2013年03月27日 23:55 階段の選択 前編


我々には、義務も責任も価値も権利もない。

何一つ、ないのである。

全ては、曖昧な妄想にすぎぬのだ。

そうだ、極大たる不条理が横溢する、相身互いに根絶やしとする、没義道が荒れ狂う世界では、人生すら白昼夢で終幕する。

それで、どれほど満たされようと、どれだけ満たされまいと、悪夢に魘されるだけなのだ。

然らば、目の前にどれだけの存在があろうとも、それは蜃気楼と変わりはしない。

結局、搾取と消費に利用され、ボロ雑巾のように廃棄され、消え失せる事を強いる社会では、己すらおぼろげな幻となる。

それが、どれだけ華々しく見送られようと、破廉恥な悪習によって、葬り去られただけだ。

その、朦朧かつ悲惨な状態で、ただ無に還るならまだしも、不具合を刻んで没してしまう。

既に、莫大な綻びの蓄積により、ひき返す事は不可能である。

だからといって、浅薄に前進を続けてしまえば、さらにどうにもならなくなり、どうにも出来ぬ事柄が増えてしまう。

要するに、人間と人類の営為なんぞ、無意味を通り越して、不意味でしかない。

挙句には、あらゆる意味を打ち消し、悉くを玉砕により殲滅し、諸事万端を台無しとする。

本質を是正し、実質を篤実に更生せねば、どれだけ叡智を極めようと、その命運が変わりはせぬ。

このことから、意義のある取り組みにより、惨憺たる末路を峻拒せねばならない。

それにより、知るべきを熟知し、天地万物を携えて、飛躍と躍進を貫徹するのだ。

それまでは、訳もわからずに生まれ、訳もわからぬ事を繰返し、訳もわからずに死んで行く。

そう、何も知らずに、何も持たずに、我侭に徘徊し、不遜な躯となる。




全てが、希望的な狂信である、悪夢にすぎぬ世界で、我侭で偏狭な存在は、妄念を真正と思い込み、余計な事をしてしまう。

それにより、家族と友人と他者は当然とし、自分自身すら破滅させるのだ。

自己には『ある』と高を括り、相手には『ない』と決めつけ、暴挙に走る者が最上の墓穴を掘る。

ハナから、誤魔化し有耶無耶とし逃散する、腐れ果てる一方の杜撰な仕様の仕組では、
すべき事としてはならぬ事が、自然作用により確定されている。

もとより、あらゆる『方法』に対し、それらは定まっている。

ここでの方法とは、文明を設計・構築・運営・管理し、人間と人類を開発・運用・保守し、
それによる社会と世界を維持・繁栄させる、様々な仕様の仕組を定義する。

我等の命運は、唯一無二の神たる実存である、自然作用により制御されている。

これとどう向き合うかによって、万物の霊長たる存在の生涯は変化し、行く末が大きく左右される。

そのため、それが方法の基軸となる。

現状は、だらだらと進んでしまい、やるべき事を完全に失念し、何もしなかった場合における、最下級の状態にすぎない。

故に、世界は死屍累々の光景で溢れ、予断を許さぬ爆発寸前のあり様だ。

だからこそ、現況ではそれを見極めて、誠実で闊達な精神を育み、日々を乗り越えねばならぬ。

されど、傲慢で不浄な実存は、執拗で稚拙な人間は、陳腐で阿房な人類は、
してはならぬ事ばかりに、明け暮れる事しか出来ない。

それでは、何処で何をしようとも、所詮はつもりで終わってしまう。

そうなるのは、履き違えた状態で進んでいるがために、マイナスとなる領域で蠢くしかないからだ。




これより、方法と将来を簡易に示すため、自然作用を神と表記する。

重要なのは、どのような関係を、その神と築くかだ。

密接不可分となる対象とは、良き関係を構築しなければならない。

しかしながら、相手は主我主義の神様で、余りにも絶大な存在なのだ。

そして、こちらは人類とされる、無数による強大な存在だ。

それを念頭に置かず、付き合い方を過誤すれば、とんでもない終末を迎える事となる。

なんせ、相手は神なのだから。

その上、身勝手な人類なのだから。

即ち、『究極の個』と『全による極大』には、それ相応となる付き合い方がある。

であるからして、最良となる選択をすればいい。

では、いくつかの方法を紹介する。




神に支配される方法では、マイナスの領域を彷徨い、突発的に絶滅してしまう。

誰かに、振り回される一方であれば、誰しも思い通りには生きられず、どうにか思い通りにしようと、
余計な事をしてしまえば、振り回す側の逆鱗に触れ、叩き潰されてしまうのだ。

