2013年10月30日 01:32 三段(二)


全人の思考は、限定された範疇において、行きつ戻りつを繰り返し、常に頭打ちの状態である。

確かに、思慮の深い・浅いは当然とし、経験や知識の多い・少ないは勿論、他にも多種・多様な差はあるが、
最下たる深淵で仰け反って、無知・無智・無恥な有り様で、どんぐりの背比べに没頭している。

どんぐりの背比べであるが、誰がより愚かかを競う、陳腐で滑稽な慣れ合いだ。

万人は、同じ事柄を見上げながら、何かを考えながら、何も考えていない。

即ち、酷く有限的な次元で、五十歩百歩の虜となって、思考が停止し・停止していない。

要は、極端な限界に蝕まれた状態から、考えようが・考えまいが、抜け出せぬ状況なのだ。

その限りでは、どれだけ考察に時間を費やそうと、行き当たりばったりでしかない、
拙陋な水準の偏狭な思考しか叶わず、それによる判断と決断が無数に重複し、惨憺たる末路が引き寄せられる。

そうなるは、人間と人類と社会と世界による、多角的な催眠と洗脳と暗示により、
知能指数や偏差値は無論、あらゆる評価に関係なく、破滅と自壊へ突き進む実相だからだ。

例えば、深い・浅い・大きい・小さい・高い・低い・多い・少ないに関係なく、
壁を越えられず以下の言葉を垂れ流し、そうなる理由すら曖昧としている。

『無理だ。』

『仕方ない。』

『水掛け論だ。』

『どうせ、何も出来ない。』

『お前が、それを言っても意味がない。』

そう、一方的な思い決めにより、考えてもしょうがない、考えればキリがないと、
これまでとこれから紡がれる、現在・過去・未来の追求を放棄し、忘却と失念に徹している。

疑いなく、築かれた枠組と仕組により、尨大な際限があるは明らかだ。

従って、それらに介入や介在が、可能な立場でなければ、
当事者でもなければ、出来る事は無に等しい。

ただし、それらが悪循環そのものであり、中枢は穀潰しの寄せ集めとなり、
出来る事は無に等しく、信じれば裏切られ・期待すれば幻滅させられる。

然るに、既存の枠組や仕組と同じ仕様で、介入や介在をすれば、共に転落するのみだ。

従来の当事者ともなれば、もうどうする事も出来ない。

ならば、無意味と諦めてしまい、不意味に人生を終えるのではなく、
一切合財を救いあげる手段を、模索しなければならない。

しかし、当事者も有識者も評論家も、誰もが遥か手前で棄権している。

そのため、原因や要因の分析と解析は疎かで、問題や不具合の改善と是正が儘ならぬ。

はたまた、追求を放棄せずに、何らかの行動をしていようとも、
あらゆるが伴わぬ状態を克服出来ず、失敗と失態と失墜を続けてしまう。

ハナから、目を叛けぬ何ぞ、不遜を働くための、口実にしかならない。

なんせ、解決には程遠い領域で、関心があるフリをして、
気休めと自己満足に夢中となり、偏見と軋轢の助長で精一杯だ。

また、前提や条件を捏造・偽装・隠蔽してまで、
正解であり誤解であり不解である答えを、
模範たる解答として扱ってきた。

さらに、どうにかなり・どうにもならなくなる、
杜撰な志向性と指向性による方向性に縛られ、
悪化させ反復し醜態を曝すを至当とした。

正確には、方向性を定める術がないまま、一か八かの状態で転げ落ちている。

であるからして、変えるために変わる・変わるために変えるは、至難を超えて皆無・空無・絶無である。

しかしながら、変えられず・変われなかったからこそ、
表面を取り繕う事に必死となり、持ち堪えている部分がある。

とは言え、それは部分でしかなく、問題と不具合は鬱積するばかりで、危険性と危害要因は深刻化を続ける。

それだから、建前・自己都合・利己主義に弄ばれ、中途半端な存在しか導き出せず、
視野狭窄に嵌入し、近視眼的な思考により、無闇矢鱈な発展を望み、罪過は累積の一途を辿る。

それが、必然かつ当然となる、目を叛けたくなる実態であり、それに気づき認める事さえ出来ない。

気づき認めたつもりであろうとも、肝心な事がゴッソリ抜け落ちている。

それじゃ、意味がない。

余計しか叶わず、甚だ不意味である。

そんなだから、術を導き出す機能も能力も作用もなく、
抜け出す方法を誰も教えてくれず、ひたすら濁流に流されている。

さりとて、必然かつ当然の潮流による、先駆者から後進者への一方通行では、
そうとしかならぬのは、何の変哲も無き事なのだ。

必然かつ当然の潮流であるが、怠惰による窮状に嵌り込んで、自分の事を考えたつもりでも、
自身や目先の事すら考えられず、どうにか誰かにしがみついて、生き延びようとする流れである。

そのような流れとなるは、先駆者から不十分に引き継いだ、後進者が先進者となってしまうが、何遍も反復されたためである。

その過程で、何をすべきかが不分明となったり、最初から考えられていなかったため、受け売りで処理するばかりとなり、
どうにかなり・どうにもならなくなり、折り返し地点を迎える事により、転げ落ちる一方となるためだ。

そうだ、与えられるを当然とする、政治や宗教に縋るだけである、指示待ち人間の寄せ集めでは、
どうすればいいかわからぬ状態で、右から左へ移すばかりとなり、益々わからなくなっていく。

何より、互いに依存するだけでは、足の引きずり合いとなり、先々へ進むが難しくなる。

現況の枠組と仕組は、それを助長するだけの、強固な足枷にすぎない。

精確には、そうなるように出来ていた。

これまで、受け売りと植えつけられた、先入観・固定観念・既成事実で、
家族や友達や他者や自分を、誰もが振り回し犠牲にしてきた。

そうやって、先祖が形成した悪循環を、子々孫々が悪化・劣化させて、
悪循環の袋小路の坩堝とし、さらに磨きをかけている。

これからも、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、
いずれかであり・いずれでもあり・いずれでもないのバランスは、
マイナスの要素の割合が大きくなるよう推移してしまう。

それでは、なるようになり・なるようにならないから、どんどんどうにもならなくなっていく。

端的に言えば、誰もが抱えるジレンマにおける、
好ましくない方向に意識が集中し、擦れ違いが大きくなるのだ。

ー例を挙げると、家族を支えるため、夫は努力したのに、
家庭を顧みなかったと、妻や子に反発されてしまう。

そうなってしまうは、以下のような板挟みから、逃れられぬためである。

支えているつもりでも、支えており・支えていない。

支えていないつもりでも、支えており・支えていない。

支えられているつもりでも、支えられており・支えられていない。

支えられていないつもりでも、支えられており・支えられていない。

対立する存在は、自分には正の要素(好都合)ばかりを並べ、相手には負の要素(不都合)ばかりをぶつけてしまう。

マイナスの要素の割合が大きくなるとしたが、より迂闊かつ未熟へと推移する事により、
様々な側面の考慮が出来なくなり、気持ちを伝える事が不自由となり、
好ましくない選択に流されやすくなるためだ。

