2013年05月26日 21:10 一段


格差は、様々なスケールとカテゴリーに存在する。

そう、子供・大人・個人・集団・人間・人類・社会・国家・経済・市場・学力・体力・品質・価格のような、
幅広い概念と定義に付随している。

そして、無数のスケールとカテゴリーにおいて、表裏一体の様相が実存する。

少し裕福な子供がいれば、少し貧乏な子供がいる。

とても裕福な大人がいれば、とても貧乏な大人がいる。

勿論、僅差の存在もいる。




それでは、空間の潮流を把握するため、初歩的な話を進めよう。

全世界における、文明の水準を比較した場合、その格差は歴然としている。

高度な文明に包容される人々もいれば、それとは無縁の環境で生きる人々がいる。

前者と後者では、格差への認識は当然とし、その開きに絶大な差がある。

前者では、格差に対し不平や不満が溢れ、無限とも言える差異がある。

後者では、それを意識する必要性が乏しく、隔たりは有限的な次元なのだ。




危惧すべきは、共通項の流入と拡大により、後者が前者に接近を続け、様々な推移が連動する事だ。

そうして、これまでに莫大な問題が引き起こされ、これからも悪化させながら繰り返されて行く。

増悪させ反復させるは、人間と人類と社会と世界だ。

人間と人類は、視野狭窄に嵌入し、近視眼的な思考により、無闇矢鱈な発展を望んだ。

無謀にも、前提を整えぬまま流されたため、靉靆たる柵(しがらみ)で雁字搦めの状態だ。

そのため、前進しようとも、後退しようとも、右へ行こうとも、左へ行こうとも、四方八方が落とし穴である。

だからと言って、同じ場所に留まる事は出来ない。

それは、いつしか底が抜けて落っこちるからだ。

そうなるよう邁進した、人間と人類は不憫で無様だ。

それにより、形成された社会と世界は、淪落を続ける仕様の仕組である。

であるからして、先導する社会の影響により、牽引される社会は腐敗を続ける。

はたまた、牽引される社会の影響により、先導する社会の安寧すら脅かされる。

それなのに、相互に密接な関係を望むため、足を引っ張り合う破目となる。

だからとて、それを解消しようとすれば、互いに深手を負う事を余儀なくされる。




どうにも出来ぬ状態で、どうにも出来ぬ事柄を、どうにかしようとして、さらにどうにもならなくする。

相身互いに、それを進展させて来た。

だから、戻る事は絶無となり、進む事すら叶わない。

それ故、パッパラパーかつクルクルパーな状態で、同じ場所でトンチンカンな変化を繰り返し、
チンプンカンプンな終焉を迎えてしまう。

既に、文明は悪循環の袋小路の坩堝である。

しかるに、挙句の果ては自壊する、巨大な自己破壊装置にすぎない。

何より、推移が連動する事によって、不具合の蓄積による問題の発生は、恐ろしいまでに同期する。

そうなるは、類似した作用に対し、類似した反応をするからだ。

ハナから、どうにもならぬ存在が、実態を深刻化させながら、誤った道を進んで来た。

実際は、同じ場所で目を回していただけである。

その後に続けば、同じ末路を辿ってしまう。

そうだ、先進国のような杜撰な命運に、後進国が囚われてしまい、同じ過ちを繰り返すのだ。

おまけに、自国と後進国の失敗を見つめながらも、先進国は大迷路の寄せ集めから抜け出せない。

