2013年03月04日 01:05
最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 中
一つの事柄には、無数の解釈がある。
大事なのは、憂慮すべき要諦を、適宜な洞察により、導き出す事なのだ。
卓見の習練を怠り、それを見誤ってしまえば、国家ですら自縄自縛へと嵌入する。
既に、明察を忘却した国々が、自らの首を絞めている。
注意すべきは、過去の出来事に固執し、旧来の目線に束縛され、時間を無駄にせぬ事だ。
さすれば、勝手に進む全体から、瞬く間に取り残される。
それでは、感情に弄ばれた揚句に、多くを失う破目となる。
最悪の場合、万が一・億が一・兆が一・京が一・垓が一の災厄を誘発し、
屈服させようとした相手は勿論、思わぬ存在に殲滅されてしまう。
そうなるのは、孤立する事によって、恰好の獲物となるからだ。
はたまた、内側に潜伏する怪物達に、動機と機会を与えるからである。
ハナから、世界史を学ぶ事によって、最低限の歴史認識を育めば、
我慢する事も出来ずに、乗越える事も叶わぬまま、
無知・無智・無恥をひけらかす事はない。
それは、人類と世界に対する、実質と本質を垣間見る事で、多かれ少なかれ気付くからだ。
されど、中国人も韓国人も日本人も、未熟な人間の群れにすぎず、空虚な状態で駄々を捏ねる。
最低限すら養えず、実質と本質からは程遠く、権利と価値を保有せぬ状態で、
不遜で不合理な振る舞いにより、陳腐なオウム返しを見せびらかせ、
滑稽にも正しい歴史認識を育めと、有象無象がぬかすのだ。
連中が唱える、正しい歴史認識なんぞは、紙切れよりも薄っぺらいのが実態だ。
だから、どうなるか予想すら出来ず、不意味な暴走をしてしまい、
家族と友人と同胞を迫害し、己を何処までも貶めてしまう。
あまつさえ、杜撰な主義や主張による、そのいい加減な思惑が、成就する事はないのだ。
それで、何か得られたと思っても、所詮は全て思い込みなのだ。
そうでなくとも、そうなる仕組であり、それを確実とするのが、人類と世界なのである。
それらを、是正するための活動を除いて、意味と意義がある鳴動はない。
それすら、方法を過誤すれば、人類と世界を滅亡させてしまう。
志す者達には、細心かつ砕身による、気配りが求められる。
我々の不幸は、手を切り易い紙切れで、執筆を強いられる事である。
おまけに、酷く脆いときている。
なにもかも、品質が良いに越したことはない。
最大の問題は、品質を誤魔化し、過誤してきた事だ。
権力者は、自分達が優良であるとし、不良の実態を誤魔化してきた。
それは、人間が、人類が、誰もがして来た事である。
我等は、小癪な怪物なのだ。
であるからして、入れ替わろうと、仕切り直そうと、同じ言葉を連呼し、何度でも繰り返す。
そして、変えるべき事が、変えられぬのだ。
半紙よりも薄い世界が、乱暴に書き殴る者達で満ちている。
あまつさえ、墨汁を大量に溢そうとも、絵具で濁った水を撒き散らそうと、見て見ぬふりを続けてしまう。
気がつけば、傍観者も同じ事をしてしまう。
されど、どうする事も出来ず、周囲は素通りしていく。
はたまた、どうにも出来ぬ事を、どうにかしようとして、事態は悪化する末路を辿る。
それにより形成された、傑作と見せかけられた、愚策を破り捨てようと、執着する者が現れる。
その実態を見極め、それが称賛される事を憂えた者が、履き違えた方法により、裁きを下そうとするのだ。
一心不乱に誤魔化す者と、執念深く裁断する者がいる。
どちらも、未熟な我々であり、己を脅かす存在だ。
前者だけでも、幾度も辛酸を舐めさせられた。
双方が揃わば、終わりなき悪夢が、惨憺たる現実として、我等を食い荒らす。
