2013年04月08日 18:21 階段の選択 後編


我々は、相身互いに殺しあう、大戦争の真直中にいる。

そうだ、助け合うと見せかけて、互いを撃滅しているのだ。

これまでに、それを終わりにしようと、多くの人材が訴えてきたが、耳を傾ける者は極僅かだった。

それに、その実現を強く望んだ、屈託の払拭を願う人材は、
終止符を打つ方法が導き出せず、他力本願なまま消えて行った。

もしくは、どうにもならぬ問題を、どうにも出来ぬ状態で、どうにかしようと奔走し、
とても余計な事をしてしまい、悪化させてトンズラこいた。

それでは、意味が無い。

甚だ、不意味である。

ハナから、自分自身すら救えぬ存在に、他者を救う事は皆無なのだ。

まして、人間と人類と社会と世界に、個と全を内在させる広大な空間に、適宜な変遷を齎す事は絶無だ。

何一つとて、変えられぬだけならまだしも、上辺だけの人生で消え去るだけでなく、
悪化させて逃げてしまう程度では、これまでの政治家と変わりはしない。

ならば、政治家を蒙昧無知と非難し、問題を解決しろと怒声を上げて来た、無数の矮小な活動家と変わりはせぬ。

無論、実質と本質を見つめ、常に謙虚な姿勢を維持し、改善を求める人材さえも、大差が無き存在である。

結局、誰もかれも同じ穴の狢にすぎない。




義務も責任も価値も権利もない人間が、無知・無智・無恥な状態で政治家となり、
国民から搾取した金銭を片手に、国民全員を吊るし上げている。

連中は、己の建前・自己都合・利己主義による、チッポケな気休めと自己満足のために、
誂え向きの仕組を民主主義と掲げ、無識な有権者を傲慢に欺いて来た。

所詮、ちまたの民主主義の実態は、強固な独裁主義にすぎぬのだ。

政治家とは、あたかも国民に選ばれた代表が、
政治を司るかのように見せかけるための、
不気味で不愉快な傀儡なのである。

その、腐敗した人間と人類と社会と世界の、踊りゴマにすぎない虫ケラは、
建前にすぎぬ言葉を並べ、選挙で自己都合を標榜し、不実な利己主義を貫き通す。

格好の場所から出馬し、碌に選ぶ事も辞めさせる事も叶わぬ上に、
民意が反映される仕組すら無いのに、民意だと豪語し悦に浸っている。

醜悪な指示待ち人間の巣窟では、期待しただけ馬鹿を見るのが真実だ。

そのため、選挙において有権者は、最初から選択肢が無い状態で、盛大なゴミ拾いを強いられる。

とどのつまり、選挙において公民たる我等は、税金で養わなくてはならぬ残飯を、選出する事を余儀なくされている。

連中は、それを弁える事もなく、都合の良すぎる解釈を盾に、綺麗事と詭弁と御託を並べ、
失態を国民に押し付ける事すら辞さず、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けている。

そもそも、価値が存在せぬ政治生命を掲げ、失敗したら辞める事によって、
罪と責任を確実に回避すると、高らかに叫んで酔い痴れる悪党共なのだ。

その程度のゾンザイでは、実現出来る事なんぞ無に等しい。

誰もが、その程度で消え失せるのが実態だ。

誰しも、それを見極められぬから、何も変えられぬままで、ここまで来てしまった。

されど、思いこむ事ばかりに耽り、都合の良きように決めつけて、
なんとなく生きるだけなのは、人間と人類の本能なのだ。

だから、本質と実質が腐れ果て、実相が腐敗し続けている。

現況は、それによる必然であり、当然の状態なのである。

それを把握する事により、割り切って自分自身を諭さねば、国民は政治家を殺してしまう。

連中は、長期的な洗脳の効果によって、どうにかこうにか生き長らえている。

その効果が消失する時が、刻一刻と迫っている。

信じていたハズの存在が、最初から碌でもない存在であり、信じる事を強要していた挙句に、
何もかも収奪して来たのだと、痛感する事態が発生すれば、もう誰にも止められはせぬ。

