2011年09月18日 05:52 現状への見解と、私の想い・・・。(改良版)


確率と照合してしまえば、現状は論理的な必然にすぎない。

災害も事故も混迷も、予測された範疇で織りなされている。

厳密に言えば、至極当然の末路を辿り、無様で惨憺たる状態だ。

東日本大震災の発生を、予てより察知しつつも、想定される最大予測を切り捨て、
作為的に想定する事とした、その都合の良き予測にすら、十分な対策はされなかった。

あまつさえ、内部・外部からの指摘を無視し、
欠陥満載の福島第一原発は、人道的な核兵器となり、
地震と呼ばれる起爆装置によって、最悪の末路を辿ったのだ。

何より、己を磨く義務を失念した連中が、絶大なチャンスを見過ごし、
不埒な自分本位の暴走を続け、問題の深刻化を、無限に加速させている。

そう、どうなるかを予見していても、愚図な体質により、未然の予防が放棄され、
問題が発生してしまえば、悪循環の袋小路に弄ばれ、災厄が助長される不始末だ。

これは、以下の日記にも記載している。

☆ 現状は、特殊な状況ではない。私が求める、思想と主義・・・。(改良版)

各々が明確に予測された時期は、乱離拡散しているが、
東日本大震災と福島第一原発の人身事故には、
十二分となる猶予が用意されていた。

そもそも、陰極である世界で、無数のスタンスが混在し、紆余曲折を続けながら、
上昇・滞留・下降を繰り返した場合、どのような末路を描くかは、容易く予測が可能だ。

要は、有限的な観念に縛られた世界で、多様な宗教・文化・思想・主義・主張・国家・人種が入り乱れ、
概念と発想を歪めながら継承し、成長・停滞・衰退を繰り返せば、莫大な不具合が蓄積され、
数多の問題が発生し、社会と人間が劣化を続けた揚句に、生物が絶滅してしまう。

これに関し、類似した内容を、以下に編纂している。

☆ 日本政府は、最大限に取り組むべき事を、未熟な策謀を優先するため放棄した。(改良版)

現状への見解だが、情勢を見続けてきた者達からすれば、混迷は変哲もない事であり、
まして災害や事故に対し、不十分な対応しか出来ぬのは、当たり前の事である。

問題は、それが限界である事だ。




陰極の表裏一体の世界では、正極・負極のどちらを実施しようとも、双方が不具合の元凶となる。

例えば、誰かが実施する、正極・負極の行動に対し、妬みや僻みを走らせてしまう。

また、自分の行動を、崇高かつ正当と思い込み、多大な失態を演じてしまう。

さらに、他者の行動を、低俗かつ不当と思い込み、多大な失態を演じてしまう。

あまつさえ、自分の行動を、低俗かつ不要と思い込み、多大な成功を逃してしまい、
他者の行動を、崇高かつ必要と思い込み、多大な失敗に飲み込まれる場合があるのだ。

そう、正極・負極を判断するのは、各々の価値観であり、それが正しい道理はない。

そのため、どのような行動に対し、妬みや僻みを走らせるかは、個々人の物差しに依存する。

要は、形成された社会性によって、正極・負極が曖昧に定まり、そこで培われた人間性が、その正否を判断する。

そもそも、それは多元的で流動的だ。

その、多種・多様が繚乱する、漠然とした状況では、全ては紙一重であり、常に不具合が隣合わせとなる。

そして、目的が大きくなるほど、不具合は大きくなるのだ。

それでは、いつまでも混濁を彷徨い、永遠に黎明を迎えられず消えてしまう。

その状況を打破するため、特定の方向性に基づく、新たな主義や思想を形成し、多くの存在が活動を実施した。

ある者は、円滑な支配のため、それを形成・採用・改訂した。

ある者は、支配から解放されるため、それを形成・採用・改訂した。

ある者は、人々をより良き道へ導くため、それを形成・採用・改訂した。

具体的には、特定の方向性に準じた、主義や思想を根幹とする、フィクション・ノンフィクションの物語を形成し、
好ましい設定・解釈・講釈を添加し、それを人々に学習させる事で、曖昧・愚昧からの脱却を試みたのだ。

だが、それらは幕開けから、陰極の一部にすぎなかった。

宗教は、偏見者を大量に世に送り出し、大乱立により幾度も衝突し、死屍累々の状況を形成して来た。

そうなったのは、人類が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在となる事を、あらゆるスケールで望んだからだ。