それは、万人に対し甚だ相応しく無く、是非に退けるべきなのだ。
全ては、先導者にかかっている。
現況では、基幹事業となる政治の質により、社会の品位が定まる状態だ。
そうだ、統轄する集団の良し悪しに比例し、それは良くも悪くも変化する。
だからこそ、政治家は己で罪と責任を背負い、贖罪を果たせる者でなくてはならぬ。
残念ながら、それが出来ぬのが人間であり、出来なかったのが人類なのだ。
だからせめて、有権者に罪や責任を分散する事無く、官僚や誰かが悪いのだと喚く事無く、
自分自身の多大となる不足を、認められる者でなければならない。
されど、それを認めたとて、詭弁を弄する者では、いる意味が無いのだ。
だが、最低限すら望む事が出来ぬ、不適格者の巣窟と成り果てた。
その限りでは、それによる社会で粗造された、適性を欠いた者しか政治家にはならぬ。
それは、福島第一原発における人身事故は当然とし、過去から現在に到る様々な問題において、
罪と責任を分散する事で有耶無耶とし、逃亡を続ける連中の姿を見れば明らかである。
そもそも、それが人間であり、適当となる先導者は、これまでに誕生すらしていない。
最初から、その程度でしかなかったのだ。
それに、真に心優しき者達は、傀儡たる政治家を拒絶し、目指す事はないのである。
自然作用を理解し、実質と本質を見極めた者は、目の前で苦しむ人々のために、費やす事を選択してしまう。
悪事に、身を染める必要がある存在には、確実な次元で間接的なり直接的に、
人々を殺さねばならぬ仕組には、どうしても染まりたくはないのだ。
施行する政策の裏側で、死者が発生するのは、必然であり当然である。
それは、とても恐ろしい事であり、見過してはならぬ現実だ。
それなのに、碌でもない連中は、人々を見捨てた先で、失敗を重ねてしまう。
おまけに、入れ替わろうと、仕切り直そうと、それを繰り返すため、時には打ち砕かれる。
何より、それは実質と本質の是正が、叶わぬ仕様の仕組なのだ。
そこに飛び込んでは意味が無く、不意味なだけで終わってしまう。
であるからして、己が優しいと妄想する、身勝手な人間が政治家となる。
そして、偽物の優しさが災いし、問題から目を反らし続ける。
だから、理不尽によって流される涙を、連中は拭おうともしないのだ。
しかし、それは仕方が無い事であり、変えなければならぬ実態だ。
政治による悪循環によって、万人が苦しめられるのは、真の是正者が現れぬ限り不可避である。
故に、政治家にしかなれなかった者達を、真摯に救わねばならない。
そうしなければ、魔の連環は立ち切れず、同じ事を何度でも繰り返す。
私は傅く事で、真の先導者を無数に生み出し、恒久の社会を引き寄せる手筈だ。
政治家は、大衆が抱える切実な問題から目を反らす、御都合主義の怪物である。
そもそも、それを的確に洞察する、主観が育めていないだけでなく、
連中が単体だろうと複数だろうと、実務者がいなければ何も出来ない。
さりとて、実務者を従えようとも、適性に活用する能力すらない。
はたまた、肝心の実務者に関しても、政治家と大差が無い存在なのだ。
勤勉で、無知・無智・無恥な連中は、曖昧な愚策を掲げるのが限界で、
それで頭打ちとなる実情を、相手のせいだとぶち上げる。
もとより、大言壮語しか並べられぬ、滑稽な仕様の仕組に甘んじた、出鱈目な謳い文句にすぎない。
あまつさえ、しがらみから解放しようとも、ハッタリしかかませられぬ、その実態が変わりはしない。
その程度の内容を、政治家は得意気に掲げ、選挙で己と己達を選べと豪語する。
最初から、選択肢が実存せぬ。
有権者が、政治に希望するのは、生活を劣化させぬため、少しでも良くするために、確実な事をしてくれるかだ。
