2013年03月30日 00:23 階段の選択 中編


ベネフィットの獲得には、常にリスクが付き纏う。

そして、デメリットを伴わぬ、メリットは実存しない。

何かを得るには、何かを与えるには、何かを失う事となる。

また、何かを得た事により、何かを与えた事により、何かを失う事となる。

さらに、何かを得られぬ事により、何かを与えられぬ事により、何かを失う事となる。

何と言っても、メリットを極小とし、デメリットを極大とする仕組なのだ。

擦り減らす一方である存在は、自分自身のメリットを追求し、デメリットを他者へと押し付ける。

販売する側は、己にメリットがあるから、他者にメリットがあると思い込ませ販売する。

購入する側は、己にメリットがあると思い込み、他者にメリットがあると思い込まされ購入する。

しかし、販売する側は購入する側ともなり、購入する側も販売する側となる。

そのため、入れ代わり立ち代わり、互いを貶めてしまうのだ。

それに、販売する側が抱くメリットも、所詮は思い込みにすぎない。

であるからして、相手を貶めるだけでなく、自滅の道を突き進んでしまう。

そもそも、自家中毒状態であり、自壊へ一直線なのが、人間と人類なのである。




唾棄すべきは、絶対の糧に程遠い存在で、他者の人生を食い物とする実態だ。

例え、表面は綺麗に見えても、本質と実質はドス黒い。

諸事万端は、綺麗にも下劣にも、捉える事が出来る。

そうだ、いくらでも綺麗に、いくらでも下劣に、感じ取る事が可能なのだ。

我々は、誤魔化す事に甘んじるため、綺麗だと思い込む事に耽る。

それだから、本質と実質から遠ざかるだけでなく、それらを何処までも腐らせる上に、
建前・自己都合・利己主義に弄ばれ、視野狭窄となり見誤ってしまう。

結果、安全論者と危険論者も、推進派と非推進派も、賛成派と反対派も、肯定派と否定派も、
無知・無智・無恥な状態で、楽観的な見解を並べ、独り善がりをする程度で、頭打ちとなっている。

最悪なのは、矮小が極まる次元で、水掛け論だと互いを慰め、相互の蒙昧を有耶無耶とする事だ。

ただでさえ、限られた分野の事柄にすぎぬのに、結論が出ぬのは誰かのせいだと喚くのだ。

ハナから、未来の事なんぞわからぬため、偉そうな連中が並べる御託なんぞ、憶測・推測・想像・空想・妄想でしかない。

それなのに、誰もが利いた風な口をきいて、己の無能を誤魔化す事に必死となる。

おまけに、何か問題が発生すれば、罪と責任を分散により誤魔化し、無関係を装ってしまうのだ。

それだけでは飽き足らず、主犯格や共犯者が被害者を気取って、同じ過ちを何度でも繰り返す。

いつしか、全てが誤魔化せなくなる時が来る。




あまつさえ、絶対の糧に程遠い娯楽商品は、夢と希望と悪夢と絶望をセットでバラ撒き、大人と子供を狂わせている。

それに取り憑かれた人々は、余計な事を執拗に教唆され、家族と友人と他者は当然とし、己の人生すら破壊してしまう。

それ故、その提供に関わった人材は、絶大な罪を背負う命運となる。

己達が、提供したコンテンツによって、人生を棒に振った人々から目を反らす事は勿論、
盗人猛々しく自己責任であると切り捨てれば、その罪は増長を続ける一方となる。

そう、それを否定すれば、それを認めなければ、何処までも深く沈んでしまう。

根幹の人材には、クリエーターやアーティストや様々な人材を、人殺しの道具とした罪は無論、
道具にされた人材が背負った罪、人々を食い物にした罪、食い物にされた人々の罪、
改善出来なかった者の罪、見過した者の罪が、重くのしかかる事となる。

