやたりぬのだ。
そのため、政治生命なんぞでは、贖罪の穴埋めには程遠い。
我々は、連中が粗造した悪夢の中で、どれ程の差があろうとも、大差のない人生を歩んでいる。
だから、君が泣いている。
そして、私が泣いている。
人生は、至当による被造物の、玉響の開花にすぎぬ。
それを揺るぎなき、六合へと昇華する術が、人類が真の黎明を迎える王道が、時の流れに応じ実存していた。
そうだ、時代に則した方策が、常に我々の中に存在したのだ。
残念なのは、それを実行する存在が、神意超克において、絶無だった事である。
末路、社会は人類に対し、己を歪に変えてまで、対応する事を強要している。
それにより、多くの人々が落伍していく。
対象によっては、現実と見せかけた悪夢を拒絶し、それが恫喝する概念と定義に反発し、
先進性の欠片もない生活を溺愛し、杜撰で怠惰な日々に身を委ね、己と第三者の首を絞めている。
それでは、イミテーションの名誉と栄誉に酔いしれる、不健全なレプリケーションすら不完全で、
ダウングレードに歯止が効かず、同じ事を繰り広げ、悪化させて繰り返す連中と、同じ穴のムジナとなる。
万人が、超絶絶頂・究極極大・臨界突破に、撃滅・殲滅・絶滅させたいあの子達と、違う向きで同じ事をしている。
特定のアルゴリズムが、そこそこ浸透するだけで、各々が他の追随を許さぬ、
神すら容易く踏破する、唯一無二の存在となる世界で、それは無残の極みである。
そう、メソッドを理解するだけで、誰しも神となれる世界なのだ。
ただし、負極を正極に傾けねば、碌でもない神にしかなれぬ。
だから、この世は屈託で沈み、理不尽な涙で満たされている。
このことから、目の前に神を名乗る存在がいれば、それらは満遍なく噴飯物の塊だ。
であるからして、そのような偽政者と同類の、愚の骨頂に振り回され、時間を無駄にしてはいけないよ。
何より、己と第三者による、醜悪な策謀の犠牲にはなるな。
新星爆発において、己の建前・自己都合・利己主義で、他殺と自殺に及んではならない。
自分を、塵に変えて何とする?
敗残者となり、何が成せるのだ?
どんな逆境からも、他者と己を犠牲とせず、這い上がれば英雄である。
人としての良き良心を基盤とする、倫理・道徳・常識・正義を育み、
冷静な判断による、聡明な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断を心掛け、
真摯に現実・真実・事実・本質・実質を見極め、他者と己を救えたら、それは鋭鋒に素晴らしい事だ。
神髄を開眼し、自然律を諒解せよ。
そして、ニルヴァーナを超えて行け。
正当な世界では、それは最初の一歩にすぎない。
我々は、大幅に出遅れるだけではなく、間違った方向へと突き進んでしまった。
このままでは、滅亡に向かって、猪突猛進するのみだ。
私は、それを拒絶する。
諸君と共に拒絶する。
先ずは、極性をひっくり変えす、一つの起爆剤となる。
そして、当方は諸賢に傅く、銃剣の一つとなり、無限の未来を引き寄せよう。
父が『お前達がどれだけ動いても、連中からすれば埃と変わらない。デモをやっている連中も埃だ。』と、おっしゃった。
父が言いたいのは、私がしていた別の活動と、日本のあらゆるデモに対し、
その目線の低さにより、相手が気にする状況にすら、永遠に届かぬと言う事だ。
それは、当然である。
対峙すべき勢力は、原発を無数に実存する問題の、ほんの一部としか扱っていない。
おまけに、その積算する問題とは、時が来ればオサラバ出来る状態だ。
あまつさえ、自己の進退を国民に委ねる事で、あらゆる責任の放棄が可能である。
そうだ、責任を持つ覚悟すら不要な状態で、それにより絶大な失態を犯しても、
莫大な責任を国民に転嫁し、その気になれば逃げられ、逃がして貰える状態なのだ。
それに群がり、抗議活動を実施するだけでは、どれだけ規模を拡大しようと、
どちらに転がろうと構わぬ、連中の猥褻な計略の、ただの材料で終わってしまう。
そうはならぬ、原発問題の是正には、奇抜性と明瞭性を有する、新世代の活動が必須となる。
それは、デモに対する対応のマニュアルが、強固に形成されている事は当然とし、
海外では暴力を伴う活動であり、国内や海外において、不心得者が実施する活動だからだ。
正しいと思われる存在もあるが、悪い存在にかき消されているのが実情だ。
要は、そのような活動に身を投じてしまえば、連中の時間稼ぎを長引かせ、ツケが膨れ上がるだけである。