そう望むのは、動物としての本能が、思考の水面下で働いた結果だ。




例え、宗教が一つであり、それによる主義や思想が定着しようとも、他の枠組との摩擦により、軋轢が絶える事はない。

超絶絶頂において、救世主の出現と神の国の到来を信じ、他力本願となれば、ただそれだけで終わってしまう。

故に、融和と協調の精神を育み、より良き未来を切り開く必要がある。

そうだ、己達が救済者となり、妙々たる世界を、築かねばならぬのだ。

そうなると、神の価値は消失し、信仰する意味が消滅する。

信仰者は、救世主と楽園と救済を求め、執拗に神に縋るが、それが絶無となり、
何もかも自力となれば、何も齎さない神への信仰は、完全に無意味となる。

究極極大において、信仰者は救世主となり、神の国を築く力はない。

だから、神に縋るのだ。

もとより、信仰者は不完全を恐れ、完全な存在を目指そうとするが、
大概の宗教は人生を棒に振る事で、それを実現しようとしている。

所詮、悟りの境地なんぞ、業を負わぬための、猪口才なシカトにすぎない。

それでは、潮流は変えられぬ。

臨界突破において、あらゆる枠組が、同じ事を繰り広げ、連綿と繰り返している。

確かに、規模の大小は当然とし、方向性に違いはあるが、同じ回転木馬で揺られているのだ。

その、正善を邪悪と批難する世界で、方向性や価値観を共有すれば、破滅に向かってまっしぐらだ。

そうなれば、誰も間違いに気づかず、指摘する存在も望めず、最短ルートで滅びを迎える事となる。

何より、指摘をする者が出現すれば、それを捻じ伏せる事に躍起となり、
それが集団となって出現すれば、どちらかが間違いを認めるか、滅びるまで争いが続くのだ。

現状は、無数の対立が拮抗する事で、仮初の平和が続いている。

人類は、陰極を陽極へと更生する事により、完全を追求したつもりが、より不完全となる末路を齎し、
利便性を追求したつもりが、より不便となる末路を齎す、因果の原理を克服する必要がある。

さもなければ、財源や根拠を掲げようと、それが何かを成せる証明とは、決して成り得ぬ世界で、
いつまでも財源や根拠を求め、時間を無駄に食い潰し、あの世に突進するだけで、終焉を迎えてしまう。

対象によっては、その本質を理解しつつも、財源や根拠の不足を理由に、時間稼ぎを実施する。

それは、適宜ではない。




私は、中学生の頃より、自身の夢境に対し、推察と考察を基盤とする、物語の形成を開始した。

それに、既存の枠組に帰属する、主流となる概念・発想を融合し、
独自の主義と思想が導き出した、新たな概念・発想を加え、洗練を続けている。

それは、包括的な是正を実現する、材料の一つを獲得するため、
己の不足を埋めるための、目的・目標を明確化するために実施した。

そして、それを現実に展開するため、制作・製作・政策における、知識・能力の獲得に努めた。

だが、まだまだ可愛らしい、小さな鼠ちゃんである。

それでも、極性の陽極化を確実に実現する方法を、可もなく不可もない次元で策定している。

その無難な手段こそが、陰極の表裏一体である、全てが紙一重となる世界から、決別を可能とする方策なのだ。

それにより、初めて人を裁き、贖罪を果たさせる事が可能となり、
全ての人類が、人として人らしく、生き抜く事が結実となる。

何より、屈託を限界まで打ち払い、理不尽な涙を極限まで相殺するのだ。

現状までは、放置と幇助と助長が繰り返され、表面上の誤魔化しだけで済まされてきた。

それはもう、終わりにしなければならない。

注意すべきは、陰極の世界で『未然の解決』を、作為的に実施すると掲げれば、陰極の極大化を進展させる破目となる。

要は、根拠が最初から成り立たぬ、見せかけにしかならぬ内容を、あたかも絶大な根拠があり、
素晴らしい事かのように実施すれば、新たな不具合が蓄積され、発生する問題に振り回されるのだ。

これは、人類が今まで、幾度も繰り返した事である。

そもそも、方法を過誤しているため、沈没の速度が速くなる一方だ。

結局、正極・負極のどちらの目論見を実施しようとも、上澄みが少し変わる程度で、中身は腐れ果てる一方だ。

そのため、陰極の表裏一体の世界でも、陽極の表裏一体の世界と同様に、
政策の実施が可能となる、新たな枠組と仕組を用意する必要がある。

私は、無数に出現するであろう、是正を促す存在の一つとして、それを提供する所存だ。

時空超越において、たった一つの存在が、極性の変更を実現する事で、
全てが茶番となる、忘却の日々とは、永遠にオサラバだ。