自分達で粗造した、悪質化する環境に追い付けなくなり、人々は感情に弄ばれ易くなる。

よって、擦れ違いは増長を続け、辿る末路が増悪する。

一つの家族と言う単位であれば、最悪のケースを辿ったとしても、
被害は限定的であるが、国家や世界ともなれば、止まる所を知らない。

だけでなく、ミニマムからマキシマムの単位において、
それが進行してしまうため、全てが台無しともなり得る。

そこで、批難や批判に躍起となると、思わぬ相手に殲滅され、簡単に自滅しがちとなる。

それは、内部と外部に対して、己の弱点や問題点を、露呈させるからだ。

応酬の繰り返しは、内部・外部の人材を、思わしくない方向へと駆り立てる。

だからこそ、成すべきを遂げる事で、より適宜な変遷を促し続け、潮流を変えねばならんのだ。

せめて、そうなる理由を把握し理解し、大きな間違いを退ける必要がある。




我々は、何も知らずに生まれ、何も知らずに死んでしまう。

何か知ろうとも、すぐに忘れてしまうのだ。

もとより、碌でもない事柄しか、碌に継承が叶わない。

であるからして、個人や集団がひけらかす、その思考による主張なんぞは、自分の考えであり・自身の考えでなく、
どちらかというと、誰かさんの考えを、誰かと同様の回路で、杜撰に弄っただけの、つまらぬ羅列なのだ。

誰しも、腐敗を続ける一方である、使い古されたドロドロのオムツと、
激臭がするユリカゴを使いまわされ、訳が分からぬ場所へと放り出される。

そこには、無数のトラップが仕掛けられている。

しかし、それが危険なモノであると、誰も教えてはくれぬのだ。

それどころか、誰かがそれに引っ掛かって、怪我をするを心待ちにしている。

そう、何者かがそれに引っ掛かる姿を、自分と同じ目にあう姿を見る事で、憂さ晴らしをしているのだ。

そんな事ばかりが、これまで繰り返されてきた。

先に、誰も教えてはくれぬとしたが、教えようとする者は存在する。

ただ、教え方が下手糞すぎるため、無意味や不意味となる状態だ。

はたまた、教えられる側が迂闊かつ未熟であり、洞察し生かす事すら叶いはしない。

そんなだから、自分自身や誰かに欺かれながらしか、
生きられぬ実態に取りつかれ、脱却が出来ず胡坐をかいている。

おまけに、己に騙されている事にすら気づかず、自己に唆され取り返しのつかぬ過ちを犯す。

中には、気が狂ってしまう者さえいる。

周囲の影響がどうであろうと、最後の砦たる己が愚かならば、どうにかなる事でさえ、どうにもならなくなる。

そうなるは、有り余る憂いと屈託を打ち払うが叶わぬ、人間と人類と社会と世界の習性・習慣・遣口・命運だ。

だから、莫大な負債を強要してしまう、自殺や殺人や殺し合いを教唆する、枠組や仕組が溢れていようとも、
それを至極に当然な事とし、自己責任と標榜するだけでは飽き足らず、
不都合を隠し好都合を掲げて陥れるばかりだ。

例え、不都合を明示していようとも、肝心な事はばつが悪いから隠している。

もしくは、不行き届きであるため、それに気づいていない。

相違なく、隠匿するもそうであるが、気づかぬ状態で相手を陥れ、互いに転げ落ちるも性質が悪い。

誰でも、不都合を隠す事に血眼となり、都合のよい見方によって、相手を捻じ伏せようとする。

中には、良き面ばかりをみるな、悪い面ばかりをみるな、
両方をみて答えを出せと、垂れ流す有象無象がいる。

そのくせ、良き面とは何か・悪い面とは何か、どうすれば両方が見えるのか、
区別も分別も把握も理解も知悉も洞察も、何もかも出来ていないのだ。

結局、パッパラパーでクルクルパーな連中が、
トンチンカンでチンプンカンプンな状態で、
アンポンタンな争いを反復するだけだ。

そんなだから、全人類は一人の例外なく、転げ落ちる一方である。

その不始末により、前に順調に進んでいると思えど、前を向いたまま後ろ向きに進んで、
何遍も転んで大怪我をしているのに、治療してくれる者は存在しない。

後ろ向きに進むとしたが、同じようなゴツゴツした場所を、ぐるぐると回っているだけだ。

それなのに、考える力が不足しているのか、頭の打ち所が悪かったためか、
誰も教えてくれなかったせいか、改める事もなく動いている。

目や体から、零れ落ちるモノが何なのか・・・。

何故、零れ落ちてしまうのか・・・。

精神と肉体に駆け巡る感覚と、その所以すら空漠に動き続ける。

結果、表面は綺麗に見えても、裏面はズタボロであり、やがて表面も腐れ落ちる。

挙げ句の果てに、表も裏もなくなってしまう。

そうはならぬよう、これまで多くの空白を、概念や定義で埋めてきた。

問題は、枢要が欠遺した状態で、動きすぎた事である。

何しろ、肝心な事は滅多に教えては貰えぬ。

そうだ、恥ずかしい失態や経験を語り、あらゆる側面を加味しつつ、
至れり尽せりの答えをくれる者は、凄く稀な存在で滅多に巡り合う事はない。

まして、未然と言える段階において、たったの一人も誕生しなかったからこうなった。

それに、どれだけ至れり尽せりと見えようと、綿密かつ緻密に誡めをしてくれようと、
多大な盲点と不備があるだけでなく、それが正統となる道理はないため、
指し示された内容は参考の一部としなければならぬ。

どのような意見であろうと、参考になり・参考にならぬ、参考にすべき・参考にせぬべき、
信じれば得をする・信じれば損をする、意味がある・無意味である・不意味である。

あらゆるを網羅するは不可能なため、この実質と本質からは逃れられない。

所詮は、政治や宗教のような、間に合わせにすぎんのだ。

だからこそ、己を洗練する事によって、より良き選択をしなければならない。

政治や宗教は、自然な潮流により形成され、誰でも拵える事が可能だが、
それがある事によって、どうにかなり・どうにもならなくなり、
世界各地で多くの人々が、殺戮・虐殺されてきた。

