2013年04月23日 22:15 零段


差別をなくしてしまえば、それが当然となる事により、区別される事すら無くなる。

要は、偏見や軋轢をなくせば、それとは対照的に存在する、格別性や特別性が消失する。

例えば、女性の社会進出が進行すれば、女性に許された特権や優遇が、男性に対する差別へと変化する。

それらは、公平と平等の名の下に、抑圧されて消えて行く。

条件たる公平と結果たる平等を、同等にする事を求めてしまえば、
公明正大になるだけではなく、持てはやされる事も無くなる。

それにより、女性は守るべき対象から、守られざる客体となる。

そうだ、女性である事の価値を失い、杜撰な社会の家畜から奴隷へと、淪落する事を余儀なくされる。

この空間では、権利の獲得により義務が発生し、義務の強制により権利が消滅する。

我々は、何かを得る代わりに、何かを失ってしまう。

それに関しては、以下に記載している。

☆ 階段の選択 中編

現状の延長において、夫婦による共働きが当たり前の状態になると、吐き気を覚えるような犯罪が大頻発する。

おまけに、子供を育てる理由は当然とし、子供を産む意味が損失するのだ。

誰かが、子供の面倒を見てくれる環境が整い、女性が働く事が至当となると、そうなるのは必然である。

何より、それを後押しする問題が発生してしまう。

だからと言って、子供を産む事を義務とすれば、既存の義務が疎かとなる環境が、
残り少ない権利が奪われる境遇が、そうなるまでに形成されている。

あまつさえ、無理に問題を解決しようとすれば、それは増長を続ける一方となる。

既に、どうにも出来ぬ状態で、どうにも出来ぬ事柄を、どうにかしようとし続けて、さらにどうにもならなくしてきた。

その、絶大な失態の積み重ねの先では、何をやっても上手く行く道理がない。

それに関しては、以下に記載している。

☆ 是正への階段

差別の撤廃を求め続ければ、概念と定義の意義が斃死し、区別する必要性が遷化する。

注意せねば、性別すら一体化され、珍妙な末路を辿る。

万人が、正当と確信する権利であろうと、その理屈は屁理屈にすぎない。

そのため、何をしようとも全て裏目となり、莫大な不具合が撒き散らされる。

どれだけ、真摯に邁進をしようとも、その末路が変わる事はない。

何をするにも、不可欠となる前提が不在であり、前向きに生きる方法すら知らぬ、不憫な化け物には何も出来ない。

そう、自己啓発セミナーやセラピーで、誤魔化し有耶無耶とし逃走する方法を擦りこまれ、
己ならば何か出来ると錯覚し妄想する、錯乱状態に陥った陳腐な怪物では、
不具合を刻んでくたばるだけで限界なのだ。

