2013年03月08日 20:45

最近の、TwitterとMIXIのつぶやきを、日記にしたためました。 下


傍観に明け暮れていると、いつの頃からか戦争へと突入し、直視を迫られる状況となる頃には、
疾うに手をつけられぬ状態であり、傍観する事を余儀なくされる。

それでも、自分と周囲に関しては、大丈夫だと思い込んでいると、爆音と閃光に曝されてしまい、
周囲には家族や友人の死体が横たわり、その惨憺たる状況に慄いていると、
今まで感じた事がない激痛が、自分の体を劈いている。

見てみると、右脚と右腕が千切れており、腹から内臓が飛び出している。

少ししてから、左目が見えていない事に気付くのだ。

はたまた、どうにかなると思い込んで、とても余計な事をしてしまい、事態はさらに深刻となる。

平和と自由を勝ち取るため、命をかけて戦ってみるも、手に入れたのは混乱と不自由で、
家族や友人や仲間を失っただけでなく、自分自身は病院のベットに横たわっている。

そして、膝から下を失った両脚を見つめ、何度でもため息をついてしまうのだ。

誰もが、醜悪な実態を軽微と見誤り、素通りを続けてしまう。

そのため、世界は無数の死体で、埋め尽くされている。

人類は、その上を這いずりながら、まだまだ大丈夫だよと、不敵な笑みを浮かべている。

おまけに、建前・自己都合・利己主義による、先入観や固定観念に唆され、
何かを得るため行動したつもりが、多くを略奪した果てに、全てを失う破目となる。

時折、圧倒的な力を持つ存在が、事態の鎮静化を試みるのだが、
実質と本質の是正が叶う事無く、より誤魔化し易い状況が形成される。

だから、人々は矛盾に苛まれ、次々と壊れてしまうのだ。

されど、見誤り自滅するは、人間と人類の仕様である。

現況は、御誂え向きの修羅場にすぎぬ。

この先に待ち受ける、死屍累々の破滅の日々も、何の変哲もない日常なのだ。

ハナから、見極めるための能力は、万人がゼロに等しいのが真相だ。

そう、真意を分析し判定するには、誰しも余りに未熟である。

であるからして、誰もが周囲に翻弄され、周囲を振り回してしまい、
己にすら泡を吹かされ、刻まれる事すらなく、儚く消えるのみとなる。

変わらなければ、変える事は出来ない。




ある者は、己を善人と決めつけ、他人を悪人と思い込む。

逆もまた然りであり、考察の精度を深めれば、バリエーションは無限に広がる。

そして、善や悪に関係なく、正義と不義が存在する。

そうだ、あらゆる枠組において、特有の尺度があるのだ。

されど、それも思い込みに過ぎない。

現況の社会は、偏狭によって定められた、正当で不当で無力な流儀に従い、どれだけ利口に生きられるかが要求される。

だが、それが困難となるよう、社会は構築されている。

そうなったのは、視野狭窄で僭越な、人間と人類の不始末だ。

おまけに、自分自身が困難を助長してしまう。

ハナから、土台が滅茶苦茶であり、支離滅裂な街が築かれ、曖昧模糊な社会が形成され、
その荒唐無稽な環境に対し、順応する事を余儀なくされては、誰もがまともではいられない。

あまつさえ、無数のそれが犇き、鬩ぎ合っている。

それでは、どうにかなると思い込み、どうにかなると思い込ませ、どうにかなると思い込まされ、
余計な事をしてしまい、余計な事をさせてしまい、余計な事をさせられる。

その状況下で、取り返しがつかぬ間違いを、可能な限り相殺するには、人類が自滅の群集であり、社会がそれを促す構造で、
己が非常にややこしい存在である事を認識し、レギュレーションを尊守しながら、篤実に生きなければならぬ。

