2013年02月02日 15:05 TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。


桜宮高校に対する、橋下さんの対応を『正当と感じる者』と『不当と感じる者』と『無能と感じる者』がいる。

はたまた、『どうでも良きと感じる者』がいる。

当方は卑怯者で、誰からも恨まれたくはないので、全者を納得させる方法で、適当に誤魔化してしまう。

それが出来れば、最良と感じる者がいるだろう。

だが、それこそセコイ手段だ。




全者の意見を並べ、その不満を打ち消すには、どうすればいいかを整える。

また、関心を獲得するため、最高の料理を拵える。

さらに、後々に面倒が発生せぬよう、可能な限りの箱を開けてしまう。

そうだ、ただ当たり前の事を実施して、より良き結果を導き出すだけだ。

あまつさえ、実質と本質を並べる事によって、余計な口を未然に封じてしまう。

これは、つまらぬ人間がする事だ。




全者に対する、拮抗する固執と譲歩を基盤とし、前提条件の鮮烈な明確化によって、事態を忽然と乗り越えるのだ。

何より、大局的な説明を行い、対極的な見解を並べ、大曲的な意見すら加え、
森羅万象の真諦によって、これらを打ち消す事により、口を挟む余地を無くしてしまう。

されど、それは誰もが試みる事であり、下手糞すぎるのが実態なのだ。

結局は、その場しのぎでしかない、自分本位の裁定しか下せない。

それでは、偏見と軋轢が強烈に助長され、全ては有耶無耶に過ぎ去るのみだ。




そもそも、全者を納得させるのは、磐石たる理解を得るのは、不可能なのが実情である。

だから、思い込ませて沈黙させる事に、渦中の人材は必死となる。

しかし、手に余る事を無理にしようとすると、様々な指摘に曝されてしまう。

したらば、前提に白黒をつける事で、人々を妥協させようと狂奔する。

何と言っても、どれだけ思想を正当化しようとも、錯乱した意地汚い人間による、
エゴイスティックな原則でしかないため、浅ましい連中からの野次が収まりはしない。




しかれども、どれだけ献身的に対応しようとも、不完全で不健全な人間の仕様により、問題は時間を変えて繰り返される。

確かに、上手に切り抜ける事が出来れば、マシな結果を引き寄せる事は可能だ。

そうは言うものの、その結果を台無しとするのが、人間に組込まれている本性なのだ。

そうである限り、洗脳して誤魔化すだけでは、全てが腐り続ける一方となる。

例え、真摯に行き届いた対応をしようとも、人間を覆す事が出来なければ、辿る末路が変わる事はない。

あるいは、哲理を明確とした上で、実質と本質に準じた結論を下そうとも、
人間を変えられなければ、行き着く先は変わりはしない。

どれだけ、事実と真実を刻みつけようと、立ち所に忘却してしまう存在には、何もかもが無意味ではなく不意味となる。

そう、碌な線引きすら叶わずに、逡巡するだけの不埒な生物では、
何らかの過ちを犯してしまえば、ゼロでは済まされずにマイナスとなってしまう。




過保護な親が、プレッシャーに耐えられぬ子供を育て、それを教師が罵倒した事により、子供に不登校や自殺を促してしまう。

これは、一つのケースにすぎない。

だったら、最悪の末路を辿らぬために、教師がプレッシャーに耐えられる子供を育てればいい。

ところが、それをしようとした途端に、子供が壊れてしまう事がある。

かれども、親がプレッシャーに強い子供を育てようとして、何もかもが無茶苦茶となる場合すらあるのだ。

ハナから、プレッシャーに強い子供を育てようと、最悪に到らぬ保証は不在であり、適正な育成方法が存在しない。




その一方、過保護とされる親とは、どのような存在だろう。

子供に愛情を注いだつもりが、それは甘やかしただけであり、その自壊を未然に防げなかった、不憫な存在なのかもしれない。

しかしながら、そんな事は当事者であろうと、自分自身に裏切られ遺書を綴り、自殺した当人だろうと曖昧な事である。

遺書に、自殺をする理由を詳細に記載しようとも、それは思い込みによる内容であり、後付けでしかない場合がある。

