2011年09月22日 03:36 回顧により見える事柄・・・。(改良版)


新生への活路を切り拓かんがため、大衆が弩級の大剣となり、不愉快な暗澹を刎ね落とし、
偉容を誇る大砲となり、世界を震撼させる轟音を轟かせ、忌々しい有象無象を、木っ端微塵にしたのは、
先導者が標榜する、思想や主義に呼応したのではなく、その者となら築けるであろう未来に、思い焦がれたからだ。

革命の象徴たる人物が、大衆の精神的支えとなり、人々の魂を躍動させたのは、
己の死を拒絶せぬ決心と、森羅万象に踏ん切りをつける、結論を下していたからである。

また、子々孫々の屈託なき永劫ためなら、己の抹殺すら確約していた。

さらに、珠玉の殺戮兵器となり、諸悪の根源を絶滅すると決めていた。

それは、感情的でなく、論理的でなく、衝動的でなく、計画的でなく、エゴですらない。

その、本懐と結論と未来は、既に刻まれていたのだ。

刻まれたのは、生まれる前かもしれない、生まれた瞬間かもしれない、その後かもしれない、
死んだ瞬間かもしれない、その後かもしれない、生きていた間だったのかもしれない。

それが、いつだったのかは、誰にも判らぬ事だ。

全ては、必然によって紡がれる。

そこに、己が情緒を挟み、評価するのは無粋だ。

そうだ、本人にすらわからぬ事に、偏った見解を示してはならぬ。

示すべきは、その神髄のみだ。




己が打開策となり、是正を実施する者には、人々を信頼する強い情感があった。

それに、己が身が絶えようと、人々の願いが絶えぬと確信していた。

そう、思想や主義が違えど、人々の切実な願いを、叶える者が必ず現れる。

自分は、きっかけとなれれば、十分であると・・・。

そして、多くの者が死んでいった。

はたまた、多くの者が新たな時代を切り開いた。

果てに、我々はここにいる。

だが、世界を見渡すと、全ては腐った虹色に染められている。

結局、何かを変えられたのは、ささやかな玉響の時にすぎない。

しかし、そうなるのは必然だ。

理由は、先導者と大衆が結集し、現実化した振る舞いが、
正解であり、間違いであり、どちらでもあり、どちらでもないからだ。

そう、正解・不正解の判断をするのは、各々の曖昧な尺度だ。

二極化は、必然的に齎されるが、漠然とした認識で下されており、それは簡単な事で掌を返す状態だ。

特に、当事者でなければ、それは尚更である。

そのため、表裏一体であり、紙一重であり、空虚なのだ。

他にも問題はあるが、それは以下を辿り、掬って頂けると幸いだ。

☆ 今、必要なのは『反原発』や『脱原発』ではない。(改良版)

結果、宿願は仮初の奇跡で終わり、怠惰で傲慢な妥協による世界が、延々と増長を続けている。

しかしながら、先導者と大衆が果たした悲願は、決して無駄ではない。

それにより、多くの教訓が得られ、真に成すべきを導き出し、結果を示す事が叶うのだ。




限界までの屈託を打ち払い、極限までの理不尽な涙を相殺し、人類を恒久の存在とする方法は、我々に刻まれている。

だが、それを実現する方法に対し、現況で展開される政治活動や抗議行動は、銀河横断に程遠い状態であり、
社会と人類に新たな閉塞感を形成し、絶大な不具合と問題を発生させ、
死屍累々の状況を形成する、災厄の元凶となっている。

そこから決別するには、己の未熟と失態を、認める事から始めなければならない。

そして、人としての良き良心を基盤とする、品行方正な倫理・道徳・常識・正義を育み、
冷静な判断による、聡明な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断を心掛け、
真摯な眼差しで、事実・真実・現実・本質・実質を、見極める必要がある。

即ち、漠然とした感覚と、異様な興奮状態から、抜け出さなければならぬ。

それにより、己と第三者による、建前・自己都合・利己主義の鎖を断ち切り、
陰極である表裏一体の世界で、紙一重となり項垂れている、負極の存在から脱却するのだ。

そうなれば、不浄な策謀の道具とされ、己を見失い擦り減らさずに済む。

また、思考がオプティマイズされる事で、考察のアルゴリズムにプログレスがかかり、
理論・結論・結果論のプロシージャがワイドとなり、確固たる己の不偏性・普遍性・普遍性の獲得に繋がる。

