2013年09月20日 16:48 三段(一)


全ては、無から創生される。

ただ、それは不在による虚無であり、理論的根拠が伴う事によって、始まりと終わりが告げられる。

そう、不可欠な材料が揃わなければ、必須な原因と要因が生じねば、創造が成り立つ道理はない。

まして、莫大な条件が合致し、知覚する存在が誕生せねば、現状が織りなされる事すらない。

そうだ、絶大な要件が満たされねば、私がここに実存せぬだけでなく、君さえそこに存在しないのだ。

そして、必然かつ当然たる潮流によって、現在と過去と未来が紡がれる。

ただし、人間と人類と社会と世界は、規範となる存在が不在であり、杜撰な流れに翻弄されている。

それを、碌に把握も理解もせぬまま、必要な措置を忘却し失念し、進んで来たツケは大きすぎる。

何をすれば、どうなってしまうのか?

ならば、どうすべきなのか?

そんな初歩的な配慮さえ、現況でも不十分な状態だ。

これまで、流れを予測する事によって、事前に処置を施したつもりが、
それが窮極に浅薄なだけでなく、肝心な要諦が抜け落ちていた。

実際は、須要の極端な欠如により、矮小な目線しか育めぬため、
目先や己の事すら満足に考えられず、何遍も失態を反復し、淪滅へ接近している。

その状態で、突き進んでしまったがため、趨勢の中でどのような対策を施そうと、ひき返すが叶わぬ状況へ嵌入を続ける。

どれだけ、追求した対策を実施しようとも、蓄積させた甚大な不具合により、どのような根拠も通用せんのだ。

あるのは、何遍も反復された裏切りによる、負の要素に対する高度な期待値だ。

もとより、天地万物のキャパシティ(許容量)を考慮せず、全てをバラバラに考えすぎたため、
何もかもが手遅れとなってしまい、好都合と不都合の双方に対して、絶対と確実を述べるは不能である。

とは言え、不都合があるからこそ、好都合な論結が下される。

確かに、ケースバイケースであり、条件と前提が限定されれば、断定的な返答や意見は可能だ。

問題は、限定してはならぬ事柄に対し、条件と前提を不適切に選択・排除し、
それを改竄や捏造をしてまで、思い通りにせんとする者がいる事だ。

万物の霊長は、全てが不明な原点から、抜き差しならぬ状態を増進し、危機的な状況を昇進し続けた。

原初から、そうとしかならぬ有り様だった。

要は、最初から勘違いした状態で、碌々な心的傾向を改めもせず、思い決めによる陥穽に嵌って、
無闇矢鱈な暴走を続けたため、莫大な不具合が鬱積しており、もはや手の着けられぬ状態だ。

だから、表面(概念・定義)に対し、内面(実質・本質)が伴わず、
側面(葛藤・錯綜)に苛まれ、裏面(矛盾・虚偽)の克服が叶わない。

その限りでは、あらゆる理屈でさえも、屁理屈にしかならない。

視野狭窄かつ蒙昧無知な連中が、安全や安心と訴えるために、根拠としている理屈なんぞは、
不完全な存在によって導き出された、欠乏性に富んだ屁理屈にすぎんのだ。

そもそも、正統な方向性を確立する術がなく、過誤した指向性と志向性で進んでいる。

そのため、人間と人類と社会と世界を、適正に運用するに至要となる、前提たる諸条件の洞察が出来ない。

そうなるは、天則たる仕様(作用・機能・能力)への知悉が、徹頭徹尾に皆無・絶無・空無なため、
現実・事実・真実・本質・実質・真実・真相・実相を大きく見誤り、
不遇による満身創痍から抜け出せぬためだ。

その程度では、思い通りに生きる事なんぞ、実相において不可能となる。

なんせ、人間(個人)と人類(集団)と社会(国家)と世界(国家の集合体)が、
それを確定的とする枠組と仕組を多量に形成し、助長する選択を至当と扱い、相身互いに淪落を続けている。

