2013年07月20日 22:48 二段(結)


我々は、家族が居るのに、友達が居るのに、誰かが居るのに、居ないと思い込む。

また、家族が居ないのに、友達が居ないのに、誰も居ないのに、居ると決めつける。

さらに、必然かつ当然たる潮流に身を委ね、考察を放棄している事実すらある。

そして、葛藤や境遇や気分によって、居場所がないと痛感する者がいれば、
どれだけ強烈に拒絶されようと、そこが居場所だとしがみつく者もいる。

はたまた、表層にすぎぬ認識の虜となり、滅多に意識せぬ者さえ存在する。

詮ずれば、分け隔てられる事なく、猫も杓子も一人である。

万人は、自分自身の事ですら、満足に把握も理解も出来ず、
家族や友達や他者ならば、サッパリなのが実態なのだ。

確かに、断片的な把握や理解は可能だが、人間は流動的な現象であるため、
その時々における取得しか叶わず、最新を維持するは至難である。

まして、全てを網羅するは不可能だ。

故に、熟知していると確信しようとも、それはつもりにすぎぬため、擦れ違う日々を歩んでいる。

そう、分かっているフリをして、空回りするので精一杯だ。

何かを感じ、向き合おうと決断する頃には、
度しがたい状態であり、サジを投げるしかない。

逆に、注意が向かない方が、上手く行く場合がある。

さりとて、抜き差しならぬ事態に、嵌入する場合すらある。

それに、互いを知れば知るほど、感情は移ろい易くなる。

ただし、より惹かれあう事もあれば、受け流される事さえある。

結局は、ケースバイケースであり、確実な事は誰にも言えない。

状況を、限定的ながら成立させるは、行儀作法の範疇であるが、
格別性や特別性は損失を続け、マナーを守る実情は減少の傾向となり、
法で拘束されれば意味や価値が喪失し、全ては偽善や茶番へと成り下がる。

人間関係は当然とし、あらゆる感覚でさえも、その流れにより流失する。

されど、相性の云々に関係なく、
誰かがいなければ、その心は満たされぬ。

そうだ、毛嫌いをしていようとも、心の底で失う事に怯えている。

もはや、最後の砦は崩壊寸前であり、偽善や茶番と識別する傾向にあるが、
それを打算的な思考ではぐらかし、愛想良く居場所を確保するしかない。

人間は、孤独には耐えれらずに、繋がりを渇望してしまう。

そのため、様々な方法によって、絆を確保しようとする。

けれども、それらは物理的に必ず切断される、仮初のような結びつきなのである。

その一方、己だけを特別な存在と依估し、不都合な存在の淘汰を願ってしまう。

であるからして、あまねく想いを錯綜させ、頭を抱えるのは必然とし、
邪慳に扱われてしまおうと、離れられぬのは当然なのだ。

それ故、人間と人類は過ちを犯す。

それにより、犯行に及んだ理由を追求して、犯し難くなる方法を探求する。

しかしながら、漠然とした主観によって、希薄な答案しか導き出せない。

もとより、どれだけ突き詰めようと、碌な解答に辿り着けぬ上に、
キリがないのが真相であり、止め処無く考察を繰り返し、己を擦り減らしてしまう。

例え、良き解答に辿りつけたとて、それで解決が叶う事はない。

原初から、ひとり決めで導き出した答えでは、信憑性と信頼性と信用性は不在であり、
大多数で導き出した結論であろうと、それを正しいとする根拠が存在しない。

あるのは、それを正当化しさえすれば、好都合となる思惑と状況である。

それも、一時的な動勢にすぎない。

だから、真の意における解決が望めず、人々は何時まで経っても、同じ理由で悩み続けている。

何より、家族も友達も他者も自分も、人間と人類と社会と世界に弄ばれ、
一人ぼっちにしてしまうし、一人ぼっちにされてしまう。

そうして、何もかもを奪われ、消え去る命運である。

その限りでは、誰しも孤独で空虚な存在だ。

だが、一人では生存が叶わない。

ハナから、産まれる事・生きる事・死ぬ事でさえも、
継承による繋がりがなければ、実現する道理が無き事柄だ。

誰しも、無数の玉響によって紡がれた、生命と命運の驚異たる存在だ。

つまり、各々は驚愕すべき、奇跡の結晶である。

だからこそ、君はそこにいる。

斯くして、私はここにいる。

それなのに、居ないと思い詰めてしまうのは、その様に開き直るしかないのは、
必要と洞察しているからこそ、感じているのだと忘れてはいけない。

忘却すれば、自分を不要と思い込んで、命脈を保つための選択を誤る。

そうだ、必要を不要と履き違え、かけがえのない存在を、
家族や友達や他者や自分を、自分自身で奪ってしまう。

そうなるは、刹那や累積した感情に、思考が敗北してしまい、
ひき返すが決して叶わなくなる、取り返しのつかぬ過ちを犯すからだ。

ただでさえ、回復不能の致命傷を負っているのに、
止めを刺してしまえば、生ける屍と化してしまう。

絶大な辛酸を味あわされようと、居ると思い詰めてしまうのは、その様に開き直るしかないのは、
不要と察知しているからこそ、一方的だと直感しているから、迸る感覚であるを忘れてはならん。

忘却すれば、自分を必要と思い込んで、命脈を保つための選択を誤る。

そうだ、不要を必要と履き違え、かけがえのない存在を、
家族や友達や他者や自分を、自分自身で奪ってしまう。

そうなるは、消耗品のように扱われ、生涯を棒に振る破目となり、
似たような存在と縋り合い、何処までも淪落する場合があれば、
縋る事で相手を追い詰め、殺し合いへと発展する場合もある。

例えば、相手の眼中にないのに、付き纏う事に躍起となるも、明確に否定される事態になると、
勝手に裏切られたと断定し、己や相手や誰かでさえも、全力で殺害してしまうのだ。

些少の疑問すら錯綜する事がなく、追い込まれ開き直る事もないのは、
極端に恵まれた環境にいるか、異常に恵まれぬ環境にいるのか、
置き去りにされてしまい、茫然かつ朦朧としているかだ。

置き去りにするのは、家族や友達や他者や自身である。

それを把握し理解する事により、己の多大な不足を埋めなければ、
自己の思慮の浅さによって、命脈を保つための選択を誤る。

そうだ、それが全てと履き違え、かけがえのない存在を、
家族や友達や他者や自分を、自分自身で奪ってしまう。

そうなるは、突発的な有事に遭遇すれば、些少の事でも気が動転してしまい、
脆く崩れ去ってしまう事があれば、教えてくれなかった者達は勿論、
これまでを破壊した存在を、咄嗟に殺害する事もある。