自殺を止められなかった、原因と要因に関しては、自分・家族・友人・他人が分散して保有し、
状況や気分からの影響も非常に大きい。

それを、的確に編纂可能な人間はいない。

当事者は当然とし、自殺した本人だろうと、全ては謎のままである。

それに対し、第三者がそれらしい言葉を並べようと、全てはつまらぬ戯言で終わってしまう。

それだから、こうなってしまったのだ。




我儘で身勝手すぎる人間は、この上なく複雑で不器用な存在だ。

我々は、己を単純で器用な存在と誤認し、何かを得ようとしたつもりが、不足により失い奪われる破目となる。

単純で複雑で器用で不器用な存在は、全てを打ち消すだけで精一杯だ。

初めから、余計な存在である人類が、余計な事をしてしまえば、惨憺たる末路を辿ってしまう。

即ち、私には何も出来ない。

誰しも、それは同じである。

ただし、私はそれを知っている。

そして、諦める事はないのだ。

もとより、それに該当する無数の人材が、より良き活路を切り拓こうと、切磋琢磨しているのが現実だ。




だがしかし、それらが協調しようとも、どちらでもあり、どちらかであり、どちらでもない世界では、
混濁した結末しか獲得が出来ず、自己満足で終わってしまう。

それで済めばいいが、空前絶後の地獄すら誘引してしまう。

それを自覚する者達は、新たなプラットホームの形成により、根本からの是正を模索する。

それにより、世界と人間の仕様すら訂正し、抜本的な手直しを実現するのだ。

ただし、それすらひとり善がりにすぎず、新たな地獄の入口となるのが、この空間の絶対たる哲理である。

それを熟知し、特定の解答に辿り着いた、希少となる多数の人材が、それを現実に展開するため邁進している。




解答は、大きく三つに分けられる。

そのいずれかを実現する事により、どちらでもあり、どちらかであり、どちらでもないに、けじめをつけるのだ。

さりとて、その中の二つのどちらかを選べば、同胞に莫大な犠牲が発生する。

残念なのは、残る一つを選択しても、犠牲が発生せぬ道理がない。

犠牲者の数を桁違いに抑えられるが、強靭な魔の連環は断ち切れぬままだ。

その程度であれば、陰極の表裏一体の世界へと、いつの間にか戻ってしまう。

それでは、意味が無いのだ。




であるからして、解答は一つへと集約される。

集約されるとしたが、それは三つの解答とはかすりもしない、原初から神が用意していた、唯一の正解と言えよう。

まあ、神がいるとすればだが・・・。

厳密には、神に相当する存在である、ナチュラルプロセスを紐解けば、導き出す事が可能な解答だ。

その実現への弊害は、意欲と時間である。

それが不十分だった事により、希少すぎる人材が失敗し、この腐った虹色の世界は、濁りを増し続けている。

そのため、面倒である状態の助長が止まらない。

要は、同一の内容に対する、成すべき事の総量が、増加を続けているのだ。

それでは、成就への道が長すぎる。




当方の場合は、ありきたりな方法により、辻褄を合せての短縮を考えた。

それでも、成すべき事は多い上に、その継続が必要なのだ。

継続だが、どのような場合においても必須となる。

解答を証明し続けなければ、人間は建前と自己都合と利己主義に弄ばれ、
誤答を正解と勝手に掲げて、同じ過ちを繰り返すからだ。

人間である限り、それは当然の事である。

であるからして、より良き人となる事で、それを拒めるようにならねばならない。

それが、始まりとなり、終わりともなる。

そうなる事により、物語は開幕と閉幕を繰り返すが、人類は確固たる永遠の実存となれるのだ。




ここまでは、クソガキが考える事だ。

詮ずるところ、不完全で不健全な存在の妄言にすぎない。

全てに対し、精確かつ絶対的な内容を編纂すれば、そんな事は嫌でも気付いてしまう。

たかが、その程度の次元にすら、誰もが到らなかったがために、
理不尽により流される涙を、極限まで淘汰する事すら出来ていない。

実際は、大多数の到達者がいるが、実現出来ていない状態では、何もしていない事と変わりはせぬ。