しかしながら、どれだけ神経を張り詰めようと、間違いを犯すのが人間なのだ。

それなのに、その本質と実質を是正せぬまま、しこたまテケトーに進んで来た。

適当ではなく、テケトーなのである。

だから、遠い昔に解決すべき事柄で、無駄に時間を浪費する上に、何度でも有耶無耶とする。

その先で、多くの人々が連日のように、盛大に足を踏み外している。

それすら、他人事で片付けてしまうのだ。

結果、何一つ変わる事もなく、過ちは繰り返される。

そもそも、都合の悪い事を認めて、誠実な対応をしなければ、何も変わらぬのは当然だ。

我々は、それを知っている。

それなのに、何をすべきかを見極められぬ、脆弱な存在なのである。

唾棄すべきは、それを誤魔化せるユリカゴを、増築するばかりで抜け出そうともしない。

であるからして ギリギリの状態で生きる、風前の灯たる存在で終わり、堅牢な人には到底なれない。

先ずは、なるための気持ちを、整える事が必要なのだ。




他者に対し、『お前は捻くれている。どうして真直ぐに生きようとしない?』と言放つ者は勿論、
誰かを蔑んで罵声を浴びせる者は、軽蔑している相手と同等か、それ以下の存在なのだ。

所詮は、碌でもない対応しか出来ぬ、ただの卑怯者にすぎない。

憤慨するのは、己の無力さに対してである。

それに気付けなければ、何も変わりはせずに、己が腐る一方となる。




真摯に、諸事万端を見つめる者は、捻くれた存在に見えてしまう。

それは、都合の悪い事を、露呈させるからだ。

一方、真直ぐに見つめるフリをし、己を誤魔化している者ほど、綺麗な存在に見えてしまう。

だから、我々はその真似をして、家族や友人や己でさえも、気に食わない他人のように、何処までも貶めてしまうのだ。




全てを見つめ、前向きに生きる者がいる。

良き部分だけを見つめ、後ろ向きに生きる者がいる。

大半の人間が、自分が前向きだと錯覚している。

例え、全てを見つめようと、ただそれだけであるならば、グルグルと回転しながら、
全体が何となく進んでいる方向に、引っ張られているだけなのだ。

そこから脱却せねば、思い通りになる事は一つもない。




実際は、そうではなかった。

確かに、そうだったのかも知れぬ。

だが、それは思い込みであり、それまでの事にすぎぬのだ。

煎じ詰めれば、薄汚い薄汚れた、たかが人間なのである。

それを念頭に置かず、自分や相手を誤魔化し、履き違えて生きて来た。

それでは、前向きにも、後向きにも歩けない。

碌に、進む事すら出来ぬのだ。

何より、己と相手を真に救い、本当に愛する事すら叶わぬ。

だから、人々は迷走を繰り返し、腐り果てた虹色の世界を、蝕まれながら流されている。

それなのに、泳いでいるつもりとなり、溺れている事にすら気付かない。

はたまた、愛を深く誓った筈が、些細な事で破局する。

そもそも、それは上辺にも満たぬ、相互を満たすためのデマカセだった。

もとより、相手の全てを受け入れられねば、それは簡単な事で消し飛んでしまう。

ハナから、どれだけ受け止めたつもりでも、殆ど零れ落ちているのが実態だ。

だからこそ、認めねばならぬ事、学ばねばならぬ事、共有しなければならぬ事がある。

されど、それを拒むのが人間だ。

変わらねば、人類が地球から零れ落ちる。

それは、時間の問題だ。




我々には、生きる価値も生きる権利もない。

また、死ぬ価値も死ぬ権利もない。

さらに、殺す価値も殺す権利もない。

なのに、高慢な人間と人類は、それがあると思い込んで、とても余計な事をしてしまう。

そして、生きていようが、死んでいようとも、絶望を味わい続ける末路となる。

人類が、無知・無智・無恥であるため、あらゆる価値と権利が、成立する道理はない。

そもそも、所詮は捏造の概念であり、強いられているにすぎぬのだ。

人間は、紛い物の価値と権利を掲げ、生起せぬ自由と平等を求め、
家族や友人や他人や己すらも、完膚なきまでに叩き潰す。

そうだ、自由を求め不自由となり、平等を求め不平等となり、平和を求め混乱を形成する。

得るつもりで行動するも、醜悪な略奪を続けた挙句に、失い奪われる破目となる。

なんとも、痛々しい存在である。

これまでは、家族や友人や他者の手を、優しく握っていたつもりが、握り潰していたのが真実なのだ。

大切な存在の手を、本当に優しく握るためには、シンプルでクリアーな是正が必要だ。

それにより、誰もが他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事を証明し、尚且つプラスとマイナスを明確とする事で、
生きる価値と生きる権利を豊潤とし、死ぬ価値と死ぬ権利の発生を解消し、殺す価値と殺す権利を抹消するのだ。