そこに、後進国が何遍でも追い打ちをかけてくる。




共通項の流入と拡大により、推移が連動すると記載したが、
コンピューターやインフラの普及が、とりわけ大きな原因や要因となる。

例えば、コンピューターが存在しなければ、回線の速度が高速でなければ、様々なサービスがなければ、
それによる多彩な情報がなければ、大多数の犯罪が成り立たない。

要は、様々な概念と定義の定着は無論、それらによる付加価値の浸透により、事件や事故が引き起こされる環境が整う。

至当であるが、悪用を未然に予防するため、必須となる条件を整えぬまま、余計な事をすれば自縄自縛に陥る。

結果、諸事万端が自殺行為となり、もはや無限の陥穽にのまれ、這い上がる事は不可能である。

より、未熟な環境に概念と定義が流れ込めば、適宜に制御するのは、いっそう困難となる。

先進国でさえ、それに弄ばれている。

そうして、それをどうにも出来ぬまま、偏見と軋轢ばかりが助長され、世界がどんどん歪んで行くのだ。

日本における、不具合の蓄積であるが、常に飽和の状態であり、限界を更新し続けているが、
正極と負極の双方における矛盾が、どうにか持ちこたえさせている。

最低限の安寧を保っている、先進国や近隣国も類似した状態だ。

そのため、その矛盾を下手に解消しようとすれば、
無頓着かつ無自覚に余計な事を働けば、戦争の引金にすらなりかねない。

戦争と記載したが、嘗てない大戦争となる。

あらゆる次元における、連動率の高さが仇となり、誰かが余計な事をすれば、瞬く間に殺戮は波及していく。

それを、実現するに必要となる、環境は十二分に整った。

それを明確とし、未然に防ぐための志向性と指向性を確立し、流布し定着させ連動させねば、破滅は随伴者のままだ。

しかし、それを実現しようとも、矛盾を適宜に整理し、不具合を払拭せねば、滅びは常に傍らにある。

何をおいても、必要となる前提が不十分なれば、問題をどうにか丸め込もうと、
問題によって発生していた、様々な抑止力が喪失するため、破滅の呼び水になってしまう。

中東諸国では、長年続いた独裁者の権威によって、様々な対立が抑えられていたのに、
何の準備もないまま独裁者を葬ったため、どうにもならぬ状況が続いている。

つまり、どうすべきかを明確とし、より適正に問題を処理しつつ、前提の制定を段階的に進める必要がある。

要は、包括的なアプローチが欠かせない。

それには、厳密な方法があるため、似たような事をするだけでは、
どんどん折り合いがつかなくなり、挙句の果てに弾け飛んでしまう。

そこに、砕身の注意を払わなければならない。




不具合の蓄積を齎す、様々な共通項が流入し、急激な増殖を続けている。

それにより、イレギュラーは急速に増大している。

であるからして、先入観・固定観念・既成概念が、過去に縛られている存在ほど、墓穴を掘って脱落し易い状態だ。

逆に、それらが大幅に欠如する存在は、それを受け入れられぬがために、絶大な過ちを犯し易い状態なのだ。

様々な情報の獲得によって、価値感が変化を続けるだけでなく、
親から子への継承が疎かとなり、他の様々な影響によって、洗脳が解けてしまったため、
対象によって、風習を悪習・悪習を風習・常識を非常識・非常識を常識・正当を不当・不当を正当だと認識している。