その相互的な依存関係により、誰かが夢を叶えようとすれば、誰かの理想が成り立たなくなる。

ハナから、思惑は悉く頓挫を続け、墓穴を掘る構造なのだ。

延いては、家族や友達や他者は当然とし、己すら極端な犠牲としなければ、
誰もがそれを積み重ね続けなければ、満足に生きたつもりになる事さえ叶わない。

例え、目に見える成果を残そうとも、それに意義や真価を付与せねば、気休めと自己満足で終焉を迎える。

正確には、途轍も無い代償に追い回され、気休めと自己満足にもならない。

この陰極における表裏一体の世界では、諸事万端が負の領域で紙一重の状態だ。

それは、悪循環たる袋小路の坩堝であり、不意味な末路へ集束する一方だ。

無論だが、極性を変更し坩堝から脱却せねば、リスクとハザードは増長を続ける。

自明であるが、何が起きるかを事前に想定し、未然に防ぐ措置を施す事もなく、
成り立たぬ事を続けてしまえば、危険性と危害要因は深刻化の一途を辿る。

それなのに、本性と本能と感情により、歩むべき道から遠ざかり、危うい選択をするで精一杯だ。

そんな、絶対に思い通りにならない実態で、確実に思い通りにしようとすれば、原点からやり直さなくてはならなくなる。

それが、我々が滅びるかもしれぬ、理論的根拠のたったの一つとなる。

何しろ、目に見える事も目に見えぬ事も、絶間なく急激な変化を繰り返すが、それを支配する力は全人にはない。

このままでは、己達が発生させた変化に弄ばれ、立ち消えを余儀なくされる。

それでは、意味がない。

甚だ、不意味である。

だが、それしか出来んのだ。

であるからして、あらゆる屈託を打ち払う、理論的根拠を形成せねば、
隅々に波及する末路の到来は、誰の目にも見えたままだ。

時点における不可能を可能とする、適宜な枠組と仕組を創始せねば、
真実の言明において、先々へ進むが叶いはしない。




我々は、人間と人類と社会と世界による、多角的な催眠と洗脳と暗示により、滅亡と自壊への道を突き進んでいる。

それにより、酷く狭隘な次元において総体が頭打ちとなり、万人は格好の悪き人生を無作為に食い潰す。

万物の霊長は、完全や完璧には程遠く、例外が存在する道理はない。

原初より、理論的根拠の不在によって、たった一人の天才は当然とし、代表の誕生すら望めはせぬ。

即ち、どれだけの存在が登場しようとも、順調に成合う条件が伴わねば、
それっぽいだけの取るには足らぬ、不意味な存在で終わってしまう。

そうなるは、成すべきを果たさんがため、必須となる理論的根拠を構築するに、不可欠となる枠組も仕組もないためだ。

精確には、恰好の良き人生を繰り広げる術を導き出せず、
思い通りに生きられぬ実相から、誰もが抜け出せぬままなのだ。

とどのつまり、逸材に成り得る銀翼に対して、不適当な滑走路しか与えられぬため、
大多数は飛び立つ事は無論とし、路面の舗装が不完全であるため、真直ぐに走る事さえ儘ならない。

そもそも、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在であるを、
明確とする環境を構築せねば、生半可な意欲さえ維持出来ない。

人々は、遥かに高度な次元となる、より良き至当たる人生における、
最下限となる層のそれにすら、遠く及ばぬ一生で死んでいく。

とは言え、その最下限となる層でさえ、桁違いに卓越した生涯を、送る可能性は非常に高い。

遥かに高度な次元としたが、極性を変更し坩堝からの脱却を実現する、
黎明と定義すべき段階を指すため、上を見ればキリがないのが実態だ。

ただ、その段階を疾うに超越するは、造作もない事にすぎなかった。

それは、僅かな勘違いによって、些細な条件が満たせずに、
政治や宗教で胡坐をかいたため、これまで成就される事はなかった。

そして、人間と人類と社会と世界は、それがより困難となるように、
あらゆる可能性に満ちた領域を、腐った虹色に染め続けている。

結果、平和・幸福・自由・平等に対する、表面・内面・側面・裏面に翻弄され、平和を求めれば戦争となり、
幸福を求めれば不幸となり、自由を求めれば不自由となり、平等を求めれば不平等となり、
仕方が無いと割り切り我慢するか、割り切るも我慢するも叶わず、
罪過を重ね何処までも堕ちていく。

厳密には、どのような選択をするにしても、
どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、
いずれかであり・いずれでもあり・いずれでもない性質を有し、
常に思い通りにならぬ実質があり、最初から思い通りにならぬ本質がある。