要は、己の価値と権利だけを主張する連中が、暴走して余計な事をしてしまわぬよう、
他者の価値と権利を認められるようにし、必要な個性を励起して、不要な多様性を相殺する。

さすれば、世界はより多彩となり、罪悪は減少を続けていく。

我々は、価値や権利があると決めつけ、それで大丈夫だと思い込み、
多大な過ちを犯すと同時に、目前の危機に匙を投げて来た。

確かに、なるようになる。

ただし、なるようになった結果、足の踏み場もない有様だ。

このまま、利便性を追求し続ければ、悪弊によってより不便となり、
初めて価値と権利を獲得しうる、僅かな可能性すら喪失する。

それは、私が許さない。




価値と権利の有無に関係なく、生きなければならぬ、死なねばならぬのが、
破滅と相殺に抱擁された、 哀れを誘う生命である人間だ。

それが、自害と殺害に及ぶ事は、途轍もなく余計な事である。

人生は徒労に終わり、無に帰するだけでなく、バラ撒いた悪影響により、悉く絶滅させる不浄な存在が、
怠惰な仕様の仕組の世界で、それを助長する行為に走るのは、このうえなく罪深き行為なのだ。

そうなるのは、贖罪を果たす事が絶無で、その死に真に報いる事は皆無で、
果ては台無しとなる状況で、自然作用に叛くからである。

それは、自分自身に唾を吐き、神に仇をなす事と変わりはしない。

おまけに、自害と殺害を美化すれば、神の逆鱗に触れてしまう。

あまつさえ、それを許されようと神に縋らば、その奢りにより永遠に許されはせぬ。

例え、人間による杜撰な尺度において、情状酌量の余地があろうとも、躊躇なく薙ぎ払われるのが神様だ。




神は、己を救うために、人類を創造した。

それなのに、無数の人間が、神に救いを求める。

それは、非常に鬱陶しい事だ。

我が為に、誕生を促した生命に、救いを求められては反吐が出る。

これでは、無意味を通り越し、不意味である。

我々は、神が繰り返す過ちの、犠牲者にならぬためにも、都合良き見方を捨てねばならぬ。




手塩にかけて、育てた子供にぶっ殺される。

はたまた、それ以上に親孝行をされる。

それは、当たり前の事である。

手塩にかけると言っても、十人那由多色であるからして、そうなるのは必然なのだ。

子供に、子育ての至難さを伝え、互いに間違いを犯さぬようにと、
意思の疎通を続けていれば、互いのリスクが軽減出来る。

我々は、家族や友人や他人は当然とし、自分の事すら理解出来ない。

ハナから、理解出来る仕様ではない。

ただし、実質と本質を把握し、共有する事は可能だ。

それを活用する事で、家族で殺し合わぬよう、日々の努力をしよう。




どれ程の苦難であろうとも、かけがえのない時間である事を、
忘却せずに大事にする事が出来れば、些少は楽に乗り越えられる場合がある。