何と言っても、その程度であるならば、簡単に騙されてしまい、
何の疑いを抱く事もなく、人を騙す道具にされる。

このように、縋れぬ者・縋りし者・委ねる者が、バラバラに存在しつつも、各々の中に混在している。

そして、何処で何を如何しようとも、その人生は蜃気楼となり、同じ末路へと集束する。

即ち、それは絶滅である。

それを遠ざけるには、ありのままを見極める事で、
不都合な情報すら共有しつつ、打開の道を切り開くしかない。

ただ、方法を過誤してしまえば、絶大な不可抗力によって、全てを巻き込んで破滅する。




人間と人類と社会と世界を、適正に運用しうる条件の策定を、怠惰により忘却し失念した環境では、
正義を振り翳そうと、不義を振り翳そうと、何も振り翳さぬとしても、万人が自縄自縛へと陥り、
敗者になるを宿命付けられ、真に報われる事もなく生き、偏見の塊となって死んでいく。

万物の霊長は、自分自身の生きがいのため、
水面下で殺し合いを強いられる、果てなき地獄に身を委ねている。

その限りでは、どうにもならぬのに、どうにかなると思い決め、何もしないで終わってしまう。

何かしようとも、不可欠となる前提が不在のため、価値があり無価値であり、意味があり無意味であり、
不徳の致すところにより、零下の底へと引きずり込まれ、何もしなかった事になる。

これまで、多くの人々が超希望的観測の下で、何かになり成し遂げようとした。

しかし、どうにかそれを始めるも、理想との勝手の違いに苛まれ、
直ぐ辞めてしまう事があれば、無理を押し通して続けている。

どれだけ努力をしようと、隣の芝生は青くみえてしまい、己が勝っていると確信しようとも、
抜かれてしまう事を恐れ、根本的にこのままでいいのか、変えるべきなのか不安になる。

手間がかかる事に気付き、怖気づくは良くある事だ。

それに、超希望的観測を抱いたまま、何もせずに終わるが顕著である。

だいたい、上を見ればキリがなく、それが正統な証拠すらない。

そもそも、する・しないに関わらず、白日夢で終わるのが必定だ。

そうなるは、嘯く事に血まなことなり、あるゆるが不意味となる状態の形成に、
杜撰な人間と人類と社会と世界が、迂闊にも邁進し続けているためだ。

それによって、権利も価値も意義も栄光も、
何もかもが打ち消されるだけでなく、
それらは過失へと豹変する。

悲しいかな、人間と人類はそれを猛烈に炯眼し、生きて死なねばならぬ実存なのだ。

人々は、それを心の奥底に仕舞い込み、やっとの思いで生きている。

そのため、それが心の奥底から溢れだせば、どうすればいいか分からなくなる。

特に、不分明な状態で氾濫すれば、もはやどうする事も出来ない。

さすれば、簡単な口車にすら踊らされ、無数の罪過を背負わされる。

時に、そこからの脱却を目指す者が出現するが、いずれにせよ同じ穴の狢にすぎず、
穢れた綺麗事と御託を並べ、甚だ余計な事をしてしまい、より深い暗澹へ沈むばかりだ。

それを助長する、不浄な主因の一端にすぎない、政治や宗教に縋るのであれば、
その領域から脱却をするは、絶無であり皆無であり空無である。

無論、人々を頭打ちとする事で、支配するための道具である、
それらに取り憑かれれば、抜きん出た存在の誕生すら望めなくなる。

それでは、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事すら、
完膚無きまでに叩き潰して、濃霧の密林を彷徨って、ボロボロになるだけだ。

おまけに、そこで並べる理屈は、屁理屈にしかならない。

最初から、周囲は深い霧に包まれており、どちらへ進めばいいか分からない。

右なのか左なのか、前なのか後なのか、上なのか下なのか、
その場に留まるべきかすら、見当がつかぬ状態なのだ。

要は、方向性を定められぬため、主観を十分に育む事は不能であり、志向性と指向性の確立が叶わない。

政治と宗教は、不完全で不健全となる、それらを強制する事により、
人々をより罪深き存在へと貶め、終わらせてしまうばかりである。

本来であれば、信じる者は救われぬ仕組であるを予見し、
不可欠となる機構を形成する事によって、
先々へと進むべきだった。

あまつさえ、屁理屈は屁理屈でしかない。

だから、何処で何を如何しようとも、どうにもならなくなる。

なのに、どうにもならぬ状態で、どうともならぬ事柄を、
どうにかしようとして、さらにどうにもならなくする。

気付いているのに、それを止める事が出来ない。

だから、這い上がるは不可能となる、さらなる深淵へ嵌ってしまう。

あらゆるを、使い捨てにしか出来ぬ存在が、全てを手に入れようとする。

だけでなく、家族・友達・他者・自分を使い捨て、
それらに使い捨てられる無残な存在が、
ひたすら余計な事を繰り返す。

己が得をするめに、誰かに損をさせ、競争で生き残る事により、残酷な化け物になって行く。

その実相を誤魔化し有耶無耶とし、トンズラを続けてここに到る。

今となっては、莫大な犠牲がなければ、際限なく汚れ続けなければ、碌に生きる事すら叶わない。

そのような、許されざる不条理に満ちた存在には、
幸せになる資格もなければ、満たされる理屈もないのだ。

何より、政治や宗教に依存するならば、使命を果たす機会さえも失い、
罪は何処までも膨れ上がり、生きようが死んでしまおうと、地獄へ転落する命運となる。

自分達で作った、地獄のような現実から、地獄へ堕ちるは滑稽だ。

人間と人類は、大前提たる諸条件の策定を放棄し、
自然作用との付き合い方を誤り、偽善と茶番に明け暮れている。

そして、矮小な自己顕示欲により、気休めと自己満足で七転八倒し、
建前と自己都合と利己主義に弄ばれ、本能で形成した社会と世界に、陳腐な踊りを強いられている。

人間的存在は、余計な事をせずには生きられない、窮極に余計な存在と化している。

偽善と茶番に身を奉じ、体裁のよい言葉を並べ、そのまま転げ落ちるのは、
それを何遍も反復させるのは、それしか出来ぬ状態のままで、助長する仕組を形成したからだ。

であるからして、それを基盤とし形成された、
多くの枠組に染まるほど、欺瞞と詐術の怪物となる。

そのため、政治や宗教の奴隷となれば、怪物の御人形さんにされてしまう。

所詮は、半端な状態で生み出された、粗雑で狭隘な概念と定義であり、
何をどうこうしようとも、様々な思惑の介在によって、墓穴を掘る破目となる。

それによって、政治的・宗教的となる思惑は、尽く頓挫する仕組なのだ。

中途半端にしかなり得ぬ状態で、完璧主義や完全主義と自負すれば、完璧や完全には程遠いと見破られる。

また、相手の無能を批難し批判したつもりでも、己の無能を曝け出す失態を演じてしまう。

さらに、回顧すれば虚しい思いに苛まれ、慙愧の念に打ちひしがれる。

だからこそ、誰かが軌道を修正するを待って、
報いる結果の到来に期待するのではなく、
自分自身の力で引き寄せねばならぬ。

そのためにも、バランスの重要性を意識し、自分を洗練し続ける事で、
より良きを掴みとり、守り抜かなければならん。

縋るべきは、より良き己であるを心に刻め。




人間は、自己が不仕合せである事に気付いた、滑り出しから不幸な生命体である。

生まれては、短い時を生き、死んでしまう。

それでは、微塵も満たされぬ。

それだけでは、この空っぽの心が、満足する事はない。

だからこそ、あらゆるを渇望しここまで来た。

そう、満天の星空を凌駕する、夢と希望を追いかけて、ここに辿り着いたのだ。

疑いなく、その獲得に励んだ筈だった。

残念なのは、履き違えた状態のまま、進んでしまった事である。

そのため、悪夢のような世界で、意気消沈している。

そして、そこからの脱却が叶わず、多くを奪い失い奪われている。

ただ、無くしたくない。

そうだ、守り抜きたい一心なのに、何もかもが零れ落ちてしまう。

確かに、折り返し地点を迎えれば、誰しも失い続ける一方となる。

だが、生まれてから死ぬまで、それを強制する数多の仕組と、助長する無数の枠組に囲まれ、
ありとあらゆる方向から迫る、収奪の嵐に身を削られてしまい、耐えられぬ者は破局してしまう。