その選択では、己の首を絞めるだけだ。

何より、連中すら救う手段を導き出さねば、絶滅から逃れる事は空無である。

であるからして、万人を手繰り寄せて、先々へと進み続けられる、適宜な方法が不可欠だ。




普通の人間が、途轍もない怪物にすぎぬ社会で、まともな人間が一人もおらぬ世界で、
醜怪を綺麗と見せかけた空間で、誰もが一人ぼっちで生きている。

怪物である事を忘れてしまえば、まともだと思ってしまえば、
容易く殺されてしまうし、簡単に足を踏み外してしまう。

また、見極める事を疎かにすれば、造作なく騙されてしまうのだ。

さらに、成すべきを実現せねば、孤独の幻影で幕を下ろす。

だからこそ、かけがえのない家族と友人と他者は当然とし
計り知れぬ価値を秘めた己を、満身の力で守り切らねばならぬ。

そうはいうものの、それでは疲れ果ててしまう。

いかんせん、このままではどうにもならない。

絶大な矛盾が、正当か不当かの識別を困難とし、人間と人類を怪物にしている。

それにより、社会と世界と空間は、死屍累々の状況で満ちている。

おまけに、是正により打開せねば、大切な人が沢山いるのに、いつまでも一人ぼっちだ。

あまつさえ、何一つ勝ち得る事無く、空っぽなまま死んでしまう。

私は、それに終止符を打つ。

しかれども、当方も他力本願な存在にすぎぬ。

ただし、これまでのソレとは理由が異なる。

それが、不可能を可能とする。

だがしかし、現況では一人残らずに、自分自身を慰める事で精一杯だ。

そこで、何を訴えようと、戯言にすぎない。

もとより、何度も思い知らされた結果、そうとしか認識が出来ぬのだ。

政治家が、そうだった。

自分自身が、そうだった。

だから、私と君が必死でもがいている。

だが、それでどうにかなる訳ではない。

そのため、必要な範疇における全てを、現実に展開する事とした。

私は、政策と制作を基盤とする、法人と非法人による組織を発展させ、
既存政府の代替が可能となる、二種類の統治機構の形成を軸に、是正を実現する所存である。

厳密には、それすら可能な能力を有する、二つの集合体の構築となる。

それは莫大であり、嘲笑う者がいるかもしれない。

冷笑によって、多くが台無しとなるまで、胡坐をかいて来たのが人間と人類だ。

このままでは、全てが台無しとなる。

自分は、それも終わらせる。

当方は、諸賢と共に絶望を拒絶する。




我々は、現状まで誤魔化し有耶無耶とし、逃走する事に明け暮れてきた。

そうして、多くが忘れ去られたために、取り返しがつかぬ事態が飽和となり、完膚無きまでに手遅れとなっている。

それだけでは飽き足らず、有事における反動の助長に、全身全霊を注ぎ続けている。

かてて加えて、放置した数々の社会問題は、時間が経過する事によって、より一層の地獄を演出する。

放置せぬとて、解決が出来ぬのであれば、辿る末路が変わりはしない。

特に恐ろしいのは、レッテルばかりを強調され、十分に救済されなかった者達が、
環境の変化により追い詰められ、引き起こしてしまう大罪である。

今後、そんな事もどうすればいいか分からない、
他人に聞く事すら出来ぬ人々により、様々な事件や事故が頻発してしまう。

既に、それに該当する暗件が、多数見受けられはするが、まだ数えられる程度である。

今日に到るまで、人間によって引き起こされた、ありったけの甚大すぎる問題は、
必然によって織りなされた、至極に当然の事柄であって、不自然な末路ではないのである。

なのに、前向きに生きる方法すら知らぬ、卑怯で滑稽で無様な人間と人類は、
それを特別な事かのように扱い、目を反らし自己擁護に必死となった。

事前に予期し、未然に防ぐ事すらなく、当然たる問題を野放しとし、
それは誰かの所為であり、誰かが何とかしてくれると決めつけ、
似たような事を繰返し、ただ生まれては死に続けている。