されど、それが出来ようとも、良き結果が必ずしも、得られるとは限らない。

例えば、看病・介護される側が、する側の『時間』を尊重しすぎた結果、悲しい選択をする場合がある。

逆に、する側が献身的になりすぎ、自分の首を絞めてしまい、最悪の末路すら引き寄せてしまう。

自己の生命を重んじ、相手の人生に敬意を払いつつも、相互の負担を減らす努力を怠らず、
感謝の気持ちを伝えるようにすれば、大きな間違いから、遠ざかる事は可能だ。

だが、人間は不器用であり、中々それが叶わない。

人類とは、そう易々と噛み合わぬ、歯車の集合体である。

歯車は、大きさも形も速度も歯の数も、回転する方向すらもバラバラなのだ。

たったの二つであろうと、空回りを続けるのが現実だ。

この世界には、無数のそれらが犇いている。

だからこそ、それを把握し思考する事で、多大な過ちを退けて、進まねばならぬのだ。




人間と呼ばれる生物は、新規の概念を受け入れる事で、
様々な枠組に染まる事によって、どんどんバラバラになっていく。

おまけに、互いに余計な事をしてしまい、溝は広がり続ける一方なのだ。

あまつさえ、収拾がつかなくなれば、一心不乱に殺し合う事で、つまらない気休めをしてしまう。

我々には、もう気休めをする余裕はない。




頭が良いが、利口ではない人間がいる。

頭が悪いが、利口な人間がいる。

頭が良くて、利口な人間がいる。

頭が悪くて、利口ではない人間がいる。

多くの人間が、そのどれかに偏りつつも、いずれかであり、いずれでもあり、いずれでもない状態だ。

頭が良くて、利口な人間すら失敗する。

自分を責める暇があるなら、挽回をする努力をしよう。




人間さんは、とっても不思議です。

自分で勝手な理想を形成して、自身でギャップを広げまくって、
現実との差に驚愕して、高い所から飛んで落っこちて、
ペッチャンコになって帰って来ません。

理想を抱き、突き進む事は大切です。

現実を理想に、近づける努力も必要です。

ですが、理想に振り回されては、けっしてならんです。

それは、けしからん事です。




人間さんは、何処から来て、何処に行くです?

その果てには、何があるです?

散り続ける時の花びらは、落ちたままですか?

それを集めて拾い上げて、風に委ねるだけで、時は一瞬で見違えます。

暖かい未来はお嫌いですか?

必要ないなら、何処か遠くへ飛んで行くです。




今日の陽気はポカポカです。

この温もりの愛おしさは、絶滅しても忘れません。

太陽さんに抱擁されるのは、とても素晴らしい事です。

自然の有難味を体に刻んで、未来を見上げて前に進むです。

人類さんは、それを大切に出来れば、もっと素晴らしき日々を堪能出来たです。

出来る人間さんは沢山いるですが、人類さんは無理ですか?