そもそも、暴走するだけの夜叉風情には、義務と責任と価値と権利がない。

だから、不意味な次元で頭打ちとなり、気休めと自己満足で終わってしまう。

それに関しては、以下に記載している。

☆ 階段の選択 前編

人間と人類と社会と世界は、追い打ちをかける事に卓越している。

特に、有事における絶望の助長に関しては、この空間でも屈指と言えるだろう。

何しろ、適宜な前提の確立を完全に失念し、履き違えたまま進んでいるがため、下記が当然かつ必然となっている。

安全と安心を追求し、危険と不安に曝される。

また、利益と簡便を追求し、損益と難儀に曝される。

さらに、平和と自由を追求し、戦争と不自由に曝される。

はたまた、公平と平等を追求し、不公平と不平等に曝される。

挙句には、一つの点へと収束し、全てが消え失せる。

この実態により、何を誰が何処で如何するにしても、己と相手の首を絞めるだけとなる。

これにより、人間と人類たる我等は、相身互いに殺しあう、大戦争の真直中にいる。

それに関しては、以下に記載している。

☆ 階段の選択 後編

であるからして、政治家に出来る事なんぞは、愚弄と翻弄により国民を、地獄に叩き落とす事だけだ。

政治家になってしまえば、国民を間接的かつ直接的に惨殺する、珠玉の殺戮兵器となってしまう。

所詮、建前・自己都合・利己主義に弄ばれる、人間と人類と社会と世界の木偶人形には、
期待しても意味はなく不意味で終わる。

これからも、ただでさえ余計な存在が、余計なモノを生み出し続け、
余計な事を何遍でも繰り返し、より余計な存在となっていく。

ハナから、現実・事実・実態・真実・真相・実相・真理・摂理・哲理に精通し、
問題の原因と要因を精確に見極め、提案し実現し打開する事が、可能となる存在がいない。

時点の仕様の仕組では、その誕生を期待する事すら、空無・皆無・絶無なのである。

従って、実質と本質を是正する事もなく、上澄を杜撰に弄繰り回す事しか、誰もかれも何処もかしこも出来ぬのだ。

そうでなければ、世界はこれほどまでに、腐った虹色に染まりはしない。

忘れてはならぬのは、何処に所属する誰であろうと、その程度のゾンザイでしかない事だ。

それを忘却してしまえば、己の無知・無智・無恥に唆されて、絶大すぎる過ちを犯してしまう。

それに関しては、以下に記載している。

☆ TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。

臭いものに蓋をすると言うが、ゴミ箱は途轍もなく巨大となり、
地平線の彼方まで広がってしまい、膨大な数の蓋がゴミに紛れ込んだ状態だ。

蓋がゴミに紛れているのは、悪臭をどうにか誤魔化そうと、
人間と人類と社会と世界が、ゴミ箱の中に投げ込んでいるからだ。

だが、それはゴミの一部にしかならない。

それに、無数の蓋が開いたゴミ箱が、ゴミ箱の中に散らばっている。

もはや、それが海原なのだ。

それをどうにかせぬ限り、どうにか出来そうな事ですら、
どうにも出来ぬだけでは飽き足らず、どうにも出来なくして終わってしまう。

潮流を変えねば、それが微塵も変わる事は無く、悪化により引き起こされる、絶望から逃れる事は叶わない。

これからも、問題が発生する事により、化けの皮が大きく剥離する。

このことから、先入観や固定観念や既成事実に対する、信憑性や信頼性が大きく損なわれる。

そこを皮切りとし、流布される様々な情報に対し、人々は食いつきやすくなる。

それによって、格別性と特別性が劣化を続ける。

そうなるのは、格別性と特別性の演出が、それを喪失させるからだ。

例え、それを意識せずに情報を流布しようと、それは受け取る側の感覚次第である。

内容が、平凡・非凡・正当・不当・誠実・不実・真実・虚偽・好都合・不都合のどれに基づこうと、
周知となれば格別性と特別性は失われる。

どうであるにしろ、空虚な状態で空回りしている事を、
万人が把握し理解してしまい、何もない事に気付いてしまう。

だから、脆弱に形成された自我が、簡単に壊れてしまうのだ。

しかれども、より不完全でなければ、現状の仕様の仕組による、人間と人類と社会と世界が成り立たない。

そうでなければ、それによる物語は紡げない。

問題は、その範疇における、最下級である事だ。

より良き変遷を促す事で、落魄を続ける存在から、脱却しなくてはならない。

そのためにも、取得すべき事柄がある。

それに関しては、以下とこれまでの日記に記載している。

