2013年06月25日 23:39 二段(承)


では、道義的な判断を誤らぬには、どうすればいいのか?

先ずは、情報に翻弄されるを、回避する必要がある。

さもなければ、暗澹たる人材により、鼻面を引き回される。

それを相殺するため、情報の餌食となる側から、活用する側へと移行するのだ。

そのためにも、以下を把握しなければならない。

諸事万端は、『極小の繰り返し』から『極大の繰り返し』である。

『極小の繰り返し』による情報は、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもない性質を持つ。

『極大の繰り返し』による情報は、いずれかであり・いずれでもあり・いずれでもない性質を持つ。

端的に言えば、スケールの大きさに比例し、情報には複数の見方が成立する。

スケールとしたが、それには様々な尺度があり、『事態の大きさ』や『経緯の複雑さ』が一端を担う。

厳密には、介在する意思の総量であり、人数に左右される場合があれば、それに影響されぬ場合もある。

はたまた、問題を解決するに必須となる、難易度がそれを掌握する場合があれば、真相の在処により支配される場合もある。

全ては、状況に依存する。

万人が、それを精確に判別するは不可能だ。

だから、利用する者がいる。

コツさえ掴めれば、関連性の低い情報を、それらしく繋ぎ合せ、
事前に把握した情報を、憶測か推測のように付け加え、
人間の弱みにつけ込んだ方法で伝達さえすれば、
神や預言者の如く振る舞うが可能である。

事前に、情報を把握しなくとも、要領さえ得られれば、先読みは造作もない。

どれかであり・どれでもあり・どれでもないの中から、確率の高いモノを選ぶは当然とし、
それらを組み合わせて論じておけば、大きく外した場合であろうと、保身には十分な材料となる。