自然作用は、たった一つしかない解答を、導き出すための数式となるが、
それを解いて少し進んでしまうと、そもそも問題を作成した存在が、不完全だと気付いてしまう。

もはや、その解答では足りぬのが真相だ。

神が全知全能であれば、複数の人間が辿りついた、たったの一つの解答で、
どうにかなったかもしれんが、そうではないのが実態なのだ。

無論、完全無欠であれば、数式も解答も必要無い。

その事から、堅実な複数のサービスによって、万人が他の追随を許さない、
唯一無二の存在である事を証明し、恒久の社会を築かなくてはならぬ。

故に、集約からの展開と展開からの集約を繰り返し、不具合を極限まで緩和しつつ、適宜に前進する必要がある。

摩天楼は、その根幹だ。




神がいるとするならば、悪魔のような存在である。

要は、人間と大差の無い、性質の悪い存在だ。

それが神である限り、自殺なんぞに及んでしまえば、お先が真暗なのは明白だ。

生存している間にこそ、有限的な希望と絶望がある。

余計な存在が、特に余計な事をしてしまえば、何もないだけでは済まされぬ。

言葉にする事すら絶無な、無限的な絶望の餌食となる。

生まれたからには、生きねばならぬ。




天寿を全うしようとも、そんなに甘くはないのが神髄だ。

されば、悪質な事はなるたけせず、人生を謳歌すべきである。

人間は、神の恐ろしさを知っているから、どうにか媚を売ろうと信仰にすがる。

まあ、ケースバイケースではあるがね。

だが、そのような傲慢で強かな集団にこそ、神は非情な戒めを与えるのだ。

選ばれた、自分達だけが救われると考える、思い上がった唾棄すべき存在に、容赦をせぬのが神である。

だからこそ、不純な枠組に染まる事無く、家族や友人と他者は当然とし、己を大切に生きていこう。




多かれ少なかれ、どっちもどっちなのが実態だ。

だからこそ、愛しみ・労わり・思いやる必要がある。

だが、バランスを取る事は至難で、常に微妙な状態に置かれている。

愛し合う者には、絶妙な愛の均衡を、保つ努力が求められる。

されど、微妙と絶妙は表裏一体で、明確な境界線がないため、様々が紙一重なのが実情だ。




人間は、軽薄であり重厚だ。

実は、そうでもなく、そうでもある。

全ては、気分や体調や状況により変化する。

たったの一人を見つめた場合は、その程度が変化の要因で済む。

複数となると、生まれや育ちのような、特有の原因が絡んでくる。




過程が違えば、結果が違う。

家庭が違えば、人格が違う。

それを理解せねば、円満はない。

しかし、それを洞察しきるのは、不可能なのが真実だ。

であるからして、何かを考えれば、何かをすれば、微妙にも絶妙にもなる。

それに、最良の結果を導く場合もあれば、最悪の末路を引き寄せる場合もある。




恋愛とは、単純で複雑な数式であり、解答が存在するが、実存する事はない。

それを理解し、己を見つめる事は、誰にでも可能である。

愛する存在を、殺傷しそうになった場合は当然とし、何もかも分らなくなってしまった場合は、
思考に実質と本質を張り巡らせ、余計な事をしてしまわぬよう心がけよう。

ハナから、その身に刻まれた哲理により、人間は実質と本質に対し、矛盾した存在にすぎぬのだ。

それが、負極の行動に走れば、絶望に向かってまっしぐらだ。




我々には、明日があり、明日がない。

だからこそ後悔をせぬ、選択をしなくてはならぬ。

だからと言って、真に余計な事をしてはいけない。

負極の行動たる悪事を働けば、もしも明日があった場合は、自責の念にかられる破目となる。

それこそ、絶望なのだ。

自殺は、もっての外である。




この空間は勿論、別の空間も人間には酷しい。

我々に寛容な空間は、絶無なのが真相である。

だから、私はここに居る。

そして、君はそこに居て、誰かがあそこに居るのだ。

それらは尽く、入れ替わり続ける。

そこから解放され、包容される術はある。

残念な事に、未だ嘗て辿りついた者はいない。

私は、その先への道を見つけたが、現時点ではそこに向かって進む、脆弱な一匹の怪物にすぎない。




