2013年12月10日 02:32 三段(三)


我々の祖先は、脆弱かつ空漠たる状態で、何かが存在する領域へと、成す術なく放り込まれた。

そう、答えを与えられる事もなく、導き出せる道理も無き状態で、
無数の何かに満ちた領域へ、次々と投げ込まれたのだ。

そうして、様々な依存関係を礎とし、実存に概念と定義を付与し、
認識・識別・判別・区別を可能とする事で、それらの運用方法の確立を続けた。

ハナから、理由・意味・目的・目標は当然とし、価値・権利・義務・責任は勿論、
政治・宗教・主義・思想は無論、格別性・特別性・名誉・栄誉すらなかった。

そうだ、夢・志・希望・理想が不在なだけでなく、
湧きあがる感情の概念構成すら、誰もが知り得ぬ状態だった。

だからこそ、その追求を続けてきた。

ただし、術も答えも獲得が叶わずに、あらぬ方向を目指す実態で、
後でどうなるかを考えず、試行錯誤を反復させた。

道理も無きとしたが、原点からの積み重ねにより、これまで・これからが紡がれる。

そして、人間と人類と社会と世界は、何かが存在しているのに、
それらが何か分からぬ状態で、その始まりを告げたのだ。

従って、正解を導き出す術は論無く、模範たる答えさえ無かった。

それによって、必然かつ当然の潮流により、それらの形成を続けてきた。

さりとて、人間が仕様に準じて形成する、枠組や仕組に忠実・従順となれば、
夥しい死角や盲点が植え付けられ、肝心な術と答えに辿りつけなくなる。

忠実・従順としたが、容認・中立・拒絶のどの立場だろうと、
どれかに染まり振り回されるに変わりないため、
その範疇で目を回すばかりとなる。

植え付けられるとしたが、枠組や仕組に本当に不都合となる、
言動・行動を抑圧・圧殺するため、それらにより意識・感覚が矯正される。

理由・意味・目的・目標の不在と、肝心な術と答えに辿りつけぬとしたが、
実存を解析・分析する事によって、それっぽい内容を形成するは簡単だ。

問題は、分析的思考が未発達であり、見本や手本が不在だったがため、
妄想・空想・想像の域に飛び込み、術と答えを捏造した事である。

厳密には、正統性が比較的に高度となる、術と答えを引き出すに不可欠な、
手法たる術や答えが不在であるため、そうなるは至極に当然の事なのだ。

正確かつ精確に、精査・検証する術がなければ、理論的根拠が稚拙であるなら、
どんな答えでも並べてしまい、それが定着するは珍しくない。

蓄積が、殆ど無い状態において、太陽のような存在に曝され、
その脅威を目の当たりにすれば、神と誤解しても不思議ではない。

それが、存在する間は光と温もりに包まれ、存在せぬ間は暗闇と寒さに包まれる。

荘厳な存在により、肉体や精神に駆け巡る感覚は、さぞかし衝撃的だった事だろう。

けれども、それは神ではなく、ただの太陽なのだ。

そうは言っても、それが神でないと証明するに、十分な情報が存在しなければ、
それを認められる環境が伴わねば、それは右から左へと移される。

それが伴わぬため、数百年・数千年・数万年が経過しようと、
多くの失態を引きずる状態から、そう簡単に抜け出せはしない。

時に、破廉恥な策謀によって、設定が改竄・捏造・隠蔽され、より不自然な内容へと豹変する。

それでも、否定する者がいなければ、拒絶を抑え込んでしまえば、それは当たり前の事になる。

そうやって、無いモノをあると見せかけるに躍起となり、宗教のような勝手な設定すら蔓延り、
これまでの経過の把握と理解が儘ならなくなり、哲理・節理・真理・神意から遠ざかり、
本質・実質・事実・現実・実態・真相・真実・本性・本能・本懐を錯覚している。

それにより、物事を表面的にしか捉えられなくなり、
それすら徐々に不自由となって、表層の上澄みで足掻いている。

表面的となるは、実質や本質にそぐわぬ情報を、刷り込まれている場合があれば、
それによる枠組や仕組に染まってしまい、蒙昧無知となっている場合もある。

例えば、原子力発電に対して、安全神話が形成され、それが共通の認識となり、
それに浸食された枠組や仕組により、御用学者や業界人が誕生した。

誕生した存在は、有事の際(肝心な時)は何の役にもたたぬ、
不意味・不気味・不条理な、穀潰しばかりだった。

安全や安心を前提に教育すれば、突発的な有事が発生した場合、
何も出来ないだけならまだしも、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