これらは、ほんの一部にすぎない。

忘却してはならぬのは、誰もが己と相手の罪によって、雁字搦めとなっている事だ。

背負った莫大な罪により、この世で生きようと、あの世に落ちようとも、絶望を味わう破目となる。

自己による罪を排他しようとも、人間と人類が背負う罪は、究極極大・超絶絶頂・臨界突破に持て余す状態だ。

もし、この不逞を是正する事もなく、神に縋り赦しを求めてしまえば、さらなる地獄へと突き落とされる。

そんな、甘っちょろい虫ケラを許すほど、神様は甘くはないのである。

残念なのは、どれだけ罪滅ぼしをしたつもりでも、それすら罪を助長する、原因と要因にしかならない。

真の意において、贖罪を可能とする仕組が、これまでに存在していない。

結局、どれだけ罰を与えられようとも、贖罪には微塵もならぬのが実情だ。

それどころか、罰を与えた側が、落魄の身となる。

身の程をわきまえずに、余計な事をしてしまえば、そうなるのは必然なのだ。

それに関しては、以下の日記に記載している。

階段の選択 前編

されど、それを見過ごしてしまえば、決して許される事はない。

だからこそ、やらねばならぬ事がある。




現況の人間と人類は、コンテンツを楽しむには、余りにも未熟すぎる存在だ。

だが、クリエーターやアーティストは、それを十二分に考慮せずに、
人々に夢と希望をと語りながら、悪夢と絶望をバラ撒いて来た。

だいたい、自分がやりたい事をしているか、生きるためにしているにすぎない。

もし、その自覚が無いのであれば、未熟な自分自身に嵌められて、これからも堕ちる一方となる。

はたまた、その自覚があろうとも、打開する能力すら無ければ、辿る末路が変わりはしない。

本質と実質を是正する、正統となる指向性を軸とし、適宜な志向性へと導けるよう、
足並みを合わせなければ、歪みはどんどん大きくなる。

マスコミは、様々なレッテルを形成し、人々が淪落するよう誘導する。

誰もが、あちらこちらで、それと同じ事をしてしまう。

他にも、歪みを広げる原因と要因で、この社会と世界は満ちている。

それが、当然となる現実なのだ。

何より、誤魔化し有耶無耶とすればするほど、本質と実質は腐乱してしまう。

放っておけば、誰しも己に嘘をつかねば、それに気付かぬフリをしなければ、どうにも生きては行けぬ世界が、
家族や友人や他者を殺害して誤魔化そうとも、果てに己を抹殺する事で有耶無耶としようとも、
どうにもならぬ世界であったと、地獄で絶望を味わいながら実感する末路となる。