そのツケを支払うのは国民だ。
デモに参加すれば、ツケを払わされるだけでなく、何度も利用され裏切られる。
以下は、裏切られる理由の一部となる。
日本における、抗議活動の運営者は、必然的な二極化を見越し、
活動との因果関係が明確ではない、一定の成果が発生する事を前提に、
それに便乗しつつ、最大限長期化させる活動を、執拗に徹底する傾向がある。
それは、自己の利益に繋がるからだ。
また、日本政府が計画に基づき、著名人を対峙する側の中枢に立たせ、特定の領域に踏み込まない、
一定以上の知識を共有させない、制約・制限のある活動を行わせ、良きタイミングで利用する仕組みがある。
さらに、日本政府が活動家を支援し、制約・制限のある活動を徹底させ、
ガス抜きや国民の反感を買わせる事で、問題を四散させる伝統がある。
これらに関しては、唖然とするレベルで、それを実施するレールが形成されている。
連中は、次世代にツケを残さぬためと、根拠も確証も不在の状態で、今まで実施してきた事より劣悪となる、
次世代にツケを払わせるための、不当な消費増税、不純な社会保障改革、不用意な経済政策を実施する。
そう、同じ過ちを繰り広げ、悪化させて繰り返すのみである。
しかし、暴力的な手段で解決に望めば、憎しみの連鎖に蝕まれ、
より劣悪となった環境で、同じ事を悪化させ、繰り返す破目となる。
それは、適宜ではない。
当方は、制作と政策を基盤とする、双方における三段階の活動により、包括的な改善を実施し、たったの一つを是正する。
比類なき、暁天の星たる珠玉の是正は、全人類の本懐である。
そもそも、世界は公有の財産でなければならない。
それなのに、 真の先導者が出現する事無く、プアーな指導者が躍り出て、それにつき従う偽政者が猖獗を極め、
不完全で中途半端なアブソリューティズムが、秩序なく蔓延った挙句に、生きとし生ける存在に対し、
世辞にも相応しいとは言えぬ、沈んで当然の世界が、プカプカ浮いているだけなのだ。
ほんの一握りの、不適格者の跳梁を許してきたのは、全人類の甚大な痛恨事である。
そして、傲慢な不適格者が、真の政治家は当然とし、刮目すべき指導者への、
その正当な道を目指さなかったのは、連中の蒙昧による罪業なのだ。
まあ、瞠目する先導者が現れぬ限り、回避不能な陰極となる表裏一体の世界では、
適正な指導者や政治家は、滅多に誕生せぬだけでなく、しても偽物となる仕組みである。
そのため、この世の地獄に、我々が立ち尽くすのは、当然の成り行きだ。
だからこそ、互いに抱える問題を紐解き、融和の精神で歩み寄る必要がある。
だが、我々が愚かな人類である限り、銀河掌握において、それは困難な事なのだ。
そう、既に綺麗事は当然とし、共通の危機に見舞われようと、圧倒的な力で捻じ伏せようと、どうにもならぬのが実態だ。
それでも、特定のプロセスによる、打開の道が常に存在する。
私は、それを粘っこく導き出し、実現するために生まれて来た、パズルのピースの一つである。
それを一番に配置し、組み立て完成させるのは諸賢である。
私は、指導者でも政治家でも無い。
まして、先導者でもない。
小さな一匹の、鼠ちゃんである。
深い地下から、小さく見える空を見上げ、摩天楼を登り満天の星空に想いをはせ、
ゴミ箱の底でファーストフードをあさり、時には高級レストランの残飯にあやかり、
あちらこちらを駆けずり回った挙句に、何かに気づいた多数の鼠の一匹にすぎぬのだ。
だからこそ、可能となる事がある。
そうでなければ、出来ぬ事がある。
ただ、それだけだ。
※ 参考日記
☆ 抗議活動への参加に、意義があるのか?(改良版)
☆ 回顧により見える事柄・・・。(改良版)
☆ 今、必要なのは『反原発』や『脱原発』ではない。(改良版)
☆ 現状への見解と、私の想い・・・。(改良版)
☆ 日本政府は、最大限に取り組むべき事を、未熟な策謀を優先するため放棄した。(改良版)
☆ 現状は、特殊な状況ではない。私が求める、思想と主義・・・。(改良版)
☆ 渋谷放火未遂と、悪化の一途を辿る、犯罪を見つめての考察・・・。(改良版)
☆ フジテレビの問題に対する、当方の見解・・・。(改良版)
☆ 私が抱える想い・・・。(改良版)
☆ 裂罅の考察・・・。(改良版)
☆ 『全てを失う前に・・・。』『「原発推進用」世論対策マニュアル 』(改良版)
☆ 危険論者と安全論者を見つめ、その先で思う事・・・。(改良版)