また、情報の側面を綿密に精査し、本質や実質と照合すれば、人々を魅了する事も出来る。

それは、なるほどなと思わせる事で、共感が得やすくなるからだ。

さらに、実際に起きた事柄を基盤とし、スケールの変化を見極めれば、聖書や聖典すら生み出せる。

それらが、繰り返された情況における変動と、挙句の果てを把握し理解さえすれば、物語はいくらでも湧いてくるのだ。

そこに、時事から獲得した教訓を加えれば、信頼性や信憑性を引き立てられる。

無論、緻密な預言書すら、難しい事ではない。

特に、人間と人類と社会と世界が、より単純な過去の時代となれば、
本質と実質が露出していたため、それらを生み出すは容易だ。

それに、概念と定義が簡素な状態であれば、それらを組み合わせ発展させるだけで、延長上にある粗方の存在を割り出せる。

それをすれば、世界が破滅するような状態となれば、
楽園のような状況が到来するは明白とし、その過程すら簡単に取得が可能なのだ。

後世の人間が、それを要領よく解釈するだけでなく、それに合わせて行動さえすれば、
格別性や特別性の向上が可能となり、様々な計略を満たす事も出来てしまう。

現況では、解析するに手間がかかり、何者かが匹敵するを生みだすに、当時より長い時間が不可欠となる。

それを、十分に形成せんがため、必要となる条件が整うは、現代の環境においては、凄く稀なケースである。

されど、それが出来なければ、洞察する事が叶わない。

そんなだから、安易に騙されてしまう。




大概の場合において、情報を伝える側の人材は、好都合となる見地から、些少の見解しか示さない。

確かに、あらゆるを伝えるは困難であるが、それを繰り返される事によって、伝えられる側は限界に縛られる。

要は、作為・無作為に関係なく、統制されている情報に対し、人々は奴隷にされてしまう。

情報を統制するは、人間と人類と社会と世界である。

そこには、自分自身が含まれる。

我々は、滑稽な当然と必然により、好都合な存在へと淪落している。

そのため、その掌で踊らされる状態だ。

ただ、その範疇を超える事態が発生すれば、伝える側の多大な限界によって、大きく振り回される破目となる。

そうなるは、あまねく人材が好都合な存在と化し、絶大な限界に拘束されているからだ。

己が、その一部である事を忘れてはいけない。

ハナから、親から子に対する経験の継承が、甚だ不十分な状態が続いており、
腐れながら一進一退を繰り返し、ドングリの背比べを余儀なくされている。

おまけに、伝える側と伝えられる側は当然とし、その根幹に居座る人材さえも、
思い込みと決めつけによって、相身互いに潰し合いをしている。

あまつさえ、複雑に分岐し発展し続ける、人間と人類と社会と世界に対し、
それそのものが四面楚歌となり、八方塞がりの状態なのだ。

注意すべきは、それを熟知する事によって、つけ込んでくる連中がいる事だ。

その者達は、それらしい事を並べて来るが、所詮は無力な存在にすぎない。

誰かに認めて欲しいがため、余計な事をして墓穴を掘る、非常に不憫な存在なのだ。

同時に、人の弱みにつけ込む、悪魔のような実存だ。

そいつらは、政治家や神と同じで、買い被れば裏切られる。

結局、誰かに縋る限りでは、弄ばれて終わるだけだ。

だからこそ、信じられる自我を育め。

これらを超克する事で、先々へと進まなければ、道義的な判断はもとより、碌な人生すら送れはしない。

それでは、意味がなく不意味である。

そもそも、道義的な判断とは何なのか?

それは、人としての良き良心を根底とした、道徳・倫理・常識・正義によって下される、聡明かつ賢明な判断なのである。

ただし、万人は『人』と呼べるほど、崇高でも摯実でもない。

何より、人間と人類と社会と世界を、適正に運用するに不可欠となる、
諸条件たる前提を確立せねば、人としての黎明すら迎えられない。

我々は、人には程遠い存在であり、真に道義的な判断をするに、遠く及ばない状態である。

時点では、人間と呼ばれる怪物たる自己の暴走を、理由を理解する事によって、可能な限り抑える事しか出来ない。

些少なりとも、それを円滑とするため、私が想う事を記載しよう。




これより、Windows(Microsoft)に対し、否定的な意見を並べるが、
30近いライセンスを保有し、小学生の頃より愛用している。

そして、購入を仲介する立場となり、個人や団体の要望によって、
200近いWindowsを発注し、業務環境の構築を手がけてきた。

されど、内容は正直なモノだ。

Windows(オペレーティングシステム)の格別性と特別性は、過半の顧客において風化している。

使用が恒常化した存在からすれば、その一択となるは必然かつ当然だ。

そもそも、選択の余地がないため、押しつけと変わりはせぬ。

そこにある、格別性と特別性に関しては、あってないようなモノなのだ。

当方は、Workstationに関しては、3.1→95→98・98SE→ME→2000→XP→Vista→7と、乗り換えを続けて来た。

Serverに関しては、NT4.0→2000→2003→2008となる。

ただし、Mac・Linux・UNIX・IRIXを、併用していた時期もある。

当初は、乗り換えを続けるに、違和感を感じなかった。

それは、革新的なハードウエアの進歩に同期し、
私が渇望するWindowsとして、適正な進化を続けたからだ。

厳密には、莫大な欠点と不足の解消が、そうであると思い込ませていた。

最初に、Windowsを与えられたから、使い続けて来た一面もある。

何より、常用しているアプリケーション群が、
最適化された環境である事が、拍車をかけていたと言えよう。

原初から、それらを同等に使用するが可能となる、互換性の高い環境が実存せぬため、
ハナから選択肢は当然とし、選択権すら存在していない。

用途により、選択肢を形成する事で、格別性と特別性を演出し、それを統合させる事により、
新たなラインナップが形成され、選択肢と選択権が形成されているが、
商品を効率的に販売せんがための虚飾にすぎない。

先に、乗り換えを続けるに対し、違和感を感じなかったとしたが、常に抱えていた疑問があった。

何故、犯罪の温床となる要素を、碌に撃滅する事も叶わずに、
悪用されると熟知した状態で、Windowsをリリースし続けるのか?

悪用としたが、外側と内側の双方向を指す。

利便性や機能性を追求する以前に、『外部(他者)からの悪用』と『内部(自己)による悪用』を防止せねば、
人間や人類や社会や世界のようになり、どうにもならなくなってしまう。

要するに、第三者からの攻撃をブロックするだけでなく、第三者が攻撃するをブロックする必要がある。

その第三者は、己でもあるのだ。

インタラクティブなブロック機能がなければ、形勢が逆転する事はあれど、終止符を打つが叶わない。

手遅れとなってから、それを施そうとすれば、もう引き返せぬ者達と、
より高度な次元における、いたちごっこを強いられる。

それに、オールインワンのセキュリティーソフトを、
ネイティブで組み込む事もなく、顧客に負担を強いるのか?