だが、利己的な思惑を掲げ、その支持を強要しながら、連中は余計な事をしてきた。
ハナから、建前・自己都合・利己主義を満たすため、国民を食いものにする仕組では、腐敗を続ける一方なのだ。
それでは、己にすら滅ぼされる。
そうなる前に、制作により統括される、シンプルでクリアーな、
政策サービス・治安サービス・司法サービスに、シフトせねばならぬ。
私は、必要な基盤の構築から、先々に必須となる仕組を形成する。
世界を、どのように認識するかは、各々の感覚に依存する。
薄汚い心で、都合の良き存在と、過誤する者がいる。
脆弱な精神で、綺麗な存在だと、誤魔化す者がいる。
強い好奇心で、諸事万端を見つめ、是正を試みる者がいる。
はたまた、悪い部分の凝視に執着し、人類を殺意の標的とする事で、復讐を果たそうとする者がいる。
だからこそ、我々は厳格な目線で政治を見つめ、余計な事をしてしまうのを阻止し、
自分と家族と友人と他者が、より余計な行為に及ぶ事さえ、未然に防がねばならぬのだ。
そうしなければ、いつまで経っても、前へと進めぬのだから。
例え、変哲もない一日が、連綿と続こうとも、永遠たる時の雫であるならば、それは魅力的な存在ではある。
だが、それでは漸進すら叶わず、いつまでも前へと進めない。
さりとて、無闇矢鱈に進んでしまえば、死屍累々の終焉を迎えてしまう。
それでは、時の雫は濁ったまま、瞬時に落下してしまうのだ。
そうはならぬため、より適宜に進まねばならぬ。
最悪の事態を想定し、原子力発電所を運営する場合、莫大な被曝を度外視する上に、
即死する事すら了承する、緊急時の作業員が必須となる。
それは、原発を導入した当時から、現在に到っても変わりはしない。
現に、過去の原子力関連の事故において、多くの人々がそれを強要されてきた。
それが拒絶され、事態が深刻になったケースがある。
故に、それが確保される事で、安全と安心が討論可能な、数歩手前へと接近する。
まあ、それも空約束なのが現実だ。
それに、長期的に無人となり、全ての電源を喪失しようとも、健全性を保てる状態でなくてはならぬ。
それすら、確固たる次元で確立されなければ、何もせぬ事と大差はない。
そもそも、テロや戦争や大地震や超災害を想定し、
完璧な対策をしたつもりでも、安全と安心には程遠いのが実態だ。
十二分の対策に対し、人道的でなく現実的でないと、野次を飛ばす連中がいるが、
それを欠如した果てに、『想定外』や『直ちに影響はない』を連発し、
手を拱いている方が、人道的でなく現実的でもない。
対策を追求せねば、それは何処かで頭打ちとなり、
本当の意味での安全と安心に、何時までの届かぬままとなる。
また、野次を飛ばす連中は、いざ自分が被害を被ると、簡単に掌を返すのだ。
さらに、初めからこちら側だったかのように、恥ずかしげもなく振る舞う。
もとより、誰もが多かれ少なかれ、似たような事をする、不完全で不健全な人間である。
何より、最悪を想定せずして、成立する安全と安心は無い。
ハナから、原発は最悪の事態を、想定可能な代物ではない。
誰かに、絶大な危険や不安を押し付けようと、安全・安心とはかけ離れた存在なのだ。
だから、最悪の事態を度外視する事により、気休めの寄せ集めで誤魔化されてきた。
それが、福島第一原発の人身事故で、明確に露見する事となった。
誰かが、犠牲になる事から目を背け、ペナルティの一面すらある存在を、水増しをした状態で安いと豪語してきた。
確かに、度重なる水増しが無ければ、面倒な事を極端に除外すれば、ハイリスク・ロウコストの存在ではあった。
結局、ハイリスク・ハイコストに、様々なしがらみにより、歪められていたのだ。
それでは、意味が無いだけでなく、とても不意味である。