それは、己は当然とし、周囲に利益を齎す。

さらに、未熟な感情的思考と、拙劣な論理的思考に揺さぶられ、醜態を晒す事が軽減される。

そうだ、己の未熟で獲得した利益を、損失する事が少なくなり、その維持と獲得が期待可能だ。

何より、仕方なく形成された社会で、リダクションの猛攻に晒され、
日々劣化する己のクオリティに歯止めをかけられず、
老いて枯れるだけの人生とはオサラバだ。




我々に対する、リダクションの猛攻が、マスメディアによって、連日において繰り広げられている。

連中は、前提条件と採用した仮説を省略し、限られた条件と不確かな仮説による、
一つの不鮮明な解釈にすぎぬ情報を、あたかも絶対かのように伝えている。

混濁した式と、曖昧で不備がある解答を、当然と刷り込まれれば、互いに気が狂い腐れ落ちる。

それは、視聴者の面倒を掻い摘んで、有益な情報を提供しているのではなく、
正解なのか、間違いなのか、どちらでもあり、どちらでもないのか、
正当に見極められぬために、省略しているにすぎぬのだ。

その証拠に、己とスポンサーに都合の悪い事は除外し、
現場や同業者の暴走を、第三者のような目線で貶している。

だから、原発事故や公害問題は当然とし、 虐待問題や人権問題や領土問題で、
パッパラパーやクルクルパーの跳梁跋扈を許し、何度でも同じ事を繰り返すのだ。

おまけに、式と計算過程を並べ、的確な解答を出しているようでも、
もとより不十分である限り、省略による見解と大差はない。

結局、寝ても覚めても、そのような不全に晒されていては、人間は歪む一方である。

あまつさえ、様々な矛盾を、大人の約束は勿論、仕方ない事と誤魔化しているが、
それが蓄積されれば、いつかは一切合切、爆音を響かせ弾け飛ぶ。

それを理解せず、甘んじて来たのは、連中の過失であり、我々の未熟さだ。

我々は、マスメディアが提供する情報を、特に示される見解や結論を、
無数にあるそれらの極一部であり、非常に稚拙な次元と、見つめる必要がある。

銀河掌握において、思考のオプティマイズは、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚・超感覚の改善と向上を促す。

そう、アルゴリズムの最適化は、肉体と精神のスケーラビリティーを向上し、
自身を自分で利用可能な、最高のデバイスへと磨き上げる。

我々は、使い難い自分でなく、使い易い自分となり、人生を謳歌しよう。




未曾有の危機と、常に隣合わせなのが現実だ。

そのため、多くの者が抗議活動に邁進する。

人々は、今を蔑にすれば、未来が危ういと感じ、抗議活動を肯定し否定する。

そして、誰かのための、無関心すらあるのだ。

それに対し、誰かを不遜と垂れ流す者は、己を見つめ直す必要がある。

さすれば、いつか気づくだろう。

全ての存在が、同じ場所でバラバラとなり、恐怖に怯えている事に。

そう、私も君も寂しそうに、ふるえているのだ。

何より、他者のスタンスを見極め、それを認められぬ者に、自己の主義・主張に同調せぬ存在を、批難する資格はない。

それは、他者を拒絶した時点で、多くの扉を閉ざしてしまうからだ。

結果、解決に必要となる、双方の力は分断し、問題は永遠に解決されず、沈んでいく一方だ。

情報の取得が、不十分である存在には、明瞭にそれを伝えればいい。

しかし、間違った情報を共有してしまわぬよう、細心の注意を払わねばならない。

だからこそ、己を洗練し、見極める必要がある。

人類は、多数のピースが、他者のそれと入れ替えられた、巨大な無地のパズルを、
何となく組み立てられないとわかっているのに、いつまでも組み立てようとしている。

そろそろ、それを終わりにしなけらば、ピースの奪い合いの挙句に、
互いのパズルを破壊してしまい、永遠に組み立てられなくなってしまう。

それは、適宜ではない。

私は、かけがえのない存在と、そのかけがえのない存在を守りたい。

全ては、そこから始まるのだ。

そして、私は知っている。

誰かのために引き出す力が、あらゆる問題を淘汰する、最高限度を突破する力である事を・・・。