2011年07月01日 04:41 変えられない未来は、存在しない。


繰り広げられた、原発推進の裏側には、不快極まりない、生命の収奪劇が隠されている。

そう、不純な利己主義に群がる、害虫のような連中によって、血に塗られた歴史が、刻まれて来たのだ。

原発建設に抗うため、必死に抵抗してきた者達は、ありとあらゆる方法で、それを不可能とされた。

現状では、醜悪な面々の自己都合の玩具に、大衆が陥れられている。

とても、おぞましい状況だ。




テレビに登場した、滑稽な自称評論家は、原発を拒否せず受け入れた国民に、大きな責任があると言及した。

しかし、事実を知ってしまえば、その言及こそが愚の骨頂である。

そもそも、自爆装置が建設されていたとは、顧客たる大衆は、思いもせぬ事だ。

何より、生まれる前から、それがあった人々でさえ、烏合の衆と決めつけた言葉には、極大の怒りを覚えた。

超絶絶頂において、極端な水増しで、大金をせしめた連中が、大量の不都合を誤魔化し、不祥事を連綿と連ねた挙句に、
事故を発生させたからには、異常な擁護による正当化は、社会に歪みを発生させる、不具合の元凶となる。

それは、適宜ではない。




大衆に仕方ないと思わせる、認識を流布する事が、推進勢力がスポンサーとなる、大手報道の役割である。

そのため、発生する竹箆返しが、己に降り注ぐ事すら度外視し、何処までも堕ちて行くのだ。

道具と化した連中は、人としての良き良心は当然とし、品行方正な倫理・道徳・常識・正義を放棄し、
冷静は判断による、聡明な行動は勿論、一生懸命な考察による、賢明な決断が不可能な人材である。

我々は、そんな連中の巻き添えとなり、人生を棒に振ってはならない。




反原発の精神を掲げる知識人は、水面下で繰り返された殺戮を、非常に良く御存じである。

そのため、そに対する深い恐怖心があり、釈然としない手助けしか出来ぬそうだ。

モノは言うが、それ以上は前に進まず、何処か消極的な姿は、そこから来ているようだ。

反原発の知識人は、原発推進の立場をとる事が、莫大な犯罪の方場を、担ぐ事になるため、嫌だと考察されていた。

それは、当然の感覚だろう。

そう、原子力推進のため、多くの人々が殺害されたのは勿論、那由多の『超犯罪』が、それを支えて来た。

だが、これは他のエネルギー事業でも同様だろう。

しかし、原子力発電所に関しては、それが圧倒的に多いとされる。




知識人が、反原発を訴える理由が、その完成度の低さである事は間違いない。

旧式である、原子力発電所の完成度の低さは、必然的に齎されている。

新式である、原子力発電所の完成度の低さは、作為的に齎されている。

後者は、特定の理由により、限りある存在しか、日本には設計出来ない仕組みだからだそうだ。

私として気になるのは、反原発の知識人の中に、殺人や『超犯罪』を内包する、
原発推進に同調する大衆を、犯罪の共犯者と認識する御方がいる事だ。

私は、それに同調するのは絶無である。




例えば、茶碗を遥かに飛び出す御飯があった場合、普通の人は多いと感じるだろう。

私の場合は、茶碗がドンブリとなり、御飯が遥かに飛び出していても、それは最初の一杯目にすぎない・・・。

要は、行きつけの酒場で仲良くなった相手が、連続殺人犯だったのに、
それを知らなかったと言えど、何度も現場から送り迎えをしていれば共犯者である。

しかし、情状酌量の余地はある。

そして、その酒場で犯人と仲良くはなったが、間接的に犯行に関わらなければ、共犯者には到底なりえないのだ。




原発問題に関しては、日本政府・東京電力・大手報道の中枢が実行犯で、
それ以外の日本政府・東京電力・大手報道のスタッフが共犯者となる。

大衆に到っては、連中の自己都合と利己主義の被害者であっても、何も知らなかった関係者にしかすぎないのだ。

それでも、知らぬ事が罪と言う者は多い・・・。

ならば、教えぬ事も罪ではないかね?