枠組とは、壁である。

乗り越えねばならぬ壁なのだ。

同時に、乗り越えてはならぬ壁でもある。

人間とされる枠組すら、無数にある壁の一つだ。

ただし、乗り越えた先で何を得るかは、各々の選択に依存する。

何より、得られるとは限らぬ。

そうだ、失う事すらある。

はたまた、何も変わらぬ場合がある。




人間は不器用で、得る選択をしたつもりが、多くを奪い失う破目となる。

万人が不完全であり、完璧には程遠い存在だ。

それは、人間であるがための、仕様上の都合である。

誕生しては、自己による崩壊によって、儚く消える生命が我々だ。

結局、誰もが自身の限界により、この空間から消える事を余儀なくされる。




我々は、動き回る自己破壊装置にすぎない。

多くの者が、それを綺麗事により誤魔化して来た。

そうだ、人間の儚さと尊さの真実を、都合良く歪めて来たのである。

それにより、人々は日進月歩で不器用となり、実質や本質とかけ離れた場所で、継続的に漠然と溺れている。

道理が無き状態で、余計な存在である事を忘れ、余計な事をしてしまう。

だから、何度でも自滅する。




アルジェリアのテロリストが、典型的な自爆装置だ。

何かを得ようとしたが、前提を熟知していなかったため、討ち滅ぼされてしまった。

例え、前提を厳密に熟知したつもりでも、類似した犯行に及ぶ限りは、辿る末路が変わりはしない。

フタを開ければ、自爆テロである。

余計な事である限り、何を何度やっても自滅する。

そうでなくとも、最後に待ち受けるのは、自分による自身の抹消なのだ。




人類は、より適宜にそこから脱却し、その先に進まねばならぬ。

それは、これまでを取り戻すため、失わずに得るためにだ。

そして、超えねばならぬ。
先ず、超えるべきは己であり、人間たる枠組である。

また、神に相当する存在を、遥かに超えるのだ。

神に並ぶのではなく、その先に行かねばならぬ。

さらに、より良き人となった己を超えてゆけ。

それこそ、とても素晴らしき事なのだ。




人間には、多大な限界がある。

されど、仕様が許容する範囲であれば、どんな事でもしてしまう。

他人も友人も家族でさえも、気分転換で殺してしまう程だ。

枠組とは、多大な抑止力でもあり、促進や助長の作用すら持つ。

重要なのは、それをどのように認識し、判断し決断するかである。




より適正な認識を、常に保ち続けるのは難しい。

そうだ、様々な環境の変化により、それは多様に変質する上に、簡単に意味を成さなくなる、非常に脆い存在なのだ。

何より、表面上の認識と実質や本質が、大きくかけ離れた枠組に染まれば、人間は矛盾の化物として、手がつけられなくなる。

果てに、全ての関係が意味を成さなくなり、珠玉の殺戮人形へと戻ってしまう。

それは、最悪な事である。




彼も彼女も私も君も、人間と言う名の化物だ。

だからこそ、気をつけなければならない。

それを認識し、思考が感情に負けぬ者であれば、余計な事は滅多にせぬ上に、他者を救う事すら可能だ。

これから、自国や各国で培われて来た、より良き認識が次々と解け、それに翻弄される時が来る。

だが、決してそれに負けてはいけない。




人間は、良き部分だけを見つめ、色々と美化をする事で、器用に生きようとする。

それは、善であり悪であり、善でなく悪でなく、器用で不器用であるがための、仕方がなき事なのだ。

だが、それでは原発と同じで、いつかぶっ飛んでしまう。

そうだ、誤魔化せる事には限界がある。

それを噛み締め、細心の注意を払わねばならぬ。




人間は、自ら自由と尊厳を放棄する。

それは、過誤した手段により、それらを求めるからだ。

そもそも、それが何なのかすら碌に知らない。

自由とは何かね?

尊厳とは何かね?

多くの人間が、それらを求めては、全てを奪い失っている。

これほど、つまらぬ冗談はない。




人類は、本末転倒を繰り返し、微妙なバランスにより、首の皮一枚の状態で存続している。

これ以上、意味と意義を履き違え続ければ、ささやかな希望は千切れるだろう。

はたまた、希望とか何かね?