政治家や宗教家のように、そこから目を叛けてしまえば、唾棄すべき国賊や悪魔になってしまう。

だいたい、既に手遅れとなってしまい、伝えて貰えぬ事は無数にあり、
手遅れを極め尽くして、抑えきれなくなるまで、明確になる事は殆どない。

だからこそ、全てを参考と扱い、見極め続ける事によって、より良きを手繰り寄せねばならない。

そもそも、誰かに教えて貰う時点で、後戻りが叶わぬ状態であり、
後戻りが出来る筈もないため、どうすべきかを導き出さねばならん。

何より、思い知らされて気づくようでは、どうにもならぬ事に変わりはない。

口先だけで、受け身の状態となり、痛い目にあう事によって、思い知らされるを待つのではなく、
教訓がない事でさえも未然に察知し、事前や瀬戸際だろうと回避が出来るようにならねばならん。

だからこそ、本質・実質・事実・現実・実態・真相・真実・本性・本能・本懐を見極め、
哲理・節理・真理・神意に知悉し、機能・能力・作用を洞察する必要がある。

そして、実相を是正せねばならん。

それまでは、人としての良心を根底とした、
倫理・道徳・正義・常識を振りかざすは当然とし、
聡明かつ賢明な判断や決断を、示す事さえ叶いはしない。

要諦を、噛み砕いて説明してくれ、どうすべきかを教えてくれる、
枠組と仕組は存在せぬだけでなく、教えられても生かせぬ実態がある。

極度の不足が仇となり、多少はマシになる方法を示されようと、
絶望と後悔に苛まれる理由を伝えようと、把握と理解には時間が必要となる。

そのため、段階的なアプローチが不可欠だ。

されど、包括的に埋める事で、数多を伴わせようとも、真髄を満たさねば、一時凌ぎすら儘ならぬ。

だから、超絶絶頂・究極極大・臨界突破における、ならばどうすべきかの追求が肝要なのだ。

現状の枠組と仕組では、狭い域を右往左往しつつ、何処までも沈むのみである。




迂闊で未熟な子供と大人に対し、与えられる環境は変異を続ける。

その環境は、不意味へと集束してしまう、淪滅への道標の寄せ集めで構成され、
振り回される者・使い方を誤る者・執拗に悪用する者が増えていく。

それらに満たされ、さらなる競争を続ければ、さらに追いつけなくなり、益々追いつめられてしまう。

競争とは、生き残りをかけた争いで、敗者は溢れるばかりの状態だ。

なのに、碌な受け皿が存在せぬため、追い詰められてしまえば、何をするかわからない。

追い詰められるとしたが、それには様々なケースがあり、
不可欠な要綱が抜け落ちているため、そうでなくとも何をするかわかりはしない。

それに、生き残ろうとも安泰はなく、より強き者に捻じ伏せられ、敗残者となるは珍しくない。

これでは、成長を促すどころか、足枷は重くなり続け、どんどん鈍速となる。

それが明白でも、対処すべき立場にいる者達は、穢れた綺麗事と御託を並べ、
何もせぬを責められれば、知らぬ存ぜぬを繰り返し、果ては余計な事をしてしまう。

時折、問題はないと事実を歪曲したのに、厳格な対応をすると訴える者がいるが、
問題や不都合を明確に認めずに、何もせぬと明言している状態だ。

もし、問題や不都合を明確とし、対応するとしてしまえば、結果が伴わぬ場合において、
強烈に責められてしまうため、卑怯で狡猾な人材なら、そうするは御約束である。

要は、問題は無い状態であるため、そこだけの維持を見守る事とし、
他に問題が起きてしまおうと、関係がないとするだけでなく、
関連した問題が発生しようと、逃げ道を用意している。

それでは、全てが茶番と偽善に成り下がり、腐った虹色の世界は濁りを増していく。

その、実質的な放置によって、不都合が露呈してしまい、対応を余儀なくされれば、
悪質化を進行させる事によって、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

悪質化するは、伴わぬ・追いつけぬ・手がつけられぬ状態のため、余計な事しか叶わぬためだ。

そんな、不意味な対応を実施するために、直接的・間接的に誰かが犠牲となる。

その対応により、いたちごっこは増悪し、さらなる犠牲が発生する。

それが、多岐に渡り何遍も繰り返されている。

あまつさえ、限られた範囲において、目くそ鼻くそを笑うに明け暮れ、
してはならぬ事に手をのばし、総体が崩落を続けてしまう。

正しい対応をしているように見えようと、得られた結果がまずまずと感じようと、
絶対かつ確実な対処と確信しようと、辿る末路が変わらぬのは、
勝手な解釈による線引きに振り回されるためだ。

その線引によって、選択される概念と定義は、常に矛盾に追い回され、絶対と確実が相殺される。

何故、矛盾が発生するのか?

同一かつ一つでもなければ、差異の発生により分岐し、対立をするのは必然であり、
誰もが格別性や特別性の演出により、正統性と正当性を誇示しようとする。

分岐するとしたが、どうにかなり・どうにもならず、果てはどうにもならなくなる、
表裏一体である大差なき存在に、枝分かれをするだけである。

そのように、どのような内容を掲げていようと、互いが同じ事しか叶わぬ実態で、
正統性と正当性を主張するため、矛盾が発生するは当然なのだ。

即ち、正反対や異なる内容を掲げ、それが正しいのだと標榜する、
どちらか・どれかに賛同しようと、期待する結果が齎される事はない。

万人は、自分自身の正統性と正当性を根底に、生きる事しか出来はしない。

そのため、対立しようがしまいが、矛盾に苛まれる破目となる。

まして、相手の事なんぞは当然とし、自分の事すら碌にわからぬ状態で、無闇矢鱈に思い通りに生きようとする。

それにより、種々雑多な矛盾だけでなく、葛藤・錯綜・虚偽に翻弄される。

したがって、正しかったとされるを掲げるも、支持を得られずに埋没した人材さえ、
その実態から脱却が叶いはせぬ、同じ穴の狢にすぎなかったがため、どうする事も叶いはしなかった。

所詮、誰しもそうなのだ。

かと言って、同一かつ一つになるは不可能だ。

であるからして、多大な自分自身の欠落を認められず、認められぬため探求を拒絶する結果となり、
忌み嫌い対立する存在と共に、同じ渦の中を成す術なく流され、やがては藻屑と消えていく。