そこに、イレギュラーが追い打ちをかける。

それでは容易く履き違え、足を踏み外してしまう。

例え、バランス良く兼ね備えようと、建前・自己都合・利己主義に踊らされ、碌でもない事しか出来ない。

抜本的な問題として、行動によって伴うリスクを把握しようと、それを理解し間違いを抑止する能力が不足している。

要は、間違いを犯さないための条件が、十分に身に刻まれていないのだ。

誰もが、そのような状態であるため、そう易々と前には進めない。

本来であれば、先進者は後進者に対し、同じ間違いを繰り返させぬよう、獲得したノウハウを伝えなければならない。

それが、十二分に出来なければ、未熟な人間と人類によって形成された、
杜撰な社会と世界を維持するため、人間と人類が犠牲になり続ける。

はたまた、未熟な人間と人類によって、杜撰な社会と世界が滅んでしまう。

そんな、魔の連環を断ち切らねば、暗闇で慟哭する末路となる。

あるいは、地獄で絶望を味わいながら、後悔に明け暮れる落魄の身となる。

これからも、不可欠な手順を廃忘したまま、人間と人類は格差を生み出し続け、それを無くそうと訴え続ける。

だが、それは差別と同様で、不器用に無くそうとすれば、格別性と特別性すら損失する。

それでは、人間と人類と社会と世界が停止する。

もしくは、格差がさらに広がり、我々は絶滅してしまう。

格別性と特別性の損失に関しては、以下に記載している。

2013年04月23日 22:15 零段

誰もが、同じ穴の狢である。

それを如実に示し、共通となる指針によって、不都合な事実を認め、
適宜に清算をせねば、何遍でも間違いを反覆し、莫大な時間を浪費してしまう。

現況では、認識がバラバラなため、真の解決は絶無であり、仮に解決をしようとも、
掘り返しと蒸し返しで、キリがないのが実態だ。

これまで、解決すべき立場にいる者達は、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けた。

しかし、それは当然であり必然だ。

問題は、それが無論となる状態から、脱却が出来ぬ事である。




我々は、余りに不器用な矛盾である。

偽善者しかいないのに、その行いを偽善だと批難してしまう。

さすれば、批難した者は、同等かそれ以下の残飯だ。

差別を無くせと叫ぶ者が、差別する者と差別せぬ者を差別する。

その様な存在を、柵で雁字搦めの状態とすれば、お構いなしの存在で溢れ返る。

そもそも、制裁や法律で抑え込めば、後がない者達は爆発する。

それを把握し、逆に利用しようとすれば、その思惑は尽く頓挫するだけでなく、とんでもない竹箆返しに苛まれる。

我々は、誤魔化し有耶無耶とし逃走し、表面を綺麗にする事に明け暮れ、
中身を磨く事が疎かとなり、成すべきを忘却し失念している。

それを自覚せねば、自分に裏切られ、自身に教唆され、自己に振り回され、己に抹殺される。

現状は、最下級の人材しか育めぬ機構である。

それすら認めねば、聡明な判断と賢明な決断は下せない。

最低でも、本質・実質・現実・事実・真実・実態・真相・実相・真意・神意・真理・摂理・哲理を、
極大から極小のレベルで綿密に精査し、種として・性として・個として・全としての使命を果たさねばならぬ。