大概、余計な事ばかりして、事態を悪化させてしまい、どうにもならなくする。

対象によっては、自分自身の人生まで、滅茶苦茶にしてしまい、隠遁を余儀なくされる。

蓋を開けてみれば、安全論者と危険論者・推進派と非推進派・賛成派と反対派・肯定派・否定派も、
無知・無智・無恥な状態で、主義や見解をひけらかし、独り善がりで頭打ちとなる、有象無象にすぎなかった。

万人が、事態に翻弄されるばかりで、碌な対応が叶わなかったのに、大勢で白々しい戯言を並べている。

そのように、自分自身を慰める事により、それが連鎖し定着する事で、
肝心な事が見えなくなってしまい、多くを奪い失い奪われてしまうのだ。

表面的から、表層の上澄みへと狭まるは、既存の枠組と仕組が齎す影響で発生する、
多面的・多層的・多角的な推移により、人間と人類と社会と世界が悪質化し、
総体が無頓着・無気力・無思慮に、破滅・自壊へと突き進むからだ。

各業界において、ありとあらゆる事柄に対し、多種・多様な神話が形成され、
それらを根底とする形で、新たな神話が次々と贋造され、大嘘が塗り固められてきた。

原初から、それを連綿と続けたため、謬見は重篤化する一方だ。

即ち、不適当に仮説が形成され、理論仮説が構築されるも、
立証の作業仮説が不適切なため、過誤した理論が裏付けられる。

要は、仮説に不備があれば、理論仮説にも綻びが生じ、
歪んだ作業仮説が採用され、異常な理論さえ定説となる。

端的に言えば、Aが正解であるのに、Bを正解とする者が大半を占めている。

そのため、Bが正解である事を前提に、検証するための意見が募られる。

長らく、Bが正解と扱われていれば、それを覆す者は限られてくる。

そもそも、Aを正解・Bを不正解とする者が、
Bを正解とする者達からすれば、何を言っているのか分からない。

なんとなく、それが分かったとしても、長いモノに巻かれてしまう。

他にも、様々なケースがあるが、Bが採用されてしまう。

しかしながら、Bは正解ではないため、正解と扱い行動すれば、問題と不具合が発生する。

Bが、正解ではないと判明するまで、異常(問題や不具合)が発生する理由を曖昧に突き進み、
どうにもならなくなるを、当たり前だと思い込んで、何とも思わなくなってしまう。

結果、真相・真実から離れた場所で、人々は錯乱を強いられる。

残念なのは、柵により雁字搦めであり、それを碌に改められない。

手遅れとなれば、何かをすると見せかけて、茶を濁すで精一杯なのだ。

例え、Aが正解と示されるようになっても、Aが正解となりBが不正解となる理由が、
容易に把握と理解が叶うまでは、そう思うようにされるまでは、A派とB派で対立を続けてしまう。

多くの者は、その板挟みとなり、目を回してしまう。

現実において、それに追い打ちをかけるは、正解であり不正解でもある、
何方付かずの解しか得られぬ、どうにもならぬ実相である。

解は、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、
どれかであり・どれでもあり・どれでもないの性質を有し、
何を採用しようとも、思い通りになるは滅多にない。

ここに到るまでの人間と人類と社会と世界の選択が、
それを極端な次元まで押し上げ、極限まで伴わぬ状態とした。

極限まで伴わぬとしたが、解たる結論を定めようにも、不可欠な材料が揃わぬため、
結論を確定して進めば、見当違いの試行錯誤により、問題と不具合が増殖する。

不可欠な材料が揃わぬとしたが、足を踏み外した状態で進んだため、
それに必須な材料さえ歪んでおり、実現する人材すら腐っている。

つまり、方針は定められるのだが、恙無く実現するに欠かせない、
人材も材料も存在しておらぬため、重大な問題と不具合が溢れだす。

それに、適正な人材と材料を形成するに、須要となる人材と材料すらない。

現況は、適材が適所に配置されるのではなく、
不適材が不適所に配置される事により、
悪い方向へと動転を続けている。

精確には、時代の要請に落伍した人材が、その主導権を握る立場となり、潮流に乗る存在が尻拭いをし、
耐えられず辞めてしまう場合があれば、需要が低下した頃に覇権を獲得する。

