2013年12月14日 22:16 三段(四)


万人は、滑稽・陳腐・迂闊・未熟な人形となり、それをしたらどうなるか、
させたらどうなるか、されたらどうなるか、本当を知り得ぬ状態で生きてきた。

それに、無いモノをあると思い込んで、無いモノをあると見せかけ、
いつの間にか粗造・捏造した代用品で、どうにかなると思い決めしている。

確かに、穏健的な政治や宗教に縋れば、本当を知らずに生きるを強いられ、
露骨な問題や不具合は隠伏され、水面下で手がつけられぬ状態となり、
何もかも手遅れとなろうと、能天気な状態でくたばる事が出来る。

思い決めとしたが、どれだけの憂いを感じていようとも、
何らかの手を打ったとて、余りにも伴わぬがために、
余計な事しか叶わず、悪化させるだけとなる。

隠伏としたが、問題や不具合があるを掲げ、勧誘や結束力の向上を図ろうが、
虫のいい有象無象の寄せ集めとなり、指をくわえてただ立ち尽くすか、
虚構で理想を追い求め、現実を成れの果てへと変えてしまう。

能天気となるは、政治・宗教・教育により、
偏狭かつ浅薄な真実や現実しか見えなくなって、
真正には程遠い誤解を、正統と錯覚しているからだ。

つまり、虚構を真実・理想を現実と感じている。

厳密には、虚構に蝕まれた状態で、理想を追い求めたため、
必然かつ当然において、そう認識せざるを得んのだ。

そのため、真実や現実を直視するには程遠く、真実と虚構・現実と理想の狭間で、
本当が多義的・無媒介的な状態で、肝心な事を知らずに生きてきた。

疾うの昔より、その状況に嵌入しており、
枢要へ辿りつく可能性は、低迷を続けるのみで、
万人が何も知らずに生まれ、何も知らずに死んでしまう。

何も知らずとしたが、甚だ歪んでいるだけならまだしも、酷く浅く狭い範囲でしか捉える事が出来ず、
猛然たる次元で能力・機能・作用が欠落し、見るべきに対し見える内容が合致する事なく、
自己意識の確立に必要な条件さえ揃わず、自我を育む事すら儘ならない。

人間と人類と社会と世界の実相は当然とし、
自分自身の実態を把握し理解せねば、
答えや術の洞察と知悉が叶わん。

それが伴わぬため、何をすべきか分からず、手持ち無沙汰となれば、
何となくそれっぽいを実施し、次々と台無しにしてしまう。

やがて、その試行錯誤は限界を迎え、惨憺たる末路を手繰り寄せる。

それは、完全や完璧を目指す規制により、完全や完璧に成り得はしない、
人間と人類と社会と世界が、それらが辿る選択によって、淘汰されるためである。

なんせ、本当を知る由もなく、抜本的・根源的な解決が不可能な醜態で、
杜撰が極まる規制を続ければ、権謀術数は枯渇の一途を辿って、
挙句には最悪の方法で、誤魔化し有耶無耶とし絶滅する。

ハナから、暴力で暴力を抑え込み、権力による武力で制圧し、教育と法で鎮圧をするも、
主戦場を下から上へとシフトさせただけで、ずっと追いかけっこをしている。

そうやって、不埒な肉弾戦から野蛮な頭脳戦へと推移し、
不意味な対応の重複によって、絶え間ない悪質化が進行する。

時に、どうにも出来ぬ事に痺れを切らし、庸劣な手段で打開を試みる者がいるが、
流動的な仮初の本音や真意を根底とし、何も知らぬ状態で実施するため、
以前より悪くなる事はあっても、良くなる事は決してないのだ。

もとより、無理矢理に抑えつけ、仕方なく従わせる限り、
従うフリをしながら、人々は増悪していく。

とは言え、目に見える規制をせねば、いくらでも増長してしまう。

とどのつまり、何処で何を如何しようとも、どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなっていく。

確実と絶対において、淘汰されるとは限らないが、
成り得る状況を整えながら、未熟かつ迂闊に進み続ける。

これまでが、そうでしかなかった。

そして、良いと感じる事・悪いと感じる事に対し、賞賛・賛美・賛成・批難・批判・反対をしてきた。

中には、良いと感じる事を批難・批判・反対し、悪いと感じる事を賞賛・賛美・賛成する者がいる。

そもそも、それが良い事なのか・悪い事なのかさえ朧気であり、
正真において何をしているのかすら分かっていない。

何をしているか・させているか・されているかを熟知せねば、
後でどうなってしまうか、観取するが叶いはしない。

何より、思い通りにならんのだ。

そうだ、あらゆる存在の言動・行動・精神・肉体に精通し、それらの相互作用により、何が引き起こされるのか、
未然・事前・直前に察知し、問題や不具合を回避・相殺し、目的・目標を達成せねば、思い通りになりはしない。

