2013年06月19日 18:20 二段(起)
NPE-01(特殊な機動兵器)が、本隊と遠く離れた宙域で、修理と補給を受けんがため、
友軍の基地や艦艇に要請しようとも、十分と言える対応は望めない。
それは、その機体の特殊な仕様に対し、必要となるノウハウは当然とし、受け入れる環境がないためだ。
NPE-RX-78-FGZV(より特殊な機動兵器)ならば、それは尚更となるだろう。
あらゆる基地と艦艇が、多彩なラインナップと様々なバリエーションで実存している、
全てのモビルスーツ(人型兵器)とモビルアーマー(非人型兵器)に対し、
十分な対応を実現するには、莫大なコストが不可欠となる。
優先すべきは、費用と効果のバランスだ。
そのため、凄く稀なケースは必要に応じ、準備するのが合理的である。
作戦に応じ、修理と補給が可能な拠点を、広域に点在させておくか、
深追いするを禁物とする事で、戦域を限定するのが御誂え向きだ。
ただし、それに束縛される事で、勝機を逃すだけでなく、敗北を喫する可能性がある。
それに、補給や修理を受ける予定である、基地や艦艇が陥落した場合でも、柔軟な対応を実現せねばならない。
その事から、どれだけ特殊な存在であろうと、情報を共有する事によって、
応急的な措置が出来るよう、事前に調整すべきである。
ただ、秘匿性の高い機体に関しては、それ相応の配慮が必須となる。
それだけの存在であれば、些少の情報が漏洩するだけで、目的や目標が露見しかねない。
どのようなメンテナンスが求められる存在が、どんな場所に送られるかが判明すれば、
状況と上手く照らし合わせるだけで、相手の作戦を推し量る事が可能だ。
それを踏まえ、情報の共有に手を加える事で、敵軍を撹乱し牽制するは基本である。
しかし、繰り返せば効果が薄れるだけでなく、参謀本部に反逆者がいれば筒抜けなのだ。
それでは、無意味を通り越して不意味だ。
そう、罠に嵌めるつもりが、嵌められる不始末となる。
よりによって、敵も味方も同じ事をするため、いたちごっこを余儀なくされる。
鍔迫り合いで、埒が明かぬ状況が長引けば、 戦線の先行きが見えなくなる。
すると、出口が見えぬ状況に痺れを切らし、上層部は酸鼻な選択に執着するようになる。
それにより、戦況は悪化の一途を辿るのだ。
それで、どうにか勝鬨を上げたとて、多くを奪い失い奪われた影響による、反動や意趣返に曝され続ける。
戦争に、終わりはない。
争いは、フィールドを変えて継続するのだ。
その間にも、歪みが大きくなり、様々な不条理が鬱積し、武力は進化を続ける。
悪化させ、繰り返すを続けたならば、挙句の果てが待っている。
即ち、絶滅の時である。
だからこそ、露骨な殺し合いに移行するを、必至に防がねばならない。
ハナから、ありとあらゆるに対し、十分に対応するは不可能だ。
どれだけ、手続的な知識を保有しようと、十二分の用意があろうとも、それで足りるとは限らない。
実戦で、目算が狂うは良くある事だ。
そうだ、過剰と考察していた物資でさえ、予測した半分の期間で底をつく。
戦況によって、瞬時に消失する場合すらある。
例え、NPE-01やNPE-RX-78-FGZVを改良し、修理と補給を容易とするも、撃墜されればそれまでだ。
そのパーツのストックは、流用が効かぬモノは、ただのスクラップとなる。
そうなるのであれば、汎用性の高い量産機である、NPE-G-01やNPE-G-02の機体や部品を、
余分に確保しておけばよかったと、後悔する事になるやもしれぬ。
共通化を図り、互換性を持たせるにも限度があり、それが性能に限界を齎すは明白だ。
相手が、圧倒的な存在を生み出せば、抜本的な見直しすら迫られる。
はたまた、途轍もなく強力ではあるが、特化しすぎた存在を生み出せば、
融通があまりに利かぬがために、極端に振り回されかねない。
さらに、それを失う事により、全体の士気が下がり、戦線の維持が困難となり、大敗する可能性が否めない。
あまつさえ、戦闘による負傷や機体の損傷の具合により、不十分な対応を強いられる場合もある。
全ては、状況に左右される。
それでは、何をしようとも、頭打ちとなる。
もとより、人間が関係している限り、絶対と完璧はあり得ない。