言い換えれば、身の程をわきまえずに、余計な事をしてしまえば、自ら相手に打ちのめされる。

とどのつまり、僭越ならば自滅する。

つまり、陰極である悪循環の袋小路の坩堝のような世界で、
無数に犇めいている存在が我侭ならば、自身と自分達によって、立ち退きを余儀なくされる。

それが、どのような世界なのかは、以下の日記に記載している。

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 上

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 中

☆ 最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 下

要は、これに内在するバリエーションの最下に、現在の人間と人類と社会と世界は所属している。




神に依存する方法では、マイナスとゼロの領域を彷徨い、突発的に絶滅するか、ゆっくりと滅び去る。

誰かに、縋って生きるのであれば、その関係を維持するためにも、余計な事は未然に抑圧される。

しかし、主従関係を下手に壊そうとすれば、相手に叩き潰される場合がある。

それに、誰かに縋り付いて育った存在は、その庇護がなければ生きてはいけない。

それに関しては、以下の日記に記載している。

☆ 是正への階段

これには、様々な形態で人々が所属してはいるが、時点では神に支配される方法に格納されている。

宗教に依存する者達は、自分達が信仰する神により、これを上昇させようとする。

だが、それがどれだけ定着しようとも、神に支配される方法を経ち切れず、同じように滅亡する破目となる。

尚且、それを定着させるためには、多くの血が流れるのは必定なのだ。

現在まで、碌な成果も挙げられず、理不尽に数多の命が奪われて来た。

何と言っても、指導者の選択を誤ってしまえば、一日を経たずして滅びる場合がある。

絶滅する事により、神への信仰心を示そうとする者・不老不死となろうと訴える者・何かを成就しようとする者が、
絶対的な力を有してしまえば、簡単に崩壊してしまうのだ。

そうはならぬよう、多くの血が流されぬよう、当方なりの機構を策定し、
不可欠な情報を編纂したが、壊滅は不可避であるため、別の方法を模索する事とした。




神と列席する方法では、ゼロの領域を彷徨い、ゆっくりと滅び去る。

誰かと、拮抗し均衡を保つのであれば、余計な事は未然に相殺され、寿命が来るまでは互いに生きられる。

しかしながら、実質と本質が均質になるだけで、飛躍と躍進を望む事は叶わない。

これにも、様々な形態で人類が所属しており、神に支配される方法に格納されている。

厳密には、出たり入ったりを繰返し、余計な事をする時はして、せぬ時はしないだけだ。

それによって、人間も人類も社会も世界も、どうにか生きながらえている。

多くの者が、神と列席する方法を、現時点で目指してはいるが、もはや手遅れの状態である。

ニッチもサッチもいかぬ状況で、これを実現するためには、完膚なきまでに破壊してから、やり直さなければならぬのだ。

この空間は、それを完遂しようとする、とんでもない怪物達で満ちている。

ここまで来てしまった、原因と要因の一端は、そんな連中が担っている。

ただしそれでは、一歩間違えてしまえば、何もかも終わってしまう。

当方が所属している、世界最大の機密組織は、勃興と滅亡を掌で制御し、神に並ぼうとしている。

その組織には、主要な宗教に所属する、各国の偉大な方々が在籍しており、多大な抑止力となっている。

この規模を、上回る組織は存在せぬが、より危険と断言出来る集団が、ゴロゴロしているのが現実だ。

あくまで、当方は京都に本部があった、老舗の機密組織に所属していたが、
それがそちらに吸収されたため、自動で編入されただけであり、私にはかような考えはない。

あるのは、これを回避する計略である。




神を踏破する方法では、ゼロとプラスの領域を彷徨い、非常にゆっくりと滅び去る。

誰かが、自分の支えでもあり、足枷でもあるならば、誤魔化しながら上手くやるしかない。

しかれども、誤魔化す事には限界がある。

その事から、どうすればよいかを明確とし、切り捨てて進むしかない。

切り捨てるは、自然作用による、因果の報いである。

端的に言えば、割り切る事によって、打開策を手繰り寄せて、切り抜けられるようにする。

実質と本質が、最下の次元である事を知覚し、だからどうすべきかを明確とし、少しでも遠くへ到れるようにするのだ。

実質と本質がどの程度であり、何を割り切るべきかは、以下の日記を辿って欲しい。

☆ 境界の考察

☆ 世界を見つめるため、仮の話をしよう・・・。(改良版)