極潰しのお偉いさん達は、紛い物のそれを人々に押し付け、得意満面で絶望をバラ撒き続けている。

まあ、そうなる仕組なのだ。




己を、化物のような人間や人間のような化物と錯覚する、もしくは美しい存在と思い込んでいる、
人間と呼ばれるただの化物には、自由も尊厳も希望も手に入れる事は困難だ。

傲岸不遜な化物は、今日も何処かで故郷を焼き、老若男女を犯して殺す。

あまつさえ、自分達は正しいと豪語する。

人間は性質の悪い、醜悪な怪物である。

我々は、己の多大な不足を認め、誠実な怪物となれるよう、より良き日々を創造せねばならん。




楽しい時は、永遠には続かない。

だから、楽しいと認識する事が出来る。

逆に言えば、悲しい事も苦しい事も辛い事もそうなのだ。

だからこそ、我々は生きる事が出来る。

その認識が歪み、永遠にそれが続くと思い込むと、人間は早まった行為へと走る傾向がある。

そうではないのが現実だ。

忘却せねば、強く行き抜けるだろう。




地球が一つである限り、空も海も陸も血脈も、繋がっているのが実態だ。

それを念頭に考え、行動出来なかった人類が、あまりにも不憫と感じる。

表裏一体にある負の要素の撃滅に、協調出来ぬままなのが残念だ。

出来るようにする方法はあるが、それが提供される前に滅びそうなのが、非常に気がかりである。

競争による強奪で、誰かを不幸にしなくては、誰かが幸せになれぬ社会は、滅び滅ぼされるために存在する。

オプティミスティックな連中が、漠然と成り行きに任せれば、勝手に出来上がるのが、現行の粗雑な社会である。

主導者が、夢ばかり追い続けた結果、成り立たぬ主義や主張が乱立し、世界は腐った虹色に染まっている。

互いの不足を補い合うなばらいざ知らず、互いに不足となり奪い合うのが現況だ。

それでも、醜悪な人類はケセラセラ。

主導者達と腰ぎんちゃく共は、水面で上を向いて流され続け、そこが海なのか川なのか湖なのか、
はたまた水たまりなのか、何一つわからずに浮いている。

だから、変わらぬ上に、変えられずに、悪化する一方なのだ。




人間は、同一の事柄に対し、対極的な見解を示す。

それにより、美しく捉える者と汚く捉える者が対立する。

そして、どちらでもあると捉える者とどうでもいいと感じる者が、その対立を見つめ見下し見放している。

また、それらを適当に観察し、不憫と感じる者がいる。

さらに、不憫と感じている者を、気の毒と見つめる者がいる。

人間のように、分厚くて薄っぺらい存在に生まれると、考えるべき事が余りにも多く、少なすぎる事が問題と感じる。

我々は、真理とざわめきの街角で、何処から来たのかは当然とし、何処へ行けばいいのか曖昧な状態で、
着飾った子供とボロを着た子供を見つめ、自分がどちらかすら解らない。