それによって、与える事すら儘ならぬ。

その余裕は、一方的に奪われていく。

幸せを求め、人間と人類と社会と世界が生み出した、先祖から子々孫々へと纏わりつき、
無限に増大する魔の連環であるが、その内訳の把握は至難であり、もう途方に暮れるしかない。

とは言え、どれだけ不幸であろうとも、幸せになる事は可能である。

ただし、決して幸せになれぬ状態ならば、それを追求する程に虚しくなる。

そうなるは、幸せとは何であるかが、因循姑息な状態のままで、
問題を撒き散らしながら、手に入れようとするからだ。

厳密には、幸せと認識しうる感覚が、バラバラなだけならいざしらず、
他者の不幸を己の幸福とする、破廉恥な存在がのさばる状態であり、
それが必然かつ当然となる実態に、完全に嵌り込んで進むからだ。

おまけに、嵌入した泥沼は底無しで、沈み続ける一方である。

そもそも、幸せの形は十人十色であり、何を幸せと識別するのかは、継承により育んだ価値観に依存する。

その継承は状況に左右され、過程で大きく歪む事があり、ひょんな事で変質してしまう。

そうなる事で、吐き気を覚える猟奇的な蛮行にすら、それを感じる者が次々と誕生している。

もとより、その様な存在で地上は溢れ返り、多かれ少なかれその性質を、誰もが内在させているのだ。

なんと言っても、その露出を露骨に無理強いする、仕組と枠組で埋め尽くされている。

それによって、それを追求するに対し、大きな矛盾が発生する。

要は、誰かが幸福になるため、誰かが不幸にされるが、何遍も繰り返されて、
それは複雑に分岐し、雁字搦めとなって、隅々へ浸潤している。

そうなると、幸せを追い求めるに、疑念を抱くようになり、
愚直に努力するを諦観し、収拾がつかなくなっていく。

かような実態により、無邪気に幸せを追求し続ければ、世界は腐った虹色に染まってしまう。

既に、染まり切った状態であり、降り止まぬ瑕瑾により、澱みを増し続けている。

だいたい、それが金銭で得られるモノであれば、
純粋には程遠い感覚でしか、その堪能が叶いはしない。

それに、多額の金銭を支払おうと、メリットとデメリットは対であり、
想定不能かつ冷酷無残となる、リスクとハザードが潜伏している。

想定不能としたが、項目が莫大であるは当然とし、キリがないため本能で忘失し、
考えるを放棄し続けたため、見極めるに必要な能力が、大幅に欠如しているのだ。

大概の場合、売る側はデメリットとリスクとハザードの存在を熟知しているが、
その大半に知らんぷりをして、都合のいい釈義ではぐらかし、
どうにも出来ぬ事は揉み消している。

それでも、究極(正における)かつ窮極(不における)たる要諦は、
把握も理解も出来ておらず、足をすくわれる状態である。

その様な存在に、騙されていると気付いた頃には、知らぬ存ぜぬで追い返される。

さあれども、自己の責任と力を込めて振り払う事で、相手が泣き寝入りしてくれる時世は、
凄まじい勢いで崩落してしまい、終わりを迎えようとしている。

もはや、それは風前の灯なのだ。

そうなったのは、自分の責任だからと観念する、礼法を守る価値と意味が、損失を続けているからだ。

特に、昨今の問題がそれを後押しし、これから発生する不具合が、それに止めを刺す事になる。

そこに到達してしまえば、詭弁は強弁に叩き潰される。

それで、どちらが有利な結果を得ようとも、どちらも負け犬なのが真相だ。

何より、逸脱した方法で幸せを獲得したならば、
それは不憫な末路でしかなく、気休めと自己満足にもならない。

そこに、極端な憂いがある時点で、それっぽいモノで消えてしまう。

ハナから、極端な憂いで満ちた、この無粋な世界では、
地べたに這いつくばって、空中楼閣を見上げる事しか叶わない。

その真相から目を背けてしまえば、人としての黎明を迎えられず、
摩天楼の袂にある階段を昇るも叶わず、その周囲をうろつくに始終する。

目を逸らす事によって、幸せを渇望し享受すれば、より良き人生を過ごせる、可能性を打ち消すだけでなく、
それまでの人生において、何も学べなかった事により、絶望に魘される可能性を、極限まで引き上げてしまう。

打ち消すは、仕組による必然かつ当然である。

引き上げるは、自然作用と機能による、確実と絶対はあるのだが、それを証明する術は実存しない。

何をおいても、顔を背けず見極めれば、些少なりとも零れ落ちるを、食い止めるが出来るようになる。

兎にも角にも、把握し理解せねば損をする。

なんせ、それに振り回されている存在、それを直感している存在、
そうだと熟知している存在によって、その人生を支配されるのだから。

しかし、知ってしまう事によって、猜疑心により疑心暗鬼となる。

けれども、その程度すら噛み砕かねば、己にすら簡単に裏切られてしまう。

信じられる自分自身を育むためにも、己を自在にこなせる力を得るためにも、
見て見ぬフリで棒立ちにならず、最低でも知悉しなければならん。

さすれば、人間と呼ばれる化け物として、道義的な判断を誤り難くなる。

それは、先々へ到り続けるを可能とする、目指すべき人への大きな一歩となる。




これまで、善と悪の分別が予断ならぬ存在に、
幸せとは何かを刷り込む事で、公序の安定が謀られてきた。

されど、それが夢のまた夢ともなれば、販促のための洗脳と周知されれば、
人々は危なっかしい状態で、とんでもない事をしてしまう。

そもそも、扇動が万人に対し通用する道理はなく、
人類が誕生した瞬間から、既に手遅れであった。

何しろ、善と悪に対する識別は、道徳と不道徳の区別すら、状況による押し付けにすぎない。

であるからして、始めから瀬戸際に立たされていた。

そのため、多くの人材はそれをどうにかしようと、どうにもならぬ状態で挑んでしまった。

それにより、自己破壊装置となる、仕組と枠組が乱立し、重層的に絡み合い、
人間と人類と社会と世界は、対立を深め続けている。

今日に到っても、人々は足を踏み外した状態で、維持と改善に奔走している。

とどのつまり、抜本的な是正は不成功に終わり、絶滅に向かってまっしぐらだ。

それなのに、選択を誤ってばかりで、死に急ぐに執着している。

過誤した状態である限り、そうなるは仕様上の都合である。

注意すべきは、当て付けや嫌がらせの様に、余計な事をのたまい続ければ、
思惑とは逆に作用してしまう、暗示が刷り込まれてしまい、大きな竹箆返しに晒される。

例えば、なんたら離れとアピールし、消費者に嫌みを並べる事で、シェアの回復をしようとし、
露骨な販促活動を続ければ、洗脳を実施していた事が露呈し、それをしていたのだと断定される。

