2011年08月03日 23:07 私が抱える想い・・・。(改良版)


この世界には、絶対に安全であると、断言可能な場所は存在せぬ。

それは、世界が複数の国家は勿論、多数の民族で構成されているからではない。

国家・民族と言った概念を、人類が痛烈に、受け入れてしまっているからだ。

そう、多くの争いは、その枠組みを根底に繰り広げられ、繰り返されて来た。

勿論、その枠組みには宗教・宗派や主義・主張のような、
国家・民族を内在する存在は当然とし、それに格納される存在がある。

要は、様々な枠組に固執し、己と第三者の建前・自己都合・利己主義によって、
周囲が見えなくなり、自分の事すら見失い、暴走した挙句に引き起こされるのが戦争だ。

そして、人々は一心不乱に殺しあう。

全てを失うまで、ひたすら奪い合うのだ。

末路、己の心は確実とし、己の命でさえも、奪ってしまうのである。

滑稽なのは、自分達や己が正しいとの、不遜な洗脳状態に陥るため、大概において第三極から見つめると、
吐き気がする行為を必然的・作為的に行い、それがあたかも素晴らしい事と、得意気となっている事だ。

それでは、何も解決しない。

そもそも、人としての良き良心を基盤とする、品行方正な倫理・道徳・常識・正義を胸に刻み、
冷静な判断による聡明な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断を心がけ、
現実・事実・真実・実質・本質を見極め、他者の痛みを解る者達が、
どんどん離れて行く以前に、近づこうとすらせぬのだ。

そのため、全ては不埒で半端な連中の、腐った自尊心に踊らされる、自己満足で終わってしまう。

だが、大多数の改善者が、デモや戦争と離れた場所で、実務的な調整を行い、ある程度の解決を行う。

しかし、気が狂えば誰でも実施可能な、デモや戦争に明け暮れた人々は、
それを自分達や己の成果だと思い込んで、無様に跳ね回るのだ。

これは酷く残念な事だが、さらに残念と感じるのは、
改善者に出来る事は、一定の次元に収まり、是正には及ばない事だ。

それにより、飽きても尚、因果の応報が、繰り返される。

屈託のない、是正者が現れるまで、その失墜は絶え間なく続く。




奪わなければ、奪われるのではない。

互いに奪おうとするから、段階的に過激さが増大し、
己や家族や友人までも、己による収奪の対象としてしまう。

対立する双方が、多大な過誤に身を委ね、莫大な筋違いを孕んだまま、
対立する相手は当然とし、他者を深く見つめる事も無く、気ままに跳梁跋扈する・・・。

非常に浅はかで、超絶絶頂におぞましい光景である。

究極極大において、そんな連中が無尽蔵に蔓延っている限り、いつかは世界に終焉の鐘が鳴り響く。

現状は、何も知らぬ人々が、原発を肯定し、何かを知ったつもりの人々が、原発を否定し、
知るべきを知った人々が、当事者達とのパイプを形成し、水面下で交渉を進め、
無知・無智・無恥の政治家は、水面上で流れに身を委ね、流されている。

問題は、自分達を正しいと思い込み、客観的にどう見えるかを考えられぬ集団と、
己が正しいと思い込み、客観的にどう見えるかを考えられぬ政治家が、
何かを勝手に実行し、強烈な不面目を晒している事である。

対立する存在の双方が、臨界突破の矛盾と銀河掌握の無様を演じた場合、
社会性は大きく捻じ曲げられ、人間性は大きく歪み、果ては森羅万象がチリとかす。

それは、適宜ではない。

人類が、正当な未来を歩むには、多くの是正者が、立ち上がる必要がある。

それを望める者は、政界には当然とし、デモの参加者にはおらぬ。

しかし、デモの規模がある程度、大きくなった段階で、それは急に転がり込んでくるかもしれない。

注意すべきは、それが善意に満ちた者か、悪意に満ちた者であるかだ。

後者であれば、無窮無極において、惨劇が繰り返される。

より良き未来は、生きとし生ける、あらゆる存在のために・・・。




この世に、完璧な存在は皆無だ。

強いて言えば、万人が完璧を望むのは絶無である。

そもそも、神すら不完全の長物なのだ。

そう、全知・全能であろうと、全てを知り、全ての機能を有するにすぎぬ。

決して、それ以上ではない。

だから、世界は理不尽と悲しみで満ちている。

試練だと?

それを、飢餓で絶命寸前の子供に言えるのかね?

まして、自分達の大切な子供を、目の前に並べられ、次々と首が切り落とされる姿を、成す術なく見せつけられた母親達が、
その後に武装勢力に切り刻まれる状況下でも、その姿を見つめながら彼女らに、それは試練だと並べられるのかい?