とは言うものの、それが出来る者はいない。

変わらねば、変えられぬ。

変えねば、変わらぬのだ。

されど、必須となる教材どころか、仕組すら存在していない。

摩天楼は、その一端を担うガジェットである。




本然ならば、人らしく愉しく生活する事が、家族・友人・他者・自分を大切に、日々を生き抜く事が何より大切だ。

無責任だと指摘すべき対象は、問題を是正する能力がないのに、前面に出て余計な事をする者達だ。

大衆の願いは、『より良き日々をより良く生きる。』に集約される。

それを、裏切る仕様の仕組しかないのが実相だ。

そろそろ、何度でも裏切られ、幾度でも忘却して、何処までも堕落する日々に、サヨナラを告げねばならない。




サヨナラを告げるには、天命たる空間的な使命を、人生の傍らで遂行する必要がある。

そして、特定の複数の質問に対し、明確な解答を導き出さねばならない。

その一つに、何のために生まれて、何のために生きるのか?がある。

それは、選択する方法により定まる。

人間と人類は、選択を忘却し失念したため、碌に答える事が出来ない。

選択を放棄したとしたが、粗雑な流れに身を委ねたため、どうにもならぬ選択をしていた。

原初から、ナチュラルプロセス(自然作用)によって、その使命は確定されている。

さりとて、選択を誤ってしまえば、使命を果たす事は困難となる。

であるからして、使命を果たすために、最良の選択が要求される。

選択による社会的な強制と、天命たる空間的な義務が遠いほど、
支離滅裂かつ無知・無智・無恥にしか、万物の霊長は生きる事が叶わなくなる。

現状は、仕方なく形成された、最下級の状態にすぎない。




我々は、使命を把握する事は当然とし、その理由を理解する事によって、
より適宜な仕様の仕組を形成・定着・連動させ、遥か先々へと進まなければならぬ。

されど、どれだけ適宜な変遷を促そうと、問題を根絶やしにする事は出来ない。

完璧になり得ぬ存在が、そうなろうと追求すれば、全てが停止する時が来る。

それを、忘れてはいけない。

それに、完全無欠な存在では、勝ち得る事が叶わない。

もとより、人間・人類・社会・世界において、それが誕生する道理はない。

もし、我々が存在するこの空間に、窮極たる存在がいたならば、人間と人類は誕生すらせぬ。

神がいたとて、不完全な存在であった事は、紛れもない真相なのである。

目指すべきは、不完全でありながらも、究極を目指し続ける存在だ。

その、不完全でありながらも、究極を目指し続ける傾向は、あらゆる選択に対し共通するが、
選択により効率はもとより、到達点にギャラクシー(銀河)とダスト(塵)の差がある。

何より、既存を生かすために、土台から刷新するのか?

何もかもを失ってから、仕方なくやり直すのか?

無論、後者を選んではならない。

さすれば、使命を果たしうる機会を失う。

ただでさえ、ゼロに等しいのだ。

それを完膚無きまでに、失う訳にはいかない。




使命を把握し理由を理解し、災厄を未然に相殺する事で、より良き未来を手繰り寄せ続けねば、
人間と人類と社会と世界は、真に成し得た事にはならない。

とは言うものの、災厄を未然に防ぐ事が叶わず、もはやボロボロの状態である。

故に、これまでのあらゆる犠牲に、ただ報いる事しか出来ぬのだ。

我々に可能な事は、家族・友人・他者・自分を含めた、これまでの全ての犠牲に報いる選択を行い、
人間と人類としての贖罪を完遂して人となり、それから誕生するあらゆる存在に、真に成し得る機会を与える事だ。

思い知らされ、仕方なく何かを成すのであれば、それは些少の時間稼ぎにしかならず、その繰り返しを演じる破目となる。

永久に、繰り返す事が出来ればいいが、悪化させて繰り返すため、死屍累々の状況へと突入する。

何より、我々と言う欲深い生き物は、似たような繰り返しに耐えられず、とんでもない事をしてしまう。

それでは、人として黎明を迎えるための、入口に立つ事すら叶わない。

だからこそ、結果・死地・落日・最期・結末・末路・滅亡・終末・終焉を見極め、
先手を打ち続ける事によって、絶滅を回避する道を切り拓き、進み続けねばならぬのだ。

見定める事により、種としての使命、性としての使命、個としての使命、全としての使命を獲得しなければ、
同じ場所をウロウロするだけで、消え去る事を余儀なくされる。

使命は、自然作用を基盤とする事で、合理的に紐解いていけば、粗方ではあるが取得は出来る。

ただし、合理的の意味を履き違えれば、誤答しか引き寄せられない。

この空間は、非合理的な思考を合理的と思い込む事で、家族や友達や他者や自分を生贄とし、
途轍もなく余計な事をしてしまい、墓穴を掘る者で溢れている。

そうだ、都合の良き内容を前提に、身勝手な暴走を続けて、己と周囲を劈きながら、何処までも落下する。

所詮、綺麗事で人々を束縛する人材は、御託を並べ裏切り続けた連中は、
どん底で何も出来ずに、誰かに助けて欲しくて、もがいているにすぎぬのだ。

残念だが、そうなる仕様の仕組なのである。




では、合理的に紐解くには、どうすればいいか?

