2013年07月04日 00:28 二段(転)


創造主も救世主も預言者も政治家も事務官も経営者も慰安婦も犯罪者も健常者も障害者も、
自分自身で問題を煩雑とし、不確実性と危害要因の深刻化に邁進している。

誰しも、自分本位な状態のまま、甚だ余計な事をしてしまい、自縄自縛へと嵌入するのだ。

創造主は、人間を生み出す事により、多くの被造物を奪われている。

救世主は、教理を宣教する事により、人類を支離滅裂にしてしまい、
一方的な惨殺と殺戮は頻繁とし、多くの殺し合いを演出している。

預言者は、未来を推察する事により、真に受けた人々は唆されてしまい、
未熟な状態で視野狭窄となり、あらゆる過ちを反復させ、
多くの人生が台無しとされている。

こぞって、肝心な点が抜けていて、極端に無思慮だったがため、
多くの存在が犠牲となり、依然として改善は望めない。

唾棄すべきは、目はしの利いた御託を並べられ、安易で浅薄な人々は誑かされて、
誰かに好都合な存在へと成り下がり、迷妄に束縛された人形と化している。

所詮、成すべきが見極められず、都合の良き互恵関係にすがり、茶を濁しているにすぎない。

中には、己に不都合のない勝手な解釈により、自己を擁護しながら罪を重ねる者がいる。

もし、神がいるとするならば、無知・無智・無恥である、
御都合主義の虫ケラを、そう易々と赦しはせぬ。

ハナから、身の程を弁える事も無く、神に縋れば救われると、懺悔すれば赦されると、
決めつけて思い込む存在が、退廃的なゾンザイ風情では、救済される道理すらない。

そうだ、放縦で他力本願な化け物には、天国や楽園に居場所は在り得ず、地獄こそが御誂え向きとなる。

それゆえにこそ、救われるとする者がいれば、そいつは救いようがない存在だ。

運が良ければ、無意識・無存在となって、忘れ去られるだけで済む。

ただし、そんなに甘くはないのが、この空間の実相なのである。

そもそも、そこから脱却をせねば、自然的な作用によって、勝手に滅びる仕組なのだ。

要は、愚劣な構造的相互作用により、諸事万端が紛糾してしまい、
万物の霊長を中心的存在とし、総体が自壊と崩壊で衰亡する。

神が実存し、人類と世界に望む事あらば、その克服をおいて他にはない。

いまや、人間と人類と社会と世界は、悪循環たる袋小路の坩堝となり、
陰極における表裏一体の領域で、常に瀬戸際に立たされている。

であるからして、極性を転換する事によって、
進退窮まった状況から抜け出さなければ、
取るに足らぬ存在で終焉を迎える。

だが、そこから抜け出した存在には、神すら振り向かずにはいられない。

さすれば、人生行路は変貌を遂げ、未曾有の惨禍との決別が叶う。

そう言えば、破滅的な終末を迎える事によって、楽天地が到来するとする者がいるが、
不遜な理想主義と現実主義による、空想と妄想の虚構にすぎんのだ。

確かに、大戦争が勃発する事で、教訓を得た人類と世界が、バランスの動向によっては、
それらしい状況を形成するが、紙一重の状態からは抜け出せず、
突発的な有事を引き起こし滅びるだけでなく、
先々へ進み続けるが叶わない。

大災害でも、それは同様となる。

それでは、姿を変えただけであり、中身が変わりはせんがため、悪化させて繰り返すのみだ。

何より、多くを奪い失い奪われたのに、上面を取り繕う事によって、
仕切り直しをする程度では、真に犠牲に報いるが叶わない。

それだから、犠牲の上塗りを続けているのに、知らんぷりをしてしまうのだ。

斯くして、背徳が反復される。

挙句の果てには、絶滅する命運である。

まして、絶滅する事によって、常世国への到達を目指せば、
奈落の底で窮極たる絶望と後悔に、永久に打ち拉がれる破目となる。

それは、至極において自然な潮流であり、ありきたりな結果の範疇でしかなく、
人間には何も出来なかったと、ただ知らしめるだけなのだ。

そして、己に自己の運命を弄ばれ、何も変えられなかったと、
嘲笑われる事すら叶わず、記憶にすら留められず、忘れ去られてしまう。

しかも、見向きもされぬ界隈で、失意により憔悴を続ける。

人間は、完全や完璧に程遠い生命であり、自己矛盾の中でしか生きられない。

それで、究極を目指してしまえば、虚無となるしか道はない。

だからこそ、不完全で未熟な存在である事を認め、少しでも前へと進まねばならぬのだ。

それにより、より多くを習得する事で、人生を堪能しなければ、得られるは僅かである。

どれだけの富を築き満たされようと、それがなくても幸せと強がろうと、
刮目すべきが抜けていれば、どちらも大差のなき生塵だ。

例え、微塵も満たされる事もなく、強がる事すら叶わずとも、
須らく見るを忘却し失念すれば、同じ穴の狢で終わってしまう。

万人が、その状態から抜け出せない。

勝手に、余計なモノが生み出されたため、余計な事をしすぎたがために、
命題たる使命を見失ってしまい、同じ場所で駄々を捏ねている。

だから、いつまで経っても進めはせぬ。

では、リスクとハザードを助長する、その他の場合における傾向を、近況から探ってみるとしよう。




☆ 日本の改善なしに高官交流は困難=韓国長官

韓国外交部の尹炳世(ユン・ビョンセ)長官は27日の内外記者団との会見で、日本との高官交流の見通しについて「日本国内の雰囲気が改善されない場合、首脳級はもちろん、その他分野の高官交流も容易ではない」との見解を示した。

尹長官は従軍慰安婦や歴史認識をめぐる日本の政治家の相次ぐ発言について「韓日友好関係を強化しようとする韓国政府の意欲に冷や水を浴びせるものだ」と批判。「今年2月末以降の日本側の動向に非常に失望した」と述べた。

その上で、韓日両国が民主主義、市場経済という価値観や北朝鮮問題を含む戦略的利害を共有していると指摘し、「歴史問題以外に経済協力、文化協力、市民交流など多様な分野で緊密に協力していく」と述べた。