もはや、染まってしまえば手遅れ、進むも戻るも叶いはしない。

進んでいると感じようとも、足元は瓦礫や死体で埋め尽くされ、
同じ地点で足踏みをしながら、それらを踏み固めるばかりだ。

それで済めばいいが、余計な事をせずにはいられぬため、下手にうろついて犠牲を出してしまう。

これまで、人間と人類と社会と世界を、精査するに適宜となるモノサシはなく、
真価や意義には程遠く、価値や意味は曖昧で、取るに足らぬ状態である。

そんなだから、息も絶え絶えの黄泉路を人生と勘違いしたまま、
暗澹で慟哭を続けているのに、大丈夫と嘯くばかりとなり、
家族や友達や他者や自分を、使い捨てる累世となる。

その程度では、極度の疆域に縛られ、伝えたい事が伝わらない。

そうだ、正確に伝えたつもりでも、様々な齟齬が発生する。

そもそも、深層の感覚と脳内の思考と表に出す言葉が、易々と一致する事はなく、離れ離れになっていく。

残念なのは、しょうがないからではなく、打開の道に気づかぬから、罪過が膨れ上がる一方なのだ。

何より、失態と失敗と失墜を認め、それを適宜に改めぬ存在に、真の発展が訪れる事はない。

我々は、それを不可能とする実相に取り憑かれ、改善と是正が滞り続けてしまい、手がつけられぬ状態である。

注意すべきは、失敗の積み重ねが、成功に繋がるとは限らん。

また、成功の積み重ねが、失敗に繋がる場合がある。

さらに、それが成功だったとは、失敗だったとも限らない。

失敗を重ねて断念した事で、最悪の末路を引き寄せるを、回避していた場合がある。

はたまた、成功を重ねていると感じるも、惨憺たる末路を引き寄せる場合もある。

我々は、曖昧な事を反復させ、奪い失い奪われてきた。

それでも大丈夫と思い決めし、仕方がない事と慰めながら、
迂闊で未熟であるを誤魔化し、膨大な涙を流し続けている。

誰しも、伴わぬために気づけない。

その余りある不足によって、拙い次元でも察知可能な事さえ、洞察出来ずに欺かれてしまう。

だから、安全・安心・有益・応用が効くと、無理に捻じ込まれた架空の理論を信じ、
莫大な税金や金銭を投資してしまい、裏切られ絶望と後悔に苛まれて、
甚大な負債を背負わされ、誰かのせいにせずにはいられぬ。

時点でも、実態がない研究や捏造の成果に、大量の税金が垂れ流されている。

そうやって、専門的知識の不足をいい事に、有識者に裏切られてしまう。

だけでなく、有識者に共通する盲点を突かれ、分野に精通せぬ者に謀られる。

それは、些細な事でも同様だ。

定着するを良き事とし、人間の身勝手な設定により、根拠が不在の占いが提供され、
当て嵌り易い内容で誘導されているのに、特別と感じさせられて、手玉に取られてしまう。

他にも、提供するコンテンツで人々を謀ってしまい、提供されたコンテンツに人々は唆される。

にも拘らず、その実情を改める事もなく、責任を押し付けるで精一杯だ。

だから、選択肢がない選挙において、大嘘つきの寄せ集めから、税金で養う残飯を選んでいる。

そう、選ぶ権利がない状態で、選ぶ価値がない有象無象を強制される。

それでは、支持をするべきか・支持をせぬべきか、わかるようでわからず・わからぬようでわかりきっている。

選挙に行こうが・選挙に行くまいが、なるようになり・なるようにならない。

厳密には、抜き差しならぬ状況が助長され、いつの間にか立ち消えを余儀なくされる。

政治家や宗教家は、家族や友達や他者や自分を犠牲にしなければ、
家族や友達や他者や自身を欺く事さえ儘ならない。

本懐を果たしうる道を切り開くまで、良かれと思い何をしようとも、
恵まれぬ・救われぬ・赦されぬ・認められぬ・報われはせぬ。

そして、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

忘却してならぬは、好都合な解釈で人々を欺いた者は、好都合な解釈で叩き潰される場合がある。

それを防ぐため、足並みを揃えようとも、中身がバラバラであれば、そうなる可能性の低減すら叶わない。

極端に迂闊で未熟ならば、当たり前と呑気でいられる。

もしくは、仕方ないと妥協が出来る。

されど、思い知らされる時が来れば、奪い失い奪われていると、
中途半端に把握し理解すれば、堪忍袋の緒が切れる場合もある。

しかしながら、命の奪い合いをする選択をしてしまえば、
得られるモノがないだけならまだしも、さらに奪い失い奪われるだけだ。

悪化させて繰り返さぬため、それを失念してはならぬのだ。

場合があるとしたが、確定的となる流れが紡がれている。

自分・自分達の実態を棚に上げる事無く、不都合が極まる欠点を導き出し、
それを認め打開策を練る事で、問題と不具合を打破せねば、ホンモノの未来は掴めない。




我々は、バラバラになって、バラバラになって、バラバラに、バラバラに考える。

そして、人生で得られる情報なんぞ、表層の上澄にも満たない。

それに、インターネットに氾濫する、莫大な情報を網羅しようとも、知ったかぶりで終わってしまう。

まして、教育機関や社会経験では、ネットを遥かに下回る情報しか獲得が叶わぬ。

例え、特殊な機関に在籍し、様々な主戦場を切り抜けようと、
どれだけの情報を手中に収めようと、それはそれだけの事にすぎん。

どのような情報があろうと、既存の枠組と仕組では、適正な運用は不能であり、
重要な内容は隠されてしまい、肝心な事柄に届く事はない。

もとより、要諦の遥か手前において、既に頭打ちとなっている。

それに、政治や宗教のような、夥しい有限性を強制する、
枠組や仕組に染まってしまえば、より盲目に人生を終えるのだ。

それらは格別性や特別性を、付与してくれるように見せかけ、その実は奪い去るのみである。

その格別性や特別性は、信頼や信奉する側が生じさせる、
陥れる存在に強いられただけの、ただのまやかしでしかない。

どれだけ、崇高な存在に見えようと、格別や特別であるを否定し、
信頼性や信憑性を臭わせていようと、鵜呑みにすれば損をさせられるだけだ。

所詮は、自分と大差がある道理がない、自身に唆された有象無象にすぎない。

そんな存在を信じれば、どうにかなり・どうにもならなくなり、挙句の果ては使い捨てられる。

どう足掻こうと、己の迂闊と未熟によって、自己にすら足をすくわれる。

それでは、誤解や過誤するで、忙殺されてしまう。

そもそも、正確に精査をしようにも、可能とする枠組と仕組が無い。

それは、個人や集団や国家や世界だろうと、正しい目線の確立が不可能なためだ。

それなのに、矮小な見識や幼稚な自尊心により、
マイナスにすぎない己の全てを、誰もが完全や完璧と思い込む。

そうしなければ、希薄な自我を維持する事さえ儘ならない。

とは言え、それが災いしてしまい、取り返しのつかぬ過ちを犯し、気が狂ってしまう事がある。

中には、知りえる由すらない状態で、知ったかぶりで大衆を欺く者さえいる。

例えば、全ての汚染水を調べられぬは当然とし、福島第一原発への知悉が叶わぬは勿論、
ただでさえ不明な事柄が多い状況であり、取得可能なあらゆるを獲得しようと、
何も知らぬに変りない状態なのに、コントロールしていると掲げる。

