2011年07月04日 18:32 危険論者と安全論者を見つめ、その先で思う事・・・。(改良版)


安全論者・危険論者の双方が、それを主張する上で必須となる、確定的なデータを保有していない。

そう、机上の空論と大差ない情報を振り回し、騒いでいるにすぎぬのだ。

だから、いつまでも意見が二分する・・・。

要は、安全論を展開する上で指針とするデータ、危険論を展開する上で指針とするデータ、どちらも確実性が非常に乏しい。

そもそも、双方が信憑性を極限まで、自身の不足により暴落させている。

互いを、説得する事が皆無で、己の是正すら絶無な連中が、
他者によるデータを見せびらかし、責任を曖昧とし、見解だけを垂れ流す。

それでは、誰も救えない。

人々は、自分の都合に合わせ、たなびくのが関の山だ。

結果、多くの大衆が、迷走させられる破目となった・・・。

まあ、全体に対する、確定的なデータが、絶対に存在せぬのが、放射線による影響の恐ろしさだ。




現状は、専門家すら理解が可能な次元まで、リダクションする事が不可能となる、非常に複雑な状況である。

簡単に表せば、莫大な原因と要因が実在し、それが複雑に絡み合っているため、
特定の分野に精通しているだけのずぶの素人では、何の役にも立たぬ状態なのだ。

究極極大において、その状況下で安全・安心を訴えるのは、狂気の沙汰である。

連中を、極悪頂点の外道と感じるのは、己の超絶絶頂の不足を明確化せず、
前提条件を極限まで限定し、原因と要因を極小化してまで、安全・安心と誇張するからだ。

即ち、レギュラー・イレギュラーを、考慮するのは当然の事だが、
レギュラーすら極限まで限定し、イレギュラーを一切考慮していないのだ。

本来であれば、想定不能のイレギュラーに関しては、想定可能な専門家から意見を頂戴し、
己によるデータを加味し、全ての責任を己の枷とし、必要とされる見解を述べる必要がある。

要は、絶対に間違いを犯さぬ覚悟で、正しい情報を伝える努力を惜しまず、大衆に打開の道を示さねばならない。

原発の一連で、前提となる条件を極限まで制限し、安全・安心を垂れ流すのは、
その安全・安心が間違いだった場合における、アリバイとするためだ。

あまつさえ、己の中で形成した、様々な設定と組み合わせる事で、より強固となるよう調整している。




連中は、最悪の状況に到った場合、以下のような詭弁を垂れ流す。

『セシウム以外は想定外だ。』

『放射線以外を考慮する事は想定外だ。』

『当時の放射線に関する学問に、様々な誤認があったのは想定外だ。』

『福島第一原発から放出された、放射線以外を考慮する事は想定外だ。』

『日本政府や東京電力による、当時の放出量を参考にしていたため、健康被害が発生したのは想定外だ。』

『一日の摂取量を、Xベクレルに制限する事を、私の中で前提とし、話をしていた。』

『私の中では、そのような認識が限界であり、このような事態になるとは考えていなかった。』

連中の不足で、必然的に上記と類似した言葉を、並べる可能性もあるが、それは作為的な連中より、遥かに性質が悪い・・・。

なんせ、無知・無智・無恥である事は勿論、理性・知性・品性もスッカラカンな状態で、専門家の気分を味わいながら、
醜悪な第三者は当然とし、己の建前・自己都合・利己主義にぶら下がり、大罪を犯したのだからな。




私が言いたいのは、作為的であれば、後悔の念を抱く余地はあるが、
そうでない場合は、最後まで怪物のままと言う事である。

そう、既存のマニュアルに従い、『極小化した条件』の『極大化』に従事した者であれば、
当時のガイダンスに基づき、多大な間違いを犯していたと、証明された揚句に理解する。

さすれば、後悔の念を、抱く事もあるだろう。

そうでない場合は、余りにも人間として・専門家として未熟であり、人としての良心すら望めず、
正当な倫理・道徳・常識・正義からは程遠く、冷静な考察による、聡明な行動すら皆無で、
一生懸命な考察による、賢明な決断に至っては、ほぼ絶無な人材である事は確実だ。

それは、近年の政治家と、遜色が無い存在だ。

連中は、悔改める事も無く、同じ間違いを繰り返し続ける。

理由は簡単だ、決定した事に対応する能力が無いため、何もかも失敗に終わるが、
そもそも決定する能力すら無かった事を理由に、責任を押し付けあって、ひたすら逃げ続ける。

あまつさえ、自分は間違っていなかったと連呼を続け、間違っていたと認めても、
間違った原因と要因を他者に押しつけ、己の正当化に明け暮れるのだ。

そして、同じ失態を、何度でも繰り返す。

より良き日本を目指し、集まった者達で構成される国会すら、大衆の首を絞めるのが精一杯の状況だ。

ならば、原発推進のため、集められた連中は・・・。




完成された、高度な原子力の推進を、志す者達からすれば、
未完成のスクラップに対し、安全・安心を訴える者は、稀代の大馬鹿にしか見えぬ。

何のため、既存の技術すら、まだ研究が実施されているのか?