それは、諸賢には相応しくない。

それに、私が傅くと決めた『人』は、そのようなゾンザイではない。

君は君として、この世で究極の存在だ。

君以上の君は、最初から存在しない。

それを、傀儡のまま終わらせるのか、真実に変えるかは、君次第なのである。

厳密には、より不完全なまま幕を下ろすか、より完全となり刻みつけるかは、自分自身の選択に依存する。

しかしながら、その選択肢はおろか、必要となる仕組の雛型すら、何処を見回しても見当たらなかった。

当方は、その選択肢を用意した。




嘗ては、誰しも主役だった。

しかし、いつの頃からか、誰もが端役となった。

そうなるのは、現実そのものを履き違えて、ずぼらに進んで来たからである。

人々は、脇役を演じる事を余儀なくされ、そうではないと己を誤魔化すも、
それではどうにもならずに、舞台から転落し消えて行く。

残された傍役は、茫然と立ち尽くすのみだ。

途方に暮れるのは、目的と目標を付与してくれる、手本であり見本となる存在が、何処にもいないためである。

時折、エキストラは思い込みで導き出した、過誤した方法で主役になろうとし、とても余計な事をしてしまう。

そして、周囲もその真似をして、ステージから足を踏み外し、次々と転げ落ちていく。

果ては、全ての演者が消え失せて、二度と動かぬライトが、舞台を虚しく照らすのだ。

暫くすると、ライトすら消えてしまう。

原初より、政治家であろうが、富裕層になろうが、清く生きたつもりだろうが、
その命はゴミクズと同然か、それ以下にしかならない、杜撰な仕様の仕組である。

所詮、全ては独り善がりで終わり、舞台に立つ役者になろうとも、気分を味わっているにすぎぬのだ。

当方は、目的と目標を集約し成し遂げる事により、手本であり見本となる存在へ、人間と人類を案内する所存だ。

そして、誰しも主人公である状態を形成する。

私は、主役達を舞台裏や観客席で、支え続ける存在となる。





どん底の状態におかれている、猶予と余地が無き人々に、より良き日々を捧げようと、多くの人材が邁進している。

されど、お門違いの思考によって、誤魔化し有耶無耶とする方法を、無謀にバラ撒いているだけだ。

そんな連中に耳を貸してしまえば、実相たる真の世界の状況から、
本当にすべき事柄からも、遠ざけられてしまうのだ。

だから、君が救われる事もなく、連中ばかりが肥えて行く。




ただでさえ、何も判らぬ状態であるのに、偽る事ばかりを吹き込まれれば、
悩みが解決せぬだけでなく、挙句には狂わされてしまう。

果ては、矛盾による葛藤により破局し、完璧にチンプンカンプンとなり、
破廉恥な事をしてしまうし、させられてもしまうのだ。

だから、これからも悲劇が巻き起こる。

それに巻き込まれぬよう、引き起こしてしまわぬよう、
至極に信じられる自我を、自分自身で育み続けよう。




自己啓発セミナーやセラピーは勿論、様々なコンテンツによる影響で、
余計な事を唆されるのは、なんの変哲もない事である。

そもそも、破滅を誘発する効果は、あらゆる存在が保有する。

そうだ、家族や友人や他者や自分すらも、相互に作用する存在である限り、多大な過失の原因や要因となる。

であるからして、諸事万端が引鉄となって、誰かを殺してしまう事なんぞ、必然たる些細な事にすぎない。

しかしながら、その明白である些細な事にすら、予防措置を完全に失念し、
未然に防ぐ事すらないまま、ここまで突っ走ってしまった。




今もなお、誰もかれもが生きるために、とんでもない事を繰り返している。

そう、家族のために・友人のために・誰かのためにと綺麗事を並べ、
自分のためにそれらを犠牲とし、自身すら完膚なきまでに砕いてしまう。

我々は、そんな事を毎日のように繰り返し、微塵も気にならなくなってしまった。

それにより、これまでに失った存在は、あまりにも莫大なのである。




空虚な存在は、何一つ勝ち得る事も無く、余計な事をしすぎてしまった。

その蓄積による反動が、途轍もなく恐ろしい現象を、引き起こしてしまう時が来る。

諸賢ならば、滅多にないと考察するが、絶大な失態による失墜は、極限まで退けて欲しい。

人間と人類が許されるには、計り切れぬ時間が必要なのだ。

先ずは、その資格を獲得せねばならぬ。




夢や理想を追いかけて、形成されたのが現実だ。

しかしながら、その夢は拙い妄想であり、理想は欲望に満ちていた。

そのため、悪夢さながらの空間を、現実と呼ぶ破目となった。

当方は、それを本来あるべき、現実へと更改したい。

私には、拙い妄想と欲念の理想を追いかける、余裕もなければ感性すら無い。

残念ながら、そこまであんぽんたんにも、おたんこなすにもなれなかった。

言いかえれば、つまらぬ人間なのだ。

何より、悪夢さながらの世界を、純正の現実と錯覚出来るほど、強くも器用でもないのである。

どうしても、ありのままをみてしまい、滑稽な夢や理想のなれの果てと、現況を認識してしまうのだ。

されど、あるべき現実を渇望したとて、所詮は夢や理想を追いかけるだけだ。

だから、私は追いかけるだけで、終わらぬ方法を模索して来た。

それとて、実現せぬ限りは、青臭い幻想である。




何もかもが、使い捨てにすぎぬ世界で、何かを得たつもりとなり、
幸せであると思い込んで、自分すら使い捨ててしまう。

気付かなければ、それでいいのだろう。

しかし、全く気付かずに生きるのは、極端に恵まれた環境でもなければ、不可能と言えるのが実相なのだ。

つもりともなれず、思いこむ事すら叶わず、多くの者が辛酸を嘗めている。

どうであるにせよ、多寡がその次元のために、余りにも多くを奪いすぎた。

そのため、我々は生まれた瞬間より、その報いに晒されている。

そして、食い荒らしながら生きている。

その報いすら、次の世代へと降りかかるのだ。

それを繰り返した果てに、誰も生まれぬ明日が来る。

現状では、使い捨てにしか出来ぬからこそ、つもりにしかなれぬからこそ、
思い込みで終わってしまうからこそ、全霊を傾けて大切にしなければならぬのだ。

そうする事を心掛け、人間と人類としての、目的と目標を明確とし、
生きる理由を確固たる次元で、述べられるようになれば、それは恙無く継承されていく。

歩むべき、明日を掴もう。




これまでの人生で、何を学んだんや?

質問しとくる相手が意図する範囲で、明確に答えられるようにしとかな、
態度で示せる心構えをしとかな、ホンマにどうにもならん時、
どうにもならんままで終わってまう。

そのためにも、洗練せなアカン。

重要なんわ、証明出来るよう、やるべきをしとく事や。

しとかな、本当の意味では救われへん。




ワイらの盲点は、今を生き抜く事に、必要となる事しか、考えとらん事や。

それも、ピンからキリまであるんやで。

そないだから、奇怪なしがらみによって、理屈が屁理屈にしかならん事を、洞察しきる事が叶わずに死んでまう。

せやから、本当の理由すら分からずに、的はずれなソレで悩み続けて、正解を導き出す事も出来んのや。




ワイは、それ少しでも埋めよ思うて、日記を綴っとるつもりや。

所詮は、つもりにすぎへん。

せやけど、そんな事すら考えとかな、生き残れへんのが界隈なんや。

それは、これからもっと過酷になる。

人間ちゅう生き物は、新たな発想を手に入れると、使いたくてしょうがなくなる。

それが、これからホンマ怖い事を、何遍でも引き起こしてまう。

なんで、そうなってもうたのか、少しでも早く理解するためにも、読んでおくとええかもしれん。

まあ、誤魔化せる程度の日々が、これからも続くんやったら、どうでもええ内容やけどな。

そうやないから、ワイはやると決めたんや。