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 上

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 中

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 下




景気への対策を実施すれば、不景気である事が浮き彫りとなる。

それにより、手遅れの状態となるまで、手を拱いていた事が露呈する。

それに、様々な問題に取組む姿勢を見せれば、大多数の問題があぶり出される。

結果、それを見過ごしていた者達は、何処までも失墜を続けてしまう。

それなのに、問題に対して出来る事と言えば、誤魔化し有耶無耶とし出奔するだけだ。

何より、その蓄積は莫大であり、それに邪魔をされて、上手く行く事はない。

もとより、どうにもならぬ機構だけに、瞞着で曖昧にするしかない。

是正の責務を保有する人材ですら、全体が脅かされるまで無関係を装い、
咎めを誰かに押し付ける事で、手遅れを助長しトンズラする。

罪悪や責任や負債を分散し、反動の深刻化ばかりに精進し、
それを繰り返すための猶予を稼ぐ程度では、
変えられぬだけでは済まされない。

つまり、現況の仕様の仕組では、どうにもならぬだけでなく、自滅により絶滅してしまうのだ。

ならば、正統な是正を完遂する事で、機序を本流にするしかない。

そのために、必要欠くべからざる術はある。

それを現実に展開すれば、世界は綺麗な虹色へと、塗り替えられて行く。

しかしながら、その実現に大きく立ちはだかる壁がある。

それは、天災たる災害だ。

諸賢には、遥か先々へと進むためにも、災害が発生した場合における、生存率の向上に努めて欲しい。

されど、それはやりすぎても、やらなすぎても良くはない。

それを決するのは、各々の裁量なのである。

そして、災厄を乗り越えるため、留意すべき事柄がある。




己が、独り法師で唖然・呆然・愕然としているだけでなく、自分自身が存在せぬ事に気付いてしまえば、
意義を紛失してしまい、誰もかれも何処も彼処も、誰なのか何処なのかを見失ってしまう。

その果てに、太陽と月が価値を失う時が来る。

最悪の選択を続けるのであれば、そうなるのは単純で確実な末路だ。

なんせ、人間と人類は一番楽な選択で、トンズラするのが十八番である。

誰もが、一番楽な選択に甘んじる。

それが叶わぬ者達は、腐乱しながら消えて行く。

とは言え、最良の選択が出来たとて、同じ末路を辿る事で精一杯だ。

そうなるのは、最良と思い込んだ選択肢が、最悪の選択にすぎぬからだ。

ハナから、真蹟たる最良の選択に対し、不可欠となる条件が不在のため、未だそれは誕生すらしていない。

そのため、当方を使役する選択肢にしても、明朗な結果が得られるまでは、不意味な選択にすぎぬのだ。

それを成し遂げ、成果を齎すまでは、私はここにはいない。

そして、君もそこにはいない。

原初より、誰も居なかっただけの事となる。

先祖が、人間と人類に残したのは、パックリと開いたまんまの、地獄への入り口だけなのだ。

子孫に、揶揄されて当然の存在のままで、破滅による必然で全てを不能とし、ただ消え去るのは御免こうむる。

我々は、真に受けて生きて来たから、成すべきを忘却により失念し、出し抜かれ唆され腐乱している。

是非に、それとは決別をしたいが、鑑別が艱難であるのが実態だ。

これから、それはより難儀となる。

誰しも、自分の認識を真に受けて、自身に出し抜かれ唆される。

己を狂わせるのは、自己の所業である事を、決して忘れてはならない。

確かに、人間と人類と社会と世界が、足を踏み外すようにけしかけてくる。

しかし、最終的に識別し選択し決断するのは、この世にたったの一人しかいない、自分自身に委ねられている。

そのため、それを誰かのせいにしてはならない。

さすれば、堕ち続ける命運となる。

とは言うものの、どうする事も出来ぬのが、人間と人類と社会と世界である。

現況では、自我を洗練する事により、間違いを斥けねばならない。

自我たる精神の砦が脆弱ならば、些細な影響で陥落してしまう。

そう、主我が未熟ならば、自意識が希薄となり、釈然とせぬ状態で、感情に振り回される。

それは、この上なく無様な事だ。

心気を、研ぎ澄ませ。

さもなければ、とんでもない絶望と後悔に、苛まれてしまうのだから。

自我が、保てなくなった人間や人類は、自分自身に唆され何をするのか?