前向きに生きられぬ者は、精確な打開案を示す事もなく、周囲に『前向きになれ。』と言い放つ。

その術の付与すら出来ぬ存在が、前向きである道理はない。

それでは、ただの鈍らにすぎぬのだ。

もし、その術を知っているにもかかわらず、出来るようになるか試しているのであれば、
その者は前向きでも後ろ向きでもない、途轍もなく厭らしい変質者なのである。

まあ、その程度の存在が保有する術は、でっち上げの紛い物でしかない。

それで、どうにかなると思い込んだ連中は、すっかりその気となり有頂天となるが、何も出来ずにくたばるばかりだ。

前向きに生きるとは何か、それすら知り得ぬ者達は、
『きっと、大丈夫だ。』『なるようになる。』と垂れ流すばかりで、
励ましているかのように見せかけて、実質は知らぬ存ぜぬで見捨てているだけだ。

かと言って、『どうにかする。』と手を差し伸べてくれる存在さえも、
その場でグルグルと回転を続け、前でも後ろでも無い方向へ、
己の多大な不足によって、引きずりまわされるだけだ。

原初から、前向きに生きられる仕組ではない。

即ち、何を成すべきかを明確とし、それに必要な条件が成立するまで、前向きに生きられる者は一人もいない。

それまでは、家族や友人や他者や己に、家族や友人や他者や己が、
何となくでぶっ殺される日々から、それが当然となる実態からは、決して逃れる事は出来ない。

人間と人類と社会と世界によって、生涯を弄ばれるだけの空間で、我々は使い捨てにされてしまう。

人間の多様性と可能性を抹殺する社会で、それが相互に作用する非情な世界で、
己が前向きに生きているとする者は、完全に諦めているか相当な腰抜けだ。

その限りでは、諸事万端は陰極の領域で頭打ちとなり、全てが気休めと自己満足で終わってしまう。

それすら、満足に得られずに終わるのが、これまでの真相なのである。

人間と人類は、忘却を続ける生き物であり、楽観的に生きる選択をすれば、
もしくは何もせずに生きれば、何度でも同じ過ちを繰り返し、果ては全てが台無しとなる。

それで、終わらせてはいけない。




本質と実質を見極められずに、浅はかに手に入れた財産であれば、簡単に失い奪われてしまう。

見極めたとて、守る手立てが無ければ、それまでの事なのだ。

何より、本当の財産とは何かすらも、曖昧なままで終わってしまう。

術を手にいれなければ、人として自覚を抱く事すら叶わない。

それを実現せねば、尊厳をもつ事さえ皆無である。

注意すべきは、現実のどす黒さを割切れず、どうにも出来ぬ状態であるのに、どうにかしようとする連中だ。

この世は、相手を認められずに、暴走する者で満ちている。

重要なのは、どのような相手だろうと、打開策を提供する事によって、抱擁して前へと進む事だ。

それは、不可能ではない。

出来ぬのは、自分の事で頭が一杯だからだ。

誰もかれも、自分の事で精一杯なのが現実だ。

それは、悪い事ではない。

問題は、全体の事を考えて、取り組むべき立場の者達が、その程度で終わって来た事だ。

そうだ、精一杯を加速させる事に邁進し、万人と同じように消え失せた。

必然と当然を紐解けば、原因と要因が把握出来る。

打開策は、その外側に転がっている。




プラスとは何か?

マイナスとは何なのか?

その潜考を明確とせねば、メリットとデメリットを、精確に鑑定する事が叶わぬ。

無論だが、正当か不当かの識別すら、上辺でしか処理が出来ない。

それに、自分自身すら欺いて、心得違いの暴走を続けてしまう。

その限りでは、誰しも突発的に爆発する、大量破壊兵器にすぎない。

我々は、思考の軸を堅牢とする事で、直感の脆弱性を改善せねば、生きる事すら疎かなままだ。

そのため、最良となる己の前提を構成し、自己の中枢を最適へと調整し、
より良き自分自身の主観を融合し、莫大な知識を統合しなければならない。

それにより、すべき事を導き出し、選択する事が出来れば、最下級の人にはなれる。

それまでは、後悔と絶望で破局してしまう、人間と呼ばれる怪物でしかない。

何より、選択により実現せねば、真の意味で尊き存在にはなれぬ。

誕生の瞬間から、既に手遅れであった人類と世界は、それを上塗りにより誤魔化して来た。

最後の塗装により、無残に滅亡する命運を、受諾するか拒絶するかは、我々に委ねられている。




絶大な矛盾が荒狂う世界において、綺麗事で誤魔化せぬ対象には、杜撰な実質と本質を洞察させる事で、
それが必然であり当然であると理解させ、割り切らせなければならない。

されど、割り切らせてどうするか?