日本維新の会共同代表、橋下徹大阪市長の慰安婦をめぐる発言については「多くの人は国際社会の常識に反する哀れで恥ずかしい発言だとみている」と批判した。




韓国側の対応は、大人に玩具を買ってくれと、強請り続ける子供と変わらぬ。

日本は、それを無視する大人の様である。

となると、日本を聞き分けのない子供のように、あちらの方々は感じているのだろう。

そして、自分達を大人と認識している。

ただし、やっている事に関しては、与えられて至当と決めつける、北朝鮮と些少も変わりはしない。

おまけに、己では解決するが叶わず、見苦しく泣き叫んでいる。

あまつさえ、阿鼻叫喚をしながら、凶器をチラつかせる。

それでは、ただの恐喝である。

中国も、大差の無き状態だ。

日本も、例外ではない。

これでは、無理な要求を並べて、相手がそれを飲むを待つ、犯罪者と変わりはしない。

長官は、自分に対して好都合となる、決めつけと思い込みによって、相手に架空の責任を押し付け、
自身の無能を棚に上げるだけでなく、あたかも正当のように見せつけ、気休めと自己満足に浸っている。

架空となるのは、全てのケースを考慮しておらぬ、片寄ったモノの見方だからだ。

残念ながら、それに執着するのが人間だ。

そうしなければ、未熟な自我を保てない。

とは言え、それを迎え撃つ側も同様に、打開する能力を保有せぬため、
自己の莫大な不足を認める事が出来ずに、己と相手にすら都合の良き目線で、
批難と批判に躍起となり、己と相手の首を互いに絞め、対立を深めるばかりである。

己の不足を認め、何が足りぬかを洞察する事が出来れば、
相手の急所を突いて沈黙させるは勿論、
是正の条理が見えてくる。

ただ、それより追求の日々が、始まってしまうのだ。

随所で、分別の無き存在が、衝突を続けている。

だからと言って、先に譲歩をした方が、大人と言う訳ではない。

もはや、当事者による解決が望めぬのは当然とし、
第三者も碌でもない事を繰り返したため、
解決は皆無・絶無・空無である。

もう、自己を擁護しつつ、互いを拒絶し合う事で、傷を嘗め合う事しか出来ない。

例え、何らかの方法で終止符を打とうと、偽善と茶番の賜物でしかなく、新たな葛藤のうぶ声となる。




北朝鮮は、自分本位な方法により、近隣国の住民を人質とし、身代金をせしめて来た。

そう、自分と相手の首をしめながら、自身ではどうする事も出来ぬから、どうにかしてくれと喚いている。

放置すれば、北は態度を軟化させるが、多寡がそれだけを見返りとし、余りに多くを要求してくる。

はたまた、放置の有無に関係なく、後がない状況を形成し、
危機感を極限まで煽る事で、譲歩を引き出す場合もある。

最悪、自分の首を自身でネジ切り、単独で自滅する事もあれば、周囲を巻き込んで自爆する。

何より、譲歩をしてしまえば、増長を続ける一方だ。

現況までは、戦争(面倒)の回避が優先されるため、
北朝鮮にあしらわれる選択を、関係国は余儀なくされて来た。

時に、譲歩をする体裁を整えるため、自分達だけでなく相手(北朝鮮)のそれすら捏造した。

要は、たかが脅しに屈するを、見かけを見繕う事により、どうにかはぐらかしたのだ。

陳腐な事に、それを手柄のように、連中は掲げている。

無論、相手もそれを手柄とし、次回の足掛かりとした。

結局、日・米・中・韓・露が結束しようとも、一つの家庭にすら屠られるのが実態だ。

便乗して、商売をする者すらいる。

この体たらくでは、望める事なんぞ僅かである。

だからと言って、殺し合いをしてはならぬ。

しかしながら、それが裏目となり、連中はつけ上がる。

気がふれたフリをして、相手の言葉に耳を傾けず、我儘を押し通すは当然とし、
極限まで追いつめられれば、譲歩せぬ相手に責任を押し付け、
あの手この手で偏執的にしがみついてくる。

終いには、本当に正気を失い、破廉恥な事をする。

途轍もなく、性質が悪い手合いである。

互いに、性質が悪い存在となり、様々な譲歩と牽制を繰り返す、埒が明かぬ状況が形成されている。

そのため、同じ場所で回り続け、平衡感覚を喪失して、無粋な事をしてしまう。

一方的に、攻撃を仕掛けてくる存在には、太刀打ち出来ぬのは尋常だ。

創造主も救世主も預言者も政治家も、その他の有象無象に関しても、
その性質を有する存在であり、同等の性質を有する方法で、
その立場からしてみれば、取るに足らぬ存在を弄ぶ。