それは、それまでの経験によって、顕著に確定されている。

であるからして、余計な事を吹き込まれれば、余計な事をしてしまうため、細心の注意を払わなければならない。

現状までは、それを完全に失念している。

だから、これからもとんでもない事が起きる。

近年のコンテンツは、人間と人類の狂気の底上に、全力を注いでしまっている。

無論、コンテンツだけでなく、あらゆる時事も影響を及ぼす。

近々のそれは、超絶絶頂・究極極大・臨界突破に、劣悪で愚劣で下劣な状態だ。

それは、これからも悪化を続ける。

やがて発生する竹箆返しは、銀河超越・宇宙超克・空間達観に、手の施しようがない終焉となる。

踏み外し、履き違えたまま進んで来たため、莫大な不具合が鬱積しており、そう易々と逃れる事は叶わない。

このままでは、邪気の塊と化した無邪気な存在に、我々はテキパキとぶっ殺されてしまう。

何より、自分がそうなってしまえば、家族や友人や他者を殺害してしまう。

挙句には、自身に抹殺されてしまうのだ。

それは、諸賢に相応しくない。




人間と人類の欠点は、相手の心を掬う事も無く、決めつけてしまう事だ。

自分に対しても、それは同じ事である。

他者を思い遣れぬ者に、自分を思い遣る事は出来ない。

自分を思い遣れぬ者に、他者を思い遣る事は出来ない。

我々は、とても不器用であるがため、必要な前提が疎かであるため、それが不可能に等しい状態だ。

そんなだから、表面だけを見つめて、大丈夫そうに見えれば、
実質や本質を見極めず、相手が何を訴えようと、杞憂だと決めつけてしまう。

だから、手遅れとなり、台無しとなる。

我々は、相手の気持ちを深く洞察し、より良き選択が出来るように、思考する事を大切に生きねばならない。

それが出来なければ、浅薄な自我しか育めず、誰かに簡単に蹂躙される。

自我が浅薄な存在は、己に常識と正義があると決めつけ、他者の非難や批判をしているが、
自分の無力さに吐き気を覚え、僻みや妬みで喚いているだけだ。

例え、高い見地から諌めているつもりでも、明確な打開策を提案し、実現出来ぬのであれば、同じ穴の狢でしかない。

結局、繰り返される茶番劇は、その堂々巡りにすぎぬのだ。

そのため、結論が出る事がない。

出たとしても、不意味な次元で終わっている。

何と言っても、そこから抜け出せぬように、人間と人類と社会と世界は出来ている。

そうだ、陰極である袋小路の坩堝たる表裏一体の存在として、一心不乱に無闇矢鱈にもがくしかないのだ。

危惧すべきは、惨め極まる下賤な応酬の果てに、自分には何も出来ぬ事に気付くが、
それを絶対に認めようとせぬ連中が、我儘な暴走を始める事である。

未然に防ぐには、何もない事が当然である事を、認識させなければならない。

それに、何もないとは何を指すのか、それを理解させる必要がある。

何をおいても、どうすべきかを指し示さなくてはならない。

されど、それは簡単な事ではない。

私には、何もない。

だから、追い求め続ける。

確かに、我が命と引き換えとしてでも、守り抜きたい存在が無数にいる。

不足するは、守り抜くための条件である。

それが欠落していれば、死屍累々の惨憺たる末路を、自滅による絶滅を、拒絶する事が叶わない。

ならば、暴走するのではなく、それを追求すればいい。

しかし、その機会は凄く稀であり、複数の条件が揃わなければ、それに準ずる選択は至難である。

厄介なのは、その選択が正しいとする保証と、その正当を証明する術が無いため、選択肢を用意した者ですら躊躇する。

そもそも、是正により万人が満足しようとも、それが連綿と繋がり続けなければ、その証明が叶う事はあり得ない。

もし、保証と証明の実存を豪語し、メリットばかりを掲げて、
引き込もうとする人材が現れたら、それは暴走した化け物なのである。

そんな連中が、人間と人類と社会と世界を歪め続け、大きな事件や事故や問題を、何遍でも引き起こしてきた。