もとより、膨大なレギュラーをイレギュラーにすり替える事で、
口先だけで何もしないと明言し、白々しい態度で茶を濁してきた。

それを、何遍も反復させている。

時折、キリがない事であるため、あえて省略したとする者がいる。

結局、そうやって逃げているようでは、振り回される事があろうとも、コントロールするは絶無である。

そう、想定外と訴えている時点で、御する力は有していなかった。

特に性質が悪い人材は、実態を見つめた人々から、間違いだと指摘されようと、
上っ面を取り繕うに躍起となり、文字や言葉の羅列を変更し、自分の欠点を認めようとしない。

己の欠点を認めて改めねば、先々へ進むが叶いはせぬ。

しかし、認めようが認めまいが、どうにもならぬ状態であり、
認めてはならぬ状況が形成され、板挟みとなっている場合がある。

過誤した選択により、引き起こされた解決不能の問題に対し、臭いものに蓋をする選択をする事で、
あたかもあらゆるが大丈夫かのように、内部・外部に対し大々的に振る舞ってしまい、
本当の事を認めてしまう事あらば、多くを巻き添えに転げ落ちてしまう。

そうだ、嘘をついていたと認めれば、それまでの嘘が台無しとなる。

何を前提とし、どのような嘘をつくかによって、嘘を認めた場合の反動は変化する。

運が悪ければ、誰もがどうする事も出来ない問題でさえ、
出来ない事が異常かのように責め立てられ、
骨の髄まで切り刻まれてしまう。

それにより、それを虚偽だと批難や批判した人々の人生さえ、
嘗てない奈落の底へと、引き擦り込まれる場合がある。

状況により、それは内部だけでなく、外部へと波及してしまい、
局外者の立場を利用する事で、責め立てた勢力の思惑さえ、
悉く頓挫する破目となり、地獄はさらに深くなる。

注意すべきは、謀り続けて乗り切れば、全体が薄汚くなる事だ。

ハナから、甚だ手遅れの実態において、都合の好き解釈を押し通せば、
指摘されるは目に見えており、どんどん後戻りが出来なくなる。

そもそも、義務や責任や価値や権利が、あるようでなく・ないようである動静のため、
どれだけの個人だろうが集団だろうと、責任や義務が果たせ・果たせはしない。

おまけに、手遅れであり引き返せぬため、
死のうが・辞めようが・財産を差し出そうが、
責任や義務は遂げられず、贖罪すら果たせぬのだ。

確かに、ケースバイケースで事柄により、果たせ・果たせぬの領域を彷徨うが、
その時点で偽善と茶番に変わりはなく、どうにもならなくなる一方となる。

だからと言って、宗教等に縋る事によって、赦され救われようとすれば、益々どうにもならなくなる。

そうなるは、履き違えた状態であるため、負の要素ばかりが積算するためだ。

なんせ、良いと思う事・悪いと思う事のどちらだろうと、
目を叛けしてはならぬ事に、邁進する醜態にすぎず、
蓄積した問題と不具合がいつまでも付き纏う。

そのように、何もかもが伴わぬため、作為・無作為に関係なく、
何かをしてしまうだけで、意図に反する結果が齎される。

だから、資料や事実に基づいて下された、適正と思える対応でさえ裏目に出る。

何しろ、どちらか・どれかに絞る限り、考慮しなかった面に脅かされる。

とは言え、どちらでもあり・どれでもある、どちらでもない・どれでもないを含め、
全ての要点を憂慮し追及したつもりでも、死角をなくすは叶わず、
逆に加味した事によって、失敗する場合すらある。

あまつさえ、資料や事実に基づきたくとも、改竄と捏造と操作が反復され、
多角的な催眠と洗脳と暗示が、日常茶飯事的に実施されている。

原初から、作用・機能・能力が欠如し、不十分な状態で進んだため、
資料や事実を信じようが・信じまいが、どうにもならぬ事に変わりはない。

人間と人類と社会と世界は、その実態から抜け出せぬままだ。

それを考慮した対応をせねば、敵も味方も巻き添えにして、粉々に吹き飛んでしまう。

これまで、バラバラである事に対する、安全性と危険性に精通せず、
最低限の処置すら忘却・失念・放棄し、万人はバラバラの状態である。

安全性と危険性としたが、危険性を熟知するは無論だが、安全性に熟達しなければ、
それに不可欠な枠組や仕組を、ひょんな事で破壊してしまい、全てをオシャカにしてしまう。

されど、そうならぬように注意をすると、道を誤る場合があれば、道を誤らぬ場合もある。

誰しも、前者に成り易い傾向に蝕まれている。

それによって、思い通りにしたつもりが、思い通りにならなくなる。

思い通りに生きたいがための暴挙は止まる所を知らず、
極端な排外主義まで展開し、挙句には戦争さえ引き起こす。

されど、それを由とせぬ人々がいる。

そのため、外部と内部の双方において、多面的な拮抗と膠着に陥る。

それらを、一つに纏めようとすれば、悪循環が加速するだけでなく、袋小路から抜け出し難くなる。

そうなるは、一つに纏めるは不可能であり、決してそうしてはならぬ存在を、
極端な偏見と軋轢に囚われた状態で、安易に近づけてしまうからだ。

そこで、思い通りに生きようとするため、
後戻りが叶わなくなる状況が、烈々に増悪されてしまう。

さすれば、多面的な拮抗と膠着は、より複雑になっていく。

既存の枠組と仕組では、それを後押しするで精一杯だ。

どうであろうと、同一かつ一つになるわけにはいかぬ。

そうなろうとすれば、意味があり、意味がなくなり、不意味となる。

多種・多様となる、政治的や宗教的な観念を根底とし、様々なスケールのコミュニティーにおいて、
それをしようとしたがため、どうなったのかを熟知しなくとも、そうなるは必然かつ当然である。