その実態により、殲滅したい相手を批難・批判したつもりが、
自分の問題点を自身で露呈させてしまい、己と同胞の首を絞める破目となる。

その状態では、誰かを擁護したつもりが、厭味を並べただけであり、
自己と助け守ろうとした存在を、追い詰める不手際となる。

誰しも、先入観・固定観念・既成概念による、不備が極まる情報を根底とする、
建前・自己都合・利己主義により、どうにもならぬ方向へ舵を切る。

だいたい、どれだけの真相があろうとも、それが都合の悪き内容ならば、それを無視して進み続けてしまう。

だから、悲劇が繰り返される。

しかしながら、必然かつ当然たる潮流により、そうなるは決り切った事なのだ。

何と言っても、それを把握も理解もせずに、一つの意見として獲得もせねば、
無知・無智・無恥な状態で、家族や友人や他者や自分を、裏切り続ける畢生となる。

その限りでは、ポジティブな者がネガティブと扱われ、
ネガティブな者がポジティブと扱われ、不協和音は五月蠅さを増していく。

ポジティブな連中は、当たり前にすぎぬ問題を、あり得ぬ事で片付けて、無様に転げ落ちていく。

ネガティブな連中は、そのようなポジティブモドキと比べれば、
多少の危機を回避する場合はあれど、前者と確定的となる差はないのだ。

先ず以て、あらゆるが余りにも伴わぬため、偽善と茶番に明け暮れるが精一杯で、似て非なる存在にしかなれない。

ポジティブや前向きに生きたつもりが、そうであると評価された対象は、成す術なく不幸から逃げ惑っていただけである。

ネガティブや後向きに生きたつもりが、そうであると揶揄された対象は、
不幸でしかない実相を察知し、様々な因果を緩和していたり、術を模索している場合がある。

見方により、様々なケースがあるものの、変えるために変われぬのであれば、転げ落ちる場所が変わりはしない。

それを、把握し理解するは当然とし、打開の道があるを看破せねば、
みんなで仲良く吹き飛んで、全てを台無しとしてしまう。

それを認知し、より適宜な変遷を促さねば、魔の連環からは逃れられず、辿る末路が変わる事はない。

そうなるまでは、以下は必定なのだ。

思い通りに生きられないから、思い通りに生きようとする。

思い通りに生きようとすれば、思い通りに生きられなくなる。

しようとも・しなくとも、思い通りにはならない。

それに、しすぎれば・しなさすぎれば、もっと思い通りにならなくなる。

もし、思い通りと感じるならば、それは迂闊で未熟だからだ。

はたまた、懺悔により贖罪を果たそうと、それはつもりにしかならない。

己が認めようと、それを相手や周囲が認めようと、それは狭い範疇における思い決めだ。

はなから、罪を償うための枠組も仕組も存在しない。

あるのは、第三者が代行して仕返しをする、罰を与えるだけの枠組や仕組で、贖罪を果たすは不可能である。

それで、死刑や無期となろうとも、より罪深くなる場合すらある。

そう、多寡が事務的な処理では、罪滅ぼしを果たせぬだけでなく、それが遠のく場合さえあるのだ。

それを認められぬ、身勝手な存在であるならば、生きようが死んでしまおうと、この世でどうにもならなくなる。

おまけに、あの世があるとするならば、益々どうにもならなくなる。

あまつさえ、野放図な状態で神を信仰し、救われ赦されると確信するなら、
その余地は微塵もないため、どんどん罪深くなってしまう。

もし、神がいらっしゃるとするならば、傲慢で背徳的な存在を救い赦すために、窮極の絶望と後悔で叩きのめすしかない。

そうだ、人間と人類と社会と世界は、政治や宗教に縋る事によって、救いようがない存在となってしまった。

どれだけ清く生きようと、誤魔化し有耶無耶とし逃走するに変わらず、総体が悪夢たる現実に翻弄され、
思惑が尽く頓挫し墓穴を掘ろうとも、無能を証明し続ける選択に流されるを、
適宜に是正するが叶わなければ、諸事万端は不意味な終焉を迎え、
生まれる筈だった命さえ巻き添えとしてしまう。

されば、どうなるか?

己を中心に据えて、酷く窮屈な世界の虜となり、バラバラに考えすぎた報いは、
想像が不可能な次元へと膨張し、現在・過去・未来において、全人に満遍なく降り注ぐのだ。

残念だが、政治や宗教に染まってしまえば、それに流されてばかりとなり、報いを緩和する事すら叶わない。

もとより、政治や宗教の虜となってしまえば、誰かをそこに引き込んでしまえば、リスクとハザードは膨張するのみだ。

政治や宗教は、総体的に観て他愛もない事柄を、誇張し崇高のように見せかけ、
非合理的な認識を合理的と錯覚させ、人々を奈落の底へと引きづり込んでいく。

その、メリットとデメリットを見極めていれば、因果を制御するため政治を凌駕し、
神意を超克するため宗教を超絶し、神や己にさえ見捨てられる事はなかった。

だがしかし、それしか獲得が叶わなかった。

であるからして、こうなってしまったのだ。

これまで、人を陥れ・己を偽り・道を誤ればどうなるか、碌に教えてくれる者がいなかった。

それが、政治や宗教に関わる者達へ、極点たる絶望と後悔を齎し、救われぬ赦されぬ末路へ誘う。

されど、道を踏み外しているならば、政治や宗教に関心が無かろうと、行きつく先が変わりはしない。

所詮、政治や宗教や思想や主義なんぞは、どうする事も出来ぬ実態からの、不適切な逃げ道にすぎない。

何しろ、前提が不在である限り、どれに染まっても不意味となる。

人々を政治や宗教で拘束し、国や神に依存させ続ける、指示待ち人間の寄せ集めは当然とし、
依存し与えられるを至当とする人々は勿論、最初から成立せぬ思想や主義を並べ、
優越を競う者達は同じ穴の狢にすぎず、それで頭打ちとなっている以上、
そこから先に行くは至難であり、奪い失い奪われるだけで終わる。

その状態で、楽園を築こうとすれば、地獄としかならぬ仕様だ。

何より、ただでさえ救われぬ存在が、他者や己の命を奪ってしまえば、もはや転げ落ちる一方となる。

過ちを犯し、転げ落ちるだけの状態で、さらなる罪を重ねようものなら、生きていようが死んでしまおうと、
この世だろうがあの世だろうと、追いかけてくる存在は大きくなり、その速度はどんどん加速していく。

前提が不在の状態による、悪循環たる袋小路の坩堝で、
その理由を把握し理解せずに生きていれば、
ひょんな事で正気を失ってしまう。

我々は、その連鎖の中に居る。

故に、油断をしてはいけない。

だからこそ、本来は何が必要だったのかを導き出し、政治や宗教に関わる人々を守り抜くため、
最悪を想定しつつより良き役割を提案・提供し、共に先々へと進まなければならぬのだ。

無論、万人に対しそれをしなければならぬ。

それこそが、人の歩むべき道である。




余計な事を言ってしまう、大人と子供がいる。

見て見ぬフリが出来ぬ、大人と子供がいる。

相手を諭せぬ、大人と子供がいる。

聞き入れぬ、大人と子供がいる。

逆上し、暴力や暴言を撒き散らす、大人と子供がいる。

何と言っても、聞き入れて変わろうとも、諭す事が出来たとしても、それが正解とは限らない。

万人は、救いようがない程度において、どんぐりの背比べに没頭しており、
些細な次元における対立でさえ、終止符を打つが叶いはしない。

打てたとて、それは気のせいだ。

まして、暴力や暴言で妥協・屈服を、したり・させたのであれば、
どのような結果となろうとも、敗残者である事に変わりない。

そうでなくとも、辿る末路が変わらない。

誰しも、その未熟さが仇となり、不器用に慰め合う事によって、自己満足感を埋めるしかない。

2ch・Twitter・facebook・mixiでは、各々が育んだ価値観を根底とし、
同じやり取りが何遍も繰り返され、似たような存在が傷を舐め合い腐らせている。

