2013年03月07日 23:00 是正への階段


TPPにおいて、超絶絶頂に恐ろしい事は、直感的・感情的・論理的な意義で、人々が甘やかしから解放される事である。

甘やかされて育った存在は、堪らなく傲慢な上に、酷く脆い存在なのだ。

そのため、自分本位の最悪の終焉を、当然の如く引き寄せてしまう。

しかれども、甘やかす事には限界がある。

そうだ、底なしに機嫌を取れば、甘やかす側が疲弊してしまい、その果てに頽れてしまう。

とにもかくにも、いつまでも過保護であれば、庇護が無ければ生きては行けぬ、どうともならぬ存在を生み出してしまう。

とは言うものの、蝶よ花よと育てられた存在は、もうそれなしでは生きられない。

だから、良かれと思い解放しようとも、それは即座に虫の息となり、救済せねばならなくなる。

おまけに、疲弊し衰退した分だけ、元の状態へと戻すのに、余計な手間と費用がかかる。

あまつさえ、どれだけ立ち直らせたつもりでも、それはつもりにしか過ぎぬため、
どうにかなると思い込み、再び旅に出してはみるが、泣きべそをかいて帰ってくる。

それに、どれほど育てられる側が変わろうとも、変われぬ者達の巻き添えは当然とし、
たかる連中の餌食となるのは勿論、自分自身で余計な事をしてしまい、
どうにもならなくなって、何遍でも戻ってしまうのだ。

確かに、帰らずに済む場合があるが、様々な形態で誰かに依存する事で、一時的に繋ぎ止めているだけである。

それが困難となれば、どれだけ面倒を見てくれようとも、
不要と突き放した存在にすら、都合良く縋ろうとしてしまう。

されど、帰る事が出来る場所が、残っているとは限らない。

まして、余りに面倒な存在となれば、どれだけ親密であろうとも、拒絶される場合すらある。

そうだ、時間の流れによって、頼り甲斐があった存在は、様々な理由で変化し消えていく。

厄介な存在の面倒を見たために、滅んでいる場合もあれば、
面倒を見た側も大差なき存在であったため、
自滅している場合すらあるのだ。

無論、相手を思って突き放す場合、自分自身のために一蹴する場合、
能力の不足により断るだけの場合、老いにより亡くなっている場合もある。

状況により、助けを求められた側が、灸を据えるつもりで、それを断ったがために、求めた側に殺害される。

あるいは、助けを求める側が、思い浮かぶ限界まで、支援を求めはしたが、それではどうにもならず、
雁字搦めの状態で自暴自棄となり、自殺での逃避を選択したり、局外者を傷つけ殺めてしまう。

他にも、様々な経緯によって、支える側と支えられる側が共倒れし、
どうにもならぬ負債だけが残り、全体を腐乱させてしまうのだ。




どれだけ、良き流れに見えようと、永遠に続くと思われようと、長く続いて終わるのか、短く終わるかの差しかない。

我々は、余計な事に金銭を浪費し、肝心な事が出来なくなり、守るべき対象と手順を過誤し、
何にどれだけ費やそうと、墓穴を掘ってしまうだけでなく、その失態を誤魔化してしまう。