そもそも、状況の変化を棚に上げ、自分達に好都合な事こそが、幸せであるかのように扱い、
そこから遠ざかる人々を、恥知らずの傀儡として、執拗に責めているのは、余りにも滑稽である。

それを、高嶺の花と感じる者からすれば、それは言葉による暴力でしかなく、
神経を逆撫でされてしまい、反感を抱かずにはいられない。

他にも、風評被害と言う単語の流布により、
大衆の価値観が散開してしまい、偏見と軋轢が生みだされた。

人々は、絶大な原因と要因があるからこそ、自己責任による選択をしていたのに、
政治と報道は風評と振り払い、責任の所在を明確にせぬまま、姑息にも丸めこもうとした。

そして、いくつかの問題が露呈するも、政治と報道は責任から逃げ惑い、大衆を翻弄するを止める事が出来ない。

だから、悪質が極まる存在である事が、先入観・固定観念・既成概念に刻まれ、
何らかの問題が起きた場合の責任は、より高度な次元で政治と報道に降りかかる。

とは言え、評価すべき対応をする者が、全くいなかった訳ではない。

だが、その対応をしていた張本人が、それを水泡へと帰している。

それに、それを周囲が台無しとしてしまい、さらに危ぶまれる状況に接近している。

もとより、大衆を欺いて悦に浸り、多くの同胞を殺害してきた、
主犯と共犯たる存在に対し、慎重となる者は非常に多い。

何と言っても、碌な事が出来ぬ実態であるは、疎くなければ精通している。

最大の問題は、その様な人々に対して、それを証明する失態を、反復しすぎた事である。

それは、政治と報道に対し、大きな憂いとなる。

はたまた、風評とするが好都合な連中は、風評被害と罵声を撒き散らし、生活費を稼ぐに躍起となった。

人々は、各々の価値観でそれを見つめ、様々な事実の暴露によって、随所で対立し不和は広がった。

風評被害の連呼によって、発生した亀裂は多岐に渡る。

ただ、全体からしてみれば、東日本大震災や福島第一原発事故で発生した、
甚大すぎる価値観の分散なんぞは、氷山の一角から滴り落ちた水滴にすぎない。

その包括的な影響によって、連帯感や共属意識は希薄となり、複雑に分岐し発展を続けるため、
これまで通りの対応をしては、意味がないだけでなく不意味となる。

要は、総体的な共感が幻滅へ変わり、一体感や仲間意識は四散し、様々な変化を遂げてしまい、
在り来りな方法で制御しようとすれば、焼け石に水を注ぐだけでなく、火に油を注ぐ破目になる。

今となっては、些細な誘因があるだけで、何かに駆り立てられて、
瞬時に自我を喪失する社会と世界に、人間と人類が置き去りにされている。

それを肝に銘じる事で、問題の渦に呑み込まれ、
流されて粉微塵となるを、明敏な選択で拒絶しよう。




現況まで、安全と安心は虚構にすぎず、危険と不安と隣合わせであるが、
悪夢から抜け出せぬため、人間と人類と社会と世界は、面倒を黙認するに甘んじた。

そのため、薄汚い事を平気でするは、空気を読んで人を欺くは、いつもの事にすぎんのだ。

だからせめて、言葉を上手に選ぶ事によって、偏見や軋轢の発生を緩和すべきであった。

とは言え、選んだつもりであろうと、自分本位な状態であるため、墓穴を掘るで気息奄々である。

何と言っても、これまでの内容を取得せねば、そんな事すら碌に叶いはしない。

そんなだから、たかが知れた事も出来ず、不祥事を重ねてばかりで、
次々とそれらが発覚する事により、末路が泥沼化してしまうのだ。

作為・無作為に関係なく、熱りが冷めたとされる頃に、不行跡を段階的に露見させれば、
繰り返される事によって、格別性と特別性が低下し、大きな反発を抑えられるが、
本能的に拒絶される状態となり、有事における連動率を上げてしまう。

要は、嘘を突き通すには限界があるが、一遍に開示したり暴露されれば、
大きな反発が避けられぬため、小刻みに明らかとする事により、
慣例的な印象を植え付けて、大反発されるを抑制する。

その代わり、その所業は人々の深層心理に刻まれる。

例え、面倒が降りかかる状況を、小出しで表面化する事により、
事前に相殺したつもりでも、悪影響を及ぼしただけだ。

端的に言えば、日本政府や電力会社や大手報道が、
突発的な有事を引き起こしたり、発生した有事に対し役に立たぬ場合、
より多くの人々による、より強烈となる猛攻に、効果的かつ効率的に晒され易くなる。

また、混乱を抑止せんがため、公表を避けていた旨は当然とし、
水面下で高度な準備をしていたと、実相を隠す派手な情報を流布すれば、
肝心な事をするフリをしたが、大した事をしなかった真実が、明確に露見してしまう。

さらに、実質と本質が伴わぬ状態で、正当性の誇張に躍起となれば、
誰にも相手にされぬだけでなく、何をしようとも批難や批判に晒される。

対象によっては、自分への暗示と催眠によって、
そうなる理由が分からぬまま、何処までも自身を歪めて行く。

何より、価値観が離散した状態で、余計な事をのたまえば、それは歪みながら離れて行く。

だから、どんどん思い通りにならなくなる。

それを、どうにかしようとすれば、さらにどうにもならなくなる。

支離滅裂な状況に、辻褄が合わぬ対応をすれば、さらに滅茶苦茶になるだけだ。

おまけに、モノの捉え方が分散しようと、日本政府や電力会社や大手報道が、
標的として固定化されたままとなり、胸糞悪い事が起きるだけで、関係者が危険に晒される。

そうだ、行き場のない怒りを、理不尽にぶつけられる。

即ち、濡れギヌを着せられ、叩きのめされるのだ。

それに対し、どれだけ潔白であるを示そうと、それまでにして来た事に話がすり変わり、
許されぬだけでなく、増長を続けてしまい、関係者の家族や友達すら、犠牲とされる場合がある。