であるからして、位置と相対の最適化により、バラバラで一つとなるしかない。

現状は、それには程遠い状態である。

望ましい状態へ近づく事が叶えば、穢れた綺麗事や御託ではない、本物の言葉を述べられるようになる。

そうだ、景気が良くなろうが、オリンピックがこようが、どうにもならない実態から、オサラバする事も出来る。

それまでは、つもりで終わってしまう。

確かに、死んでしまう限り、無駄と言われれば、それまでである。

それは、私には鼻持ちならんのだ。

誰もが、様々な思いを馳せ、人生を駆け抜ける。

現状は、各々の玉響に対し、不愉快な構造だ。

そこから目を背ければ、万人がズッコケる時が来る。

それは、諸賢には相応しくない。

だから、どうすべきなのかは、詳細に記載する所存だが、
五段まではアウトラインである事を、留意しておいて頂ければ幸いだ。

このままでは何をしようとも、一時凌ぎ未満となってしまう。

そんな、面倒な実相から抜け出す術は、発生する齟齬の極小化を進めながら綴る。

しかしながら、それを基幹とする事によって、
可能な限りを整え伴わせたとしても、苦難や苦悩から解き放たれるわけではない。

ただ、それらと明確に向き合うが可能となり、心躍る現在・過去・未来を、駆け巡れるようになるだけだ。

それまでは、金融緩和も財政支出増も成長戦略も消費税増税も、
正解か不正解かと言われれば、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもない状態だ。

しかしながら、それは右肩下がりとなる。

このままでは、夢を提供したつもりが、悪夢をばら撒いてしまい、
希望へ突き進んだつもりが、絶望に打ちひしがれてしまう。

そんなだから、人々は解決する事が叶わず、鸚鵡返しを反復させている。

そのため、必然と当然により、現状が紡がれている。

それを把握し理解せねば、一歩も前に進めはしない。

時点に限定すれば、アベノミクスを実施せねば、より円高の進行は高度となって、株価は不愍な状態だったろう。

アベノミクスは、破滅と自壊への呼水であるが、日本の延命とバランスの維持に、貢献する要素となっている。

ただし、偶々であるは当然とし、碌でもない選択であり、辿る末路が変わりはしない。

忘却し失念してはならんのは、それしか出来ぬ実相である事だ。




場合にもよるが、現在・過去・未来における、総合的な原因と要因を加味しなければ、碌な回答や解答を示す事は叶わん。

加味したとて、十分には程遠い。

誰もが、一因や一端を総体的な事実と扱い、
見誤って正解であり・誤解であり・不解である、
決して正しくはならない、杜撰な答えを並べている。

そう、己の事を棚に上げて、自己の無知・無智・無恥を、吹き散らかすばかりである。

それは、迂闊かつ未熟である人類の性質だ。

そして、問題が発生してしまえば、酷く限定的な認識をしていたと、つまらぬ弁解をしてしまう。

弁解をする者は、批難や批判に曝される。

不都合を認め、素直に謝罪をしないのは、より大きな問題を隠していたり、
責任を誤魔化し有耶無耶とし逃走するため、再犯を防止せずに同じ事を繰り返すためだ。

だけでなく、誰かや何かに押しつける事を考え、言い訳を探す事に必死となり、
過去の自分を責め憎むに時間を浪費し、気持が纏まるまでに時間がかかり、
最中で受け答えをしたため、どうにもならなくなっている場合がある。

対象により、原因や要因を陳列する事で、仕方が無い事のように訴えるが、
過失を露呈させるだけであり、罪の在り処を鮮明としてしまい、
許される余地を喪失し、微妙な謝罪でトンズラする。

その体たらくによって、弁解をする末路が齎されたのに、
それを言い訳の材料にしてしまえば、罪の膨張により逃走しか叶わなくなる。

トンズラするとしたが、辞める・辞めさせられる事で、
面倒な対応からの解放が叶い、誰かに義務や責任を押しつけられる。

そもそも、義務や責任が果たせぬから、歪な弁解をする破目となる。

それを、即座に改められる道理はなく、下手に約束をしてしまえば、
果たせぬ義務と責任により、さらに責め立てられる末路となる。

まして、遠回しや露骨であろうと、間接的や直接的であろうと、誠実に非を認めなかろうと、
明確に謝罪し改善と是正を約束しようと、義務と責任はたらいまわしとなって、
根源的・抜本的な改善と是正には、遠く及ばぬ対応しか成されない。

おまけに、未然に防げる者が、不在なだけでなく、
作為・無作為の双方で野放しでは飽き足らず、
誰もが恩恵にしがみついている状態だ。

即ち、批難や批判を実施するに、相応しい存在さえ居らぬのだ。

それなのに、無知・無智・無恥・迂闊・稚拙・不遜な状態で、
余計な事をしてしまい、揚げ足を取るを反復させる。

それがある事で、どうにかなり・どうにもならず、どんどん手遅れとなっていく。

個人も集団も国家も世界も、好都合なスタンスにより、
不都合な事実を隠しながら、穢れた綺麗事や御託を並べる。

そんな、大差がない浅ましい姿を晒し、対立と呼ばれる慣れ合いすら演じる。

そのため、思い込み・思い決め・思い違いによる杜撰な流れに翻弄され、
碌でもない事を繰り返した反動で、もはや思う事すら儘ならない。

例え、不都合な事実を明確に掲げたとて、適宜に改善・是正する能力がなければ、
自分自身の擁護で逃げ惑う連中と、同じ穴の狢であるに変わりない。

どれだけ、清廉潔白と思われる存在でも、魔の連環と罪過に追い回され、惨憺たる末路を引き寄せるで精一杯だ。

恩恵としたが、腐敗した枠組と仕組による、不意味な足枷にすぎず、枷は重みを増し続ける。

そして、修羅場が来る。

だから、どうすべきか?

何を何処で如何しようとも、どうにもならぬ実相がある。

まして、自分に出来る事なんぞ、何もないだけならまだしも、下手をすれば大きな犠牲を出す。

何しろ、今まで何も出来なかった以上、これからも何も出来んのだ。

だから、どうすべきか?

その反復を続けなければ、盲目のままに終焉を迎える。

真直ぐかつ鮮明に見つめる事で、少しずつ詰めていかなければ、少しも前に進むが叶わない。

万人は、真直ぐにも鮮明にも見極められず、前に進む事さえ儘ならない。

例え、自分は違うと感じても、それは錯覚にすぎない。

だから、どうすべきか?