宇宙粉砕において、真の絶望に苛まれている人々を、一切合財救えぬ神ならば、それはただの傍観者である。

それでは、色々と知っていて、色々と出来ちゃう感じの、近所のオッサンと大差ない。

現実を見つめれば、信仰を広める事は当然とし、自分を完璧主義者とは、恥ずかしくて言えぬのが実情だ。

それは、自分が偏見に染まった、不完全な人間であると、高らかに叫びながら転倒するのと、何一つ変わらぬ事だ。

無知・無智・無恥の相手ならまだしも、有知・有智・有恥の相手にそれを行えば、される側が恥ずかしくなる。

次元総攬において、この大地そのものが、完璧とは程遠い存在である以上、絶対の安全が成り立ちはしない。

だが、極限までそれを追及する事は可能だ。

そう、国家間の緊張を解し、民族間で協調を深め、安全・安心を追求した世界を築く。

ただ、これだけに邁進すればいい。

現状までは、つもりの域で終わっている。

成すべきは、途轍もなくシンプルだ。

しかし、建前・自己都合・利己主義に弄ばれ、相互が愚鈍な主張に執着した結果、
何をしようとも上手くは行かぬ、負け犬に相応しい、袋小路が形成されている。

水先案内人が誕生しなかったため、その資質すら望めぬ人材が蔓延り、作為的茶番・必然的茶番が潰える事はない。

結果、日本は多大な安全・安心の追及を放棄し、自ら腐った虹色に染まっている。

他国も大差が無いのが実情だ。




視野を広くし、世界を見つめれば、人類が『聡明かつ賢明な存在』に程遠い事は、明々白々たる状態だ。

我々に求められるのは、理知的で思慮深くある事だ。

そして、洞察力を働かせた、俊敏で明敏な意思の疎通を成す事である。

そう、交流によって共感し、英明な解答を導き出した先に、円満な団欒が訪れる。

現状は、何もかもが、多大に不足している。

当方は、人としての良き良心とは何かを明晰に示し、品行方正な倫理・道徳・常識・正義の真髄を提供し、
大衆がそれらを最高の剣として・最高の盾として、屈託のない誓いを胸に、振り翳せる時代の創造を画策している。

そこでは、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事が証明され、
冷静な判断による聡明な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断が自然と促される。

何より、経済の仕組みが変更される事により、生活の基盤が安定し、人生がより良き激動で満たされるのだ。

これらは、固定観念を打ち破る、斬新な発想によって示される方向性により、
財源や実現性を疑問視する声を一蹴し、着実に実現する事が可能である。

既存の政治家は勿論、官僚の多くに、より良き明日を引き寄せる事は、不可能と言っても過言ではない。

連中は、特別な事を実施せず、当たり前の事・間違った事で、頭打ちとなっている。

それでは、潮流は変えられない。

我々が、特別な事・当たり前の事に従事していれば、
東日本大震災の被害者は減少し、福島第一原発が破局に到る事はなかった。

私は、人々をより良き道へ誘う、『小さな道標』となりたい。

小さくて壊れそうではあるが、いつまでもしゃんとし、行くべき道を指し示す、『小さな道標』になりたいのだ。

その、『小さな道標』が指し示す先に、人々が恒久の平和と、華やかな激動で満たされる、摩天楼が築かれる事を切に願う。

人類には、優しい日々に包まれて欲しい。

人道と道義的判断を誤らなければ、宇宙へと聳える摩天楼の頂で、無数の星々にすら愛されるだろう。

自分は、そう信じている。




少し気になる事がある・・・。

生存と死亡・高騰と暴落・発展と衰退のように、陽と陰が対となるのが、この世界の哲理である。

人が楽しんで生活をすると、いつの間にかゴミが出る事は勿論、
一つの試合で勝者と敗者が発生する事が、例として挙げられる。

そして、陽と陰の各々に、表裏一体となる存在が、実存するのが原理となる。

例えば、犯罪を犯して自首をする者・犯罪を犯してさらに罪を重ねる者のように、
陰の延長線上で、陽と陰に分岐するのは当然とし、その先でも分岐する事がある。

私が言いたいのは、人類がアマチュアレベルの戦争を、人類と繰り返したその果てに、
何らかの存在との、プロレベルの大戦争を、強いられるのではと、感じてしまうのだ。

それは、人類と対極となる存在との、生き残りをかけた、万物震撼の超戦争である。

中学生の頃より、それを彷彿とさせる夢を見るようになり、それを紙切れに綴って来た。

私は、摩天楼という枠組の活動で、それに近いものを具現化する。

商用コンテンツの形成を前提とし、営利的な活動を根幹としての具現化となるが、夢の断片で形成された、
企画資料に関しては、デザインが揃った段階で、全体に公開するので、参照して頂けると幸いである。

それに対し、一人でも多くの人々と、意見を交わしたいと願っている。

夢に依存せずに形成した企画資料も、専用のコーナーを設け公開する所存だ。