2011年05月24日 20:28 友の言葉と眺望を見つめ・・・。(改良版)


友『現実逃避は、比較的に知能が低い、無能な人間がする事だ。そもそも、都合の悪い社会問題から、目を背けていいのは中学生までだ。』

私『人は誰しも完璧ではない。そのため、誰かが先頭に立ち、より良き道を切り開く必要がある。結局、誰かが見本を示さねば、大衆は迷い子となるだけだ。その迷走を、打開案を示せぬ者が、責めてはならない。』

こんな感じのやり取りをした、高校時代が懐かしい・・・。




大衆は、メルトダウンの可能性を示唆されても、確実性が不足となる情報では、咄嗟に避難する事は困難だ。

そもそも、メルトダウンの定義が不分明であり、その危険性すら判然とせぬ状態である。

避難を遂げるのは、独自の危機管理を確立する者か、生活に余裕がある者だけだ。

大半の国民は、日本政府の指示を待ち、怯えているのが限界なのだ。

それは、決して何もせぬ事ではない。

まして、誰かに批難される行為ではない。

そう、日本政府の対応は勿論、様々な制約に束縛され、出来ないのが実情である。

悲しいかな、それが現実だ・・・。




だからこそ、日本政府は品行方正な決断を、誠心誠意で実現する必要があった。

だが、連中は本当の意味での、指示待ち人間の寄せ集めだった。

そもそも、選挙と呼ばれるゴミ拾いで、大衆が妥協して拾い上げた、ゴミの寄せ集めにすぎない。

それは、現状を見つめれば、確固たる周知の事実である。

結果、何が正当であるか、誰一人として理解しておらず、安易に導き出される、
都合主義が齎す流れに己が身を委ね、大失態を連鎖させた・・・。

己の未熟により、『政治家』・『国会』が正道を拒絶し、現状でも邪道を進み、過ちを繰り返している。

これは、適宜ではない・・・。




連中は、国民のパニックを恐れ、事実を伏せたと垂れ流した。

実際は、己達の無能が露呈するのを恐れ、隠匿していたにすぎぬのだ。

何より、福島第一原発の人身事故で、大衆が危惧すべき次元で、パニックに陥る事はない。

破局の事実を語られても、何をすべきか提案をされなければ、大衆は茫然と事態を見つめるしかないのだ。

その証拠に、多くの情報が開示された現時点においても、
大衆の意識に多少の変化はあるが、目に見える行動の変化は非常に乏しい。

極大において、現段階で認めている破局の内容を、把握が出来た時点において、
日本政府・東京電力に可能性として示されようと、不安感が強調される程度に留意する。

誠実であれば、不実な都合主義を優先せず、愚図な流れに身を任せるのではなく、
取得出来た確実性が高い情報を人々に伝え、被曝への注意を呼びかけただろう。

実際は、連中が獲得していた情報に対し、成された対応は非常に甘い内容だった。

結果、多くの人々が被曝した・・・。

あまつさえ、自己擁護への邁進は勿論、被曝を大推奨したのは不始末である。




我々が、認識すべきは、日本政府・東京電力・大手報道が、大罪を犯していた事だ。

そう、大衆の生命・健康を度外視し、醜悪な都合で寄りそっていた。

当然の事だが、連中が大衆のパニックを、防いだ事実は存在しない。

勿論、日本を救った事実も存在しない。

そもそも、それ程の能力を有する者が、あの中には一人として存在しない。

それは、真実・事実・現実・本質・実質を見極めれば、明らかな事である。




結局、地震による『物資不足』『風評被害』を叫び、時には『過剰入荷』と大衆を惑わせ、
放射線による『風評被害』を強調し、我々をパニックへと陥れただけだった。

絶大において、安全・安心が成り立たぬ存在に、時には何も知らずに、
時には前提となる条件を極限まで限定し、安全・安心のオンパレードを流布し続けた。

要は、被曝を勧奨する総意をバラ撒き、大衆に『生産・消費・被曝』させる事に、全身全霊を注いだのである。

そして、我々を引き返せぬ状態にまで貶め、何食わぬ顔でさらなる深みへと、埋没させようとしている。

これらが内包する莫大な矛盾が、大衆の精神を蝕み、各々の進むべき道を見失わせ、
心の中の善・悪の天秤を、極限まで歪めてしまった。

そう、人としての良心は当然とし、倫理・道徳・常識は勿論、冷静な判断による、
聡明な行動に反する行為を、連中が大々的に展開したため、我々は迷路で迷子になっている。

超絶おいて、懸命な考察による、賢明な決断を放棄し、責任を曖昧にしたまま、連中は逃走を続けている。

そもそも、責任を転嫁する気持はアリアリでも、取る気は毛頭ないのだ。

その、責任の押し付け合いは、非常に滑稽である。

それによって、社会の規律はより乱れ、大衆の一部はそれに感化され、多大な間違いに引き寄せられている。

究極に注意すべきは、責任を曖昧にし逃げ回るのは勿論、とる気すらなく転嫁する風潮が、
大衆から危機感・緊張感を奪い、ミス・トラブルを連発させる、環境を形成しつつある事だ。