それは、政治・宗教・人種のような、様々な枠組や仕組でも同様だ。

大概の場合、多数派の意見が正統と看做される。

それにより、人間と人類と社会と世界は、殺戮と虐殺すら称賛してきた。

それは、我々の最大たる弱点ではあるが、救い難い状況を継続・持続させる、一時凌ぎを実現する強みである。

ただし、殺戮と虐殺を乗り越えて纏まろうとも、時が経てば足並みが徐々に揃わなくなり、
滅亡か存亡に繋がる戦いを、何遍でも勃発させてしまう。

存亡が叶えば、足並みを合わせるを強いられ、次の戦いに備え続ける宿命となる。

万物の霊長は、対立による拮抗と膠着が無ければ、間違いを繰り返し思い知らされ、
どうにか繋ぎ止めようとせねば、存続が叶わぬ不憫な生き物なのだ。

何より、闘争心を失い腑抜けとなれば、お構いなしの局外勢力に滅ぼされる。

このままでは、偏屈な箱庭の住人として、生まれては死ぬだけを、子々孫々に強いる破目となる。

それに、つまらぬ座標軸において、あらゆるが繰り返されるか、無意識・無存在に満たされる。

つまり、反復させるか・滅びるかである。

そこから、引っ張り上げてくれる大人と子供は、これまでに誕生する事はなかった。

そもそも、大人と子供の違いとは何ぞや?

大人なのに、子供な者がいる。

子供なのに、大人な者がいる。

大人とは何ぞや?

老いたる者か?

子供とは何ぞや?

うら若き者か?