もとより、それをせずにはいられぬのが、人間と人類と社会と世界である。

それで、癇癪を起していては、身が持たぬのが真相だ。

であるからして、その程度と察知する事で、感情に振り回されずに、
打開の道を検討するのが、有意義であるだけでなく、それにこそ価値がある。

それは、精神に異常をきたし、正常な判断力を失い、錯乱状態に陥らぬためにも重要だ。

そうだ、狂気に囚われてしまい、余計な事をせぬためにも、それは不可欠なのである。

さりとて、過誤した解答を引き寄せれば、辿る末路が変わりはしない。

それには、注意が必要だ。




現況は、錯綜する思考の矛盾により、微妙な拮抗が保たれている。

それがある事により、暴発を防ぎつつ、交渉を進めねば、以下は成立しない。

内側と外側に、せざるを得ぬと思い込ませ、
外側から極端な譲歩を引き出し、内側をなだめて関係を密接とする。

意図せぬ軽挙妄動は当然とし、軽躁な自暴自棄の行動があれば、この思惑は頓挫してしまう。

そもそも、作為・無作為に関係なく、露骨に繰り返すだけで、
内側と外側の双方から、叩き潰される時が来る。

何しろ、衝動的に台無しとされる、大きな危険性を孕んでいる。

さすれば、全てが御破算だ。

過誤した方法では、相手よりも遥かに強く、己の首を絞めてしまい、打ちのめされてしまう。

だから、合理的な判別により、偏見と軋轢を助長せず、歩み寄らねばならない。

そのためにも、不可欠となる仕組がある。

それを形成する事によって、全人類が根暗な引きこもりから脱却せねば、
その束の間の小さな幸せが、退屈な幻で終わってしまう。

必須となる仕組を定着させ、それを流布し連動させる事で、
より適宜な変遷を促しながら、先々へと進まなければならない。

それにより、親が子を育て、子が親を育て、互いを研ぎ澄ましながら、紡がれていく未来が必要だ。

現況は、それには程遠い。

そこに到るためにも、忘却し失念してはならぬ事がある。

人種がどうであろうと、人間である時点において、救いようがない化け物だ。

その様に把握し理解する事で、かけがえのない家族や友達や他者や自己を、どうにか守り抜かねばならぬ。

だからこそ、自ら変わる事によって、変えねばならぬのだ。

変わらずに、建前・自己都合・利己主義に踊らされ、
気休めと自己満足のために、余計な事をしてはならない。

さすれば、己が後悔する時が来る。

それでは、意味がない。

甚だ、不意味である。

合理的な判別が叶わず、道義的な判断を誤れば、虫ケラになるは自分自身なのだ。

それでは、殲滅したい相手と同じ事をして、互いに何処までも堕ちて行く。

つまらん感情に踊らされる、たかが知れた存在では、
家族や友達や友人や自己を、奪い失い奪われてしまう。

それを、忘れてはいけないよ。




日本人と韓国人と中国人が対立しているが、矮小な日本人が日本人の首を絞め、
稚拙な韓国人が韓国人の首を絞め、執拗な中国人が中国人の首を絞めているだけだ。

この上なく殲滅したい、相手の首を絞めている手には、
己と同胞の首を絞めている手ほど、力が入っていないのが実情だ。

憎しみ合う存在に、正義はない。

あるのは、惨めな不義である。

各国の冷静な人々が、未熟な同胞に貶められる。

とても、残念な事だ。

連中が、どれだけ争おうとも、決着をつける事は叶わない。

それは、決着をつけるに不可欠となる根拠が、敵だけでなく味方にすら通用せぬためだ。

だから、誰かと同じ事を繰り返す。

それでは、意義と価値がない。

それでも、楽しければ続ければいいが、冷静になる事を忘れてはいけない。

さもなければ、損害を被るのは、一番大切な存在だ。

冷静となり、周囲を見つめなければ、一人ぼっちである事に気付かず、勘違いしたまま転げ落ちる。

それに、その虚しさを埋めようと、一人ぼっちが群をなしても、
簡単な事でバラバラとなり、虚しさを痛感するだけなのだ。

冷静になれば、引き返す事は叶わぬが、軌道を変える位は出来る。

それすら叶わねば、孤独な状態で己と周囲を傷つけ、立ち消えを余儀なくされる。

従軍慰安婦や歴史認識でどれだけ争おうと、直接関与していない者を相手としては、
偽善と茶番に明け暮れるだけで、誤魔化し有耶無耶とし逃走するだけとなる。

それでは、碌な教訓が得られはしない。

現況の仕組では、ハナからそれを望めはせぬ。

不出来な、民主主義や市場経済のような、悪循環たる枠組で慣れ合う限り、
関係は癒着で頭打ちとなり、真の意における密接な関係は望めない。

そこで、どれだけの言葉を並べようと、全ては戯言の域を出ないのだ。

勿論、成すべきを果たし続けなければ、あらゆるが紛い物のまま終焉を迎える。




☆ 平和を願う元「慰安婦」たちの思い

「二度と戦争を起こさないで」

「罪は憎んでも人は憎まない」

南朝鮮から来日した日本軍「慰安婦」被害者である金福童さんと吉元玉さんは集会で、「慰安婦」としての自身の悲惨な体験とともに、平和への切実な思いを訴えた。

金福童さん

「誰にも言えなかった」金福童さんはまず、14歳の時に軍需工場に連れて行くと騙され、南洋群島の戦場に「慰安婦」として送られた経験について話した。「最初、中国・広東の慰安所に入れられた。そこには陸軍司令部の本部があり、私たちは将校と軍医官に身体検査をされ、すでに用意してあった部屋に行かされた。日本政府は『自分たちがやったことではない』と言っているが、民間人がどうやって軍人相手のための慰安所を作ることができるのか」広東から香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール…、前線地帯の戦地を日本軍と共に転々とした金さん。「死にたくても死ぬことができなかった」と悲痛な面持ちで語った。解放後、金さんはしばらく日本の陸軍病院に従事させられたという。「看護婦の訓練をさせられ、患者に注射をしたり薬を出す仕事をした。患者たちに手術を施す時に血が足りなければ、私たち少女から輸血する、そのような残酷なこともあった」その後祖国に戻ってからも、苦難の連続だった。「数十人の軍人の相手をしたことを一体誰に言うことができるだろうか。自分の胸だけにしまいこみ、誰にも言えず、本当に苦労の中で暮らしてきた」一方で金さんは、「罪は憎んでも人は憎まない」と強調した。

吉元玉さん

吉元玉さんは、日本は戦争を二度と起こさないと約束したにもかかわらず、再び戦争への道を歩んでいると指摘し、「体調が良くない中でこの場を訪れた理由は、みなさんに『戦争を二度と起こさないように』とお願いするため」だと自身の心情について話した。そのうえで、「戦争が起こると、民衆は苦労する。軍人たちももちろん戦うことで苦労する、幼い子どもや女性たちは大変な苦労の中で暮らさなければならない」と危機感を募らせた。吉さんは、「戦争が起こるとこれからの未来の世代に大変な被害が及ぶ」とし、「みなさん一人ひとりが、『戦争を起こしてはいけない』という思いを自分の胸の中だけに秘めておくのではなく、周辺にいる人々にも伝えていってもらいたい。そして、戦争のない国で幸せに暮らしていってほしい」と話した。