プロセス的には同一の事が、世界中で繰り返されており、特に珍しい事ではない。

そうだ、極々自然な流れによって、荒唐無稽な状況は形成され、
それで辛酸を味あわされるは、良くある事にすぎんのだ。

されど、屈託を打ち払うためだろうと、暴力的な手段で挑むは無粋である。

何しろ、誰もがその立場となれば、同じ事しか出来ぬのが実態だ。

ならば、緻密な話し合いによって、互いに打開の道を検討し、共に明日を見るべきだ。

しかし、それをする能力がなく、実質や本質を知ろうと、
仕方ない事と納得も出来ずに、決して許せぬのが尋常である。

故に、無調法でしかない対応が、後になって面倒を引き起こし、
関連性の低い問題ですら、大きく助長する材料となる。

人間と人類の恐ろしい所は、様々なフリで我慢をするが、
キッカケさえあれば、掌を返し牙を向く事だ。

忘れたフリをして、忘れていなかったフリをして、知らぬフリをして、知っていたフリをして、
気にしていないフリをして、気にしていたフリをして、その場でははぐらかし、契機が来れば爆発する。

どうせ、忘れるから大丈夫と思っていても、そうではなかったから莫大な末路がある。

誤魔化し有耶無耶とし逃走する限り、それは何処までも追いかけてくる。

ただ追いかけてくるだけでなく、より切迫した状態で、追いつめてくるのだ。

その最中で、最大に危惧すべき存在は、熱心な支持者や信仰者である。

その者達が、裏切られ騙されていたと、実感する状況が到来すれば、
内面の反動はすさまじく、見た目とは裏腹の報復に及ぶ。

例を挙げれば、最悪の状況となろうとも、見捨てないでいてくれる存在に、
好都合な存在を演じる存在に、無防備となる瞬間を見計られ、
かけがえのない存在を、皆殺しにすらされてしまう。

特に、政治に関わる人材は、これらに細心の注意を払い、綿密な調整をすべきである。

ただし、宗教に関わる人材は、注意を払う余地がない。

選挙で、アベノミクスに対する、国民の真意を問うとするが、糞のような選択肢の中から、
自民党を選ばされるだけであり、選挙の結果がどのようになろうとも、
大損をさせられる上に、後がない状況が助長される。

それに、参院選の結果によって、政権が信任される・されぬが決まると、
勝手な設定をねじ込む事で、アリバイを捏造している。

実際は、仕方がないから、選び・選ばぬだけだ。

政治家は、自己都合で標榜している、狡賢い組み合わせによる、悪質なマニュフェストに対し、
選択の余地が微塵もない状態で、それらをはぐらかし支持を強要している。

あまつさえ、自分達の思惑を民意とし、歯切れが悪くなれば、
民意と訴える事によって、その責任を公民に転嫁する。

もはや、それを繰り返しすぎた。

TPPに関しては、アベノミクスと同じように、上辺の上澄にすぎぬ次元で、メリットとデメリットを並べ、
メリットを完全に打ち消してしまう、キリがない絶大な問題に関しては、察知しているのに横着を決め込む。

政治家は、選挙において自己を追い詰め、大衆を何遍も道連れとしてきた。

そう、議員(個人)・政党(集団)・国会(全体)として、後がない状況を形成し、
支持者・有権者・民間人・自分達によって、それが助長されてしまい、
相身互いに首を絞めて、没落を続けて来たのだ。

それにより、感覚がマヒしてしまい、厭らしい・気持ち悪い・残虐非道な事すら、平然とするようになっている。

不憫な事に、相互的な作用によって、万人が同じ穴の狢と化している。

政治家と宗教家は、自分自身の不足を棚にあげ、自己擁護と自己弁護に明け暮れ、
それに振り回される人々も、同じ事に一心不乱となり、批難と批判で凋落する。

そんな、必然と当然による積み重ねが、惨憺たる末路へと繋がるのだ。

危惧すべきは、偽善と茶番に満ちた政治に対し、無理に関心を持たせようとすれば、
人々の興味が向かうようになれば、不確実性と危害要因が深刻化する事だ。

さすれば、充実した環境を利用され、予測が不可能な方法により、周囲諸共粉砕されてしまう。

民意を反映する仕組がなく、正しい民意を育む枠組もなく、
そうなるは決まり切った、なんの変哲もない事だ。

我々は、それを咀嚼する事によって、歩むべき未来を掴みとろう。




万人は、相互に価値観を分かち合い、時には無理に押し付けて、
仕組と枠組に人生観を改竄され、観念すらでっち上げられ、生きる事しか叶わない。

夫は妻を妻は夫を、親は子を子は親を、教師は生徒を生徒は教師を、前任は後任を後任は前任を、
人間は人類を人類は人間を、社会は世界を世界は社会を、相互的な依存関係により、強固に染め上げてきた。

そう、家族は家族を、友達は友達を、他者は他者を、
自分自身は家族や友達や他者や自己を、
塗り替えながら進んでいる。

ただし、人間と人類と社会と世界を、大きな過ちを繰り返す事無く、
存続をするに不可欠となる、重要な条件が欠如している。

そのため、良き事柄も悪き事柄も、なんとなし程度の状態で、連綿と繰り返されたのだ。

それによって、織りなされる必然と当然により、問題を悪化させて繰り返してしまう。

原初から、人間と人類と社会と世界の都合なんぞに関係なく、善とは何か・悪とは何か・人道とは何であるのか、
何を成すべきなのか・何をしてはならぬのか・それに叛けばどうなるか、
それらは自然作用と機能により定まっている。

だが、御都合主義の解釈と滅茶苦茶な通訳が乱立し、人々は濁り続ける事により見失ってしまった。

過去となれば過去となるほど、その取得は容易であったが、中心に据えるべきを見誤り、
主義や思想を埋め込むだけでなく、突拍子もない内容で格別性と特別性を演出し、
宗教や政治に深く依存してしまう、偏見の塊を量産する聖典が形成された。

空間の設定を捏造し、畏敬の念を刷り込んで、神罰や刑罰を形成する事で、
人々を過ちから遠ざけようと、多くの人材が邁進したが、
自己に弄ばれたため、失敗に終わっている。

せめて、時勢を見つめて獲得した、教訓を纏めた書物として、
刷新するを続けてさえいれば、真価と意義に満ちた存在となった。

宗教的や政治的となる、原理主義に囚われた人々には、
思い知らされる終焉の到来を待ち、変革を遂げるとする者がいるが、
自然な潮流に全てを委ねるだけで、何もしないと決めていると変わりはせぬ。

その程度では、勝ち得るには遥かに遠く、微塵の希少性すら獲得が叶わず、
どれだけの懺悔をしようと、どれだけの事を成そうとも、
許される事は勿論、認められる事はない。