されば、一切合切を考慮しようとも、それはつもりにすぎぬのだ。
様々な方策により、包括的な最適化をしようとも、それを顕著に台無しとする、
外因と内因の払拭が出来ねば、一切は元の木阿弥となる。
確かに、至適化するは重要であるが、その措置が適当か不適当かは、結果を見るまでは不明なのだ。
結果によって、見当違いだったと、判明する場合がある。
何と言っても、どれだけ良きと確信しようと、その結果が最良とは限らず、最悪の結果の場合もある。
それに加えて 、最悪と思った結果が、最良の結末へと繋がり、最良と思った結果が、最悪の末路を招く事もある。
その上、導き出された結果が、正しいのか・間違っているのかすら、決めつけと思い込みの域でしかない。
万人の意見が一致しようとも、要諦となる根拠がないため、それは造作なく覆される。
念頭に置くべきは、いつまでも類似した条件で、似たような戦果が得られる訳でなく、それは常に変化し続ける事である。
大局的な見方と言えば聞こえがいいが、大雑把なモノの見方しか出来ぬ者は、その察知が叶わず自縄自縛に陥る。
政治家が、その典型と言えよう。
全体像を掴むには、莫大な情報を熟知しなければならない。
だからと言って、あらゆるを把握して、理解するは不可能だ。
逆に、綿密に精査しすぎたために、自殺行為に及ぶ場合もある。
そもそも、犠牲を伴わぬ戦争はない。
戦争をしている時点で、そこに十分なんぞはなく、不十分しかないのである。
それは、先導者の無能を棚上げする、最大の目くらましなのだ。
所詮は、その程度にすぎぬため、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもなかろうと、多大な咎めを背負う破目となる。
不十分な状況で、極端に十分な状態であれば、一方的な殺戮を繰り広げ、より多くの過ちを犯す。
不十分な状況で、極端に不十分な状態であれば、一方的に虐殺されてしまい、より多くが過ちの犠牲となる。
前者は、多くを守り抜けるが、多くを奪った事による、罪過に追い回される。
後者は、多くを奪い去られ、多くを守れなかった事による、悔恨に追い回される。
時に、追いつめられた後者が奥の手を使い、瞬く間にひっくり返される場合もある。
大概の場合、前者は後者であり、後者は前者でもある。
それが、途轍もなく複雑に絡み合うのだ。
だから、どうにもならぬ。
十分でも不十分でも、そこに規律があろうがなかろうが、
人を殺すに変わりがなければ、怨嗟から逃れる事は叶わない。
不十分な状況で、十分な状態であれば、兵士の規律が乱れる事無く、効率的に戦果を上げられる。
不十分な状況で、不十分な状態であれば、兵士の規律が乱れてしまい、残虐非道の軍団に成り下がる。
他にも、様々なケースがある。
どのような場合も、上を見ればキリがないだけでなく、費用や能力により頭打ちとなる。
湯水のように浪費すれば、財産も人材も枯渇する。
さすれば、崖っぷちに立たされる。
結局、出来る範囲の事しか、叶わないのが実態だ。
その限りでは、十分であるとは言い切れない。
されど、十分でないとも言い切れぬ。
その判断は、各個の状況的な価値観に委ねられる。
それが、様々な齟齬を発生させるだけでなく、生殺与奪の権を握る場合がある。
それだけに、綿密な意思の疎通が欠かせぬのだ。
だが、そこにも十分と不十分がある。
その追求は、とどまるところを知らない。
追求する事が、正当なのか・不当なのか・誠実なのか・不実なのか・正義なのか・不義なのか・有意義なのか・無意味なのか、
どれにも該当しないのか、それすら碌に判らぬため、万人が平衡感覚の喪失に苛まれる。
それに終止符を打ち、白黒をハッキリさせる術がある。
それは、後の段で紹介する。
人間と人類と社会と世界は、模範となる存在が不在であり、
それを形成するための前提もなく、完全には程遠いのが実相である。
であるからして、何をするにも安全と安心は曖昧なままで、絶えず危険と不安と隣合せの状態だ。
にも拘らず、安全や安心を強調する者達がいる。
誰しも、それを戯言と痛感しているが、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続ける。