それが伴わずに、めいめいに思い通りにしようとすれば、どんどん思い通りにならなくなる。

全ては、それが極端に至難な状態より始まった。

だから、多くの人材が拘束・制御・支配・抹殺に勤しんだ。

そうして、その時々に思い浮かぶ、思い通りを実現するため、
試行錯誤が繰り返され、それっぽい状況が形成された。

されど、トライ&エラーにより、発生した問題や不具合を、
適宜に解決するが叶わぬため、やがて思い通りにならなくなる。

解決が叶わぬのは、取り返しがつかぬ事をしたからだ。

それでも、どうにか思い通りにしようと、何度も試してはやり直してしまう。

思い通りにならなくなるとしたが、思い通りと思い込んでいた状況が、
本当はそうではなかったため、忽然と打ち崩されてしまう。

打ち崩されるとしたが、誰かが思い通りにしようとすると、
思い通りにならなくなる存在に、それを阻害された場合があれば、
誰かが思い通りにする事によって、思い通りにならなくなった存在が、
どうにか思い通りにしようとしたため、そうなってしまう場合もあるのだ。

だけでなく、大災害で掻き消される場合さえある。

その繁栄を疎ましく感じる存在に、完膚無きまでに叩き潰されてしまう。

多くを犠牲に築いた栄光であるため、報復・復讐で掻き消されてしまう。

制御不能の事態に見舞われ、瞬く間に夢と消えてしまう。

人間と人類と社会と世界は、これらを何遍も反復させてきた。

何と言っても、思い通りにしようとするを、バラバラに繰り返してしまえば、無数の枠組と仕組が形成され、
それに次々と仕切りが追加され、概念・定義・方向性・価値観が、歪みながら分散し・分散しながら歪んでしまう。

それを、幾重も積み重ねたのが現状であり、それらしいは極僅かな部分である。

全体を、綿密かつ緻密に見つめてしまえば、時点は惨憺たる末路にすぎない。

極僅かな部分でさえ、覚醒したまま見せられる悪夢で、簡単な事で脆く崩れ去るのだ。

至難な状態より始まったとしたが、あまねくが伴わぬ事により、思い通りにならぬ事によって、
ある程度まで数を伸ばすに成功し、各々が異なる立場で同じ思惑を並べ、対立・拮抗・膠着を続けて、
より思い通りにならぬ状態となり、どんどんどうにもならなくなる事により、ここまで辿りつけた一面がある。

現況は、先入観・固定観念・取得情報により、
言動・行動・精神・肉体が支離滅裂となり、
建前・自己都合・利己主義に踊らされ、
極限まで至難な状態と化している。

歪みながら分散し・分散しながら歪むとしたが、それによって並べる言葉は同じであっても、
目的・目標が大きく異なる場合があれば、並べる言葉は大きく異なっていても、目的・目標が同じ場合もある。

どうであるにしろ、那由他の歪みと分散に翻弄され、 穢れた綺麗事と御託を並べるか、悪化させて繰り返すのみだ。

結局、どれだけの犠牲を払おうと、同じ思惑や異なる思惑を掲げる存在により、
未然・事前・直前・直後・事後・已然に打ち消されてしまい、
思惑を追求する限り、犠牲は増え続ける。

されば、那由他の歪みと分散により、僅かな隙間もなく打ち消され、
多くが伴わぬ反動により、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

これにより、どうする事も叶わない、右肩下がりの状況が継続する。

我々は、思い知らされる事により、思い通りにならぬと痛感するも、
様々な方法で煙に巻いてしまい、思い通りになるフリをして、フリである事を忘れてしまう。

そして、それっぽっちしか知らぬ、多寡がそれで頭打ちとなる、精神薄弱の怪物と化している。

けれども、そのように己が気を狂わせ、救いようがない状態とならねば、
有り余る不幸に押し潰されて、存在の維持さえ不如意となる。

まして、まともな平常心ともなれば、奪い失い奪われる真相に耐えられず、
多くの本真を手繰り寄せてしまい、いかんともしがたい状態になる。

奪い失い奪われるとしたが、惰性で形成した枠組と仕組により、
絶え間ない収奪の嵐に曝され、枠組や仕組に所属する事で一端を担い、
自分の家族や友達は勿論、誰かのそれらを理不尽に食い潰し・食い潰される。

多くの本真としたが、多大な過ちを反復させ、思い通りにならぬ事により、存続する仕掛けに格納され、
その絶望と後悔を忌避するには、心神喪失せねばならぬため、正常な人間は一人もいない。

要は、自身と誰かを犠牲としても、極端に存命不定の環境で、生まれて死ぬを強いられ、
最初から思い通りになる筋道がなく、自由を奪われ・不自由を与えられ、
思い通りにしようとすれば、奪い失い奪われるが加速する。

その状況下において、それっぽい主我を維持するには、相応の状態とならねばならぬ。

無論、必然かつ当然により織なされる、種々雑多な催眠と洗脳と暗示により、
視野狭窄かつ隔靴掻痒へと誘われ、それ相応の状態にされている。

即ち、旧態依然・暗雲低迷・危機一髪・危急存亡・一触即発・絶体絶命から脱却が叶わず、
空中楼閣・前後不覚・甲論乙駁・言語道断・思案投首・拱手傍観により、
人々を烏合之衆とする事で、阿鼻叫喚・骨肉相食を抑え込み、
気息奄奄・九死一生の状態を長引かせている。