勿論、他にも疑問はある。

結局は、出来る範囲の事をして来たにすぎず、様々な柵との兼ね合いによって、最低限すら満足に出来ないからだ。

要は、黒い関係に束縛されながら、不完全で不十分な存在を生み出し、悪循環の深刻化に邁進している。

根底的な問題として、人間と人類と社会と世界が、
あらゆるを適正に運用するに不可欠となる、
前提たる条件を微塵も満たしていない。

未熟な存在に、手に余るモノを与えてしまえば、制御が利かぬ存在を委ねれば、どうなるかは目に見えている。

その過程で、止むを得ぬ状況が形成され、顧客が何遍も振り回された。

セキュリティーソフトの購入を強いられ、更新料を支払うを余儀なくされた。

また、その不具合によって、墓穴を掘らされた。

さらに、Windowsアップデートにより、システムが起動しなくなるような、
辛酸を嘗めさせられた場合もあれば、脆弱性を突かれどろ沼に陥った。

おまけに、乗換えやアップグレードをした事により、互換性の問題が発生してしまい、
既存のアプリケーションが使えなくなり、新しいバージョンへの買い替えを強制された。

あまつさえ、サポート期限の終了により、顧客に莫大な負担を強要して来た。

ハードウェア(ドライバ)との兼ね合いで、システムがフリーズする事があれば、
システムが突発的に停止したり、いつまでも起動せぬだけでなく、
どれだけまてどもシャットダウンせぬ事もある。

未知の問題により、無数のユーザーが悩まされて来た。

セットアップやアップデートやアップグレード等で、浪費させられた時間はあまりに甚大だ。

それによるストレスの蓄積は、想像を超越する次元である。

にも拘らず、十分な誠意を見せていない。

現況に到っても、止むを得ぬ状況を是正せず、
それを至当と思い込ませ、顧客に無理強いを続けている。

新しいWindowsに乗り換えるは当然だ。

セキュリティーソフトの導入は必然だ。

商品を売るために、そう思い込ませるに必死である。

それに気付かれれば、あらゆるが空回りを始めてしまう。

既に、その状況に嵌入している。

局外者が、導入を推奨・勧奨しようとも、抑圧的作用は主体者に集中する。

全てが、どのように繋がるかを、把握し理解する事により、
適正な予防を実現せねば、それにすら押し潰される。




Windows(Microsoft)によって、顧客が振り回されたのは事実だが、
顧客によってMicrosoftが忙殺されたのも真実だ。

だけでなく、乱用する存在により、双方が屠殺されて来た。

そして、相身互いに首を絞め続けている。

それにより、何をどうしようとも、どうにもならぬ状態であり、
手を拱いて見ていようが、高度な措置をしようとも、
何もしていないように識別されてしまう。

そこで、より余計な事をしてしまえば、さらなる深みに嵌ってしまう。

特に、主導権を握る存在がそれをすれば、後戻りが出来ない次元へと突入する。

例えば、Windows 8を出す事によって、その延長線上を進み続けるを、実質と本質において定められる。

Winwdows 8は、至れり尽せりを標榜しているが、それでどうにかならぬ場合があり、
膨大な不都合を好都合な視線で紹介するだけでなく、その多くを隠匿している状態である。