それだけでは飽き足らず、パッパラパーやクルクルパーな状態で、各地の原子力関連施設は建造されてきた。
あまつさえ、一度事故を起こせば、何もかもが台無しとなる。
おまけに、適当な管理者が、現時点でも不在だ。
これは、 狂気の沙汰である。
既に、無知・無智・無恥へと成り下がり、道義的な判断を完全に放棄し、人道を踏み躙らねば導入が出来ぬ、
非人道的な『人道的な核兵器』とされる原発が、政治の潤滑剤にすぎぬ存在が、この国にはアリアリの状態だ。
核兵器を保有出来ぬ、不沈空母たる日本の原子炉は、相手に吠え面をかかすための、玉砕専用の自爆装置である。
そして、アメリカ合衆国が保有する、戦略的プラットホームとして、強固な盾としての価値が欠損し、
放棄される場合において、日本が敵に対し有益とならぬよう、最大限度で破壊するためにある。
はたまた、日本が米国に牙を剥いた場合において、諸外国の人々を誘導するために、
様々な演出で破局させるために据えられた、核兵器を投下する前の『人道的な核兵器』なのだ。
これらに関しては、把握した経緯を含め、過去の日記に記載している。
このような、地獄さながらの世界で、悪夢を見ながら生きるのは、諸賢には相応しくない。
本来ならば、各地に点在する原発の近隣に、堅牢な燃料サイトを建設し、そこに燃料を封緘すべきだ。
また、再利用が可能な状態で、原子炉を一時的に封印する。
それは、最悪の備えとしての有効性を残し、廃炉を着実に実現するためである。
まあ、廃炉が簡単ではないがため、そう扱わねばならぬのだ。
さらに、原子力関連施設の健全性を、万人が満足する形で精査し、
最悪の事態に人命を尊重し、対処可能な環境を確立する。
もし、これからも原発に依存するのであれば、
全ての日本人が移り住む土地を、事前に確保しておくべきだ。
それは、次に有事が発生した場合において、その程度の備えすら無ければ、
自分達が決して許されぬ状況の助長を、日本政府と電力会社が続けているからだ。
まして、何も出来ないだけでなく、より深刻となる準備をしていた、
殲滅したい連中の采配により、国民による国民への補償が、何度も強制されている。
そうだ、頼める立場でない者が、仕方がないと強要する上に、それを成果のように示す。
その類の積み重ねにより、どれだけ申し開きをしようと、
それが正当か不当に関係なく、大衆が拳を振り翳すのだ。
それらと並行し、しがらみを極限まで排除した状態で、
代替となるエネルギープラントを新規に建造し、
既存のエネルギープラントを拡張する。
されど、それが出来ぬのが、薄汚い人間の性質だ。
どうせ、似たような状態へと追い込まれる。
だったら、誠意を尽くす姿勢を、指し示すべきである。
しかしながら、誠実な対応が山積しようとも、失念するのが人間であり、忘却してきたのが人類なのだ。
何より、誠意を尽くしたつもりでも、それはつもりにしかならない。
失ったモノは、もう戻ってこない。
それに対し、尽くせる誠意なんぞ、ハナから存在しない。
それに、人間の欲望は底なしなのだ。
それなのに、それを誇張してしまえば、絶対に許さぬ人々が激怒し、ぶっ殺される場合がある。
そもそも、我儘な人間が相手では、どれだけ誠意を尽くそうとも、
底なしに吸い上げられる上に、それを認めようともしない。
あまつさえ、したり顔で同じ内容を、連呼するだけでは飽き足らず、
様々な理由をこじつける事により、それが当たり前のように振る舞うのだ。
そのため、誠意を向けられていた側が、いつしかぶっ殺される時が来る。
現実を見れば、それは灼然たる状態だ。
だからこそ、変わらねばならぬ。
全球化により、全世界からの人々が、日本に滞在している。
それは、核兵器に対しての、強大な抑止力となっている。