しかしながら、そうなるは必然であり当然なのだ。
だからこそ、迂闊であってはならない。
洞察せねば、敵か味方に関係なく、簡単に殺してしまうし、殺されてもしまうのだ。
ぼんやりしていれば、自分に唆され、自身に裏切られ、自己に抹殺される。
そのような、無残な末路を辿ってはならない。
対立を続ける限り、自壊する原因と要因の淘汰は、
殲滅される理由と温床の排除は、絶無であり皆無であり空無である。
誰しも、都合の悪き外因を殲滅せんがため攻撃を開始する。
相手も、不都合な外因を撃滅するため反撃する。
最初は、些細な口論だったかもしれない。
気がつけば、一心不乱の内戦や紛争に発展している。
争乱が長引けば、様々な思惑を根底とする、無数の外因と内因が形成され、より収拾のつかぬ事態が引き起こされる。
それによって、戦域が拡大を続けてしまい、泥沼の大戦争に突入する場合がある。
大戦とは、様々な思惑の介在による、超絶絶頂・究極極大・臨界突破の殺し合いだ。
どのような理想を掲げようと、命の奪い合いをするならば、ただの殺し合いでしかない。
そんなものは、たかが気休めと自己満足にすぎぬ。
只管、家族や友達や他者や己を犠牲とし、何処までも転落する自慰行為だ。
何より、殺し合いをしてしまったからには、どのような形で決着をつけようとも、魔の連環に追い回される命運となる。
それを、力(法)で捻じ伏せようとすれば、それは増長(悪質化)を続けてしまう。
とは言え、放置しようものなら、水面下でそれは蔓延る。
歩み寄る事で解決を図ろうとも、それに反発する存在で満ちている。
歩み寄ろうとも、どちらかが譲歩せねば、棚上げすら碌に出来ない。
その駆け引きが、新たな戦争の引き金にもなりかねない。
一つの問題を、仮に解決が出来たとて、次がいくらでも待ち構えている。
暫く経つと、解決したはずの問題が、蒸し返されてしまうのだ。
いつ果てるともなく、それを繰り返すは地獄だ。
もはや、どうにもならぬ。
原初から、人間と人類と社会と世界は、そうなるように形成されている。
我々が、対立せずにいられぬのは、互いを理解する事が叶わない、不憫な生物の習性からである。
それを逆手にとり、思惑を通そうとすれば、墓穴を掘る破目となる。
そうなる理由だが、どうにもならなくなる事により、どうにかなっているからだ。
その志向性と指向性によって、正面からぶつかろうが、裏をかいてぶつかろうが、どの方向からぶつかろうが、
いずれかであり・いずれでもあり・いずれでもなかろうが、ぶつかる選択をする限りは、全ての策謀は尽く頓挫する。
前提の構築を忘却し失念したため、人間と人類と社会と世界は、悪循環の袋小路の坩堝である。
それによって、そのように紡がれて来た以上、そうでなければ維持が出来ない。
我々は、それを知悉した選択により、過ちを繰り返す事無く、実現せねばならん。
成すべきは、履き違えた先導者が作り出した、悪夢のような現実からの脱却だ。
そろそろ、本題に入るとしよう。
それでは、格別性や特別性の損失を抑えつつ、問題を解決するに必要となる、スタンスに関する話をしよう。
その前に、関連した内容を編纂している、以下を参照して頂けると幸いだ。
乙武さんVS銀座イタリア料理店を見つめて・・・。
健常者でない人々は、差別され分類されなければ、生きて行けぬのが現実だ。
それにより、格別かつ特別な措置がなければ、野たれ死ぬしかない場合すらある。
そこで、差別や区別をする事無く、平等に扱えと言われれば、もはや放置するしかない。
厳密には、関わるを拒絶するを余儀なくされる。
そうしなければ、平等かつ公平に扱ったがために、健常者が障害者を殺しかねないからだ。
対応によっては、激怒した障害者によって、健常者が殺される場合もある。
平等では(一緒くたに扱われれば)、不平や不満が吹き荒れる。
不平等にされても(特段の対応がなされようと)、偏見や軋轢が生みだされる。
障害者が、健常者と同等の生活をするには、それなりの優遇が不可欠なのだ。
無論、障害の度合いにより、そこにも格差がある。
その、格差を無くそうとすれば、極端に優遇される者は当然とし、極端に冷遇される者が発生する。
もとより、全体がその状態だ。