日本政府・東京電力が、不適材・不適所の集団であり、ノーミス・ノートラブルからかけ離れた行為を、
実施し続けた事実を誤魔化そうとする醜態は、社会に巨大な副作用を発生させる。

因果応報が哲理である世界では、それが恐ろしい末路の引き金となるのだ。

我々は、己を見失わぬため、道を踏み外さぬために、連中を厳しく見つめる必要がある。

臨界において、失敗を繰り返させぬため、時には優しく諭し、時には厳しく矯正しなければならない。

さもなければ、連中の下らぬ自己満足に付き合わされる事は勿論、
その軽率により明日にでも、全てを奪われかねないからだ。

臨界突破に重要なのは、連中を守るためにも、厳格な姿勢で向き会う事である。

そうしなければ、現状に業を煮やした者達が、連中の家族や友人ですら、
将来において殺戮してしまうかもしれない。

それを予防するには、我々が連中の失態に対し、常に厳格である事が求められる。

本来の民主主義であれば、それは不要な事であるが、見せかけだけの現状では、それが必要なのだ。

何より、流血を伴う闘争へと発展すれば、我々が直接的・間接的に、被害を被るのは必定だ。

それに、後味の悪い記憶に、苛まれる破目となる。

そのような無様は、海外だけで十二分なのだ。

我々に必要なのは、正しい方向性の提案だ。

先となるが、その方向性を多数、私が提案する所存である。




あらゆる世帯において、買い込みに限度がある。

無限に入る倉庫もなければ、家計にも上限がある。

そして、給油には限界があり、満タンを超える事はない。

無限に給油が必要・可能である、自動車は存在しない。

要は、『風評被害』と大衆を罵らずとも、僅かな時の経過により、収束する問題だった。

それなのに、合理性・建設性・先進性を欠損した、危機感を煽る報道が展開され、大衆は浪費を強要された。

何より、放射線に関する『風評被害』は、矛盾に満ちた用法であり、
邪道を正道と見せかけた報道手腕が、我々の人生すら狂わせた。

それは、人々の封じ込めを主体とする、醜悪な思惑が根底にあるからだ。

易々と、脱出出来ぬ監獄へと大衆を誘い、その打開力を極限まで収奪した。

それにより、『開示予定の情報』に対し、立ち向かう気力を損なわせたのだ。

そう、反発力を抑え込む事で、日本政府・東京電力が過失を責められ、パニックとなる事を相殺したのである。




原子力発電所は、珠玉の重犯罪によって、我々に齎された。

何より、大半が時代が生み出した愚作にすぎない。

それを、弄りまわされ、全てが露呈せぬようにと、大衆を地獄へ引きづり込むのは、連中にとっての良策である。

現状では、複数の利害が、日本政府・東京電力で成立している。

東京電力は、その存在の保証と、賠償責任に有限性を授かる事で、多大な責任を被る事を承諾した。

日本政府は、東京電力に粗方の責任を押し付ける事で、多大な譲歩を東京電力に了承した。

とどのつまり、日本政府・東京電力・大手報道による、一連の不誠実な対応は、
連中のアリバイの構築は当然とし、体勢を整えるための準備でしかない。

それは、許されざる、愚者の愚行だ。

以下を参照しても、連中の罪は明々白々である。

☆ 完全な人災だ。想像を超えたのは、東京電力の危機管理能力の低さである。(改良版)

☆ 私が危惧している事と、私の願い・・・。(改良版)

しかし、忘れてはならぬ事がある。

それは、連中の全てが、ゴミクズでは無い事だ。




現状では、打つ手がなき事を誤魔化すため、過去の情報を捏造により討論し、
破局的な情報を出現させては曖昧とし、大衆を欺く事に躍起になっている。

我々は、それに弄ばれぬため、真実・事実・現実・本質・実質を見極める必要がある。

思えば、友人の考察は、間違ったモノではなかった。

大衆が、厳格に連中を見つめていれば、現状には到底において至らなかっただろう。

だが、潮流を変えられぬ、つまらぬ茶番を連中が演じ続けた以上、大衆がそっぽを向いてしまうのは当然だ。

そもそも、現状のような末路を描かぬために、人生・生命をかけるのが政治家だ。

それなのに、本質的茶番を繰り返す事に始終している。




様々な思想の元で、人としての良き良心、倫理・道徳・常識に基づき、
決断と実現が可能な人材で、構成されるのが国会である。

現状は、流れに身を委ねるばかりで、それには程遠い状態なのだ。

そんな連中が、世論に耐えきれず実施する脱原発は、手遅れとなって仕方なく実施される必然だ。

それでは、潮流は変わらない。

国際社会が、亡国での紛争に、手遅れになってから介入し、後始末をする破目になるのと同じなのだ。

助けを求める人々が、殺され尽くされた後では、その正義に意味はない。

傍観を続ければ、報いは人類全体にふりかかる。

それと違わぬのが、我々の置かれている状況だ。

実に、変えたい世の中である。