近隣国が、東京に核兵器を投下しようものなら、
自国民の大虐殺は当然とし、世界中の人々を殺戮してしまう。
そのため、先進国への核の投下は、御法度とされている。
例えば、中国が東京に核を落とせば、無数の中国人は確実とし、各国の重要な人材が抹殺される。
さすれば、攻撃した側は、落魄の身となる。
そうなるのは、被害を受けた人々や物品は、国家を含めた様々な枠組に所属するため、
あまねく枠組から報復を受ける、失墜の命運となるからだ。
枠組は、多種多様な仕組でもあり、それが影響を受ける事により、
想像の余地もなかった地獄に、突き落とされてしまうのだ。
動向により、家族や友人や同胞に殺されたり、家族や友人や同胞を殺されたり、家族や友人や同胞を殺す破目となる。
この程度は、可愛らしい次元である。
そもそも、それが核兵器でなかろうと、誰を巻き込むかによって、回復不能の事態へと突入する。
もとより、多少の威嚇をするだけで、攻守や優劣に関係なく、多大な損害を被るのだ。
不謹慎に綺麗事を陳列しようと、それは御託を並べるにすぎず、その掲げている正義は、自国ですら成立しない。
それなのに、どうにかなると思い込み、とても余計な事をしてしまう。
であるからして、とんでもない竹箆返しを食らうのだ。
人間と人類は、単体として全体として、より首が回らなくなる状態へ、一心不乱に突き進んでいる。
このままでは、誰もがどうにもならずに、取り返しのつかぬ事をしてしまう。
それは、許されざる事なのだ。
この世界には、単純と複雑がある。
そして、単純が単純に絡み合い、単純が複雑に絡み合い、
複雑が単純に絡み合い、複雑が複雑に絡み合っている。
それに、単純が単純に絡み合ったそれが、複雑が複雑に絡み合ったそれと、単純や複雑に絡み合っている。
この階層は、無限と言っても過言ではない。
諸賢には、その認識を念頭に置いて欲しい。
それにより、絶大な失敗と後悔を、退けて頂けると幸いだ。
極小から極大となる、多彩な思考の波に揺られながら、
ある時は静寂に抱擁され、時には喧騒に見舞われ、
我々は無限に広がる海を彷徨っている。
何処に辿り着くのかは、人間に委ねられている。
その方法が、漠然としていないのであれば、最悪の末路へと到る事は少ないが、
その明確化が困難なのが人類の仕様であり、それを阻害するのが世界の仕組である。
是正により、腐り果てた虹色の世界を、新鮮な虹色の世界へ変える方法は、
最初から確定しているため、それに準拠した活動を実施すればいい。
その方法は、類似した枠組が乱立し、主義と主張が成り立たず、
思想が通用せぬ状況を見れば、容易く把握する事が出来る。
されど、建前と自己都合と利己主義に弄ばれ、誰もが目を反らしてしまう。
当方は、目を反らす事が叶わなかった。
それは、真に不器用だからである。
金色の子犬と銀色の子猫が身を寄せ合い、互いに同じ種族に産まれずに、
せめて同じ色になれなかった事を、毎日のように悲しんでいる。
そして、間違った選択によって、同じになろうとしている。
違えども、二匹は寄り添う事が出来る。
そして、同じ地面に立ち、同じ空を見つめ、一緒に歌う事が叶うのだ。
それだけでも、とても素晴らしい事である。
手遅れとなる前に、誰かがそれを伝えられれば、
二匹はそれを噛み締めて、本当に幸せとなれるのだ。
経済に対し、効果的と見せかけた政治をしようとも、効率的に台無しとする仕組からは逃れられない。
そして、新たな不具合が発生し、不平と不満が増大する。
醜悪な人間の本質によって、費用対効果が最悪である連中は、それを誤魔化すため余計な事をしてしまう。
だから、破廉恥な代償を支払う破目となる。
次で、何度目となるのだろう?