万物の霊長は、互いがそうなるよう、教唆する事で精一杯だ。

かような存在には、永遠なんぞ望むべくもなく、絶滅こそがピッタリなのが真相だ。

結局、育成の方法に問題があれば、どうにもならぬのが全容なのだ。

はたまた、未然にそうはならぬよう、養成に励んだつもりであろうと、
総体たる人類と世界が、悪循環の袋小路である限り、辿る末路が変わりはしない。

ハナから、自分自身に甘やかされて、ただ老いぼれる人間と人類には、
それが御誂え向きであり、仕様上の限界なのである。

最初から、食い潰すしか能がない、自滅するだけの存在には、絶滅を加速させるのが関の山だ。

であるからして、TPPに参加しようと、それに参加しまいと、得られ失い奪われる、実質と本質が変わりはしない。

もとより、TPPに参加すれば、それに参加しなければ、それなりの不具合に晒される。

どちらにしろ、それ相応の綻びが発生し、不平と不満が増大するのだ。

それに、決断に時間がかかった分、それに時間がかからなかった分、様々な不都合が発生する。

どちらの選択にしろ、それは余計な事でしかないため、デメリットがメリットを上回る事はない。

この、陰極の表裏一体の世界では、悪循環の袋小路が鬩ぎ合う空間では、それは不可避なのが実態だ。

何より、TPPによって実施されるのは、甘やかしからの解放だけではない。

そもそも、甘やかしからの解放は、TPPの一面に対しての、たかが一つの解釈であり、
同時に作用が生じる事となる、他の解釈によるリスクにも、細心の注意が必要となる。

解釈に精通しなければ、どれだけ資料を熟知しようとも、所詮その程度で得らる認識は、
目視や体感による憶測と大差ないため、間違った決断を下してしまう。

それに、建前・自己都合・利己主義に弄ばれ、いつまでも道義的な判別が叶わない。

それにより、優秀とされる人材は、卒塔婆でスキーを嗜み、墓石でボブスレーを楽しみ、骨壷でカーリングをしている。

しかしながら、分析に通暁していようが、見定めた問題を打破しうる、能力がなければ無意味だ。

それを、十二分に考慮せねば、ただでさえ思い通りにならぬ事が、どこまでも儘ならなくなってしまう。

また、新たな呪縛に拘束される事も、大きな痛手になると想定される。

さらに、TPP発行の事前と以後に、米国で可決される法案により、より多くを失う破目となる。

それだけで済まされぬのが、これからの流れである。




旧政権の状態では、だらだらと失う流れであったが、
新政権の状態では、許容が出来ぬ勢いで、奪われる公算が高い。

まあ、前政権が持続していようとも、似たり寄ったりの状態となっていた。

体制に関係なく、TPPに参加しようが、それに参加しまいが、後にも先にも責められる。

いずれにしても、予期される想定外が発生すれば、一色単に吊るし上げられるのだ。

それでは、連中が逃げる事はおろか、救う余地すらなくなってしまう。

どうにか誤魔化して逃げようとするが、あがけばあがくほど深みにはまり、最期は己に殺害されて仕舞いとなる。

そうでなくとも、より多くが失われる状態へと、日本政府はまっしぐらだ。

TPP云々に関係なく、政治家と官僚には、政治や政府とされる枠組では、それで限界なのが実相だ。

即ち、政策は諸刃の剣となり、どれだけ景気が上昇しようとも、
それは上昇を遥かに超える次元で、景気が下降する前兆でしかない。

それに、ないモノをあると見せかけて、使い続けた反動は、途轍もなく大きい。

詮ずるところ、TPPは僅少の事柄であり、氷山から滴り落ちた、水滴の中の埃なのだ。

それすら、総攬する事も出来ずに、末路を引き寄せるのは、水泡に帰してしまうのは、仕様上の都合にすぎない。

我々は、その実態を把握する事により、連中を抹殺する事によって、
憂さ晴らしをするような、履き違えた選択をしてはならない。

その事から、現況の人類と世界に刻まれている、杜撰な仕様の仕組の状態では、
妥協により何をするしかないか、妥協せずに何をするべきかが見えてくる。

臨界突破に危惧すべきは、勝手に進行する全球化によって、様々な枠組の格別性や特別性が損失し、
信用と信頼の維持が困難となるだけでなく、多大な抑止力が失効してしまう事だ。

人間は、誰かのせいにしなければ、自分自身を誤魔化す事が出来ぬ生物であり、
未然に対応する事に対し、余計な事をするなと激怒するだけでなく、
直後に対応する事に対し、なんで今さらと憎悪する。

なんとも、おぞましい存在だ。

さらなる、形骸型となる全球化の進行は、より劣悪な化物や軍勢へと、人間と人類を変えてしまう。

諸賢には、考察する事により感情を制御し、本能で怒り狂う化物となり終わる事を、相殺し拒絶して頂けると幸いだ。

我等が成すべきは、過ちを極限まで退け、適宜な仕様の仕組を展開し、先々へと進み続ける事である。




人間は、生まれ死んで行く。

人類と社会は、全てを擦り減らしながら、繁栄と没落を繰り返す。

世界は、誕生し滅亡する。

我々は、その狭間で途方に暮れて、ギリギリの状態で生存している。

このまま、自然作用に蹂躙され、弄ばれるだけならば、微々たる改善すら叶わずに、
何処で何をしようとも、空回りを続けてしまい、一触即発の窮地からは、いつまでも逃れられない。

それでは飽き足らず、間一髪で持ち堪えている、その一枚の首の皮は、薄くなる一方なのだ。

それは、刻々と薄くなり続け、栄華を極めてしまえば、急激に希薄化してしまう。

そうなるのは、たった一時の隆盛が、将来を擦り減らす事で、未来にツケを残す事で、得られるにすぎぬからだ。

何しろ、消耗する一方の存在は、その無秩序な食い潰しが、
様々な理由で頭打ちとなると、目に余る方法で誤魔化そうとする。

そもそも、日々がその積み重ねである。

だから、仕切り直そうとも、入れ替えようとも、繰り返したその果てに、立ち消えを余儀なくされる。

人々は、栄光が無期限に存続すると信じ込み、意のままになると決めつけ、余計な事をしすぎてしまう。

その、傲慢な先駆者によるツケが、後進者を全方位から圧迫し、
時として甚大な事故を誘爆させ、人々の財産と生命と人生を略奪してしまう。

あるいは、どれ程の貧困に見舞われようと、莫大なツケを背負っていようと、現状から逃れられると思い込んで、
余計すぎる事を繰り返した挙句に、ニッチもサッチもいかぬよう、完膚無き迄に台無しにするのである。