それが、理解可能な者なら、安全性を論じる事はないだろう。

そもそも、現状の原発推進に手を貸した時点で、高度な原子力の推進からは、脱落した不要な人材なのだ。

真の原子力推進者は、未来を担うための研究に邁進している。

現在の原子力発電所は、作為的・必然的な仕様により、未来を破壊する公算が高すぎる。

現に、それは大きく欠損した。

確かに、どのような存在にも、リスクが存在するのは哲理である。

だが、既存の原子力発電所は、それがズバ抜けて高いのだ。

それを誤魔化すため、原子力に安全神話を、火力には危険神話が形成された。

要は、原子力には安全を捏造し、火力には危険を捏造したのだ。

現状の、反応方式による原子力発電所は、電気を獲得するために、そこそこ優れた存在ではある。

ただし、原子炉の設計思想を根本から見直し、原子力発電所の設計を大幅に改善し、
選りすぐりのエキスパートの集団が、軍隊のように構築・運営・管理するのは当然とし、
使用済み核燃料を半永久的に、保守可能な環境があれば、一時しのぎに悪くない程度である。

日本が、この条件を満たす見通しは、時点では微塵も存在しない。
その遥か手前で、盛大に転んでおり、立ち上がる気配すらない。

だから、こうなった・・・。

改善が、多角的に実施出来ぬのであれば、原子力発電所の質を上げても、それは何度でも破局を迎える。




原子力発電所の導入に、大衆の大洗脳が必要だった過去を捉えると、日本には利口な人材が、多かったのだろう。

地震大国であり、国土が極めて乏しい国家に、適宜な存在ではない事を、
ある程度の見識がある者と、理解を深めた人々が気づいたのだ。

そう、公にされている情報より、原子力発電所に反対した者は多かった。

どこまでも、拒絶を続けた者が、大勢いたのだ。

我々は、感じる必要がある。

我々を救うため、徹底的に立ち向かい、無残な死体にされた者達の信念を・・・。

当時の政府は、建設に邪魔となる存在を、テキパキと処分した。

原子力発電所の土台にされた者がいると、当時の関係者(加害者側)が、私と友人・知人に対し語っている。




話を戻すが、安全論者・危険論者の、双方で一致するのは、100mSv以上は危険という見解だ。

安全論者は、それ以下の被曝に対し、事実や真実から目を背け、補償が無い安全を提唱する。

危険論者はそれに対し、事実や真実に目を向け、補償が無い危険を提唱する。

しかし、安全論者の意見に何処かで耳を貸し、そうなのだと思いこみ、壁にぶつかっている者がいる。

だが、以下のような考察で、完全に無視をしている場合もあるだろう。

☆ 放射線は、本当に安全なのか?

大概の場合、双方は己の限界は勿論、建前・自己都合・利己主義に取り憑かれ、
総合的・包括的な見地から、それを突きつめようとはしない。

要は、それ以上の事が出来ぬから、何時まで経っても、赤ちゃんのままなのだ。

だったら、各々で総合的な要因・包括的な原因を見つめ、健康管理に努めた方が、銀河掌握においてマシである。

私が、安全論者・危険論者を不憫に思うのは、二極化する状況を見つめ、真摯な眼差しで、正当な答えを出せぬ事だ。

己の間違えを認めぬ者に、真の発展はない。

連中や政治家は、その典型である。




個人の次元で、原発推進を希望する者は、以下の内容を見つめ、
大衆と己や家族や友人が、その犠牲とされぬ道を、切り開く必要がある。

☆ 原発は、本当に安全なのか?

☆ 放射線は、本当に安全なのか?

☆ 人としての良き良心と、倫理・道徳・常識ある政治を望みますが絶無ですね。(改良版)

☆ 全てが露呈すれば、日本政府・東京電力の関係者が、大衆に殺害されても不自然ではない。

☆ 安全な寿司を食したい。放射性物質は、隠し味にはならぬ。(改良版)

☆ 偉大なる合衆国が、日本政府に告げた通り、国土の60%~70%が、避難すべき範囲だ。

☆ その発展の裏側で・・・。(改良版)

☆ 変えられない未来は、存在しない。

そして、脱原発を目指す者は、ここまでの日記を見つめ、ジンテーゼを軸とした、打開の道を切り開く必要がある。

既存の団体は、目的が限定される事で、存在がアンチテーゼと認識され、潮流を変えられる成果を、獲得出来ぬままである。

実体と実態がある、統合された是正の活動を実施すれば、夢と希望に満ちた世界を、引き寄せる事が可能だ。




子々孫々に、尊敬される祖先となりたいものだ・・・。

何より、大切な家族・友人を守りたい。

人類と呼ばれる家族・友人を、より良き道へと導きたいのだ。

人道は、道義的な知性・理性によって、紡がれる必要がある。

それに重要なのは、誠意である。

それを、万人が抱ける世界にしたい。

それは、全てのために。