それ故、不一致が解消される事は無く、頽廃に歯止をかけられない。

何しろ、抜本的・根源的な欠点を抱え、問題と不具合に追い回されている。

その限りでは、人材と材料は劣化を続け、悪循環の寄せ集めは、深刻化の一途を辿る。

何より、人材と材料を格納している、枠組と仕組も劣化を続け、より無分別へと堕落する。

腐敗した状態で、誤解を解消すると、新たな誤解が生まれ、収拾がつかなくなる。

そうなってしまうは、誤解を解消したつもりでも、誤解をすげ替えただけだからだ。

だいたい、局所的な対応しか叶わぬため、それを決して認めぬ存在を、
不用意に増長させてしまい、深刻な事態に見舞われる。

逆に、賛同する存在が上機嫌になり、取り返しのつかぬ過ちを犯す。

はたまた、誤解をすげ替えただけのため、直ぐに別の誤解へと入れ替わり、
それを繰り返す事によって、泥沼の最果てへ沈んでいく。

やがて、過去の不始末を継承した反動や、どうにもならぬ状態のまま、
嘘をつき続けた竹蓖返しにより、淪滅による立ち消えを余儀なくされる。

多面的・多層的・多角的な推移としたが、その内訳は多岐に渡り、
多極化を促す流れもあり、全ての概要の取得でさえ、皆無・空無・絶無である。

その推移における、特定の流れを紹介しよう。

インターネットが普及し、各種端末の進歩によって、情報の取得が手軽となると、
それを獲得する基本手順が、それらに推移を続けるだけでなく、
様々な背景により優位性が押し上げられていく。

同時に、信頼性・信憑性・親密性・必需性が上昇を続け、それらが心の拠り所にもなっていくのだ。

それによって、それらで得られる範疇の情報を網羅すれば、十分かのような意識・感覚が浸潤していく。

様々な経緯により、新聞やテレビのような、従来の情報媒体に依存しており、
それらが集積された存在ともなれば、そう考えてしまうは尋常だろう。

なんと言っても、正しい情報も間違った情報も、
それらが与えてくれるため、呑み込まれるは必定なのだ。

誤報を取得したとて、仲介媒体であるソレへの信用は、そう易々と崩れ去る事はない。

しかも、従来媒体(新聞やテレビ)を遥かに凌ぐ自由度を有し、プラスアルファの情報が得られる上に、
それに対する幅広い意見を参考に、己なりの見解を示す事が出来る。

しかれども、仕様上の致命的な欠陥に束縛され、
偏見と軋轢を助長してしまう、不遜な内容を並べがちとなる。

のみならず、玄人が構築した情報を、空虚な状態で鵜呑みにし、
自己の成果の如く扱って、知ったか振りをしてしまう。

そんなだから、そう言うモノだと思い込んで、他人の威光で威張るだけとなり、
一から質問をしてくる相手に、前後の関係を明らかにして、整然と説明するが叶わない。

言いかえれば、把握・理解・洞察・知悉に必須となる、機能・能力・作用が矯激に伴わぬため、
玄人が掲げる内容を漠然と受け止め、肩書きを見て正しいと思い決めし、ただバラ撒いているだけなのだ。

玄人でさえ、その積み重ねで形成されており、
掲げるは正解で不解で誤解であるため、
盲信すれば裏切られ損をする。

おまけに、スマートフォンやタブレットがあれば、
情報を何時でも簡単に引き出せるため、自分自身に蓄積するを疎かとする。

果ては、必要に応じ引き出す事さえ忘却・失念し、行き当たりばったり・成り行き任せに陥ってしまう。

あまつさえ、探求・検証・解析・分析は疎かとなり、
膨大な積み重ねの延長線上に、不十分な状態で割り込んでしまう。

誰もが、その状況に陥ってしまい、無知・無智・無恥な状態で、
不意味な争いに夢中となり、行ったり来たりを繰り返す。

無知・無智・無恥となるは、そうとしかならぬ範疇を、彷徨うようにしたからだ。

そうしたのは、人間と人類と社会と世界であり、迂闊かつ未熟な自分自身でもある。

それが災いし、何らかの論決によって、どんな決断を下そうとも、
何もかもが余りに伴わぬため、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