前提となる条件を限定する事で、良き面だけで考えるのは料簡違いであり、非道徳的かつ非論理的である。

悪き面だけで、考える事も同様だ。

我々は、良い面と悪い面を熟知し、先入観・固定観念・既成概念に縛られず、より精確に吟味しなければならない。

念頭に置くべきは、錯綜するあらゆる情報は、作為・無作為に関係なく、
建前・自己都合・利己主義によって、多かれ少なかれ偏向されている事である。

それが、必然かつ当然となる環境で、伝える側も伝えられる側も成長したため、情報を適正に扱う能力は非常に乏しい。

何と言っても、不適切な柵で雁字搦めであり、それによって紡がれた理屈は、屁理屈の域から抜け出せない。

そのため、突発的な有事が発生すれば、根拠はいとも簡単に瓦解する。

見当違いの機構では、安全・安心を流布する連中も、危険・不安を流布する連中も、
何も知らない赤ん坊のまま、いたちごっこを強いられる、可哀想な敗残者にすぎない。

だから、どちらをどれだけ信じても、どうにもならぬのが実態だ。

だからとて、柵の解消は実質的に不可能であり、下手に解消しようとすれば、
新たな柵が増えるだけでなく、デメリットに付随するメリットまで損失する。

また、絶ちがたい関係によって、不心得な心配りをする連中で満ちている。

さらに、都合の悪い事柄を常識に溶け込ませ、必須条件を改竄捏造する事で、破廉恥な事を断行している。

なんせ、気休めと自己満足により、誤魔化し有耶無耶とし逃走するのは、人間と人類と社会と世界の十八番である。

特に、意見が二分し二極化する情報には、より慎重な精査が必要だ。

重要なのは、情報によって感情を弄ばれ、感情によって情報を識別せぬ事だ。

そのためにも、篤実かつ闊達な精神を育み、より冷静な思考によって、
聡明な判読と賢明な論決を、厳粛に心掛けねばならない。

他にも、思考に留めておく事柄がある。

一人の人間の人生には、グーゴルプレックスの可能性がある。

争いは、同じ次元の者が繰り返す。

それが、一向に無くならぬのは、同じ次元の者しかいないためだ。

周知の情報がどうてあろうと、本質と実質がそれに伴わなければ、
現実・真実・事実・実態・真相・実相とかけ離れていれば、信じて損をするのは自分自身だ。

それに、情報を信じて振り回された己によって、巻き込まれた周囲が犠牲となる場合がある。

そのためにも、真意・神意・真理・摂理・哲理を吸収し、道義的な判断を誤らぬ心構えが必要だ。

それがなければ、自分に裏切られ、自身に教唆され、自己に振り回され、己に抹殺されてしまう。

そして、どちらかであり、どちらでもあり、どちらでもなく、いずれかであり、いずれでもあり、いずれでもなく、
無限なのか有限なのか、無限であり有限でもあるのか、無限ではなく有限でもないのか、
天地万物と諸事万端を瞬時に、洞察出来るようにならなければならぬ。

この内容を研ぎ澄ませば、合理的に紐解く能力が育まれる。

しかし、それには時間がかかる上に、そう簡単な事ではない。

それを円滑にするには、以下を把握する必要がある。

成すべきを噛み砕いて取得する事と、その骨頂を垣間見る事は当然とし、
最大に注意を払うべき事柄を把握すれば、方向性がある程度は絞られるので、些少なりとも楽になるだろう。




成すべきは、増え続ける概念と定義を、悪用する連中は当然とし、
それに翻弄される人々を変える事と、双方が生まれ難い環境を整える事だ。

誰もが、他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事を認め、
互いを尊重する事を肝要とし、前を向いて進めるようにしなければならない。

それを成就すれば、より輝きに満ちた世界となる。

現況では、忘却と失念により山積した、莫大な矛盾や不具合によって、無数の存在が極端な限界に縛られている。

最下級の状態で掴み取れる、概念と定義は酷く有限的であり、
それに基づいて何かをする限りは、瞬く間に頭打ちとなってしまう。

極端な限界から解き放たれた、概念や定義を適切に運用するため、
集約からの展開と展開からの集約を繰り返す、多彩な機構を構築しなければならない。

それにより、終わる事のない未来を紡ぐのだ。

時点でも、似たような事が実践されているが、足並みは完全にバラバラであり、それっぽい事の域で終わっている。

先に、我々に可能な事に触れたが、使命を超越する選択が出来れば、
超絶絶頂・究極極大・臨界突破となる、別段の未来を引き寄せる事が可能である。

それなしでは、どうにもならぬのが実態だ。

それには、段階的なアプローチが必要なのだ。

現状は、それを阻害する枠組が犇いている。

であるからして、惑わされてはならない。

惑わされてならぬ理由だが、どうにも出来ぬ状態で、どうにも出来ぬ事柄を、
どうにかしようとして、さらにどうにもならなくせぬためだ。

既存のあらゆる枠組では、どうにも出来ぬ仕組であるため、それでどうにか出来ると思い込めば、
自分と周囲の首を絞めるだけでなく、過失を背負ったまま贖罪も出来ずに、立ち消えを余儀なくされてしまう。