政治は、支配と搾取の機序であり、民主主義は最良の繋縛である。
もとより、政治は余計な事をして、無残に空転するだけの、
放漫な仕様の仕組であり、その是正は絶無である。
だから、各国で嫌気がさした人々が、血生臭い悪態を繰り返す。
反復するのは、実態の是正が不可能なため、また碌でもない連中によって、余計な事が繰り返されるからだ。
民主主義を掲げる国家の場合は、罪や責任を互いに押し付け合う事で、
分散して誤魔化せる状況により、大きな流血を伴う事態へと、発展する事は滅多にない。
されど、我慢には限界がある。
であるからして、偶然と茶番と必然と無常を廻り続け、悪化させて繰り返さぬ方法を、多くの者達が模索したのだ。
しかし、不適切となる手段しか、導き出す事が叶わなかった。
そのため、ダーティな虹色の世界は、禍々しく濁り続けている。
綺麗事を並べ、正当性を誇張しようとも、全ての政治家と迷子達は、暗澹たる人材にすぎない。
我々は、不的確な人材により、不純かつ不自然に形成された、悪質で不健全な悪夢の中にいる。
これからも、基盤となる仕組を切り替えぬ限り、
不適材が不適所に配置され、同じ事を悪化させて繰り返すのみだ。
この、陰極である表裏一体の世界では、そして諸事万端が紙一重であり、
いずれでもあり、いずれかであり、いずれでもない空間では、
適宜な仕様の仕組を形成出来ずに進んでしまえば、
何度でも墓穴を掘り、果てに台無しとなる。
だからこそ、そうはならぬ機構が不可欠だ。
現況までは、それは存在していない。
なので、失墜の一途を辿っている。
適宜な構造が定着し、魔の連環たる大迷路の寄せ集めから抜け出すまでは、不遜で傀儡たる政治家と迷子達は、
人としての良心を基盤とした、品行方正な倫理・道徳・常識・正義を育めぬため、それらを行使する事は空無である。
おまけに、冷静な判断による、聡明な行動は当然とし、懸命な考察による、賢明な決断は皆無なのだ。
残念ながら、これは全人類に言える事だ。
無論、私もその中の一人にすぎない。
是非に、是正したい本質と実質である。
論究すれば、諸事万端が茶番である。
利欲が強固な拘束具となり、人間がこのままである限り、森羅万象は儚く消える。
そして、何も残らない。
そうでなくとも、そうなのかもしれぬ。
だからこそ、可能な限り寛容に見つめ、肯定も否定も生かさなければ、自分自身が多大な損失を被る。
それが、実態なのだ。
その事から、一刀両断的な主観により、より良き日々を歩む必要がある。
ぶった切る事で、単純明快としなければ、誰もが矛盾を整理出来ずに、狂い苦しみながら死んでしまう。
それは、怪しからん事だ。
実質と本質を把握し、綺麗事が不潔な言葉だと熟知し、
闊達な精神を育み進まなければ、人間は簡単に自滅してしまう。
人よ、己に傲慢であれ。
何より、他者に謙虚であれ。
しかし、誰もがそうでない限り、偏見と軋轢が絶える事はない。
されど、洞察した応対により、レッテルの相殺を続ければ、無神経で無遠慮な者は消えて行く。
その先に、少しはマシな明日が来る。
目指すは、その遥か先である。
そこを、越えてこその人なのだ。
全ての者が、何も知らぬまま生まれ、何も知らぬまま死んで行く。
私も、例外ではない。
誰しも、そうなのだ。
そうでなければ、気が狂ってしまう。
知らぬ事ほど、幸せな事はない。
だが、知らなければ信じる存在に、いつの間にか殺されてしまう。
重いから飛ばぬ。
実際は、遠方まで飛散した。
紙一枚で、遮断が出来る。
だが、紙で封鎖された空間に、我々がいる事はない。
そして、それは天高く舞い上がり、君と私に侵入して来た。
であるからして、最良と最悪を想定し、立ち向かわねばならぬ。
それは、真の敗者にされぬためだ。
広島で、高校生の少年により、その祖父母が殺害された。
少年に対し、当然の注意をしたために、恩を仇で返されたであろう、老夫婦が酷く気の毒である。
そして、自分自身に裏切られ、余計な事を実行した、罪深き少年が不憫だ。
少年の罪は、彼だけの所有である。
しかし、三人を救えなかった責任は、誰もが所有しているのだ。