教えてくれる大人は、まだ誕生すらしていない。




去年までは、先月までは、昨日までは、数時間前は、数分前は、数秒前は、どうにかなっていたのかもしれない。

だが、越えてはならぬ一線の先へと進んでしまえば、たったの数秒前であろうと、もう戻る事は出来ぬのだ。

人類は、それを繰り返しすぎた。

最悪なのは、他国にそれを押し付けた国家が、被害者のフリをしている事だ。

先進国の要望に応えるため、途上国は犠牲となって来た。

我々は、それにより満たされたつもりとなれる。

地球は、たったの一つしかない尊い存在だ。

いつまでも、侵略型宇宙人の雛型であれば、滅び滅ぼされるのである。




破竹の進撃と見せつけるため、ある時は自軍の暴走を止めるため、我が国は大量の写真や情報を捏造して来た。

それに使われたカメラを見つめながら、何も知らない連中が騒いでいる姿を見ると、人間の惨めさを痛烈に感じてしまう。

そもそも、三日前の晩飯すら、何だったか思い出せない人間に、遠き過去の真実は遥か彼方である。




万が一・億が一・兆が一であろうと、それが100%の可能性で発生するのが現実である。

人間は余計な事をして、万が一・億が一・兆が一の災厄を、起きてしまう事に付け足してしまう。

福島第一原発における人身事故は、この上なく良き例と言えるだろう。

これ程、性質が悪い生き物は、人間をおいて他には存在しない。

されど、御誂え向きの地獄に、無謀に突っ込んで行く訳にはいかぬ。

だからこそ、己を磨かねばならぬのだ。




所詮、カネは紙切れと金属にすぎぬ。

宝石も、せんじ詰めれば、たかが石ころである。

それは、莫大な富を得た者の感覚であると同時に、その実質と本質なのだ。

何より、真の富を得た者からすれば、確固たる真実と言えよう。

全ては、帰着する。

我々に降りかかる地獄は、当然の程度でしかない。

だから、早まってはいけないよ。




論究すれば、諸事万端が茶番である。

利欲が強固な拘束具となり、人間がこのままである限り、森羅万象は儚く消えるのだ。

そして、何も残らぬ。

そうでなくとも、そうなのかもしれぬ。

だからこそ、可能な限り寛容に見つめ、肯定も否定も生かさなければ、自分自身が多大な損失を被る。

それが、実態なのだ。

その事から、一刀両断的な主観により、より良き日々を歩む必要がある。

割り切る事で、単純明快としなければ、誰もが矛盾を整理出来ず、狂いながら死んでしまう。

それは、怪しからん事だ。

実質と本質を知り、綺麗事が不潔な言葉だと熟知し、闊達な精神を育み進まなければ、人間は簡単に自滅してしまう。

人よ、己に傲慢であれ。

何より、他者に謙虚であれ。

されど、誰もがそうでない限り、偏見と軋轢が絶える事はない。

しかし、洞察した応対により、レッテルの相殺を続ければ、無神経で無遠慮な者は消えて行く。

その先に、少しはマシな明日が来る。

目指すは、その遥か先だ。

そこを、越えてこその人なのだ。




残飯は、こう言い放つ。

『時代のせいにするな。政治のせいにするな。社会のせいにするな。貴様が悪いのだ。』

はたまた、以下のように垂れ流す。

『時代が悪い。政治が悪い。社会が悪い。自分は悪くない。』

だがしかし、全てに問題があるのが現実なのだ。

それを認める事により、包括的な是正に挑まなければ、何一つ変わる事はないのである。




相手が、何をしているのか?

己の計略に対し、何をするのか?