それに対し、どのような解答を導き出し、選択して実現するかによって、
人間と人類と社会と世界の将来が大きく変化する。

誰もが、綺麗事で誤魔化せぬのが現実だ。

それなのに、誰しもそれで誤魔化す事に明け暮れる。

だから、屁理屈を並べるばかりで、何一つ変える事が出来ない。

そんなだから、未熟な自分自身にすら、ぶっ殺されてしまうのだ。

碌な考えもなしに、生き続ける事は当然とし、何かを残す事なんぞ、不可能なのが実態だ。

私は、もうそれが嫌なのである。

現況の世界は、臭いものに蓋をするため、臭いものを撒き散らす状態だ。

この連鎖の果てに、我々は立ち尽くしている。

本当の意味で、他者を救うにはどうすればいいか、キチンと考えて行動をせねば、どうにもならなくなってしまう。




目を開けたまま、究極の悪夢を見ている人間が、それを偽らなければ生きられぬ人類が、
極大たる辛酸を嘗めさせられれば、己の心すらどうにも出来なくなってしまう。

そもそも、どうにも出来ない状態なのだ。

そこから突き落とされては、ひとたまりもないのである。

それに、誤魔化し有耶無耶とする方法で、常に家族や友人や他者は勿論、自分自身にも振り回されている。

家族は家族を思いやり、友人は友人を思いやり、他者は他者を思いやり、自分は自身を思いやり、
どうにか救おうとするが、過誤した手段の選択により、さらなる破局を促してしまい、
一心不乱に救おうとしたハズが、完膚なきまでに叩き潰してしまうのだ。

誰もが、自己による暗示と洗脳によって、自分自信の不足を認める事もなく、互いに傷を嘗め合って腐らせている。

正しい対応をせぬ限り、永遠に完治せぬどころか、何もかもがグチャグチャニなっていく。

例え、誤魔化し有耶無耶とする手段で、切り抜けられたように見えても、そもそもそれに耐えられぬ存在なのだ。

であるからして、反動による瞬発的な爆発力を、向上させるだけで終わってしまう。

だから、後でとんでもない事になる。

途轍もなく遠い、未来のような過去のような現在で、誰もがコロコロと不意味に死んで行く。

それを是正する方法こそ、精神の崩壊を未然に防ぎ、回復しうる手段なのである。




ワイらは、飛び方を知らんトリさんなんや。

そないなったのは、忘れたからやあらへん。

最初から、知らんまま生まれて来たんや。

せやから、ずっとソレ探してたハズなんや。

残念なんは、グチャグチャに羽ばたいて、あんま浮きもせんで壁に激突し、
ボコボコになるだけなのに、それで飛んどる気になって、そのまんまでいる事や。




そないやから、何もかんも疎かになって、何すればいいかワカランようなって、立ってる事すらままならんようになる。

全てが、手遅れになってもうて、悪夢から目覚まさな思た頃には、飛べる空がもうあらへん。

全部が、奈落に沈んどる。

それに、飛ぶのに必要な羽さえも、壊疽になって千切れとる。

もう、広げる事すら叶わへん。




間違えに気付いて、どうにかしよ思うとっても、どうにも出来へんかったのが、これまでの現実であり真相なんや。

余計な事ばかりして、本質と実質は腐れ続けてもうて、薄汚れた現実が上塗りされて来た。

それは、もう限界に近い。

せやから、根こそぎ変える方法を導き出し、確実に是正せなアカンのや。

ワイは、それで精一杯や。

とは言うても、それっぽっちで終わる気はあらへんで。