それさえ、ケースバイケースであり、言い回しにより意味は変質する。

そもそも、漠然とした感覚で扱っており、己の中でしか通用せぬ場合もある。

我々は、たった一つの単語に対する、概念や定義を感覚的に判別し、感情的に他者へと叩きつける。

その、受け取り方はバラバラであり、それは分岐と合流と発展と衰退を続ける。

分岐と合流と発展と衰退としたが、人間と人類と社会と世界の変遷による、
子供と大人の在り方の推移による、その認識の変動により齎される。

ただ、それは特定の範疇で繰り返され、浅い者と深い者の差は広がり、どんどん噛み合わなくなっていく。

要は、悪循環の袋小路の坩堝で、理論的根拠を掴めぬまま、人類は複雑に離散する仕様なのだ。

これにより、浅い者と深い者の差が広がるだけでなく、それぞれの層においても齟齬は大きくなる。

そして、深い存在を中心とし、共感する玉石が集まり、
特定の主張による集団が形成され、異なる主張をする集団と対立する。

時に、一つの集団に亀裂が生じ、様々な派閥に分離し反目する。

結果、多くの枠組と仕組が形成され、取り返しのつかぬ過ちを反復させ、より後戻りが叶わぬ状態へ沈んでいく。

そうやって、人類と世界はバラバラとなり、その疆域でバラバラに考えるため、見誤って没落を続けてしまう。

そんな事は、必然かつ当然にすぎず、主張を同一とする事で、対立を抑えるは不可能だ。

ある程度まとめるに、比較的に楽となるケースは、同じ破滅に見舞われるか、共に窮地を乗り越えるかだ。

即ち、術なく引き起こされる、大災害や大戦争による、経験の共有と共感である。

災害は、この惑星に生きる以上、何遍でも見舞われるのだ。

それを、大災害へ発展させるは、人間と人類と社会と世界の十八番だ。

戦争は、自然な潮流で引き起こされ、大戦争へ連鎖する状態まで、尋常により形成されている。

されど、大災害や大戦争における、一時的な把握と理解による連帯感では、魔の連環から抜け出すは叶いはしない。

その程度では、総体は腐敗を続けるだけだ。

例え、表層では一つに見えようとも、水面下では無粋な対立が続き、抜本的な変化がないため、同じ末路を辿ってしまう。

そう、どれだけの変化があろうとも、肝要が果たせぬのであれば、
枠組と仕組に掻き消され、教訓さえ壊死してしまう。

そこから抜け出す術は複数あるが、全体に対し同一となる特定の情報を、ある程度取得させる必要がある。

それにより、最低が伴うようにならなければ、些細な事さえ成り立つ道理はない。

そう言えば、共通の敵を出現させる事により、分かり合わせたい存在を共闘させ、
平和が引き寄せられるようになるは、マンガやアニメで良くある事だ。

分かり合わせるために、対立させる場合もある。

誰かが、圧倒的な存在となる事で、平和を維持する作品もある。

それによる、一時的な平穏の到来は必然であり、それが仮初であるは当然なのだ。

それなのに、それと似たような事をすれば、どうにかなると思い決めする者がいる。

政治や宗教の御人形さんは、その未熟さが災いしてしまい、それに陥り易い傾向にある。

もとより、それと同じ事をしてきたため、どうにもならぬ実相と化している。

それは、浅はかな者の習性なのだ。

だから、何の変哲もない発想や理想を、誰もが導き出せる妄想や空想を、
多寡がパズルの寄せ集めを、自分だけの究極と思い込んでしまう。

それを克服する事によって、どうすべきかを適宜に導き出し、それを実現しなければ革新はない。

それを遂げれば、あらゆるが新たな次元へと推移する。

さすれば、自分による究極であったそれは、何の変哲もない発想や理想、
誰もが導き出せる妄想や空想、多寡がパズルの寄せ集めとなる。

そうやって、人間と人類と社会と世界は、様々な発展を遂げてきた。

残念なのは、肝心な事を放棄した事だ。

それを成すまでは、全てが閑却なのである。




家族が、死んでしまう。

友達が、死んでしまう。

他者が、死んでしまう。

自分が、死んでしまう。

誰もが、慥かに死んでしまう。

そうだ、親も傍も子も友も己すら、周囲に満ち溢れる他人さえ、
意義と真価と程遠い領域で、意味と価値すら曖昧なまま、使い捨て・使い捨てられる。

それに、人間と人類と社会と世界が、自ずと形成したカラクリにより、
思惑は尽く頓挫するだけでなく、墓穴を掘るは必然かつ当然なのだ。

その状態で出来る事なんぞ、どれだけ凄いと感じようとも、取るに足らぬ事にすぎない。

我々は、継承を果たし続けなければ、何もかもが使い捨てとなる。

それなのに、碌に継承が叶わなくなる状況を、政治や宗教が増長し続けている。

無論、全人がその一端を担っている。

それにより、意義や真価への道が断たれ、意味や価値が不慥かな状態だ。

そうなるは、人間と人類と社会と世界が、未熟なための薄倖なのだ。

そして、政治や宗教に縋り落魄するは、因果による応報にすぎない。

それに、政治や宗教に縋らなくとも、御釈迦になるは節理である。

誰しも、超絶絶頂の我慢を強いられ、それを誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けている。

万人は、様々な枠組と仕組に恃む事で、それを紛らわそうとしてきた。

なんせ、そうしなければ耐えられん。

ただし、究極極大の辛抱を強いるは、その枠組と仕組に他ならない。

結局、政治や宗教に縋ったつもりが、其の実は奪われるばかりであり、臨界突破の料簡を強制されている。

ただでさえ、多くを引き換えに生きねばならぬため、それを緩和しようとしたつもりが、
幸せになるために邁進した筈なのに、より多くを犠牲とするを強いられる。

何にせよ 、楽園にするも可能な世界を、地獄に変えるだけでは飽き足らず、不束な状態で呆然と立ち尽くしている。

それでは、どうにもならぬが実相であり、それで救われるは有り得んのだ。

まして、是正の余地がありすぎる、実を言えば虫唾が走ってしまう、
枠組と仕組なんぞに寄りかかれば、唾棄すべき存在と化していく。

その見返りは、圧倒的な絶望と後悔だけだ。

だから、耐えきれぬ人々が、次々と破局していく。

衆人は、雁字搦めの泥梨に放り込まれ、首枷を強要され生きねばならぬ。

また、それが至当なのだと刷り込まれ、従わぬ存在は異端と吹き込まれる。

さらに、思い通りに生きるは、原初から零なのである。

それに気づいてしまえば、気が狂わずにはいられない。

だけでなく、是正の術が導き出せなければ、益々どうにもならなくなる。

例え、何らかの術が導き出せようと、履き違えた状態であるならば、
狂気に取り憑かれているに変わりはない。

そもそも、気が狂い・狂わされていなければ、この屈託の日々を乗り越えられん。

そう、気づく・気づかぬに関係なく、気が狂い・狂わされている。

それでも、どうにもならぬのが実態なのだ。

症候に違いがあるは、気の狂い方に差があるだけだ。

それが宿命となり、政治家や宗教家は当然とし、全人が絶望と後悔に苛まれるは、
思い決めに振り回されるばかりで、肝心な事を教えて貰えぬからだ。

せめて、それを洞察する事が叶えば、窮極たる罪過の増悪を緩和し、
不幸の中における忽略の幸福ではなく、真の幸せに指先だけでも触れられた。

そうだ、適宜な是正が叶えば、不意味は断ち切れる。

さすれば、憫然たる人生とはオサラバだ。

何より、機会に恵まれる可能性が、飛躍的に向上を続ける。

それまでは、面倒が解決する事はない。

面倒は、何遍も繰り返されるが、我々の命は一回ポッキリだ。

ハナから、前提が伴わぬため、カラッポの状態で生まれ、そのまま死んでしまう。

だからこそ、反復させてしまう部分がある。

何故、そうなってしまうのかを、そこそこ精確に取得が出来れば、人間として最低限の人生を歩めただろう。

だが、人の生涯には遠すぎる。

人にならねば、大切な存在に再び逢える、些少の可能性すら得られずに、自分自身を窮追し死ぬのみだ。

自分のため・家族のため・生きるため、負けるわけにはいかぬ。

そう言って、多くの者が己を追い詰め、あらゆるを犠牲にくたばった。

ちなみに、全身全霊で働き続ける者、怠惰に日々を過ごす者の間に、特筆すべき差は存在しない。

それは、そのような社会と世界を、人間と人類が形成したからだ。

我々は、氷山の一角から滴り落ちた水滴の中の埃や、手で掬った海水の上澄みにも満たぬ認識で、
全てを杞憂だと判断し、己の死からも目を叛け、家族や友達や他者や自分を、
見捨てる本性と決別を果たし、前向きに生きねばならぬ。