我々は、吹き込まれる事によって、発想を連想する事により、自分自身を使用・利用・乱用する。

教育機関や社会経験では、その危険性は当然であるが、向き合い方を碌に教えては貰えない。

だいたい、その遥か手前の段階において、教授されるべき事柄すら、ゴッソリ抜け落ちている。

多種・多様な発想の定着により、嘗ては違和感を覚えた事でさえ、拒否反応を示さなくなっていく。

ただし、流されずに感覚を維持する者がいれば、流され感覚が麻痺している者がいる。

流される事・流されぬ事は、正しくもあり、間違いでもある。

ハナから、誰しも流され麻痺している。

各世代は、それまでの発想が定着した環境に送り出され、植え付けられる情報には、様々な差異が発生する。

端的に言えば、より手遅れとなった環境に放り込まれ、多角的な催眠と洗脳と暗示の内容が変化する。

多角的な催眠と洗脳と暗示の内容が変化するとしたが、
生まれる時期により開始される位置が異なり、
様々な違いにより差が出てしまう。

それにより、世代間には様々な齟齬が発生し、どんどん薄っぺらくなっていく。

もとより、同世代であろうとも、莫大な差が生じている。

節義が劣化を続け、無垢ではいられなくなる、環境に及ぼされる発想の変化により、
云わば価値観の推移によって、以下のような事態が起きる。

メリットやデメリットを考える発想の定着によって、ボランティアは打算的な活動とみなされ、
募金活動の裏側に関する情報が明確となり、特定の発想が広がり根付く事により、格別性や特別性が低下してしまう。

他にも、義援金を貰うが当然と、振る舞う者が出現したり、使途が曖昧や不明だったり、
執拗に強請られただけでなく、不気味な団体にバラ撒かれ、バカバカしく感じる者が出現する。

要は、メリットやデメリットを前提とし、行動していると捉えるようになれば、
様々な媒体により裏側を取得すれば、意識しなかった頃とは大きく異なる、発想が浮かんで見解が下される。

定着する前(前者)は、以下のようになる。

ボランティアをすれば、誰かの役に立てるんだ。

地域貢献に積極的に参加していたなら、我が社でも頑張ってくれそうだ。

ボランティアに来てくれたんだから、食事や滞在先を用意しなくちゃ。

寄付をすれば、きっと誰かの役に立つ。

定着した後(後者)は、以下のようになる。

ボランティア活動を実施し、それを自己PRに用いれば、好感を抱いて頂けるだろう。

ボランティア活動を実施し、それを自己PRに用いるは、厭らしい人間のする事だ。

ただでさえ面倒なのに、好き好んで御節介をする連中に、食事や滞在先を用意するのは御免だ。

寄付しても、碌な事に使われない。

このような、浮かび上がる発想の差異による、価値観の不一致が偏見や軋轢を生じさせ、
メリットと扱われてきた事が、デメリットへとなり下がり、良かれと思い実施した事が裏目となる。

逆の場合もあるが、これまでのデメリットをメリットと扱う時点で、
息も絶え絶えの状態で、苦し紛れの選択により、一時凌ぎをしているだけだ。

広範に定着する以前から、前者のように考える者がいれば、後者のように考える者がおり、
その擦れ違いによって、事件や事故が引き起こされ、そればかりが報じられ、
人々が抱くようになる発想は、後者に推移する傾向が強くなる。

東日本大震災と福島第一原発に対する、日本政府・電力会社・報道各社の対応は、
後者への推移を強烈に後押してしまい、従来と変わらぬ事をする限りは、後押しをするばかりとなる。

憂慮すべきは、前者は後者となり、後者は前者となり、
前者同士や後者同士だろうと、不憫な争いが絶える事はない。

今後も、コンテンツや様々な媒体により、軽率な発想が多様・流布され、格別性や特別性が低下を続ける。

それにより、常識や作法や法律や規律を、守る理由さえも殺ぎ落とされる。

それらがある事により、首の皮一枚で繋がって・首の皮一枚の状態となり、ぶった切れてしまう時がくる。




薄っぺらくなるとしたが、それまでの蓄積がない状態で、
過度な情報に晒されるため、幅広く浅く引き延ばされてしまう。

即ち、次々と流れ込む情報に翻弄され、漠然とした意識により、日々を過ごす傾向となる。

それによる情報が増加・蔓延する事で、相身互いにペシャンコになっていく。

漠然とした意識となるは、流布される過度な情報が、頭打ちの状態で提供され、
葛藤・錯綜・矛盾・虚偽でグチャグチャの状態だからだ。

また、受身の状態を改めず、一方通行で推移するため、どんどん浅はかになっていく。

要は、与えられるを至当と思い込み、何をすればいいかわからなくなる。

さらに、根源や根本から遠ざかった状態で、経緯の把握と理解が不十分なまま、
感覚や感情に振り回され生きるため、より迂闊かつ未熟となってしまう。

言い換えれば、表面的な情報を全てと思い決めし、過去の情報を取得する事もなく、
考えて導き出すを忘却・失念・放棄し、失敗・失態・失墜を重ねてしまう。

発想が定着し、劣化した環境に放り込まれれば、原初から劣化を続ける環境ならば、
環境と肉体と精神が均一でなければ、各世代のより迂闊で未熟な存在から、
過ちを犯してしまい・過ちの犠牲にされてしまい易くなる。

はたまた、人間と人類と社会と世界の実相を見極め、枠組と仕組の実態に知悉し、これからの動きを察知し、
複数の要点を洞察する事により、警察・国家・世界を軽く出し抜き、多くの者が人々を脅かしている。

突出したアルゴリズムにより、ルーチンを導き出す事によって、
そこへの到達が叶いはしない、あらゆる勢力の裏をかくのだ。

それが、どのような内容であるのか?

それをしたらどうなるか?

それらを、十分に教えてくれる枠組と仕組は無い。

手口を知らなければ、簡単に騙されてしまう。

とは言え、手口を知っていようとも、迂闊かつ未熟な者は騙される。

それに、手口を知ってしまう事で、唆され騙してしまう事さえある。

おまけに、それを教えてしまえば、自分達の身が危うくなる。

騙したらどうなるか、騙されたらどうなるか、
本当に肝心な事は誰も教えてくれぬため、
唆し・騙し・唆され・騙されてしまう。

されど、教えて貰えたとしても、どうにもならぬ実態がある。

監視と選別と粛清と報復のため、どのような仕組と枠組があるのか?

どのように各種サービスが、それらに利用されているのか?