特に、政治と宗教に依存すれば、目的と目標を見失うばかりか、表面だけ綺麗な化物となる。

もしくは、無数にある層の表層における、上辺にも満たない次元でしか思考が出来なくなり、
表面と内面がどこまでも腐り続ける、手のつけられない化物になる。

空間に対し、人間と人類と社会と世界が、必要悪かそれ以下の存在である限り、それを否定する事は出来ない。

そもそも、罪と責任を分散し茶を濁すだけでなく、全ては神の思召しと標榜し、
罪と責任を神にすら押し付ける存在では、ぶっ壊して消えさるのみである。

そのため、政治や宗教に携わる人材は、それに注意して時間を稼がなければならぬ。

全てが報われる選択が、それを遥かに超える選択が、選ばれるのを待っている。

そのためにも、より良き良心を育み、倫理・道徳・常識・正義を洗練し、日々を乗り越えねばならない。




諸事万端は、『極小の繰り返し』から『極大の繰り返し』である。

精確には、有機物と無機物が、繁栄と衰退に興じている。

概念や定義でさえも、その流れの中にある。

我々は、与えられ成長し、失われ老いて行く。

折り返し地点を迎えれば、思い通りにならなくなる。

走る事すら不能となり、思い出を駆け巡る時が来る。

それは、社会や世界にも言える事だ。

時の流れに身を委ねる、あらゆる存在の命運である。




実質的な選択の放棄により、万物は最下級の流れにある。

その程度であれば、人間と人類と社会と世界が、織りなす流れを先読みし、人心を掌握するは容易い。

そして、多くの人材が人々を支配し、勝手な跳梁を続けて来た。

問題は、それだけである事だ。

本来ならば、災厄を未然に防ぐため、成就すべき事柄が無数にあった。

だが、それらを達成した形跡は微塵もない。

前提を事前に整理せず、ただ挑み続けてしまえば、どうなるかは見えている。

そんな、分かり切った結果から逆算すれば、その過程の想像は思いの外簡単だ。

世界の終焉を結果とすれば、発生する条件や時期すら、誰にでも推測が可能である。

自然作用を把握し、スケールの変動を見極めれば、厳密なレベルでの予測も造作ない。

予言なんぞ、その類でしかない。

誰にでも、通用する内容で語りかけ、相手をだまくらかす。

相談の内容を結果とし、過程を言い当てる事で、信憑性や信頼性を稼ぐ。

相手の詳細を把握し、自然作用を熟知すれば、これからどうなるかを、高度に的中させる事も出来る。

結局、コツさえ掴んでしまえば、祈祷師にも預言者にも神にもなれる。

それに、誑かされてはいけない。




全ては、必然と当然によって、何の変哲もなく紡がれている。

重要なのは、遥か先々を見極める事により、より良き経過と結果を引き寄せる事だ。

概念と定義を、善用する者と悪用する者は、常に同一の存在である。

未然に防げぬのは、未熟で貪欲だからだ。

それを心に刻まねば、腐った虹色の人生で終わってしまう。

そもそも、何らかの力がある存在だろうと、同じ箱の中に転がっている玩具にすぎない。

誰もが、同じ箱の中の玩具となって、古くなったら捨てられていく。

使い捨てられる、潮流を変える事が出来れば、人間と人類が前向きに生きられる、
確固たる理由と意義の獲得が叶い、人生は綺麗な虹色で光り輝くのだ。