そもそも、生まれた瞬間から、原子力発電所があった世代には、何も言えぬのが実情である。

何より、圧倒的な存在によって、大衆の認識が歪められて来た事実を把握すれば、知らぬ事が罪とは、呟く事すら出来ぬ。

そのため、多くの人々に真実を伝えるのが、多大な事実を知った者の責務である。




共犯者の枠組に関しては、自分も知らなかったのに、
そこに含まれるのは嫌と、感じられる方々もいらっしゃるだろう。

だが、その枠組を念頭に置いて、大衆に誠意を示さなければ、
様々な辛酸を味わう破目になリ易いので、このようにさせて頂いた。

結局、犠牲にされるのは、中枢から遠い者達である。

例えば、数年間しおらしくすれば、東京電力のスタッフに対する優遇に、大衆は寛容となる。

何より、それに努めるだけで、一連の対応に対する大衆の認識が、大きく変わっていた。

究極極大において、何らかの破局が発生した場合、共犯者に降り注ぐ災厄を、大幅に相殺する事が出来る。

私が言いたいのは、身内に譲歩する姿勢を示す事は、その責任すら分散する事であり、それを重ねると根深さが増大し、
再び有事が発生した場合、スタッフの家族と言うだけで、地獄を見せられる状況にすら、成り得ると言う事である。




一連において、政府が黒幕となり、東京電力がその手を、血で染めて来た。

そして、莫大な責任を、組織全体に分散し、誤魔化している状況だ。

その先で、再び破局が発生した場合、大衆はより手頃な存在を、憎しみを振り翳す対象に選択する。

本質を見極めずデモを行い、感情のまま動く勢力に、再び災厄が降り注いだ場合は勿論、
問題を対岸の火事とし、無関心でいる者が、新たな破局によって、巻き込まれる末路を辿った場合、
己に対する怒りを含め、全ての怒りや憎しみを、細かい状況を精査する事無く、格好の存在に叩きつけるのだ。

これと類似した流れが、世界各国は勿論、日本で繰り返されて来た。

それを把握する者達は、知っているからこそ、作為的にその流れを、形成する場合がある。

これに関しては、被害者を含めた、全ての関係者が、注意をしなければならない。




それにしても、日本政府による危険地帯への対応は、チェルノブイリより遥かに劣る。

事態は、それより深刻だと言うのに・・・。

それと、全体に対する対応は、過去の公害問題で犯した過ちと、同じ事の繰り返しとなっている。

それにより、日本政府が劣化はすれど、成長していない事が確信出来た。

現代に到っても、大艦巨砲主義の大日本帝国である。

再度、原子力発電所と呼ばれる、戦艦大和が沈んだのだ。

それを見つめ、多大な失敗を認めなければ、再び日本が沈むだろう。

日本が、『自由で先進的な北朝鮮』と、海外に揶揄されぬ事のない時代が、到来する事を切に願う。




私は、死を恐れないが、決して望みもしない。

だが、人としての尊厳や、自覚を奪われるような次元で、健康と生命を脅かされる事は、断じて許せぬ。

そして、何も知らぬ事を利用され、一方的にそれを実施されているのに、気づかぬ醜態は晒したくない。

何より、他者による醜悪な計略の被害者となる事を、私は極大に拒絶する。




行動的アプローチを、些少ではあるが実施した。

それでも、社会の潮流を、変えられてはいない。

しかし、数名の人生を変えてしまったのは確実だ。

それが、良き結果に結び付くのか、不安となる時がある。

結局、自己満足と言われれば、全てはそこまでだ。

それでも、偽善者と言われれば、その評価に安堵出来る。

私は、実施した事の成果が、ゼロではないと信じている。

多くの者がそれを信じ、変えられない現在ではなく、変わるであろう未来を見つめ、その闘争に邁進している。

それを信じ、当方は歩みを続ける。