神でさえ、ワイらを投げ出したんや。

せやから、子育てってのは、ホンマに難しい事なんやで。

自分もそれをよう考えて、子供にもそれ教えたらんと、どうにかなる事もならへん。

お互いに、同一の情報を把握する事で、親子で足を踏みはずさへんようにしとかな、それを続けていかへんとアカンのや。

出来るようになるんやで。




いつか、みんな居なくなってしまうんやで。

それ、きちんと考えとおて、みんな大切にしとかんと、後悔すんのは自分なんや。

それが、でけへんのが人間ちゅう生き物なんやろうけど、努力だけはしとった方がええ。

それは、少しでも後悔せえへんためにや。

そうは言うても、やっぱむずかしいもんは、どうにもむずかしいんや。

簡単にするんには、実質と本質ちゅうもんを見極めて、誤魔化せへんようになる事が一番や。

わてらはどうしても、どっちか・どっちも・どうでもええの、
どれかで見る事にこだわりすぎて、偏ったモノの見方しかでけへん。

ほんまは、全てである事を忘れてまうんや。

それ忘れんといて、割切る事が出来れば、優しくなれるんやで。

言いかえると、許容出来る範囲が広うなって、相手との距離が短くなる上に、
その儚さと大切さを忘れへん事で、自分に正直になれるようになる。

なんや言うても、互いにそうする事によって、自分と相手の厚い壁ぶっこわさへんと、どっちも生き残れへん時が来るんや。

それ乗り越えて、先に行くためにも、哲理を知らなあかん。




綺麗事ばっか並べて、綺麗な部分だけ見とったら、そら簡単に殺されてまうわ。

容易く失い、奪われてしまうんや。

何より知らなければ、寛容にも厳格にもなれへんし、教える事も教わる事も出来んのや。

全てが、それで上手く行く道理はないんやけど、知らんより知っている方がマシな事くらいは、小さな子供でも知っとる事や。




救うためにも救われるためにも、あんま遠回りせえへんためにも、知っとかなかアカン事は山のようにある。

せやけど、その熟知には莫大な時間が必要になる。

それを網羅する余裕は、わてらにはあらへん。

せやから、本質と実質と真実と現実を見つめて、闊達な精神を育まにゃならんのや。

ワテにもお前さんにも、それなら簡単や。




あんま頑張れへん時は、下見て差広げるのもええやろ。

頑張れるちゅうんなら、上見て出来るだけ差縮めて、追い越すようにしたらええ。

自分が、少しでも前に行けるんやったら、どない考えても問題あらへん。

せやけど、陰湿にならんよう、注意せなあかん。

そうなってもうたら、本当には頑張れへんようになるからや。




ワテらは、子供を綺麗に育てよ思うて、ただ嘯く事に甘んじる。

都合がええ、珍妙な存在に仕立てるための、その薄汚い粗雑な咆哮は、子供の心を狂わせてまう。

子供は、ありのままを見つめるんや。

大人は、綺麗な部分しか見とらへん。

それは、嘯かれたせいや。

ホンマの事教えて、真っ当に育てへんと、履き違えて死んでまう。




理想的な親も理想的な子供も、妄想と空想の産物にすぎへん。

他人のそれ見て、その上っ面だけ眺めて、勝手にそうだと思いこんどるだけなんや。

そんな、ありえへん絵空事を求めだしたら、キリが無いのはもちろんやけど、自分それに殺されるで。

現実に理想を求めすぎると、それに押し潰されるんや。

それ、忘れちゃならへんで。




ハナから、どうにもでけへん事を、どうにかしようとするから、どうにもならなくなるんや。

どうにもならへん事を、どうにかするっちゅう事は、相当な無理をせなあかん。

最悪、取り返しのつかへん状態になる。

そうはならんためにも、知って噛み砕く事で、割切る事は大事なんやで。

余計な事をしてしまわへんために。




人間と呼ばれとる一瞬は、ワイらのような刹那は、何処から来て何処へ行くんやろ?

なんで、いつの間にか全てを失ってもうて、朽ち果てなきゃあかへんのや?

そないな事は、容易に掴み取れる事やで。

問題は、変えるか変えへんかや。

今のままやと、今を生きるので精一杯で、だけで終わってまう。

変えたら、ホンマにおもろいで。




我々は、単純明快かつ支離滅裂で、論理的かつ非論理的で、矛盾と愛憎に満たされた、滅茶苦茶な存在なのだ。

それは、一目瞭然である。

人間が、この広大な空間に対し、どれだけ常識的な存在か、いかばかり非常識な存在かを、
より的確に洞察する事が出来れば、無限にある階段の一歩目を、なんとなく踏み出す事が出来る。




己の右と左の間に、誰がいるのか?

己の上と下の間は、何処であるのか?

地球の中心は、何であるべきか?

世界の中心は、何であるべきか?

宇宙の中心は、何であるべきか?

空間の中心は、何であるべきか?

自分自信の中心は、何であるべきか?

それを、より的確に導き出す事が出来れば、両足で一段目に立てるようになる。




人間の数だけ、常識と非常識がある。

それが、完全に一致する事はない。

そもそも、それは風潮による、思い込みにすぎない。

されど、自然作用を前提とすれば、常識と非常識は集約され、たったの一つとなる。

人間と人類の双方を成熟させ、恒久的に文明を発展させる方法すら、その場合は一つだけなのだ。

その、オンリーワンを基盤とすれば、我々は永遠の存在となれる。

そして、集約からの展開と展開からの集約を連綿と続ける事で、初めて権利と価値を保有する事が出来る。

何より、極端な矛盾に苛まれ、気が狂わずに済む。

それは、前提が明快となる事で、生き易くなるからだ。

そこに、辿り着きたいものである。