現況は、誰かが優遇されるために、誰かが冷遇される仕組である。
それに、優遇と冷遇のどちらでも、健常者と隔絶された生活を、障害者が強いられる場合がある。
健常者と障害者は、公明正大とする事を訴えるが、健常者に対しそれをすれば、
障害者は辛酸を嘗める破目となり、障害者に対しそれをしてしまえば、
健常者から膨大な量の不平や不満が垂れ流される。
現代は、健常者に対し合理的な環境が整えられている。
障害者に対し、それを最適化しようとすれば、その合理性が大きく損なわれる。
そのため、付け加える形により、補うしかないのが実態だ。
双方は、両者が分け隔てなく扱われるが、当然だと思い込む事は勿論、
そのための条件に精通せず、前提が不十分であるため、
互いに偏見と軋轢の助長に邁進する。
真意がどうであろうと、そこに不一致がある限り、その矛盾に苛まれ続ける。
だから、何も変わらない。
はたまた、何らかの変化があろうとも、それを不十分と決めつけ、なかった事にしてしまう。
それでは、甚だ不意味なのである。
どれだけ、行き届いた対応をされようと、無い物ねだりが止められず、愚痴を並べ続けるのが人間だ。
それを、不快に感じるのも人間だ。
そもそも、相対する存在の間には、常に莫大な差が実存し、対等となる事はない。
だからこそ、相手を尊重しつつも、互いの境遇を明確とする事で、
上手にすり合わせて行かなければ、問題は何時までも解決しない。
しかしながら、人間と人類と社会と世界に対し、適宜な変遷を促すに必要となる、
最上の選択が出来たとしても、問題を根絶やしにする事は出来ない。
現状は、問題の解決には程遠い、最下級の状態にすぎない。
そこから、少しでも這い上がるには、誰もが他の追随を許さぬ、
唯一無二の存在である事を、把握し理解しなければならぬ。
それを見極めるためにも、認識すべき事柄がある。
格別性と特別性を演出するため、ただの石ころはパワーストーンとなり、それっぽい場所はパワースポットとなった。
そんなモノは、最初から存在せぬ。
それは、強欲で貪欲な存在による、勝手なひとり決めにすぎず、思い込まされているだけだ。
人間と人類と社会と世界が生み出した、価値を左右する概念や定義には、些少の希少性すら存在せぬ。
価値は、原初から実存が含有し、それこそが真価であり、添加された魂胆にそれはない。
深慮遠謀により、大きく見誤る事があるため、それには細心の注意が必要だ。
何故なら、それに騙されてしまえば、損をするだけだからだ。
ただ、天然石の場合とすれば、形成過程は当然とし、成分に関する情報は、少しでも安全に扱うため、非常に重要なのである。
要は、概念や定義が付与される、実存にこそ真の価値がある。
ただし、それを付与しうる存在がいなければ、それらは認識される事すらない。
であるからして、それを成しうる根源にこそ、無限の真価と可能性があるのだ。
人間には、高踏的な真価は当然とし、想像を絶する可能性(無形の価値)が潜在している。
人は、肉体と精神を洗練する事によって、可能性を実体化する能力を保有する。
それがなければ、身の回りにある存在の多くは、影や形すらなかったのだ。
それこそ、万物の霊長たる存在の成せる技だ。
真に、格別かつ特別たる存在は、格別かつ特別たる次元で、
創造と破壊を織りなせる、生命をおいて他にはない。
だから、その命を妄りに奪ってはならない。
奪ってしまえば、ただでさえどうにもならぬのが、さらにどうにもならなくなる。
相手と己の可能性を蹂躙し、派生しうる可能性を断ち切り、
双方の周囲の可能性を弄べば、決して許されざる客体となる。
何より、それまで継承されてきた、可能性を台無しとすれば、許されぬだけでは済まされない。
例え、それが己の命であっても同様だ。
自殺してどうにかなるほど、この空間は甘くはない。
自然作用を解き明かせば、恐ろしい末路が見えてくる。
諸賢に、それは相応しくない。
金や物は、各々の肉体と精神を研ぎ澄まし、先々に行くための道具でしかない。
それに、現を抜かしてはならぬ。
真に価値なき存在に振り回され、家族や友達や他者や自分を、
本当にかけがえのない存在を、決して貶めてはならぬのだ。
誰もが、かけがえのない万人に対し、より良きを追求する必要がある。