穢れた綺麗事や御託により、自分を慰めたつもりであろうと、止むを得ないと自身を追い詰めて、
誤魔化し有耶無耶とし逃走するだけでなく、全てを巻き添えに奈落に飛び込むだけなのだ。

であるからして、それを把握し理解する事により、多角的な催眠と洗脳と暗示による、
自滅を受け入れるのではなく、肩の力を抜いて美味いモノを食べ、家族や友達との時間を謳歌すべきだ。

勿論、それだけで生きるは叶わない。

だからこそ、何のために働くかを、より良き状態とする事で、負担を抑え励まねばならぬ。

何しろ、切羽詰まった状態では、全てが散漫となってしまい、命脈を保つための選択を誤る。

おまけに、成果も不十分となる。

あまつさえ、家族・友達・他者・自己を、犠牲とし・犠牲にされてしまう。

要は、最低限を洞観する事によって、少しでもマシな一時凌ぎをする、調整をしなければならんのだ。

我々は、思考の手順を最適化する事で、その質を高め続けなければ、
周囲からの影響により、希薄な自我が消失して、操り人形にされてしまう。

そのような惨めは、是非に拒絶しなければならん。

だからとて、間違いを犯してはならぬ。

これより、より思わしくない状況へと、突入する公算は非常に高い。

諸賢には、それを上手に乗り越えて欲しい。

今後、見誤り履き違えた、希薄な存在・濃厚な存在が、より疎ましく跳梁跋扈を続ける。

その犠牲にならぬ心構えをし、成すべきを見極め続ければ、
目指すべき人としての人生を、歩める可能性は大きくなる。

ここまでを取得せず、利益や正当性の獲得に躍起となれば、
莫大な損益を被るは当然とし、不当だったと責められる。

尚且つ、悪化させて繰り返す。

それを終わりにせねば、何も始まりはしないのだ。




法律や義務は、他愛もない潮流により形成される。

そして、人々はそれらを押し付けられる。

それは、人間と人類と社会と世界が、思い違いにより形成した、杜撰な拘束具にすぎない。

されど、それすら存在しなければ、碌でもない状況の存続が叶わない。

そうだ、杜撰な拘束具すらなければ、人々はどうにか鬱憤を晴らそうと、
とんでもない事をしてしまうし、とんでもない事をされてしまう。

不意味であるにしろ、それがある事によって、首の皮一枚で繋がっている。

それに、部分的な正解はある。

ただし、そのような仕来たりがある事により、
偏見や軋轢が生じるは勿論、大きな過ちを犯す事さえある。

そう、それしかない事により、ギリギリの状態であり、
果てに首の皮は千切れ、未来への扉が閉ざされる。

それに、法による裁きなんぞでは、罪滅ぼしには遥かに遠い上に、気休めと自己満足にもならん。

それが、明確となってしまえば、滑稽な選択に明け暮れる破目となる。

そもそも、成立させるに不可欠な要諦が無い。

厳密には、それが無い状態で粗造された。

ただ、目の前にある大問題や、目を叛けたくなる実態を、表層から抑え込もうとしただけだ。

その限りでは、法律や義務や規律や作法は、疎ましい悪習の域で終わる。

何より、それらを守るべき理由を、述べられる者がいない。

確かに、理由を述べる者はいるが、仕方がないから従えと言った、
碌でもない言い訳が大半であり、相手を納得させられる者は僅かだ。

ハナから、つもりにしかならない。

何しろ、要諦たる根拠が欠如する、法律で規制し義務を賦課する事で、
枢要な対応は放棄され、安全と安心が蔑ろにされ、危険と不安が野放しとなる。

人間と人類と社会と世界は、格別性と特別生の追求により、
単純な事を複雑にしてしまい、至当を見失ってしまった。

そうだ、法律や義務と掲げる事により、格別性と特別生を演出したつもりが、
厳守する意味や価値を喪失させ、偽善と茶番に没頭する不始末だ。

意味や価値が喪失するは、実際は何もしておらぬため、意義や真価が生じる道理がなく、
状況は悪化の一途を辿ってしまい、法律や義務や様々な戒めが、取るに足らぬ存在となるからだ。

はたまた、人間と人類と社会と世界が、余計な事を悪化させ反復させたため、追いつかなくなっている一面もある。

我々は、前提の創始が疎かであるため、感情的な思い決めしか叶わない。

そのため、透徹した思考をするに、至要たる原理・原則が欠落し、極々に進退窮まった状態だ。

そこからの脱却には、いくつかの方法が存在する。

しかしながら、型に嵌っている存在では、そのうちの一つでさえも、取得するは至難である。

原初から、場当たり的となる前提さえも、甚だ不十分にしか構築が叶わん。

であるからして、無惨に形成した社会と世界による、一方的な法律や義務や規律により、
身勝手な人間と人類は束縛され、それを守ればどうにかなると、
救われ赦され報われると、大きな思い違いをしている。