我々には、神のような存在の有無に関係なく、許されるに不可欠となる、
希少性を認めさせるに重要となる、前提と証拠が欠如している。

それがなければ、人間と呼ばれる生物を、歪に変える事も無く、
先々へ進み続ける事はおろか、辿る末路を変える事も叶わない。

もとより、この逆境から脱却せねば、得られる存在には絶大な際限があり、
確実と絶対が望めぬ領域を、孤独に彷徨う宿命である。

ただ、顕著な限界がある世界でも、確実と絶対が不在だからこそ、持ち堪えている部分がある。

とは言え、現状は限界がありすぎて、確実と絶対が無さすぎて、代用品では賄いきれない。

そもそも、粗造品がある事によって、不均衡な状況が形成され、人々は殺し合いすら強いられる。

この状況下で、政治と宗教の存在が覆されるような、
突発的な出来事が発生した場合、想像を絶する意趣返しに苛まれる。

これからも、リスクとハザードは深刻化を続け、それはより根深いモノとなるのだ。

それが、覆された場合どうなるかを、十二分に熟知していようとも、
そこに格納されている限りは、どうする事も出来はしない。

事前に脱却が出来ねば、政治家は自分に殺され、
宗教家は自身に殺され、我々は我々に抹殺される。

それを知らずに、余計な事をしてしまえば、後で後悔する運命である。

それを知ろうとも、その場凌ぎの選択で、茶を濁すので限界だ。

そんなだから、大切に出来ずに憎しみ合い、裏切られ裏切ってしまう。

その限りでは、生まれた瞬間から地に足がつかない、
一か八で行き当たりばったりの、宙に浮いたような人生しか送れない。

全てが、その程度で終わるのが実相だ。

万人が他者の幸せ無くして、己の幸福がないと把握し、全てが繋がるを理解していれば、
ここまでの泥沼に沈みこもうと、その知覚が出来ぬ程に、愚かにはならなかった。

されど、それが徹底的に出来ぬよう、そうされるを拒絶するよう、人間と人類と社会と世界が出来ている。

そうなるは、それが図星であり、真相だからだ。

誰であろうと、都合が悪い事を露見されたくはない。

そうやって、何もかもひた隠しにここまで来た。

だからこそ、どれだけ歪みを大きくした存在であろうと、鬱憤を晴らすために殺してはならない。

なんせ、その化け物を生み出したのは、頑なに嘘をつきとおして来た、
成すべきから目を反らして来た、人間と人類と社会と世界なのだから。

しかしながら、履き違えた対応しか叶わぬのが、人間と人類と社会と世界なのである。

どうであるにしろ、罪を犯した者をのさばらせてはいけない。

何より、決して許してはならん。

許してならぬのは、罪を重くしてしまわぬため、決して許されなくせぬためだ。

成すべきを廃忘し、してはならぬを繰り返し、道を大きく踏み外した存在では、
権利も価値も何もない状態で、大きな過ちを犯した存在に、
チッポケな罰しか与えられない。

死刑や無期なんぞでは、贖罪を果たさせるは不可能であり、
ただ殺して閉じ込める程度では、気休めと自己満足を与えるだけだ。

それで許されたと誤解して、贖罪を果たしたと勘違いさせれば、
その様に開き直らせては、裁く側も裁かれる側も、互いに罪深い存在となる。

であるからして、贖罪を果たさせる仕組が、罪を裁ける枠組が必要だ。

それが形成されるまでは、死刑に賛同する者と死刑に反対する者も、それを気にしておらぬ者すら、
罪を背負い続けるばかりで、天国を目指したつもりが、地獄に向かって真っ逆さまだ。

それには、家族や友達や他者が巻き添えとなる。

それは、諸賢に相応しくない。




試行錯誤をすれば、向上する存在がある。

それに対し、必要となるコストは、ピンからキリとなる。

ただ、応用するが可能である、ノウハウを保有していれば、
それを生かす事によって、費用を抑える事が出来る。

注意すべきは、施行錯誤を繰り返すと、表面は綺麗に見えるのだが、
内面では不具合が蓄積し問題が溢れ、手がつけられなくなる存在がある。

人間と人類と社会と世界は、その代表格と言えよう。

表面が綺麗に見えるとしたが、綺麗な部分しか見ないからであり、
率直に言って表面も内面も、ズタボロの状態なのだ。

紆余曲折による、悪銭苦闘を続ける最中に、次々と沸き起こってしまう、
キリなき問題から目を反らし、堂々巡りを山積させてしまった。

それなのに、成す術なく見つめるか、知らぬ存ぜぬを突き通す。

はたまた、打開に望む者がいるが、それを助長する不始末だ。

人間と人類と社会と世界は、絶え間なく変化を続けており、問題の発生を未然に抑止する、
事前のノウハウの獲得は不能であり、経過でノウハウを獲得しようとも、それは瞬く間に通用しなくなる。

そもそも、ノウハウを獲得したとて、表層に対するそれでしかなく、
その範囲と効果は酷く限定的で、その場限りの思いつきと変わらない。

現状まで、それを導き出すに近づいた人材が、中途半端にしか気が利かなかったため、
ズレた存在ばかりが生み出され、必須となるノウハウの獲得が叶わず、
何処で何を如何するにも犠牲が伴う状態だった。

結局、失敗に終わる実態なのだ。

残念な事に、その認識が不十分な状態で、不埓な暴走を始めてしまい、
何となく失敗していると感じても、享楽的かつ楽観的な思考のままだ。

とは言え、余計な事をすればどうなるかを、
何遍も思い知らされたために、見過している傾向もある。

そうでなければ、とっくの昔に絶滅していた。

されど、そうならなかったのは、奇跡や偶然ではなく、必然かつ当然である。

そして、歩みを変えられずに突き進み、それによる不具合の蓄積によって、
余計な事をせずにいられぬ時が来るは、論を俟たぬ流れにすぎんのだ。

超破壊的となる、余計な事が終焉を迎えると、様々な問題は掻き消され、思い知らされる事によって、
暫くは安寧の時が続くが、より高度となる次元において、不具合が蓄積を続けてしまう。

それが、局地的なモノであれば、その効果は限定的であり、
単純な延長として、余計な事が繰り返される。

全体に波及するモノであれば、原点に近い所から、繰り返す破目となる。

どちらにしろ、罪を重ねるだけでしかなく、悪化させて繰り返す流れから抜け出せない。

そうだ、繰り返し巻き返しの日々に身を委ね、
超絶絶頂・究極極大・臨界突破の罪過の海に沈み続ける。

これからも、面倒な事には知らぬフリを続け、余計を働くを同期させるように、
人間と人類と社会と世界は、バラバラの状態で結びつきを深くする。

要は、既存の仕組と枠組で雁字搦めとなり、
自己の利益を守るための争いの連鎖が、
執拗に促される環境が整って行く。

であるからして、その悪循環たる袋小路の坩堝を、是正する方策が不可欠なのである。

何より、外郭からそれを実現する、仕組と枠組が必須となる。

もし、既存の仕組と枠組が、表面的な模倣により、
それを実施してしまえば、墓穴を掘る破目となる。

その内容が、厳密に同じであろうと、そうなるは変わりはしない。

そうなるは、使い方を必ず過誤するからだ。

何と言っても、そのようにそれが形成されなければ、
政治と宗教に関わる人材が抹殺されるを、
抑止・阻止するが叶わない。

それは、仇を仇で返されるのを、止める事が出来ぬからだ。

それでどうにかなると、それで救われるのだと、信じる存在を裏切れば、
もはやどうにもならぬ、救われぬ状況へと追い詰められる。

そうなれば、政治的・宗教的な考えを拒絶し、
都合の良き選択をする、政治等閑者・無神論者も巻き添えとなる。

そうなる、原因と要因の出現は、これからが本番である。

外郭たる仕組と枠組とは、全体のために構築される、押し上げる装置たる存在だ。

それにより、既存の仕組と枠組の多くは、大きな役割を担う事となり、初めて真価と意義を獲得する。

ちなみに、基軸となるサービスを、効率的かつ効果的に提供するため、
社会(国家)や世界(国家の集合体)の書類上の適化は必要だが、
人間(個人)と人類(集団)も、一つになる必要はない。