在日同胞にエール

金福童さんはとりわけ、在日朝鮮人に送る激励の言葉をたびたび口にした。「現在日本には在日朝鮮人と呼ばれる人たちがいるが、その人たちは望んで日本にやって来た人たちだろうか。過去の戦争時にどうしようもなく日本にやってきた人たちが日本で苦労しながら生きてきて、その人たちの子孫が今の在日朝鮮人である。日本人と同じく税金を収めており、しかも過去の歴史を考えるとむしろ日本政府から優待されるべき彼らが、今なお差別を受けている状況を見ると胸が痛い。日本政府がすべての過去に対し謝罪し、心を入れ替え、私たちの同胞である在日朝鮮人に対する差別をなくしてもらいたい」金さんは、「私たちの同胞には、日本で差別に負けずに力強く生きていってほしい。みなさんには私たちがついている。日本のみなさんも、私たちの同胞と仲良く平和に暮らしていってほしい」と話した。




この女性達は、矛盾の塊である。

平和を願う素振りを見せるが、大きな争いの渦中にいるだけでなく、
それを加速させる原因と要因になっている。

相手の神経を逆撫でする存在が、自分達に敵対心を抱くなと訴え、
優遇と言う差別を望み、差別を無くせと訴える。

また、戦争を蒸し返すだけでなく、新たな世代に僻見を植え付け、人々を憎しみへと駆り立てる。

さらに、日本に滞在する朝鮮民族に対する、差別意識の助長に邁進している。

おまけに、政治に乱用される道具として、それしか叶いはせぬ状況下で、
不都合な事実を隠したまま、好都合な事ばかり並べている。

あまつさえ、決して許されぬ事をしたため、強烈な自己破壊装置となっている。

どう受け取るかは、様々なのが実態だが、たかだかこの程度では、
相手と己と同胞の首を、無作為に絞めるだけだ。

民主党のように、先入観で拒絶される存在が、どれだけ正しい事を並べようと、
人々はそれに同意する事は困難であり、その意見に対して反感を抱くようになる。

切り分ければ、正しいと思われる部分でさえ、不快感を感じずにはいられない。

その、落ち度を見透かされ、逆手に利用されてしまえば、泥沼に突入する場合がある。

それでは、思惑が頓挫するだけでなく、望みとは逆の方向へと事態が進展する。

ただでさえ、その様な流れとしかならぬのに、それを泥仕合とされては無様だ。

それを事前に考慮し、十分な体制で挑むは基本である。

まあ、そうなると熟知した上で、実施している場合すらある。

本当に、同胞の事を考えていれば、建前・自己都合・利己主義に踊らされ、
たかが気休めと自己満足のために、リスクとハザードの向上に腐心などせぬ。

最低でも、あらゆるケースを加味し、最善から最悪の認識に対し、
折り合いを調整する事により、立ち向かわなければならない。

それすら、抜けている状態で始めてしまった。

極端な、利己主義に囚われた結果なのか、
己達の主張が全てに合致すると、ひとり決めしている傾向が伺える。

その程度に同調をしてしまえば、己が無知・無知・無恥であり、迂闊な存在だと証明する事になる。

現地の女性が、遠征してきた近隣国の兵士や一般人に対し、
性的なサービスを実施したには複数の経緯がある。

従軍慰安婦は、その一端でありつつも、様々な実情を内在している。

それを、明確とする写真や資料は、膨大な量が現存している。

既に、多くがネットに散乱している。

にも拘らず、相手を舐めて迂闊を働けば、簡単に検索されて墓穴を掘る。

それにより、友好的な人々は勿論、無関心だった人々を、片っ端から敵に回す破目となる。

それに、余計な事を続ければ、骨頂が流布されかねない。

その全容が明らかとなれば、朝鮮半島の威信が損なわれる。

そもそも、信用と信頼は無に等しく、国威すら虚像にすぎない。

それすら喪失すれば、寄る辺の無き人々は、次々と破局してしまう。

それが本質と実質であり、対外的に実施して来た政策すら、悪徳商法と変わりはしない。

さすれば、完膚無きまでに叩き潰されてしまう。

結局、自分達の多大な不足を埋められず、
優位性の確保に執着したため、どうにもならぬ状況を形成している。

何より、身勝手な目線に固執したため、履き違え見誤って進んでしまい、
痛い所を軽く突かれるだけで、周囲諸共に瓦解してしまう。

北朝鮮も韓国も慰安婦も、自滅の道を進んでいる。

世界各国が、優劣がつけがたい、杜撰な末路へまっしぐらだ。

軌道を補正するにも、必要な条件がゴッソリ欠落している。

それを熟知しなければ、己達が良かれと思い蒔いた種によって、
局外者と憂国者と支持者にすら滅ぼされてしまうのだ。

平和を望むのであれば、愚かであってはならない。

もはや、変わらなければ、何も変えられぬ。

彼女達のような存在により、日本に滞在する韓国や北朝鮮の人々が、その偽善と茶番の犠牲にされている。

それにより、日本人が残飯へとなり下がる。

そうして、彼女達は泥梨へ真っ逆さまだ。

私は、それが悲しい。




☆ 「ブラック企業」と呼ばれることについて

私が創業し、取締役会長をつとめるワタミグループが一部で「ブラック企業」と呼ばれることについて、一度きちんと皆様にお話させて頂きたいと思っていました。

はじめに、自民党や政府では現在、ブラック企業の定義を明確にし、該当する企業名を公表するなどの動きがあるようですが、私はこれに大賛成です。いかなるものでも、法や行政が定めたものにはいっさい抵触しないよう経営幹部に指示しています。現段階で「ブラック企業」の定義は明確ではありませんが、ブラック企業か否かを判断する基準には、離職率、年収、時間外労働時間、メンタルヘルス不調による休業・退職の人数などがあるようです。ワタミの外食事業の離職率(平成22年4月入社社員の3年以内離職率42.8%)は、厚生労働省公表(平成23年統計、以下同じ)の宿泊業・飲食サービス業の離職率(同48.5%)を下回っています。そもそも飲食サービス業の離職率は、全産業(同28.8%)と比べると高い水準にあります。これは深夜勤務などの事業特性による影響が大きいためであり、単純に、ほかの産業と横並びで論じることは、適切ではありません。ワタミの外食事業の年収は、平成24年度において433万円であり、厚生労働省公表の宿泊・飲食サービス業平均年収370万円を上回っています。時間外労働時間については、ワタミの外食事業の平成24年度月平均は38.1時間。これは、36協定で定めた上限45時間を下回っています。メンタルヘルス不調のため1ヶ月以上欠勤・休業している社員については、ワタミの外食事業においては平成24年度末時点で0.30%(4人)であり、財団法人労務行政研究所が平成22年に行った調査結果0.45%を下回っています。以上の数値をみればわかるとおり、一部の情報だけをもって、一方的にワタミグループをブラック企業と呼ぶことは、到底、受け入れられるものではありません。