だが、追求すればキリがなく、決定的な差があるのだ。
その溝を埋めるにも、そこには限界がある。
だからこそ、誰しも自分自身に傲慢で、他者に謙虚に生きねばならぬ。
そのため、相手に不利益を齎してはならない。
とは言うものの、誰しも一人では生きられぬのが真相だ。
そのため、互いを思いやり、支え合うは不可欠だ。
我々は、そのバランスを直観する事で、円満な日々を歩みつつ、適宜な変遷を促して行こう。
君は、たったの一人しかいない。
私も、たったの一人しかいないのだ。
誰もが、比類なき存在である。
希少が極まる実存である、自分自身を超えられるのは、己だけである事を忘れてはいけない。
他者を目標とすれば、自己を見失うだけでなく、別人の限界に縛られてしまう。
そもそも、同じ人間であろうとも、BMG-908(戦車)とNES-883(戦闘ヘリ)程の違いがあり、超えるは根本的に不可能だ。
我々は、メーカーこそは同じであるが、種類が異なる兵器のような存在だ。
その状態であるため、誰かを超えるは当然とし、同じとなるを妄りに追及すれば、
思い込みと決めつけによる、何であるとも判別がつかない、とんでもない怪物となってしまう。
ただでさえ、それに振り回されているのだ。
それを助長し、自分を抹消してはいけない。
ハナから、追いつける道理すらないため、他者を超えるに固執すれば、自滅してしまう場合がある。
そうはならぬためにも、自分が一番欲しいモノは、より良き自身である事を心に刻め。
NPE-01には独自の進化があり、NPE-RX-78-FGにも独自の発展があり、
他の機体も独自の変貌を遂げ、その組み合わせも様々である。
その追求は、留まるところを知らない。
されど、無理をしてしまえば、全ては元の木阿弥となる。
無理な進歩を遂げれば、稼働時間が短くなるだけでなく、機体が崩壊する場合がある。
その隙を突かれ、多くの同胞が散った事を、決して忘れてはならぬのだ。
そうだ、本末転倒であってはならない。
より良く、磨き続けるためにも、息抜きを欠かす事無かれ。
何より、楽しみを散りばめる事で、日々を満ち足りたモノにせよ。
金や物に執着してしまえば、肉体と精神を磨くが疎かとなる。
ただし、家族や友達や他者や自己に、不利益を齎さぬのであれば、
大きな後悔をせぬのであれば、それは許されぬ事ではない。
何と言っても、生きるために必要なのだ。
万人が、莫大な価値を内在し生まれてくる。
だが、それを発揮する事が出来ずに消えて行く。
そうなるは、現況がそれを阻害する仕組だからだ。
おまけに、運命は平等ではなく、出端を挫かれる場合がある。
生まれる事すら、叶わぬ命があるのだ。
ならば、指向性と志向性をより適正に集約し、全ての犠牲に報いるだけでなく、救いあげる道を切り拓けばいい。
それには、空間の潮流を把握し、合理的に紐解く力が必要だ。
それに関しては、以下に記載している。
2013年05月26日 21:10 一段
現状において、人間と人類と社会と世界が進んでいる畦道は、自由を求めれば不自由となり、
平等を求めれば不平等となり、平和を求めれば戦争となる、極度に惨憺たる状態である。
互いを尊重するを基盤とし、相手の真意を洞察する事は勿論、相互にそれを明確に伝える事により、
問題の解決に従事すれば、偏見や軋轢が緩和され、格別性や特別性の欠損が抑えられ、
悪循環の袋小路の坩堝で、不意味な事を何遍も繰り返す必要がなくなる。
とは言え、より良きを追求する事によって、それが当然かつ必然となる事により、格別性と特別性が薄れるのは事実だ。
重要なのは、道義的な判断と決断を誤らぬ、前提を十二分に整える事である。
それがなければ、互いの増長を許し、互いに増長を続け、いつか絶滅してしまう。
我々は、五感を研ぎ澄まし、人生を堪能する必要がある。
そうでなければ、真に満たされる事はない。
前提の不在により、それが叶った者は一人もいない。
だが、各々が叶える力を有している。
道義的判断を誤れば、それは何処までも遠のいて行く。
玉響の時を、満ち足りたモノにするもせぬも、それは各個に委ねられている。
それを自覚する事で、人生を限りなく輝けるモノとしよう。
二段(承)に続く。