ただし、人としての道義的な判断を誤らず、真に合理的な判別による、
聡明な判断と賢明な決断を、可能とする道理を習得する必要がある。

そうする事で、先入観・固定観念・既成概念を洗練し、
卓越した思い込みを可能とし、実質や本質と精確に同期させ、
メリハリのある自我を育み、濃厚な日々を歩めるを可能とするのだ。

即ち、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在であるを明確とし、
認め合う事で手を取り合い、先々へ進むを可能とする。

無論、志向性と指向性が浮かび上がるため、大きな迷子になる事はない。

注意すべきは、互いを把握し理解するには、人間を歪に改造する事となり、
最終的にはどれか一つとなり、それを量産するだけとなる。

それでは、止まってしまうのだ。

人間と人類と社会と世界が、争いを止める事が出来ぬのは、
分かり合えぬからだけでなく、分かり合おうとするためである。

もしくは、分かり合わせたいか、一方的に分からせたいのだ。

他にも、様々な側面がある。

全ての矛盾を、超克する術を獲得せずに、互いを理解し把握しようとすれば、
それを無作為に追求してしまえば、独りよがりの選択で消滅する。

我々は、その様な失態を演じてはならん。




偽善と茶番に、明け暮れるしかない実相で、
真意たる前提を明確にせぬまま挑めば、
批難や批判に晒される破目となる。

それでは、偽善と茶番に対し、偽善と茶番で返され、
偽善と茶番で反抗するため、互いに淪落を続けてしまう。

都合良く、相手が受け取る時世は当然とし、黙って聞いてくれる時節は終わった。

それを終わらせたのは、人間と人類と社会と世界である。

それを、忘れてはいけない。

そもそも、真意に問題があるならば、明かした所で意味がない。

それに、真意が正しかろうと、第三者に明確にされては、
偽善が偽善たらしめられ、茶番が茶番たらしめられる。

おまけに、真意の正当・不当に関係なく、思惑は尽く頓挫する状態なのだ。

そうだ、錯綜する思惑の介在は勿論、それによる不具合の蓄積と、
確実に内在する矛盾によって、思い通りになる事はない。

それに、思惑の大きさに関係なく、思い通りになったと実感しようと、そうではない事に後で気付く。

傲慢な存在であれば、気付かずに死んで行くだろうが、際限のない絶望と後悔に苛まれる。

それ程までに、この空間は残酷なのだ。

何より、希望的観測に振り回されれば、翻弄されて一生を終える。

それでは、人生はつまらない。

昔は、良かった。

ありがちな理想に向かって、ただ直向きに進めば済んだ。

しかし、複数の原因と要因によって、それは一つの幸せの形にすぎず、
誰かが拵えた虚像でもあると、人々は把握し理解してしまった。

ハナから、それが幸福なのか不幸なのか、善と悪すらおぼろげであり、
法を破るモノが次々と溢れだし、それは悪化の一途を辿り、
各々に様々な思考と感情が錯綜するようになる。

そして、各自の幸せを探すため、施行錯誤に没頭し始める。

ただし、先決条件が不在なのだ。

それによって、想像を絶する過ちが、次々と生まれてくる。

手合いが変わるが、前提が不在の恐ろしさについて、戦争を例に考察してみよう。

例えば、どうすれば戦争が終わるのか、そのルールを決めておかなければ、
どちらがどれだけ不利になろうと、誰かが終わりとするまで終わらない。

厳密には、終わりとなる状況が形成されるまで、終止符を打つ事が叶いはしない。

施行錯誤の果て、核をぶっ放す者もいれば、相手が降伏しようとも、構いなしで続ける者もいる。

要は、戦争を終わらせる方法を知らぬため、なんでもやってしまうのだ。

決めていたとしても、そこに確実と絶対はない。

もはや、相手をケシズミにしなければ、収まりがつかぬ状態へと、突入している場合もある。

例え、戦争が終結したと思えども、それは形を変えて継続している。

人間と人類が闊達となる、社会と世界が篤実となる、その前提の据え方は、戦争のそれとは大きく異なるが、
それがなければ己が幸せとなるため、何でもしてしまう者が出現するは至当だ。