そして、これまでに無数の皮が打ち切れ、文明も国家も集団も個人も、滅び滅ぼし滅ぼされて来た。

その命運は、自然作用に翻弄されずに、あらゆる矛盾を割り切って、
切り抜けられる仕組でもなければ、免れる事は不可能なのだ。

そんなこたあ、誰もが見失い迷子となる姿を見れば、それを誤魔化すしかない現実を察すれば、
諸事万端を如実に洞察し、実質と本質を見極めれば、誰しも把握する事である。

されど、自然作用に翻弄されずに、割り切って切り抜けるだけの方法では、首の皮が少し丈夫となるだけだ。

だからこそ、自然作用と融和する事により、人類が新たな黎明を迎え続けられる、
人間による世界を永遠に持続可能とする、恒久の社会を形成するために、適宜となる仕様の仕組が必要だ。

当方は、それをETERNAL SOCIETYとしている。

また、恒久の社会を運用・管理・保守し、それを連綿と発展させられる、適性となる仕様の仕組も欠かせない。

当方は、それをETERNAL SOCIETYによる、政策サービス・治安サービス・司法サービスとしている。

さらに、あらゆる仕様の仕組を根幹から、提案・構築・運用・管理・保守し、
臨機応変な想像力と、至誠な創造力を保有する、至適な仕様の仕組が必須となる。

当方は、それを夢限-Eternal Societyとしている。

無論、内在・外在・内在し外在する、多種多様な仕様の仕組も不可欠だ。

ハナから、手遅れとなる事は当然とし、滅亡から生き残る事によって、
その遥か遠い先において、自然作用と融和する方法は、
誰かが現実に展開する事ではある。

それは、目的と目標が同じ人材であれば、原初から到達する方法であり、
夢限-ESがESに対して提案する、バリエーションのどれかとなる。

厳密には、それしか方法が無いため、同一の結論へと到るのだが、それには複数のバリエーションが実存する。

ただし、それを実現する過程で、参加するスタッフが、何を生み出すかが、大きく異なってくる。




しかれども、真の是正が実施されるのは、凄く稀な事なのだ。

それが、いつまでも出来ぬままであれば、繁栄と衰退と進化と退化を繰り返し、いつの間にか滅び去るだけだ。

これまでは、是正を目指しているつもりでも、何も変えられずに終焉を迎える、
余計な枠組が増加する一方で、実質と本質は是正されていない。

それどころか、不要な枠組が乱立する事によって、より矛盾が助長される状態となり、実質と本質が劣化を続けている。

その限りでは、自然作用に振り回されずに、割り切って乗り越えられるだけの、
現況に毛を生やした程度の方法では、瞬く間に効力を喪失してしまう。

そうなるのは、是正の方法を過誤した集団が、自分達がどうにもならぬ状況を、
どうにもならぬ方法によって、どうにかしようとするからだ。

それにより、世界中で多くの人々が、理不尽な思いに苛まれ、迫害され惨殺されている。

おまけに、神に縋る方法であれば、先に行く方法が導き出せず、現況の状態に戻る破目となる。

あまつさえ、神と並ぶ方法であれば、神と同じ事を繰り返すだけで、先には行けなくなってしまう。

もはや、それでは足りぬのが真相だ。

だが、是正を望む者の大半は、ここまでで頭打ちとなる。

しかしながら、より適宜な方法を施そうとも、成すべきを続けなければ、先々へは進めぬままなのだ。

何より、そこにすら到達せねば、富や名声や名誉や栄誉や価値や権利も全てが偽物で、
どれだけ得たつもりだろうと、与えたと確信していようとも、
奪い失い奪われるだけで終わってしまう。

そうはならぬため、その先々へと到る方法がある。

自然作用を掌握する事により、誤魔化す事もなく、割り切らずとも、
連綿と先々へ進む事を可能とする、神が実存するのであれば、
永らく待ち望んでいたであろう方法が実存するのだ。

それさえ、現実に展開が出来れば、本物を手に入れる事が叶う。

偽物のために思い悩んでも、碌な解答には辿り着けない。

本物であれば、不要な事で悩まずに済む。

例え、様々な葛藤があろうとも、それはその先への糧となる。

究極極大において、初めて人間も人類も、前を向いて進めるようになる。

そうだ、社会も世界も空間も、進むべき方向を見失わず、突き進む事が出来るのだ。

当方は、策定した手順により、万人の夢を現実に展開し、シンプルでクリアーな是正を実現する。

それを、より円滑に実施するため、己を洗練し続ける所存だ。