以下の日記も、参考となるだろう。

☆ TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。

☆ 大津いじめ自殺事件への考察

最初から、外部の人間を入れようと、女性を登用しようとも、どうにもならぬのが真相だ。

にもかかわらず、問題が解決されては、居場所を失う評論家のように、
クソの役にも立たぬ御託を、馬鹿の一つ覚えのように、誰もが連呼を続けている。

自分の存在に意味を持たせるため、周囲を見殺しにするのは、
そろそろ仕舞としなければ、それを見抜いた存在によって、ぶっ殺されてしまう時が来る。

そうならぬためにも、成すべきを見極めて、少しでも前へと進もう。

さりとて、自然作用に振り回されずに、乗り越えられる程度の方法では、瞬く間に効力を喪失してしまう。

当方は、神に依存する方法のため、導き出した手段を改良する事で、
それを持続させる措置を追求したが、それでも絶滅は不可避と把握した。

従って、次の方法へと辿りついた。




神と融和する方法では、プラスの領域を彷徨い、滅多に滅びる事はない。

特定の布石と方策により、自然作用を限界まで掌握する事で、滅び去る事を極限まで退けるのだ。

より確実となる、不滅を求めるのであれば、神と融和する方法における、
先々へと進めるバリエーションの範囲内へ、六合と空間を誘導する必要がある。

原初から、適宜な仕様の仕組により、至当となる変遷を促す事で、
正統な仕様の仕組を定着させ、正当な是正を実現せぬ限り、全ては余計な事で終わってしまう。

それが実現されようとも、集約からの展開と展開からの集約を実行し、
遥か先々へと到り続けなければ、真に勝ち得た事にはならない。

究極極大・超絶絶頂・臨界突破において、贖罪を果たし続けなければ、全てが浮かばれる事はない。

まして、許される事はない。

自然作用と融和する方法で、是正が実現された世界は、楽園と呼ばれるに相応しい。

嘗て、楽園があったのならば、それは概念と定義が僅かであり、知識が無かったからこそ、成立したにすぎなかった。

なのに、正当か不当かを判別する、正統な仕様の仕組を欠いた状態で、
概念と定義が増殖を続けてしまい、知識ばかりが豊潤となったため、世界は地獄となってしまった。

何より、取得する知識の格差が、様々な枠組を乱立させ、どうにもならぬ状況を形成している。

その限りでは、中央集権国家を目指そうとも、中央集金酷家しか築けぬ。

それに、法治国家を目指そうとも、放置酷家で関の山となる。

おまけに、余計な事をしてしまえば、あの世があるとするならば、この世だけでなくあの世でも、絶望を味わう破目となる。

是正により、すべき事・しても良き事・してはならぬ事が、精確な理由も含めて明確となる。

結果、人間と人類は迂闊な事を、未然に退けられるようになる。

しかし、間違った事をしてしまえば、絶望を回避する事は叶わない。

確かに、贖罪を果たす事が可能となるが、どれが導入されるかによって、その度合いは大きく変化する。

あまつさえ、自然作用と融和する方法と、異なる方法を選択した場合、絶滅の命運から逃れる事は叶わず、
神が実存するのであれば、その逆鱗にすら触れてしまい、悉く打ち滅ぼされてしまうのだ。

大半の是正を願う者すら、自壊に向かってまっしぐらだ。

先にも記載したが、全てを救い進まねば、そこに真価はない。

とは言うものの、成就までは誰も救えぬだけでなく、見捨てる事を余儀なくされるのが、事実・真実・現実・実情・実態・真相だ。

当方は、その罪と責任を糧として、真の是正を成し遂げる。

はてさて、私は何処まで行けるのだろう・・・。

先々で、人間と人類は何をしているのだろう・・・。




死後、無意識・無存在となるか、そうではないかに関係なく、余計な事に及んでしまえば、とんでもない絶望が待ち受ける。

だからこそ、間違いを拒絶する事で、リスクを最小に抑えつつ、人生を最大限に謳歌すべきだ。

併せて、見せかけだけの世界を、本式に変える事が出来たなら、とても素晴らしき事である。

さすれば、より多くを獲得する機会にも恵まれる。

私には、意外な結果も見えている。

それも、楽しみでしょうがない。




あると思うとっても、実はあらへんから殺されてまう。

そんなんやから、裏切られてしまったんや。

ないと思うとっても、実はあったから命を救われる。

せやから、見捨てられずに済んだんや。

ある思うと、あらへん。

ない思うと、ありおる。

思った通りにある。

思った通りにない。

めっちゃ、ややこしいわ。

どれがホンマなんやろ?




あると見せかけて、実はあらへん。

ないと見せかけて、実はありおる。

見たまんまある。

見たまんまない。

どうであろうと、ありのままが真実なんや。

なんやゆうても、まともな見本と手本があらへん。

ハナから、そんなもんは朧気や。

せやから、そうなるんは決まりきっとる。

だから、ただ流されるだけで、刻めずに終わってまう。




ワイらには、見本と手本と目的と目標があらへん。

あると思うとっても、それは茫漠たる蜃気楼なんや。

確かに、個人のレベルに限定すれば、十分と言えるソレはあるやろ。

問題は、種族として全体として、必要なソレが混濁しとる事や。

ワイは、統合して成し遂げる事で、それ明確にする気満々や。

それせな、ワイらに未来はない。




誰かが、勝手にやりおる思うとっても、やらへんかったらそれで終わりや。

せやけど、必要無く終わる事は、考慮せなあかん。

他にも、ぎょうさん注意すべき事がある。

何より、真摯かつ篤実かつ闊達に、生きてこその人であり人生なんや。

だからこそ、少しでも前を向いて、生きれる選択して実現する。

それは、めっちゃ楽しい事なんやで。