我々は、そう考える事によって、過ちを退けなければならない。
知らぬフリをしていれば、いつの間にか災厄に巻き込まれ、
それを引き起こしてしまうのが、この現実の過酷さなのである。
福島第一原発の人身事故に関しては、日本政府と電力会社の双方が、莫大な罪と責任を保有する。
そして、有権者と顧客の双方で、多大な責任を保有している。
前者は、十二分の罪滅ぼしにより、責任を果たす必要がある。
さもなければ、先々で地獄を見るのは、彼らの命運となってしまう。
後者は、前者に有り余る罪滅ぼしをさせ、過ちを繰り返さぬよう管理する事で、その責任を果たさねばならない。
そうしなければ、辛酸を嘗めさせられ続ける。
現状まで、前者により後者は、様々な方法で誤魔化され、その跳梁を許し蹂躙されてきた。
だからこそ、罪と責任のありかを明確とし、どうすべきかを整理しなければ、
全てに責任がある事を見失い、履き違えた末路を引き寄せてしまう。
小年と同じように、責任がある事を忘却した人間は、最悪の選択により自滅する。
それは、愚の骨頂である。
選挙の結果は、当方の親戚が歓喜する、惨憺たる終幕である。
勢いづいた連中は、不敵な笑みを浮かべ、有権者の首を跳ね落とし、ボールにして遊ぶのだ。
何より、伏魔殿の大躍進は、復讐鬼には最上の好機だ。
狼藉者の筋書を成立させる、最大の条件が整った。
我々は、内側と外側の怨恨に、勝たねばならぬ。
すべからく見よ。
さすれば、神髄が浮かび上がる。
遠方ではなく、近隣を洞察し明瞭とせよ。
さもなければ、見通しを得る事もなく、綻びに呑み込まれ埋没する。
足元の掩蔽を駆逐し、席捲から解放されねば、曲論に容易く忙殺され、私と君は過ちを犯す。
それは、自分を冒涜するに等しい。
淪落を、峻拒せよ。
特異とは、無縁の帰結である。
そう、変哲も無く選挙は散会した。
公民は、その結果を受諾し、超然と戦わねばならぬ。
それは、権利を侵されぬためだ。
果敢に挑まねば、伏魔殿は堕落を続け、凄惨な復讐劇が開幕し、人々は路頭に迷う破目となる。
政治は、姿勢と方法を過誤した仕組だ。
故に、決裂し頓挫し破綻する。
その、本質・事実・実質・実態・現実・真相を明確とし、外側から擁護する存在が無ければ、自壊するのは時間の問題だ。
されど、それがあろうとも、時間稼ぎにすぎぬのだ。
そのため、適正となる姿勢と方法による、より適宜な受け皿を設営し、政治を変遷する必要がある。
その、姿勢と方法を誤れば、結局は同じ末路を辿る。
寄るべのない者は、途方に暮れるのだ。
対象により、過ちを繰り返す。
道がなければ、藪を進むしかない。
道が一つならば、そこを辿るしかない。
何もなければ、立ち尽くすのみである。
そこから脱却せねば、黄金律は破局したままだ。
私は、目的と目標を合成した、制作と政策によって、克服と飛躍を目指す。
仮説にも満たぬ理論の海で、人類は漫然と犇いている。
そして、ある者は貴様らが共有する非常識を、この俺に押し付けるなと訴える。
はたまた、ある者達は反論の余地はないが、我々がそうだと決めたのだから、貴様の常識を押し付けるなと豪語する。
どちらも、唾棄すべき杜撰な残飯だ。
実質と本質の向上により、実態を是正する志向性が無き社会では、
有象無象が惨めな対立を続け、何も変わらぬのならまだしも、全ては虚ろなままに消えて行く。
勤勉で、無知・無智・無恥な実存は、習った事だけを全てと捉え、
取り返しのつかぬ状況を引き寄せても、それに気づく事も無く失態を繰り返す。
政治家がそうだった。
学者がそうだった。
誰もがそうだった。
それは、幾度も証明されて来た。
それでも、改善がされぬのは、人類がそうだったからだ。
男は、身勝手だ。
女は、身勝手だ。
男は、性質が悪い。
女は、性質が悪い。
どちらも、人間である限り、身勝手で性質が悪い。
それを、適宜に制御せねば、人間は彼方へと消え失せる。
残念なのは、制御すべき者達が、身勝手で性質が悪い事だ。
だから、傅き導く者が必要だ。
政治家と官僚には、それを求める事は出来ない。
だが、傅き導く者であろうと、身勝手で性質が悪くては意味が無い。
私は、そうはならぬ道を整えた。