例え、どれだけ信じていようとも、それは放埓な選択にすぎず、辿る末路が変わりはしない。

そんなだから、作用と機能と能力による、常識の洞察すら叶わん。

その限りでは、神意を超克するも不可能で、
神たる存在の有無に関係なく発生する、
使命の察知さえ遥か彼方である。

さりとて、過ちを反復させすぎたため、もはやそれでは足りぬのだ。

時点では、正義を掲げられる理屈もなければ、平和を求めるに必須となる理合もない。

それでは、誠実な言葉でさえも、鋭利な刃物と変わらない。

それなのに、無闇矢鱈に余計な事をしてしまえば、
家族や友達や他者や自身を、ズタズタに切り裂いてしまう。

特に、政治や宗教に携わる人材は、それを把握し理解しなければならん。

さもなければ、真意とは正反対の方向へ進み続け、家族や友人や他者や自己を、
良き未来へ誘うと誓った、かけがえのない人々を、惨憺たる終末へ導いてしまう。

その上、理由も解らぬまま、処刑されてしまう。

これは、家族のために働き続けたつもりが、蔑にし犠牲にしている事に似ている。

少しでも、マシな一時凌ぎをするに意識すべきは、
レギュラーとイレギュラーは、正と負の両極で発生する事だ。

即ち、良き事と悪き事の双方に、想定内と想定外がある。

無論、どうでもいい事に対しても、それは同じなのである。

ただ、最良と最悪の極点を考慮していれば、想定外に遭遇する事は滅多にない。

何より、問題の解決が叶わぬ、惨憺たる末路を思慮し、
段階的な対策を策定すれば、最低限の対応が可能となる。

これは、端緒の配慮だ。

けれども、レギュラーとイレギュラーを、判別する能力は当然とし、
想像力と創造力の欠如により、最下限のそれすら出来んのだ。

おまけに、レギュラーとイレギュラーを差し替え、あたかも大丈夫かのように見せかける。

端的に言えば、成立する道理が存在せぬ、楽天的となるイレギュラーを、レギュラーとして扱う上に、
実質・本質・実態・現実・事実・真実・真相・実相を見誤って、碌なシナリオを形成する事が出来ない。

例えば、致命的な欠陥と欠点の払拭が不可能となる、原子力発電に神話を形成する事により、
安全・安心を極端なレギュラーと扱い、危険・不安をイレギュラーとして排斥していた。