最大限度に恐ろしいのは、家族や友人や他者や自分を殺すのに、理由と動機が不要な事に気付いた存在だ。

所詮、それは思い込みによるものだ。

連中は、途轍もなく破廉恥な事をする上に、罪を償わせる事は当然とし、罰を与える事すら叶いはしない。

対象によっては、罰が至高の褒美となる。

残念なのは、罰を与える仕組はあっても、贖罪を果たさせる仕組が、未だ嘗て存在していない事だ。

罰すら与えられなくなれば、抑止力が灰燼に帰してしまう。

これまでの、人間と人類は余りにも未熟だった。

それが、欲望のまま動いてしまえば、張りぼての社会と世界は、実に容易く滅んでしまう。

現況のいたちごっこが、将来において何を引き起こすのか?

それを、十二分に精査し予防せねば、我々が万人を許せぬ時が来る。

自己の内面を成熟させ、自我を洗練する事によって、より良き自分を外部へ展開し、
万人を思い遣り生きなければ、自分らしく生きる事は叶わない。

そうしなければ、不遜な社会と世界による、不憫で不遜なマリオネットで終わってしまう。

それこそ、終わりにしなければならぬ。




上辺を超克し、深淵を洞察せねば、成就する事はない。

現況では、上辺に席捲されるばかりで、周章狼狽で終焉を迎える。

それに、もはや手遅れなのだ。

だから、償える軌跡が必要となる。

それは、先々へ進むための活路である。

されど、透徹たる方法が無ければ、想い描く事すら叶わない。

導き出せたとて、実現せねば意味はない。




既に、残された時はない。

原初から、どうにもならぬ刹那を、もがいているにすぎぬ。

己を前向きと錯覚し、夢魔と地獄の境界たる現実で、煉獄に拒絶される怪物は、粛清の順番を待つのみだ。

それが嫌なら、やるべきを成さねばならぬ。

それにより、かけがえなき存在と過ごす、玉響の時間を稼がねば、不意味で終わってしまう。

もはや、取り返しが付かない。

疾うに、やり直しは利かない。

それが、積み重ねられてきた。

それを熟知し、是正に挑まなければ、腐った虹色の世界は、濁り続ける一方だ。

それなのに、誰もが悠長な言葉を並べ、さらに腐りを増し続けている。




人間は、目の前の事しか考えていない。

果ては、どうなるかが見えてない。

挙句を見極めなければ、破滅からは逃れられない。

何より、目の前の事を考えるに、必要となる前提すらない。

だから、どうにもならぬのだ。

夙に、成すべきを放棄したため、もはやどうする事も出来ない。

それでも、より良き変遷を促す術はある。

変わらねば、変えられない。

変えねば、変わらない。




誰もが、変遷の力を有した、他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である。

だから、君は私ではなく、私は君ではない。

刮目すべきは、誰もがそうであるため、同じになる必要はない事だ。

だがしかし、常に取得が可能である筈の、概念と定義の三分の一しか、
取得が叶わぬ仮初の世界では、それを狭めようとする社会では、
どう足掻こうとも真価を発揮する事は不可能なのだ。

しかしながら、根源からの事実が、変わる事はあり得ない。

私は、一人しかいない。

君は、一人しかいない。

それは、実質や本質を是正しようと、変わる事のない真実である。

我々には、莫大な限界が時点で実存しようとも、それを打ち破る真相があるのだ。

だから、より良き日々を目指し、進まなくてはならん。

それでこその、人であり人道なのである。




我々は、数多を把握する事、無数を理解する事で、より穏やかになれる。

要は、許容の範囲が拡張される事で、自己と相手を諌めらるようになる。

されど、把握は出来ても、理解が叶わぬ事がある。

また、理解は出来ても、把握が叶わぬ事がある。

さらに、把握も理解もしてはならぬ事がある。

識別と選択と決断を誤れば、とんでもない怪物になってしまう。

そうはならぬよう、識別と選択と決断を、容易にする必要がある。

それが、我々の草創なのである。