只一方で、パートさんやアルバイトさんを含めると、3万人を超える方がワタミグループで働いています。私の目の届かない所で理念と反した事実が起きてしまうことも稀にあります。しかしながら、私が事実を知った瞬間からは、早急かつ厳格に対応をして参りました。理念研修を定期的に行い、現場の声が私に直接あがってくる仕組みもあります。もちろん、不満や不安を持つ従業員もいることでしょう。でも、皆様の勤務されている会社にも、大なり小なり、そうした不満や不安を持つ従業員の方がいらっしゃるのではないでしょうか。そして、そうした不満や不安を乗り越えた先に、大きな成長を手にすることができ、夢に近づくことができることもあるはずです。これからは、ワタミグループのお客様、株主様、社員、お取引業者様だけではなく、全国民の皆さまが、私の大切なお相手です。正しい事実と思いを、これからもこうして皆さんにお伝えしてまいります。




あらゆる組織に、白と黒の部分がある。

競争による、殺し合いに身を委ねる限り、潔白である事が叶いはしない。

即ち、陰極における表裏一体の存在である事を、あらゆる組織が余儀なくされている。

それでは、ブラックである事に変わりなく、偽善と茶番に没頭するのみだ。

見極める事もなく、本義を欠落してしまえば、ニセモノによるヤラセに、身を委ねるで精一杯なのだ。

何しろ、紙一重なのである。

そこで、体裁のよい言葉を並べれば、簡単に撥ね返されてしまう。

それに、好都合な設定を前提とし、自己擁護に狂乱してしまえば、腐乱した本性と本音が露見する。

ハナから、何を掲げようとも、勝手な尺度にすぎない。

それでは、重罪人の言い訳と変わりはせぬ。

何より、誇張すればするほど、後が無くなってしまう。

全てのスタッフのためにも、その程度であってはならない。

そもそも、局外者による一時の評価を、当事者が捻じ曲げるは滑稽だ。

それでムキとなれば、現行犯が証拠を叩きつけられても、
やっていないと怒鳴り散らすと変わりはしない。

その様に感じる者が、ごまんといるのだ。

それに火をつけてしまえば、元も子もないのである。

それにより、全体に降りかかるであろう、リスクとハザードを発生させぬためにも、
指摘がある事を明確とし、不都合な真相すら並べ、改善の意を示すべきだ。

そうでなければ、永遠に前へと進めはしない。

最良の選択は、綺麗事と御託を並べずに、適宜な変遷を促す事によって、より適正な環境を整える事だ。

例え、それを心掛けていようとも、それはつもりにすぎぬ上に、
無粋な事をしてしまえば、どのような努力でさえも、
元の木阿弥と化してしまう。

渡邉さんは、自己の不足によって、築いてきた存在を台無しにしつつある。

それを、確定的とする材料は、ボロボロと沸いてくる。

その、不遜な行動に煽られて、内部に吐露される場合もあれば、目をつけられ外部に暴露されてしまう。

もとより、それは十分に露呈している。

彼が、このまま政治家となって、好都合な事に現を抜かせば、やがては何もかも消失する。

もはや、自己責任なのだからと、大衆を抑え込める時代ではない。

捏造したアリバイが、通用する世相は終わり、その効果は無に等しい。

どれだけ、公明正大であろうと、綿密で厳密な数値ですらも、お構いなしの存在には通用しない。

原初から、それを成り立たせるに、不可欠となる前提がない。

あるとしても、それは見せかけなのだ。

だから、人々は罪を犯し、彼が責められる。

これからは、それを考慮した対応が必要だ。

行政は、手遅れとなった頃に、どうにもならぬ状態で、どうともならぬ事をしてしまう。

そして、法で規制する事によって、大丈夫と見せかけるだけで、何も解決せぬままここまで来た。

それを振り翳す程度では、碌な事はしていないと、明言しているようなものだ。

その限りでは、どれだけ誠実な言葉だろうと、気持でさえも打ち消してしまう。

今後、ブラックかホワイトかの線引きがされ、やっぱり白だったと訴えてしまえば、
それは陳腐な負け惜しみでしかなく、偽善と茶番の人形と識別される。

彼が、そこまで愚かではない事を願う。

今回の釈明は、お客様・株主様・取引先・全スタッフ・全国民に対し、水を差す無粋な行為である。

今後は、全体の事を十分に考えた、篤実な対応を期待する。




☆ ワタミ社内文書入手 渡辺美樹会長が「365日24時間死ぬまで働け」

自民党公認で参院選に出馬する予定の渡辺美樹・ワタミ会長が、「365日24時間死ぬまで働け」、「出来ないと言わない」などと社員に呼びかけていることが週刊文春が入手したワタミの社内冊子からわかった。『理念集』と名付けられた冊子は、ワタミグループ全社員に配布され、渡辺氏が著書で「ワタミの仕事すべてに直結し、根底で支えている思想の原点」、「この理念集を否定したときは、君たちにこの会社を去ってもらう」としている重要文書だ。また、入社内定者に配布される人材開発部作成の『質疑応答』では、勤務時間について、『「仕事は、成し遂げるもの」と思うならば、「勤務時間そのもの」に捉われることなく仕事をします。なぜなら、「成し遂げる」ことが「仕事の終わり」であり「所定時間働く」ことが「仕事の終わり」ではないから』と記載されている。ワタミでは2008年に入社3カ月の女性社員が1カ月141時間の時間外労働で抑うつ症状となり、飛び降り自殺。昨年2月に、過労による自殺として労災認定されている。また、自殺の翌年から昨年にかけて、時間外労働の上限時間を超えて従業員を働かせていたとして、労働基準監督署から10件の是正勧告を受けていることも明らかになっている。