考え方が逆であり、都合の良き事ばかりに固執し、不都合を蚊帳の外とするため、
何をするにも直ぐに頭打ちとなり、限られた範囲で失態を反復させる。

これでは、リスクとハザードに対する想定と対処は、不適切かつ不十分な次元でしか叶わない。

あまつさえ、判別・識別・区別・分別・翻訳・通訳・疎通さえ、十分と言える水準で出来はしない。

その錯綜が、事態の悪化に拍車をかける。

だから、セオリーとロジックは未熟なままだ。

それを念頭に置かなければ、前向きに生きる事すら叶わない。

特に、注意が必要となるのは、より未熟な状態であれば、現実と理想の分別がつかない。

それ故、自分達の実態を見誤るは当然とし、目指すべき道を違え踏み外すのだ。

要は、現状を当然と思い込むは仕方がないが、それは不行き届きであるがための必然で、
不純で腐乱した理想の慣れの果てであり、現実と扱うには余りある悪夢でしかない。

それなのに、それを理論的に判別するも叶わず、悪夢たる現実に流されるばかりで、
それをグチャグチャに弄繰り回せば、より良き明日が来ると思い込んでいる。

流れを変える立場にいる人材さえ、誰かがどうにかしてくれると、
自分自身に嘯くばかりで、何一つ全うせずに死んでしまう。

そろそろ、それは終わりにしよう。




人間と人類と社会と世界は、空気を読む事を忘れてしまう。

言いかえれば、間違った空気に流される。

もとより、碌でもない空気の虜である。

空気は濁りを増しながら、悪い方向へと流されていく。

それは、乱用する存在によって、格別性や特別性が低下を続けるからだ。

もしくは、過誤した事柄に対する、格別性や特別性が上昇を続けるためだ。

例えば、氾濫するコンテンツによって、様々なタブーから解放される。

そうだ、大丈夫かのように吹き込まれ、
人々はそれを真に受けるだけでなく、
赦されぬ事柄で競走すら始める。

それによる影響で、気が触れぬようには、人間と人類と社会と世界が出来ていない。

要は、許容量を超える悪質化により、何もかも伴わなくなっていく。

それを、未然に相殺する枠組と仕組は実存せず、それを構築しうる存在さえ誕生していない。

されば、不意味ないたちごっこが、何時までも繰り広げられる。

不意味となるは、許容量を超えており、成す術が不在なため、
どう足掻こうとも事態は悪化の一途を辿ってしまい、
実施した対策が裏目となり易いからだ。

それに、多寡が規制では放置と変わらず、どんどん追いつけなくなってしまう。

そして、格別性や特別性の演出により、あらゆる価値が捏造されている。

様々な方法で、体裁を整える事によって、その隠匿が実現されているが、それは些細な事で崩れ去るのだ。

当方が、述べるに該当する事態とならば、各国の経済に連鎖的な消滅を齎す。

なんせ、窮極たる最低限を成立たせるための、薄っぺらい条件と前提が弾け飛んでしまい、
価値や意味が完膚無きまでに消失するため、あらゆるが台無しとなってしまう。

注意すべきは、余計な事をした総量に比例し、直面する危機は大きくなる事だ。

結果的に、それが人類の滅亡に繋がるかもしれん。

何しろ、美化する事ばかりに躍起となれば、どんどん内面が追いつかなくなり、
腐食は裏側・側面・表面へと広がり、失態に気づく頃には、悪化させるで精一杯だ。

そうなれば、続開や絶滅に繋がるかも曖昧な、選択へと引きづり込まれてしまう。

我々は、それによる流れに翻弄され、瀬戸際に立たされようとも、大きな過ちを犯してはならぬ。

何より、暴走する人々の流れに、呑み込まれてはならん。

未熟な存在に、先々を見据えた予防を施さず、莫大な情報を流入させる上に、
安易に流布する道具を与えれば、滅茶苦茶になるは目に見えている。

それなのに、マスメディアが存在しており、様々なツールが世に送り出され、
それを取り締まる枠組もなければ、抜本的な是正をする仕組さえない。

あるは、助長する枠組と仕組だけである。

最初から、何も成り立っていなかった。

このまま進めば、末路は選り取り見取りだ。

それなのに、手遅れとなるまで何もしない。

そもそも、術がないから手遅れとなる。

万人は、手遅れであるため、自縄自縛へと嵌入し、本末転倒を繰り返すで精一杯だ。

その限りでは、問題を抱える存在に対し、碌な提案や打開策を示せず、
互いの逃げ道を無くしてしまい、命の奪い合いに発展しかねん。

どうにかしろと、追い詰めるばかりであるならば、どうにもならぬ事をさせてしまい、
互いが追い詰められた挙句の果てに、命脈を保つための選択を誤ってしまう。

所詮は、付け焼刃の積み重ねで、継承は不十分であり、昇華も不適切である。

そのため、確たる対応なんぞ、滅多に望めはしない。

致命的となる、欠陥が無い原発が存在しない。

放射線障害に対し、碌な治療法が実存せぬ。

だから、それらしい理論を形成する事で、安本丹な知識層さえ欺いて来た。

その頭の良き馬鹿垂共は、安全・安心とのた打ち回る。

そうやって、相身互いに零落する生物が不憫だ。

とは言え、福島第一原発事故を、適正に評価するだけでなく、
誠実な対応を実施すれば、日本は大きく傾いてしまう。

しかしながら、それを実施する術がないのだ。

馬鹿げた事をしてきた、竹箆返しは非常に大きいため、国家や企業では手に負えない。

ハナから、原子力発電は当然とし、そこからの撤退は勿論、他の発電さえ例外でなく、
会社すらマトモに扱えぬ集団に、高依存な個人の寄せ集めに、望める事は余りに少ない。

まして、まともに国家の運営が出来る筈もない。

原発に関連した風潮の波及により、中国と韓国が瓦解する可能性さえある。

それにより、世界が極端に貧窮しかねん。

多くの人々が、その類を相殺する能力もなく、批難や批判に躍起となっている。

それが、リスクとハザードを烈々に向上させる。

我々は、全てがギリギリの状態から、堅実に脱却せねばならん。

既に、日本は大きく傾き、世界は極端に貧窮し、頓珍漢な人間と人類と社会と世界である。

それでは、ギリギリと言うよりも、滅びの最中とすべきだろう。

せめて、極点たる最悪だけでも、退きたいモノである。

それにしても、醜い争いが続くを、とても残念と感じる。

大陸や半島が、日本に対し敵意を向ければ、島国は防備の強化を強いられる。

連中は、その不都合を右翼化や軍国化と好都合に受け取り、
それらしい言葉を並べて、批難や批判に躍起となる。

その程度では、相手を追い詰めるつもりでも、内部と外部から及ぼされる、
リスクとハザードを向上させ、己と同胞の首を絞めるだけだ。

気がつけば、右翼化や軍国化をしたは己達で、局外勢力を敵に回す破目となる。

可哀想なのは、どのような仕組と枠組があるかを熟知せず、
多くの者達が己を正当と確信し暴走している。

さすれば、大損をするのは自分自身であり、
その巻き添えとされてしまうのは、かけがえのない存在なのである。

大陸も半島も島国も、人材に恵まれておらぬのが憐れだ。

選択により、日本が世界に滅ぼされ、全国家が世界に滅ぼされ、
地球が世界に滅ぼされ、世界が世界に滅ぼされる。

では、世界とは何か?

それは、状況により定まる。

時に、それは限定された領域であり、ひっくるめた全域の場合がある。

はたまた、特定の数カ国の場合は当然とし、少数の人間を指す場合さえある。

他にも、様々なケースがある。

何をおいても、弱い犬ほどよく吠える。

そんな、連中ばかりがピックアップされ、平穏を愛する人々が苦しめられる。

それが、我慢ならぬ個人・団体は多い。

そして、公僕や知識層(と思われる)が協調し、破廉恥な事が続いている。

感情に、流されるだけの人間は恐ろしい。

感情に流され、高度な知識を有する者は、前者を超越する過ちを犯す。

諸賢には、それにより淘汰されぬよう、篤実かつ闊達な精神を育み、
より冷静な思考によって、 聡明な判読と賢明な論決を、心掛けて頂けると幸いだ。




三段(上)は、以下の日記を主体とする、これまでの纏めとなります。

必要に応じ、以下を参照して下さい。

2013年06月19日 18:20 二段(起)

2013年06月25日 23:39 二段(承)

2013年07月04日 00:28 二段(転)

2013年07月20日 22:48 二段(結)




三段(二)に続く。