とは言うものの、それで満足をしている、顧客が大勢いるのは現実だ。

だから、見誤るは不可避であると言えよう。

所詮、それは状況的な思い込みにすぎず、ひょんな事で豹変してしまう。

だからこそ、勘違いせずにはいられない。

好都合な現実を、ただそのまま見るだけでは、何も見ていないのと変わりはせぬ。

であるからして、Windows 8が誕生するだけでなく、歪な紹介サイトが形成されている。

疾うの昔から、新しい商品を出すだけで、自社と顧客の首を絞める仕組であり、もはや後戻りは叶いはしない。

そこで、半端な存在をリリースすれば、ますます状況は悪くなるのだ。

しかしながら、建前・自己都合・利己主義による、
先入観・固定観念・既成概念に縛られ、
碌でもない事をしがちとなる。

それだけかと思いきや、最悪となった場合においては、誤魔化し有耶無耶とし逃走してしまう。

現況まで、それを繰り返すばかりで、何も解決せずに進んで来た。

正確には、何をしようとも台無しとなり、無意味どころか不意味にされている。

挽回の機会を、第三者に奪われて来た実態もある。

その限りでは、全ての顧客を承伏させるは不可能だ。

Microsoftは、市場におけるシェアを見つめ、自分達が出した製品だから、
決めつけと思い込みにより、支持されていると訴える。

確かに、その要素は存在するが、止むを得ぬのが実情だ。

提供する側は、その目線が抱える死角により、
現実・事実・実態・真実・真相を見誤り、
消費者のニーズを過誤する。

はたまた、多くの利益を上げるため、犯罪者と同じ事をしてしまう。

迚も斯くても、作為・無作為に関係なく、その様な末路を引き寄せる仕組である。

悪循環たる袋小路の坩堝では、善行や善政だとしても、偽善と茶番に落魄する。

今となっては、悪化させて繰り返し続けた、挙句の果てであるがため、偽善と茶番に明け暮れるで精一杯だ。

云々を差し引こうと、提供する側の都合により、不完全な存在を購入させられるを、誰もがバカバカしく感じている。

ただでさえ、キリがない状況に嫌気がさしているのだ。

それに、それまでの経緯を知らぬ者であれば、疑問が溢れるだけでなく、殺意すら覚えてしまう。

全てに、追い打ちをかけるが如く、気が利かぬ対応をされれば、堪忍袋の緒が切れる事すらある。

その状況下で、供給する側のニーズを突きつけ、
顧客のニーズを捻じ曲げようとすれば、
想像を超えた竹箆返しに晒される。

何しろ、経緯がどうであろうと、お構いなしである存在が、これからのお客様である。

その者達は、与えられたモノを使い続け、泣き寝入りをしてくれはせぬ。

それに対し、使わなければいいと言ってしまえば、事態は悪化の一途を辿ってしまう。

それしかない状況が形成されており、余地がない状態でそれを言えば、何をされるか分かりはしない。

そうだ、道義的な判断が叶わなければ、お構いなしの報復に晒される。

その判断が出来ぬのが、人間と人類と社会と世界の実相なのである。

何より、良き事でも悪き事でも、やったらやり返されるのだ。

経緯を明確化する事により、自己擁護をしようものなら、痛い所を突かれてしまう。

気が利かぬ対応をすれば、暗黙の了解が拒絶されてしまい、
もう割り切って我慢して貰えぬだけでなく、
完膚無き迄に許されぬようになる。

これから、それを促進する状況が、烈々に累加されて行く。

それによって、上質の顧客でさえも、次々と裏返ってしまう。

そうなるは、理想的な客を演じる意味が、相互作用により消失するからだ。

それには、それを誘引する原因と要因の主体となる、業界全体が細心の注意を払わねばならない。

無論、万人が気をつけねばならぬのだ。




政界人は、悪質が極まる状態で、同様の傾向に囚われている。

連中は、自分達が実施する事こそが、国民のニーズだと決めつけ、思い込ませるに必死である。

経済が、良くなろうが悪くなろうが、どうともならぬ状況において、アベノミクスをゴリ押ししている。

現況において、景気を良くしてしまえば、リスクやハザードが急増する。

はたまた、景気が悪くなろうと、そうなるは変わらない。

だからと言って、ただ手を拱いていれば、同じ末路を辿ってしまう。

ハナから、何もしない訳にはいかぬ事情があるため、何かをせずにはいられはしない。

そのため、どうにもならなくなる前提と、自壊する根拠がアリアリの状態で、
政治家は御託や綺麗事を並べ、甚だ余計な事をしてしまう。

その限りでは、目的や目標が果たせぬだけでなく、
何もせぬ場合とは比べられぬ勢いで、不確実性と危害要因が増殖する。

公人は、茶番を茶番たらしめ、偽善を偽善たらしめ、悪循環を助長してきた。

もはや、格別性と特別性を追求しすぎたため、偽善と茶番に明け暮れるしかない状態だ。

アベノミクスは、止むを得ぬ状況の形成により、皆で経済的な苦境に立たされ、
不確実性と危害要因を進展させつつ、公職者にとって好都合な存在に、金銭を流し込む御遊びである。