ワタミのバイブル「理念集」

ワタミと渡辺氏の事務所に確認を求めたところ、渡辺氏の事務所が次のように回答した。「渡辺が29年前に和民を創業して毎日社員のことを思いながら書いたものが、なぜ出てしまうのか、残念でなりません。本件に限らず、個別の社内規定や、社内発言、社内活動に対しては個別企業情報となるため、基本的にお応えは差し控えさせて頂いております」ワタミには、「ブラック企業」との批判があり、渡辺氏は公式サイトで「一部の情報だけをもって、一方的にワタミグループをブラック企業と呼ぶことは、到底、受け入れられるものではありません」と反論している。今回、複数の社内文書の存在が新たに明らかになったことで、ワタミ・ブラック企業論争は新たな展開を迎えそうだ。




不平や不満を圧制すれば、様々な策謀が達成される。

日本は、その様な風潮に満ちている。

ただし、それには限界がある。

これからも、作為・無作為に関係なく、民主主義(分散型独裁)によって、
国民の隷属化を続ければ、全てが台無しとなるは、仕様において不可避なのだ。

それは、より深刻な次元へと、これから突入して行く。

作為・無作為の双方において、政治家を皆殺しとする、国民を飼い殺しとする、
あらゆるを破壊しようとする、プロトコル(手順)が形成され、システムが稼働している。

無論、それを相殺するアンチプロトコルもあり、それに対するそれすらある。

現況は、それらが乱立する事により、最低限の均衡が保たれている。

ただ、そのバランスを破砕しうる、プログラム(計画)が実存する。

人間と人類と社会と世界は、あらゆる枠組を精査する事により、それがどのような手順によって、
何を実行する存在なのかを紐解き、問題が引き起こされるを、未然に防ぐ必要があった。

残念なのは、それに必須となる機構でさえ、現時点で誕生すらしていない。

当方は、それを明確にする事により、万人と形成する所存である。

過去の日記では、どのように手繰り寄せたかを、かなり大まかに記載している。

何事にも過程があり、それより結果が導き出される。

渡邉さんは、その過程において、それを成功の秘訣と思い、
自分に続く存在の誕生を願い、『理念集』を編纂したのだろう。

ただ、常にそれが通用するとは限らない。

最初から、過誤していた可能性すらある。

他にも、加味すべき事柄がある。

とにもかくにも、人間は変わる事が出来る。

それが叶わぬのは、その方法を知らぬからだ。

だから、運命すら変えられず、幻の栄光にしがみつく。

彼が、変貌を遂げるを期待する。

にしても、聞屋も都合の良き記事を書く。

誰もが、変わらなければならない。




☆ 残業代未払い求めるドライバー

「人間不信に陥るよ」。それまで不平不満も言わず、まじめに働いていたドライバーがある時、急に態度を変える。トラック業界における労使トラブルでよく耳にする話だ。決して労働環境が整備されているとはいえない業界にあって、こうしたトラブルはいま、現場で頻繁に起きている。今回、当事者となってしまった東京都内の事業者も、「話に聞いていたが、まさか自分がという思いだ」と打ち明ける。

「不平不満も言わず、まじめに働くいいやつだ」。社長が最初に受けた印象で、何事もなく半年が過ぎようとしていたが、それまで何も言わなかったドライバーが有休を取りたいと申し出てきた。代わりのドライバーを用意するだけの余裕はない同社にとって、有休とはいえ休みを取られるのは痛手だ。社長は状況を説明した上で、苦肉の策として、有休を買い取ることで了承を得ようと試みた。一時はそれでしのげたが、そのドライバーの態度は徐々に悪化。何かといえば不平不満を口にする。見かねた同社長が注意しても、態度は変わらない。

対応に苦慮していた時、新たな問題が起きる。残業代の未払いを要求してきたのだ。払えないと諭すと、今度は弁護士を伴って荷主へ駆け込んだ。同業大手の仕事をしていた同社は、荷主からその事実を聞かされ慌てた。後でわかったことだが、ドライバーは入社してから、すべての日報をコピーして保管していたのだという。確信犯だった。残業代の請求は500万円に上ったが、労働調停で妥協案を示し、半分の250万円で解決を図ったという。

しかし、問題はそれだけで終わらなかった。荷主から台数削減というおとがめが来たのだ。仕事は長時間拘束される上に、運賃も残業代までカバーできる額には程遠い。トラブルの原因は、長時間の拘束をさせた荷主にも少なからずあるのだと社長は考えていただけに、「迷惑をかけたのは事実だが、台数削減には納得はできない」のが実情だ。

しかし、強く撤回を求めることもできず、従うしかないという。「平気で会社を裏切るドライバーや、臭いものにフタをする荷主の姿勢に、人間不信に陥った」。会社を畳むことも考えたが、残ったドライバーのためにも続ける覚悟を決めた。社長は、「自分の会社は自分で守らないといけない。不測の事態に対応できるよう、しっかりと環境を整備しなければならない」と話す。




この社長は、臭いモノに蓋をして、スタッフを裏切っていた。

自己の利益を追求し、他者のそれを阻害している。

だから、黙っていられない。

これで、悦に浸るのだ。

彼は、甘ったれの確信犯である。

虚飾と我欲主義に弄ばれる、とても不憫な存在なのだ。

弁明と詭弁で、読者を人間不信にするは、陳腐で滑稽で不気味である。

誰もが、自分自身の不適による、切歯扼腕を紛らわすため、それをせずにはいられない。

己の不足を洞察しきれず、全てを他人のせいにして、
これまで何も出来なかったのに、どうにかすると虚勢を張る。

そのような、想像力と創造力と打開力が、極端に不足した状態であり、
重罪人と類似した思考の人材が、政治家や経営者に紛れている。

連中は、自分の事しか認められず、都合の良き存在の事ですら、碌に考える事が出来ない。

であるからして、成りあがる事が出来たのだ。

もしくは、運に恵まれていた。

もしかすると、運に見放されたため、そこに居るのかもしれない。

そして、自己の正当化に狂奔し、足を踏み外し転落する。

世界は、そのような存在で満ちている。

自分本位では、慎重かつ深長となる、思考と行動が叶わない。

周囲を、奴隷程度と知覚している事にすら気付かぬ、
無知・無智・無恥な存在には、望める事は何もないのだ。

だから、より多くを考える存在と対立し、挙句の果てには踏破されてしまう。

はたまた、同等の存在と対立し、潰し合う破目となる。

だからと言って、相手の事を考えすぎれば、
ただでさえ成り立たぬのが、さらにどうにもならなくなる。

杜撰な人間のままでは、何もかもが空回りして、その思惑が尽く頓挫し、
家族や友達や他者や自己を、犠牲にしてしまうし、されてもしまうのだ。

それは、己を磨く事によって、回避しなければならない。




☆ 児童ポルノ禁止法改定案の全文

5月29日に衆院に提出された児童ポルノ禁止法改定案の全文が、衆議院法制局のWebサイトで公開されている。法案そのものに加え、概要、要綱、新旧対比表、法案の経過を確認できる。