とどのつまり、情報の取得が容易となりすぎ、扱う力量は低下の一途を辿る。

猶且つ、種々雑多な催眠と洗脳と暗示により、与えられるを全てと思い決めし、
それ以下となる範疇において、失敗・失態・失墜を反復させる。

結局、能力・機能・作用を補う存在が進歩すると、それらを補われた存在が、以上に退歩しがちとなる。

そこに気を払わねば、究極となる進化の果てに、人間が窮極の退化を遂げて、
それを補い発展を続けた存在によって、その場を奪われているかもしれない。

最大の問題は、取得が可能となる情報が、腐った実態により歪められ、
扱う側は蝕まれながら育ち、事実・現実を見誤った状態で、
救いようがない本性・本能に振り回されている。

多極化を齎すとしたが、どの座標に落ち着こうとも、辿る末路が変わりはしない。

それは、どうにもならぬ実相に取り憑かれ、極端に伴わぬ実態から、脱却が叶わぬためだ。

注意すべきは、その多極化によって、非常に危惧すべき存在が、誕生・増殖を続けてしまう事だ。

既に、既存の枠組と仕組は、その多くに対処が叶わずに、出し抜かれている状態だ。

されども、どれだけ出し抜こうと、所詮は同じ穴の狢であり、辿る末路が変わりはしない。

政治や宗教と同様で、自分や自分達だけが、放逸や犠牲となる事で、
救い・救われ、赦し・赦され、報い・報われようとする限り、
どうにもならぬ惨憺たる末路を引き寄せてしまう。

信頼性・信憑性・親密性・必需性の上昇としたが、人々を好都合な存在とする扇動によって、
効率的かつ能率的に植付けられた、多寡が錯覚にすぎんのだ。

植付けるとしたが、日本経済新聞の場合は、
あたかも社会人の必需品かのような広告を流布し、
購読を常識と思い込ませ、人々に強要を続けてきた。

そうして、政治や宗教は明々白々とし、人間と人類と社会と世界は、
相身互いに助け合い・支え合い・与え合うと見せかけ、
その実は奪い失い奪われるばかりであり、
不名誉な淪落を続けてしまう。

淪落の最中、極端に迂闊かつ未熟な存在は、己を完全や完璧と垂れ流す。

万人は、完全や完璧に成り得る道理なく、極端に伴わぬ状態を形成してきた。

その状況下において、そうであると宣わってしまえば、自己の醜態を見せびらかす破目となる。

枢要なのは、完全や完璧に成り得ぬからこそ、成すべきを見極めて、その達成を続ける事だ。

誰しも、それが酷く下手糞であり、自分が据えた目的・目標により、自身を追いつめるばかりである。

下手糞となるは、錯覚による錯綜によって、己の首を絞めるからだ。

様々な葛藤により、余計な事を考えて、余計な事をしてしまい、
後悔するは人の性質であり、それにより成長する場合もある。

さあれども、それで身を滅ぼしては意味がない。

甚だ、不意味である。

我々は、永遠に責められる犠牲を糧とし、誕生してはその生涯を終えていく。

もとより、人間と人類と社会と世界は、政治や宗教に縋るばかりで、
悪化させて反復させすぎたため、もはや救いようがない状態だ。

邪魔な者・愚昧な者を、拘束・制御・支配・抹殺する、
枠組や仕組に身を委ね、虜となってしまえば、
そのためだけの人形にされてしまう。

その事実を肯定し改めねば、葛藤・錯綜・矛盾・虚偽により、言動・行動・精神・肉体が乱離拡散し、
家族・友達・周囲・自己を、幾度でも使い捨て・使い捨てられてしまうのだ。

であるからして、包括的となる改善と是正によって、より適宜な変遷を促さねばならん。

それが果たされるまでは、自分自身を責め続けるに、さしたる意味もなければ、時間を費やす価値もない。

なればこそ、肩の力を抜いて、信じられる己を育め。

そのためにも、些細な事実を知らねばならぬ。




三段(四)に続く。