2011年06月12日 00:14

全てが露呈すれば、日本政府・東京電力の関係者が、
大衆に殺害されても不自然ではない。


原子力に限定したとて、日本政府・電力会社にとって、不都合な事実が粗方露呈すれば、
その関係者が危険に晒されるのは必至である。

まして、主要な発電方式における、不都合な事実ともなれば、殺意は当然のように湧き上がる。

あまつさえ、全てが露呈すれば、日本政府・電力会社の関係者が、大衆に殺害されても不自然ではない。

我々は、そのような日々が到来せぬよう、到来しようとも渦中に引きづり込まれぬよう、把握し見極める事で立ち向かおう。




友人である、東京電力の社員に実情を尋ねると、笑いながら『もう、駄目に決まってんじゃん。』と返された。

理由だが、現状の技術では、抜本的な解決の手段が無く、状況に委ねるしかないためだ。

その友人に、『国民が本当に、どうしようもない馬鹿で助かった。でも、まっさんは別だよ。』と、
類似した脈絡の言葉を、七回程度言われた。

だが、国民は馬鹿ではない、ただ騙されているだけにすぎぬ。

それは、知らないためである。

結果、連中が知略的にバラ撒いた、不浄な情報に取り憑かれた人々は、以下の反応を強要される。

『原発が無くなったら、電気はどうすんの?』

『反対する奴は、電気を使うなよ!』

『自然エネルギーは、コストが高いから無理だ!』

そう、狭すぎる見識へと追いやられ、感情に振り回される、怪物へと貶められるのだ。




それにしても、東京電力が莫大な金銭を投入し、作為的・必然的に形成してきた、非道で醜悪なシステムは絶大だ。

それに骨抜きにされた、専門家の方々は非常に従順で、人間の極大の愚かさを、まざまざと見せつけてくれる。

人としての良心は勿論、品行方正な倫理・道徳・常識を、極限まで放棄されている。

何より、金銭に忠実な個人・団体は、己や周囲の保身すら忘れ、その醜態は留まる所を知らぬ。

また、恩師である政治家の先生に到っては、国民が被曝し死する事は、義務と仰られる・・・。

さらに、恩師の側近から、α線・β線・γ線により、東京にいた者達すら、破廉恥な内部被曝をしたと頂戴した。

要は、不適切に設定・設置された、γ線主体のモニタリングポストと、前提を極限まで限定した、
安全・安心を流布した事により、軽微と見せかけているが、実際は甚大との事である。

そのため、ある程度の健全性を保ち、東京に滞在可能な期間に、制限があるそうだ。

補足すると、その地域への居住は、何年以内が推奨とされ、当時の時点では、
憂慮すべき状況ではなかったとの、妙な言い訳も用意されている。




恩師に対し、以下の内容をぶつけたかったが、当方の思惑もあり、差し控える事とした。

誰しも、人として生きて、生き抜くために生まれて来た。

大衆の尊厳と、人としての権利を奪う事が、政治家の仕事なのか?

本物の政治家は、何処にいる?




さて、国際機関の評価により、福島第一原発は、チェルノブイリ越えが確実だ。

そのリスクレベルは、余りにも絶大であり、無視・放置しか、日本に可能な術がない。

おまけに、過去に策定した失策により、国民に我慢の強要を続ける不始末だ。

そのため、汚染は広がり続け、繰り返される・・・。

事故の初期段階では、自己催眠に陥った専門家により、マニュアル通りの安全論が展開された。

続いて、前提となる要因・原因を、極限まで限定する事で捏造された、安全・安心が流布された。

あまつさえ、厳密な設定を己の中で設け、問題が発生しても言い逃れる、
強固なアリバイを形成し、不実を実行していたのだ。




先に、無視・放置しか、日本に可能な術がないと記載したが、
あくまで原子炉とその周辺に限定した、アプローチに関してである。

そう、福島第一原発の近隣住民は確実とし、全日本国民に対し、日本政府が実施出来る事は、いくらでもあった。

たった一人の政治家が、潮流を変える事すら可能だったのだ。

だが、連中は自己都合を優先し、我々を見捨てその犠牲とした。

以下に、関連した文章を編纂している。

友の言葉と眺望を見つめ・・・。(改良版)

ここまでの内容は、多くが察している事であり、十二分に周知されようとも、懸念すべき状況は、滅多に引き起こされん。

しかし、キッカケが発生すれば、状況は瞬く間に変わってしまう。

要は、現状の曖昧な情報を整理すれば、その使い方次第は勿論、
誰かが連中に斬りかかるだけで、破滅への扉を開く事が可能なのだ。

特に、責任を取らせる対象を、集約させる流れを形成すれば、様々な弊害を緩和し、開け広げる事が可能となる。

例えば、その頂点において、監督責任を怠ってきた、歴代の日本政府の全てに責任があり、
平等に制裁を加える風潮を徹底すれば、細かい感情を差し挟む事を相殺し、大衆を狂気で振り回す事が可能なのだ。

そうでなくとも、特別な存在になりたいと欲する個人を、その精神に漬け込む事により、キッカケにする事は容易い。




我々は、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の至高の存在である。

そのため、それを認める事を拒絶し、そこから自ら脱落した者達の、不幸な道具にされてはならぬのだ。

そう、他者の欲望を満たすための、不憫な玩具には決してなるな。

そうはならぬため、可能な限り己を磨き、見極める必要がある。

その先で導き出される、真摯な理想のため、邁進してこそ人なのだ。

何より、他人の犠牲が必要となる欲望には、因果応報の報いが降り注ぐ。

過去を見つめれば、それは哲理である。

超絶絶頂・究極極大・臨界突破・銀河超越において、
他者を犠牲に何かを果たすのは、とんでもないクソガキがする事だ。

目前に、他者を傷つけてまで、何かを成そうとする者がいれば、そいつはただのクソガキだ。

クソガキのオネダリに付き合わされ、荒唐無稽を演じてはならぬ。

そんな連中に人生を阻害され、己が摩天楼へと到る道を、断たれてはならぬのだ。

道義的判断を誤らず、人道を制覇した剣先に、到るべき世界がある。

我々は、人と呼ばれる奥義を極め、その世界を家族と友人は勿論、あまねく生命と共に謳歌しよう。




人間が抱く、夢も理想も希望も絶望も欲望も破滅も、現実となる時が来る。

だからこそ、人として良き良心を育み、それを根底とした倫理・道徳・正義・常識を鍛錬し、冷静な判断による、
聡明な行動を心がけ、一生懸命な考察により、賢明な決断を導き出し、より良き結果を手繰り寄せる必要がある。

そして、理不尽により流される涙を、極限まで淘汰するのだ。

今日に至るまで、本質・実質・事実・真実・現実に基づき、それが可能な是正者は絶無であった。

私も、それには程遠い人材だ。

それでも、是正に望む所存である。

望んで臨む事で、全ては刻まれるのだ。