改定案では、児童ポルノ画像などを所持すること自体の禁止、いわゆる「単純所持」の禁止を盛り込み、「自己の性的好奇心を満たす目的」で、児童ポルノを所持した者に、1年以下の懲役または100万円以下の罰金を課す内容。また、検討条項として、「児童ポルノに類する」という漫画やアニメなど児童へのわいせつ行為などへの関連を「調査研究」し、その結果を受けて3年後をめどに「必要な措置」をとることを求めている。

改定案については、日本漫画家協会、日本雑誌協会、日本書籍出版協会、コミックマーケット準備会、日本アニメーター・演出協会などのが相次いで反対声明を発表するなど、創作者やネットユーザーから強い反対の声があがっている。




相手が、お構いなしの存在なのに、必要悪を減らしてしまえば、悪が増長を続ける命運となる。

されど、必要悪も所詮は悪であり、それを規制しなければ、歪みは大きくなる一方だ。

ただし、規制する時期を逸すれば、方法を過誤しようものなら、さらにどうにもならなくなる。

これまでは、手遅れとなってから、誤った対応をしてきた。

手遅れとなっている時点で、適正で正当で誠実な事はない。

もとより、それしか出来ぬ仕組なのだ。

手遅れとなるのを待って、不十分な対応をしなければ、
大衆による批難と批判に晒されるだけでなく、
選挙においてばつが悪くなる。

そもそも、必要となる能力を獲得する仕組もなければ、
早急な対処が滅多に叶わぬ、鈍感な組織が形成されている。

ただ、体裁を整える事だけは、非常に迅速なのである。

例え、早期に対処が出来たとて、履き違えた処方をしようものなら、
大きな副作用が発生してしまい、取り返しがつかぬ状態となる。

また、事態が大きくなる前に対処しようとすれば、不要を働くなと吊るし上げられる。

さらに、初期と言える段階において、強行的に処理をしてしまえば、余計な事をしたと責められる。

ただ、責められるだけで済めばいいが、大きな争いに発展する場合がある。

そうでなくとも、様々な偏見と軋轢が発生する。

結局、やむを得ずに実行するだけの、その場しのぎの対応にすぎない。

おまけに、手遅れとなってから制限を課すため、不具合の浸透度は非常に深刻であり、
安易に規制なんぞしてしまえば、それにより発生する弊害は大きい。

かと言って、厳密かつ効果的に規制するほど、対処する人材が精通しておらぬのは勿論、
どれだけ綿密に調整をしようとも、安易な結果に見える場合もある。

表層的な次元で、精通しているからこそ、生じてしまう死角もあれば、
知悉していると思い込んでいるだけで、てんで見えていない場合すらある。

意図的に、不十分な内容を掲げ、国民を捏ね繰り回す事もある。

あまつさえ、上澄を規制しようとも、根源的な改善には程遠く、
臭いものに蓋をするだけで、中で腐れ続けてしまい、
時が経てば手がつけられぬ状態で溢れだす。

それが繰り返され、積み重ねられてきた。

何より、殆どのゴミがゴミ箱の外に散乱し、隠す事すらままならぬ状態だ。

ハナから、乱用する存在をどうにかせねば、あらゆるが規制すべき対象である。

善用する存在と悪用する存在が、同一の存在であるだけでなく、
捏造した権力を乱用しなければ、政治すら成り立ちはしないのだ。

政治家は、地位を盤石とするため、絶大な過ちを繰り返す。

何しろ、相手の思惑が頓挫せねば、地位を獲得出来ぬ仕組だ。

だから、互いに余計な事をしてしまう。

その潰し合いによって、辛酸を嘗めさせられるは国民だ。

政治家により、多くの子供と大人が犠牲とされてきた。

もはや、連中が成果を示すには、大衆を生餌とするしか、余地がない状態である。

これからも、多くの子供が餌食となり、大人になれば滅却される。

連中は、自ら形成し助長した、悪循環たる袋小路の坩堝から、抜け出せぬまま胡坐をかいている。

構造を変え、抜本的な見直しを図ろうとも、
必要となる条件が欠落している限りは、
新たな魔の連環に転げ落ちて行く。

全ての政治家を入れ替えようと、それが変わる事は決してない。

まして、暴力を用いる事によって、入れ替えてしまえば、碌な事にはならぬのだ。

さすれば、虚しい余生を過ごす事となる。




先進者は、現実を見ればわかると、どうする事も出来なかった、悪夢たる実態を突きつける。

引き込まれた後進者は、実態を十分に把握出来ずに流され、同等かそれ以下で頭打ちとなる。

時に後進者は、改善に臨もうとするが、先進者がそれを許さない。

それは、自分達の過ちの露呈に、繋がりかねぬからだ。

そして、後進者は先進者へ堕落し、後進者に現実を叩きつける。

新たな後進者は、転落を強いられる。

はたまた、未熟な後進者によって、先進者が翻弄される場合もある。

人間と人類と社会と世界が、このような流れに包まれており、
履き違えたままでしか、進むが叶わぬのが実態だ。

我々は、そこを深く吟味して、より良き選択を導き出し、
しゃんと進めるようにならねばならぬ。

さもなければ、不浄を助長するだけで、終わってしまうのだから。

政治家は、その未熟な行いによって、有権者を払いのけて来た。

にも拘らず、有権者の不足の様に捉え、嘯く事に没頭している。

はたまた、危機的状況に直面すれば、出来ないと痛感しているのに、
政治家がどうにかしてくれると、有権者は思い込んでしまう。

そうなるは、有権者も未熟だからだ。

これからも、政治家と有権者が未熟であれば、
全てが螺旋となって下降を続け、挙句の果てには消えてしまう。

それは、是非に拒絶すべきだ。




誰もが、己の不足を棚に上げ、批難や批判に躍起となる。

その方法は様々であり、心の中で撒き散らす場合があれば、
適切な指摘をしていると見せかけ、気を紛らわしている場合もある。

直接的だろうが間接的であろうと、それを心の中で炸裂させようが、