同様に、政治や宗教すら行き当たりばったりで、やってみなければわからぬ状態である。

その限りでは、それらに真価や意義はない。

それらを付与するには、新たな機構が必要となる。

真価や意義はないとしたが、どうにもならぬ状態を維持する道具として、
価値があり・価値はなく・意味があり・意味はない状態なのだ。

我々は、試行錯誤をするに必須となる、前提を満たさぬ限りは、薄っぺらい個性しか育めない。

あまつさえ、家族と友達と他者と自分を、簡単に奪い失い奪われてしまう。

であるからして、ペラペラの紙切れのような状態で、施行錯誤をしているを忘失してはならない。

忘却し失念すらば、損をするは家族と友達と他者と自分である。

前提が疎かな状態では、先に動いた方が損をする。

そうだ、先手を打ったつもりが、それは失敗にすぎない。

確かに、ケースバイケースではあるが、
それでは簡単に塗り替えられ、逆手に利用され敗北を喫する。

されば、いくら勝ち誇った気分に浸ろうと、束の間の妄想で終わってしまう。

子供の頃に見上げた大人達が、輝いて見えたのは理由がある。

縋るべき存在であったのは勿論だが、継承により洗練された存在だったからだ。

大戦や災害によって、志向性と指向性を共有し、未来へと歩みを進めていた。

何と言っても、幸福な時代を生きた者が多かった。

それによる力強さは、存在感を強固なモノにしていた。

されど、その効果を継続させる、諸条件がサッパリであり、現状は些少の効果しか残っておらぬ。

ただ、その未来に関しても、蜃気楼のような存在だった。

再び、大規模な戦争が勃発し、生き残った者達がいたならば、
取り戻すために手を取り合い、暫くは継承がなされるだろう。

しかし、人はそれを忘却してしまうし、肝心な事を失念してしまう。

だから、悪化させて繰り返す。

悪化させるは、スケールアップを望むためである。

要は、より強力な処方を、望むようになるからだ。

自分自身の無能を棚に上げ、逃げ惑いながら生きるのに、現況の仕組は最高と言えよう。

そこに、政治と宗教が加わる事により、誰かに縋れるだけでなく、責任の転嫁が可能となる。

他にも、好都合な枠組で満ちている。

私は、そんな今が大好きだ。

なんせ、翻弄されているとも知らずに、幸せな気分を満喫出来る上に、目を反らし放題なのだから。

私は、そんな人々の日常を守りたい。

ただし、それを決して許せぬ者がいる。

されど、同じ揺り籠の中で育ち、己を正しいと思い込んでいる、碌な事が出来ぬ存在なのだ。

連中は、己の無能を最悪の方法で、棚に上げてしまうのだ。

思い決めで、作り直すために惨憺たる惨状を招くものの、
取り返しのつかぬ状況となった頃に、何をすればいいか分からぬ事に気付く。

結局、殲滅した相手と同じ事をして、悪化させて繰り返すばかりである。

その位の事は、多少のコストがあれば、
人間と人類と社会と世界の弱点を弁えていれば、
後は些少のやる気さえあれば、いくらでも出来る事なのだ。

そんなつまらん事を、特別な事と履き違え暴走する、
有象無象の跳梁跋扈は、可能な限り予防せねばならぬ。

成すべきは、今を守りながら、同胞を救いあげ、
適宜な変遷を促しつつ、それを阻害する存在すら守る事だ。

それを刻むだけで、人間はより強くも優しくもなれる。




我々は、レッテルを形成する事によって、
厳密と見える杜撰な物差しで分類する事で、
物事を単純に見る事ばかりに固執してしまう。

例えば、ニートと括る事によって、該当すると思われる存在を、大局的(大雑把)に捉えがちとなる。

それに、各々の価値観によって、様々な差異が発生する。

大概は、楽観的な見方に陥り、危惧する側に到っても、安易な識別に終始する。

最近、以下のような試みが、ニートに対し実施されている。




"取締役が全員ニート"の「NEET株式会社」、気になる説明会に潜入してみた!!

全国のニートが集まり、全員が取締役に就任する「NEET株式会社(仮称)」というユニークなプロジェクトが進行中だ。

当サイトでも既にその動きをお伝えしているが、NPO法人の中小企業共和国が運営母体となって「日本全国のニートが集まり、全員が雇用されない事業主である取締役に就任し、既成概念や常識に縛られない自由な事業者集団を作る」というコンセプトで進められている。

6月11日、その設立に関する説明会が東京で開催された。

「会社や団体に所属せず、学校や就業訓練機関にも通っていない34歳以下(厚生労働省の定義適用)の若者」というニートの条件に概ね合致する人が募集され、1,000を超えるエントリーがあったという。

その中から、おおよそ200人が会場に集結、1,000人がネット中継で参加した。




ニートを集め、何かをするという発想の流布は、とても大きな危険を孕んでいる。

既に、それによる犯罪集団が溢れ、人間と人類と社会と世界を脅かしている。

そうだ、『既成概念や常識に一切縛られない自由で新しい事業主集団』によって、様々な犯罪が横行している。

だから、その二の舞となる事は当然とし、より悪意の強い存在が誕生する、呼び水とならぬ配慮が不可欠だ。

それは、大きな罪を背負わぬために。

そもそも、『引きこもり』や『ニート』が何であるか、該当する者ですら碌に知らない。

己が、それに該当してると確信しようと、神髄や深淵には程遠い場合がある。

何より、レッテルに振り回されれば、善を悪・悪を善・正当を不当・不当を正当と思い決めする。

要は、そうなった理由を洞察する事もなく、
それを仕方のない事と擁護して、間違っていると迫害してしまう。

即ち、漠然とした感覚でしか、見つめられなくなり、余計な事をしてしまう。

であるからして、甘く見て対応を誤った、家族や友達や他者が、ぶっ殺されるは良くある事だ。

はたまた、周囲が対応を誤った事により、局外者すら殺されてしまう。

重要なのは、神髄や深淵を精確に見極めて、
必要な対応を実施する事であるが、
そこまで器用な人材はいない。

望めぬから、現況が齎されたのだ。

それが、可能となる人材を育んで、全体がそちらに推移して行けば、
少しはマシな明日が来るのだが、方法を過誤すれば不気味な世界となる。

そこに、砕身かつ細心となる、注意を払わなければならない。

先入観・固定観念・既成概念に、一切縛られぬ存在を刺激すると、想像を絶する災厄に苛まれる。

逆に、先入観・固定観念・既成概念に囚われ、のたうちまわる存在も、とんでもない事をしてしまう。

世の中を、どうにかしたいと思う存在の思考は、当方の文章を漠然とさせた状態に類似する。

大半の存在が、文章化すらしていないため、
最後まで考えていると訴えても、何も考えていない状態だ。

ニートとされる人々の思考も、前者と似たような傾向にある。

そのため、どれだけの言葉を並べようと、中身は空っぽな場合が多く、肝心な事には答えられない。

ただ、言葉は並べられなくとも、中身は超満載な場合があり、質問への回答が可能な者もいる。

まあ、誰しも漠然とした内面を、都合の良き言葉で塗り固め、流されてばかりである。

悪質な存在は、誰より自分が救われて、優遇されるを望むのだが、誰かに解決されるを好まぬ状態だ。

厳密には、誰かに解決して欲しいのに、誰かに解決されてしまえば、
自分が一番になれぬから、嫌と感じる状態なのだ。

肝心な事に気付きかけた人材が、そんな連中ばかりだったから、
万人に気が利かぬモノばかりが形成され、人間と人類と社会と世界は目茶苦茶なままだ。

当方の文章は、現実をそのまま投影している、子供の日記と大差はないだろう。

端的に言えば、子供や人間が好きなロボットが、
考察している事を散りばめ、一定の調整を加えている。

この文章を記載している理由は、総括的な説明をするためとなる。

その詳細は、今後の日記で紹介させて頂く。




長くなってしまいましたが、これにて二段を締め括らせて頂きます。

長い文章へのお付き合い、ありがとうございます。

最後にちょっとだけ、政治に想うを添えさせて下さい。

三段に関連した内容ですので、御関心を頂けるのであれば、目を通して頂けると幸いです。




所詮は、この程度にすぎぬ。

ならば、どうすべきであるのか?

だからこそ、このように生きればいい。

それを、明確に示さなければ、何も始まりはしない。

それが、より適宜に叶えば、言葉だけでも人々を、豊かに出来てしまう。

現況では、未成熟な大衆を操り人形とし、不遜極まる悪政が断行されている。

正統であれば、詮ずるを伝える事で大衆を利発とし、実施する政策のメリット・デメリットを伝え、
最良の結果に不可欠な条件を共有し、有権者にそれへの協力を懇願して、共に国家を司るべきだった。

無論、予期されるリスクとハザードに対し、三段階の受け皿を形成する事で、政策による犠牲を極限まで相殺する。

何より、国家と国民が利口となる事により、外部からのつまらぬ干渉の余地を、極限まで無くす事が出来る。

それによって、日本が世界の中心へと、推移する事も可能である。

しかしながら、余計な事をしすぎたため、もはやそれでは足りぬのだ・・・。