そんな些細な事でさえ、秘密保持契約等によって、滅多に教えてくれる者はいない。

しかし、ソレッポッチを教えられようと、足を踏み外す者は転落を続ける。

それに、生きていようが死んでしまおうと、
この世とあの世(ある場合)でどうなってしまうのか、
それを精確に教えられようとも、お構いなしの存在では効果が無い。

連中は、超絶絶頂・究極極大・臨界突破の絶望と後悔に曝されながら、
助けてくれなかった者達を責め恨み憎み、どこまでも沈んでしまう。

それでは、絶大な可能性に包容される機会すら得られず、絶叫を上げながら暗闇へと消え去るのみだ。

けれども、その可能性の内訳を把握しようと、それらを理解する力が伴わねば、
それが可能性である限りは、歩みを改めるは容易ではない。

なんせ、表層的な次元にすぎなかろうと、それをすればどうなるか知っているのに、
それをどうする事も出来ぬ状態で、大きな過ちを犯してしまうのだ。

重要となるは、肝心な事を教えるだけではなく、教えられる状態にする事である。

それを伴わせなければ、嫌がらせにしかならない。

余裕がある者であれば、肝要を指南される事により、
さらなる陥穽に嵌り難くするは、ある程度ならば可能だろう。

さりとて、余裕がない者ならば、聞く耳を持ちはしない。

何しろ、不十分な状態でそれを告げられれば、伝えた側が伝えられた側によって、
何をされるかわからぬだけでなく、伝えられた側の気が狂う可能性がある。

だからこそ、不可欠を伴わせる事により、成り立たせねばならない。

時点は、成立させるどころか、出鱈目の状態である。

しかしながら、極限まで成り立たせようと、問題の発生を淘汰するは叶いわしない。

何より、強制により雁字搦めにしてはならない。

だから、どうすべきか?

これまで、政治・宗教・教育・法律では、どうにかなり・どうにもならなかった。

結局は、どうにもならなくなっているのに、
どうにかなったと思い込んで、まだ大丈夫だと決めつけてしまう。

そもそも、目を叛けたくなるような問題が、起きてしまえば手遅れであり、
都合の好き解釈で煙に巻こうとすれば、転げ落ちる速度は加速するのみだ。

万人が、良くすると掲げるだけの性癖に囚われ、あらゆるが争いの材料となる状態で、
全球化による多極化が進行すれば、罪を犯す理由が増加を続ける。

何と言っても、範囲を拡大すれば、リスクとハザードは増長するが、
それに対抗する機能と能力と作用は、どんどん不足し欠如してしまう。

それなのに、自分の事さえどうにもならぬ存在が束となるため、肝心な対応が軽薄となってしまう。

簡単に言えば、当事者としての意識が希薄となり、果たせる道理がない責任と義務が分散し、
腰を据えた対応が叶わなくなり、誤魔化し有耶無耶とし逃走し、累積した問題と不具合に追いかけられる。

それが、多角的・多層的・双方向で、これからも進行していく。

術が抜け落ちている、時点において重要となるは、積み重ねによるノウハウである。

そうは言っても、これまでに起きた問題に、類似したトラブルに対処が叶うにすぎず、
根源的・抜本的な問題によって、継承がより困難となるだけでなく、
不十分だったがための反動に追い詰められる。

残念だが、人間も人類も社会も世界も、見誤り零落するばかりだ。

見誤るは、確かに何かをしている事実があり、それを表面的にしか捉えられぬためだ。

自分自身が何かをする事によって、水面下や深層で何が起きるのか、
そんな事を考える者は僅かであり、思い知らされるまでは気付かない。

思い知らされて気づこうとも、水面下を見つめるだけで、成す術がないと諦めて、すぐに忘れてしまうのだ。

その限りでは、見誤る事しか出来ず、永遠に伴う事はない。

そうして、ただでさえ欠落しているのに、節操がどんどん欠如していく。

欠落と欠如によって、寝言をバラ撒いて、悦に浸る者がいる。

人間は、分かりあえる。

分かりあえる相手がいる。

人間は、分かりあえない。

分かりあえる相手がいない。

条件が曖昧な事は当然とし、前提が不在の状態では、
どちらにしろ・どれであるにしろ、どうにかなり・どうにもならない。

その限りでは、相手の気持や痛みを把握し理解しようと、
把握や理解をする気が微塵もなかろうと、傷つけてしまう事があれば、傷つけてしまわぬ事もある。

あるいは、洞察し知悉しているからこそ、洞察も知悉も叶わぬために、
殺してしまう事もあれば、殺してしまわぬ事もある。

それが、一方的であろうが双方向だろうが、結末は変わり・変わりはしない。

中身が伴わぬ言葉は、意味があり・無意味であり・不意味であり、凶器となり・凶器にならない。

常に、正(肯定)と負(否定)の要素は対となり、無の要素も傍らにある。

それに対する潜考を続ければ、どうにもならぬ事は丸見えだ。

だから、どうすべきか?

この陰極における表裏一体の世界では、悪循環たる袋小路の坩堝では、
複雑化と増殖を続ける、出口がない大迷路の寄せ集めでは、魔の連環に追い回され、
どうにかなり・どうにもならぬ・なるようになり・なるようにならぬから、
どうにもならなくなり・なるようにならぬに推移していく。

それ故、どのような主義・思想を根底とし、どれだけ前提や条件を固めようと、
実相の克服が叶わんがため、並べる主張の有効性は乏しく、妄想や空想の域で終わるだけだ。

それなのに、取り返しがつかぬ状態となるまで、夢や理想や希望を追いかける連中は、
手遅れになると訴える人々に対し、妄想だ・空想だ・現実を見ろとほざいてきた。

そして、幸せは遠のくばかりで、どれだけの犠牲を払おうと、決して幸せになれぬ状態で、
ゴミ屑で終わるだけとなる、決して中身が伴う事がない、思想や主義を並べている。

そいつらは、甚だ手遅れとなってから、あの時はアレが正しかったと、様々な弁解に没頭するのみだ。

しかし、それを責める輩に関しても、向きが少し違うだけで、何も出来はしなかった。

誰しも、愚鈍で鋭敏で傲慢で謙虚な、ただそれだけの不憫な存在である。

所詮、人間は破滅と自壊の生き物にすぎない。

だから、どうすべきか?

それらしい答に辿り着くのも、現状となっては至難で、とても酷な試練となる。

負の要素があるため、それを認めつくしながら、
考えたくもない事を考え、面倒な追及を反復し続け、
段階的な答えを導き出しては、多方向からのチェックをする。

正の要素に対しても、同様のプロセスを実施し、対比をしなくてはならない。

そもそも、それが正なのか不なのか、検証し照合する必要もある。

レギュラーとは何か?

イレギュラーとは何か?

それらを、どう扱うべきなのか?

他にも、見極めねばならぬ項目がある。

自然的な、機能と能力と作用を見極め、潜む公式を獲得しなければならない。

ただし、もはやそれでは足りんのだ。

しかしながら、現在・過去・未来を見極め、異なる現在・過去・未来を探求し、
どれだけの答えを導き出そうと、それでどうにかなるとは限らない。

全人が、確実かつ絶対と認めようと、それはあり得ぬ事なのだ。

だから、どうすべきなのか?

その追求を重ねる事で、人間と人類と社会と世界を、α版からβ版へと変遷し、
さらなる段階へと移行し、先々へ進まねばならない。




三段(三)に続く。