それで、どうにかなると思い込ませ、大衆を家畜たらしめ・奴隷たらしめ・道具たらしめる。

その水面下では、己達の杜撰すぎる計略を、次々と通過させてしまう。

ただし、構造的相互作用により、辻褄が合わぬ状態のため、状況を悪化させてしまい、
自分達が抹殺される原因と要因を、確固たる次元へと導いてしまう。

以下は、過去に記載した内容を、簡略化して編纂している。

円安が進行すれば、高くなるモノはあるが、安くなるモノがない。

何より、エネルギー(資源)の依存率が改善されぬ限り、風船のようにしぼんでしまう。

それに、安くしなければモノは売れない。

価格と品質で勝負する時代は、疾うの昔に終わりを告げており、安価で高品質は当然かつ必然だ。

それは、より浸透して行く。

また、海外に目を向けたとて、チャンスが大きい相手ほど、金がないのが実態なのだ。

だからと言って、下手に成長を促せば、様々な不具合が発生する。

どれだけ、安全策を施したつもりでも、それすら破滅の元凶となる。

さらに、市場を開拓するためのしわ寄せが、日本にいる消費者の懐に降り注ぐ。

おまけに、協定と条約と法案が、追い打ちをかける。

あまつさえ、これまでの政治が何もしていなかったと、各党で広め続けるは非常に滑稽である。

そもそも、目的や目標を満たしたようでも、変えるべきが変わりはしない。

果てに、リスクとハザードの高度化によって、表層的な解釈による安全神話が崩壊する。

それにより、最悪の事態となろうとも、以下を把握する事により、自制を促さねばならん。

自制が必要となるのは、人間と人類と社会と世界だ。

統治機構は、費用対効果が最悪な状態で、税金を無闇矢鱈に垂れ流す。

中央から末端まで、最悪たる金食い虫である。

連中の『今』を維持するために、我々の『今』と『未来』が奪われる。

わきまえぬ政治屋は、逆の立場で同じ事を考えてしまう。

だから、己と相手の首を絞めるだけで、何もせずに終わってしまうのだ。

為政者は、解決が叶わぬ問題を、薄汚い綺麗事を並べ、後世に押し付けてきた。

一つの結果が、現状なのである。

代議士は、『未来』や『次世代』のためと、本末転倒な事を繰り返してしまう。

最初から、それしか出来ぬ仕組なのだ。

そこで、無理な事をさせようとすれば、大戦争を引き起こしかねない。

もはや、誤魔化し有耶無耶とし逃走するしか、連中に望める事はないのである。

だからこそ、その窮極たる戦争に走らせるを、決して許してはならんのだ。

権力者は、大衆から税金を巻き上げ、国民を皆殺しにすると標榜し、有権者はそれを支持している。

公民は、度重なる選挙において、家族と友達と他者と自分を、
挙句の果てにぶっ殺してくれる、最大の敵を選ぶを強いられる。

なんせ、有象無象は無謀な約束をする。

選挙で当選する事はもとより、成果を残さなくてはならぬため、突表紙もない事すら掲げてしまう。

己達で、必要となるコストを、捻出する能力はない。

何しろ、必須となる前提がない。

あらゆる策謀を満たすに、不可欠となるそれが不在であり、
これからそれを形成するとて、肝心要となる根拠すらない。

のっけから 、根拠の形成が出来ぬ仕組だ。

無理に、それを形成しようとすれば、無数の国民が滅尽してしまう。

民主主義は、分散型の独裁政治であり、大衆を言いくるめるに最適だ。

甚大な問題が発生しようとも、辞めさせて入れ替えれば、粗方の決着はついてしまう。

他にも、過去に記載したような、吐き気を覚える実態があるが、それらすら簡単に曖昧に出来る。

であるからして、超絶絶頂・究極極大・臨界突破となる、竹箆返しが待ち構えているのだ。

そうなるは、 変哲もなき事である。

とは言え、その一端を担ってはならぬ。

それは、家族と友達と他者と自身を、喪失するを避けるためだ。

殲滅したい相手と、同じ事しか叶わぬ状態で、履き違えた手段によって、
どうにかしようとしてしまえば、悪化させて繰り返す破目となる。

それでは、気休めと自己満足すら叶わず、慟哭に浸り続ける運命となる。

そうなるは、万人に相応しくない。

今後、ありのままを見てしまう『層』が、より絶大な力を獲得する。

その者達は、大多数を不要と知覚する。

政治家も有権者でさえも、唾棄すべき存在と確信するのだ。

中東諸国で、暴走する者達の同類に見えるが、我等の近辺に出現するその群は、比べ物にならぬ程に性質が悪い。

我々には、最大を飛び越える敵が待ち構えている。

そいつらは、万人の内側に潜んでいる。

誰しも、そうなる可能性を保有しているのだ。

諸事万端が、どのように繋がるかに対し、確実な答えを出すは困難だ。

ただ、偽善と茶番を繰り返せば、何が生まれるかは単純だ。

誰もが、それになる事がないよう、気を配らなければならぬ。

既に、百枚も二百枚も上手となる、暗澹たる集団が跳梁跋扈し、人々の生命を脅かしている。

だからこそ、包括的な問題の是正を可能とし、統治機構の全てのスタッフは勿論、
殲滅したいと感じる相手ですら、守りぬける仕組みが必要なのだ。

私は、それが一番欲しい。

本当に恐ろしいのは、まだこれからの事である。

しかし、全ての思惑は頓挫する。

されど、頓挫するとする、思惑すら破綻する。

どうなるかは、人間と人類と社会と世界に委ねられている。

諸賢には、大切な今を積み重ねる事で、より良き未来を引き寄せて欲しい。

話が長くなってしまい、非常に申し訳なく感じる。

しかしながら、これからが本旨なのである。




二段(転)に続く。