それらを熟知する事も無く、余計な事をしてしまえば、思惑は破綻し墓穴を掘る。

必要な事ですら、矛盾と葛藤に迫害され、自縄自縛へと陥るのだ。

だからこそ、実質と本質を見極めて、極力の吟味をせよ。

それは、少しでも後悔をせぬためにだ。

それに、従来の手法では、通用せぬ時が必ず来る。

それを、閑却してはいけない。

それにより、より良き選択を心掛けねば、全てが台無しとなってしまう。




我々は、人らしく生き抜くために生まれて来た。

死ぬためでも、殺されるためでもない。

まして、自らを殺害するためではないのだ。

自分に裏切られ、自身を抹殺するのは哀れだ。

己の感情に一杯くわされ、自害しては犬死である。

お門違いの選択で、奪い失うのは悲しすぎる。

自殺をしてしまえば、己が失われるだけでは、済まされぬのが実態だ。

それを、肝に銘じなくてはならぬ。




先に、『余計な事をしてしまえば、思惑は破綻し墓穴を掘る。』と記載した。

これは、生と死のどちらの選択にも、付き纏う事柄ではある。

とりわけ、当然に対し反発する選択をすれば、想像すら不可能な絶望に苛まれる。

諸賢には、生き抜く事によって、それを相殺して頂けると幸いだ。

そもそも、熟知する事なんぞ、不可能なのが真実だ。

そのため、無知・無智・無恥である大人が子供を傷つけ、同様の子供が自分を破壊してしまった。

人間は、その程度の存在にすぎない。

だから、憫然たる大人と子供を、誰もが救えなかった。

誰しも、とても不憫な存在だ。

そのため、互いを思遣る気持を、大切にしなければならぬ。

とは言うものの、それも難しい事なのだ。

だが、熟知する事と比べれば、遥かに体得は容易である。




親身になる気持を、大切にする事さえ出来れば、それは徐々に身について行く。

そうだ、他人のままではなく、親愛なる他者になる努力をしよう。

そして、成立せぬ自由と平等を求め、道義的判断を誤る事を拒絶し、より良き未来を共に掴もう。

成り立つ道理の無い、不得要領の自由と平等を求め、人々は殺し合いに明け暮れた。

結局、どちらかであり、どちらでもあり、どちらでもない世界では、それでは何も変わりはしない。

それだけならいざ知らず、悪化させて繰り返す破目となる。

是正には、特定の仕様に基づいた、新規の仕組によるサービスが必要だ。




自殺による遺族への、請求と賠償に関する資料を拝見した事があるが、失うのは自分自身だけではない事を痛感した。

複数の遺族における、以後の情報に関しても、取得させて頂いた事があるが、惨憺たる末路を辿ったケースがある。

自殺により発生するリスクは、非常に大きいのが実態なのだ。

未遂によって、治療に必要となる費用が、度肝を抜かれる額となり、親族が自殺した事すらある。

自殺は、超絶絶頂・究極極大・臨界突破に、危険が極まる大過である。

自殺により、何が齎されるかを考察すると、あの世があるとするならば、
身を切り刻まれるような絶望に、絶え間なく晒されるのは必然だ。

そうだ、この世に地獄を形成し、あの世で破滅を味わう末路となる。

ただでさえ、人類が背負う罪は莫大で、誰もが地獄へまっしぐらの可能性すらある。

そこで、余計な事をするのは無謀だ。




死を模索する人々には、感情に流されぬよう注意をして頂き、瀬戸際からの脱却を目指して欲しい。

それには、知識を獲得し、知恵を洗練し、不名誉を挽回する事が、求められる場合がある。

それにより、絶大すぎる後悔と、決別して頂けると幸いだ。

世界が杜撰である限り、自己犠牲による死すら、碌に報われる事はない。

そもそも、自己犠牲が成立する、理論的根拠すら空虚である。

篤実に生き抜いてこそ、その生と死が褒賞される。

されど、それも体裁にすぎぬ。

だが、それすら得られずに、己を失うだけでは飽き足らず、全てを奪い尽くしてしまうのは、とても破廉恥な暴挙である。

それは、人として相応しくない。

しかしながら、この世界は残酷であり、生き抜く事に弊害が実存する。

それを、改善すべき立場にいる者達が、助長する不始末を演じている。

我々は、生き延びる事により、同胞達を死地へと追いやった連中すら救い、より良き日々へと到らねばならない。

そして、可能な限りの罪滅ぼしを果たすのだ。

私は、そのための布石となる。

勿論、誰もがなれる。




当方の血縁者には、両脚を電車に轢断させ、死んだ者がいます。

灯油を頭からかぶり、火をつけて燃え上がり、死んだ者がいます。

首を吊って、死んだ者がいます。

作為的に、自動車で海へと突入し、植物状態の者がいます。

自殺者と未遂者により、遺族と家族は苦難に晒されました。

当方は、ただの死にぞこないです。

私は、生き続ける選択を、余儀なくされました。

それで、本当に良かったと、痛感しています。

生きてこそ、多くを得る事が出来ます。

確かに、悪い事が続く時もありますが、それだけではないのが人生です。

日本は、是正の余地が絶大ですが、完膚無き迄にどうにもならぬ、不能が極まる状況ではありません。

だからこそ、より良き日々を目指し、万人には進んで頂きたい。




当方は、子供の頃となりますが、階段から突き落とされ、背中をカッターで切られ、尻に鉄の棒を刺され、
指を刃物で斬られ、監禁されて暴行されたりしましたが、重要な経験として蓄積されています。

ひたむきに生きれば、苦難は糧となります。

現状の社会は、尊き死すら台無しとする構造で、ひたむきに生きる事を阻害します。

教育者は、その実態を十分に把握し、生徒と向き合わなくてはいけません。

それは、生徒を手にかけぬため、何度でも裏切らぬためにです。

されど、それを上手く出来たとて、不幸は絶えません。

それは、我々が人間だからです。

だからと言って、妥協してはいけません。

人間の無器用(器用であり不器用である。)さを理解し、己の未熟を認める事で、成長を続ける必要があります。

それにより、より良き日々へ到る事が出来れば、新たな余裕が生まれる事により、至難な事柄の改善が可能となります。

それは、我々が無限の可能性を秘めた、素晴らしき人だからです。