予防措置を適用する事も無く続ける限り、大きな間違いを引き起こす素因となる。

何より、いつまでも同じ場所で、足踏みするだけなのだ。

それでは、自分の不足に気付かずに、自身の不足を認められずに、相手と同じ事をして淪落する。

足りないから、されるだけでなく、せずにはおれぬ上に、させずにはいられない。

自意識が過剰であれば、的確な指摘であろうと、誹謗中傷としか感じずに、
ムキになって対応を誤ってしまい、全てを台無しにしてしまう。

もしくは、批難や批判の中に紛れている、汲むべき点を見落としてしまうのだ。

さすれば、それを弱点とされ、墓穴を掘らされる。

人間は、矮小で稚拙で執拗で目障りな生き物だ。

それを、碌に改善する事もなくここに到り、自分達が粗造した地獄で溺れている。

それに、肝心な事から目を反らし続け、浅はかな日々に没頭している。

人間と人類と社会と世界は、無にも等しい事実を論点とする事で、
都合が悪すぎる極点たる真実を、誤魔化し有耶無耶とし逃走して来た。

ただし、それすら歪みを大きくする、原因と要因にすぎぬのだ。

ガス抜きでさえも、惨憺たる惨劇へと繋がってしまう。

注意すべきは、その『無にも等しい事実』を相殺するため、何をしうる者が現れるかだ。

それには、全力で警戒せねばならない。

その存在は、自分・家族・友達・他者(同胞)に良かれと思い、それを実行するのであろう。

そして、多寡がしれた数の者達が、多層で持ち上げてしまう。

それに対し、敵対する側に同等の存在が、出現する場合すらある。

その波及によって、あらゆるが辛酸を嘗めさせられる、末路が到来しても不思議ではない。

それでは、全てが御釈迦になる。

そもそも、『無にも等しい事実』を打ち消した事実でさえも、大差の無い次元の事実である場合もある。

最大に恐ろしいのは、『全てを塗り替える事実』を引き起こす、高慢な存在が出現する事だ。

それが、エスカレートしていけば、もはや後戻りは不可能であるが、軌道の修正すら叶わぬ状態となる。

既に、それが実行されて来たため、修正が容易ではない状態だ。

ほんの一握りにすぎぬ、『より愚かな先進者』と『より愚かな後進者』の狭間で、
万人が理不尽な思いに苛まれている。

だからと言って、過誤した手段によって、その者達を殲滅してしまえば、
叩き潰した者達が『より愚かな存在』となってしまう。

それは、諸賢には相応しくない。




全人は、人間(個人)と人類(集団)と社会(国家)と世界(国家の集合体)として、
続けてきた自己暗示によって、破滅への道を突き進んでいる。

それにより、統括的な感覚まで歪めてしまい、赦しを乞う価値と権利を喪失している。

それでは、神の存在の有無に依存する事も無く、
生きていようが死んでしまおうとも、
焦熱地獄を彷徨う運命だ。

それを把握するは当然とし、打開の道があるを理解せねば、みんなで仲良く吹き飛んでしまう。

我々の肉体は、同種のオペレーティングシステムが稼働する、特性が異なるコンピューターであり、
インストールされているOSには、多彩なバージョンとバリエーションが存在し、その状態は大きく異なる。

それに、セットアップされている、アプリケーションにも、多種多様な差異がある。

全てのシステムには、深刻な脆弱性が無数に潜伏し、頻々にシステムエラーが発生している。

全体に提供される、ファイヤーウォールとウイルス対策ソフトがあるが、
全てが手遅れとなった頃に、アップデータが提供され、
システムの脆弱性を修正する機能はない。

そもそも、致命的な欠陥の是正が叶わず、導入しようとも無防備に等しい。

現時点では、脆弱性を改善するアップデータすら疎かな状態で、
山積した不具合を是正しうるソフトウエアは当然とし、
それを開発し提供する個人も集団も存在しない。

抜本的な問題として、我々は機械なんぞではなく、遥かに複雑な人間なのだ。

そのため、どんな事をしようとも、所詮は付け焼き刃にすぎない。

だからこそ、何が必要だったのかが見えてくる。

それがなければ、脱却するが叶いはせぬ。

これからも、乱用する存在によって、格別性や特別性が低下を続け、空気を読む事を忘れてしまう。

それに、氾濫するコンテンツによって、様々なタブーから解放される。

そうだ、大丈夫かのように吹き込まれ、人々はそれを真に受けて唆され、
やってはならぬ事柄で競走を始め、それが新たな不具合を生み出す。

それによって発生した多くの問題を、キリがないからと誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けて来た。

そうしている間にも、問題は急激な勢いで、分岐し発展を続けている。

それすら、洗脳と暗示と催眠により、ひた隠しにして来たのだ。

それをしたのは、人間と人類と社会と世界であり、家族と友人と他者と自分である。

未熟な状態で、それを把握し理解すれば、誰も許せぬ化け物となる。

ただし、順を追う事で解き明かし洞察すれば、そうなるを事前に防げる公算がなくはない。

これまでは、好都合な概念や定義に拘束され、独善的な先入観と固定観念と既成概念の虜となり、
妄想や空想による思想や主義に弄ばれ、不意味な主張ばかりを並べて来た。

誰かを陥れ、犠牲にせねば成長が叶わぬ世界で、万人が根絶やしにされ続けている。

そこで、突発的な有事が発生すれば、地獄はさらに深くなるのだ。

それを是正するに、振り翳そうとする剣が、思想や主義である限り、宗教と変わりはしない。

それでは、陰極における表裏一体である、紙一重の魔界しか築けない。

成すべきは、合理的に紐解く事は当然とし、道義的な判断を誤らぬ事は勿論、
人間を歪に変える事もなく、未来と呼べる世界を築く事である。

そろそろ、二段を締め括ろう。




二段(結)に続く。