端的に言えば、どうにもならぬ実態から抜け出せず、人々をどうにもならぬ状態とする事で、
どうにかしてどうにもならなくするを抑え込み、どんどんどうにもならなくなる状況を持続している。

それ相応の状態にされているとしたが、仕様上の限界はさる事ながら、個人差や様々な格差があるため、
越えてはならぬ一線に差しかかれば、潜伏していた問題や不具合が溢れだし、多くの人々が転げ落ちてしまう。

人間と人類と社会と世界は、その一線の無尽蔵な形成を続け、絶え間なく乗り越える日々を送っている。

それによって、言動・行動・精神・肉体が、原因不明の病に次々と侵される。

原因不明の病としたが、人間と人類と社会と世界が、
切磋琢磨した結果であるため、解き明かすは不都合なのだ。

本真の内訳には、以下のような内容が含まれる。

金さえあれば、何でも出来るのではなく、それがあるから夥しい限界が形成され、人々は辛酸を舐めさせられてきた。

夥しい限界としたが、下から上へのシフトによって、
金がなければ動かせぬ状態となり、急激な勢いで喰尽すが抑止されている。

安易すぎる僻見では、思い通りにするに必須となる存在が、
実際はそうさせぬに不可欠な存在であり、多くがそれに振り回され生涯を終えていく。

他にも、様々な機能と能力と作用を、金と呼ばれる存在は有している。

時点では、金に対するそれらを含め、肝要な事柄に対するそれらを、
見極める能力と機能と作用を、万人が有していないのだ。

それが伴わねば、有事に対する十二分の備えの構築が叶わず、
場当たり的な対応によって、より多くを失う破目となる。

現状の枠組と仕組は、その獲得を過剰なまでに阻害する。

先に、したら・させたら・されたらどうなるか、本当を知り得ぬ状態で生きてきたとした。

確かに、既存の枠組と仕組により、作為・無作為に知覚を促される、表面や上澄み程度の認識はある。

だが、所詮は外見上にすぎず、真実の言明において、人間と呼ばれる生物は当然とし、多種・多様な生命体を殺害した場合、
殺害された・殺害した存在を起点とし、その周囲がどうなってしまうのか、精確に教えてくれる者はいない。

おまけに、概念構成力の不足により、概念作用に障害が発生し、
論理的か感情的なのか、科学的か宗教的なのか、線引きに狂いが生じている。

例えば、与えられる情報を感情的に選択し、オウム返しをするだけなのに、
自己を論理的と錯覚する、取るに足らぬ存在がいる。

はたまた、与えられる情報に信憑性を感じず、自分自身の判断と決断により、
論理的な思考を張り巡らせ、道を切り開こうとする者がいる。

しかれども、双方が余りにも伴わぬため、どちらでもあり・どちらでもない状態だ。

そのような存在によって、凝り固められた科学と宗教は、同様の状態にしか成り得ず、
意義や真価とは程遠い場所で、意味と価値すら曖昧な状態で、極端な限界に縛られている。

あまつさえ、その極端な限界により、重要となる事柄に対し、
間違いを退けるため、知覚すべき最低限の認識を、共有するも叶いはしない。

言及すべき事柄は、無数に散らばっているが、人を殺めた場合の話をしよう。

殺害された被害者は、その命を奪われただけでなく、これまで・これからの人生を強奪された。

それにより、被害者が有する莫大な期待値は当然とし、派生しうる存在の全てを、蹂躙した可能性がある。

また、被害者の家族・友達・周囲より、被害者を奪い去ったがため、
各々の人生を狂わせてしまい、膨大な可能性を台無しとした。

さらに、加害者は自分のこれまで・これからの一生を棒に振り、
自身の家族・友達は無論の事、その周囲の人生を狂わせた。

己に唆され、家族・友達・周囲を裏切り、誰かを殺すだけでは飽き足らず、
その家族・友達・周囲を痛めつけ、自己を不意味な存在とした。

可能性を加味しなくとも、明瞭な領域の内訳は膨大で、
まして精確な次元ともなれば、これっぽっちでは済まされない。

このような、本当には程遠い次元でさえ、贖罪が不可能なのは明白だ。

未熟で迂闊な加害者により、加害者・被害者の双方に対する、育つため・育てるための、投資と労力が水の泡となり、
加害者が身を滅ぼし・被害者が身を滅ぼされ、多くが破綻したを見つめれば、それは不動たる事実である。

加害者は、無数にいる人間のたったの一人を殺すと同時に、その中にたったの一人しかいない存在を殺害した。

そこに、本当が追い打ちをかける事で、人間と人類と社会と世界の尺度による、
情状酌量の余地がどれだけあろうと、罪過は累積の一途を辿るのみだ。

それなのに、刑に服して罰さえ受ければ、罪を償えると思い決めすれば、
生きていようが・死んでしまおうが、膨れ上がり続ける罪科に追い回される。

それで、償わせる事が出来ると信じ、
死刑や無期にしようとも、それだけの事にすぎず、
ただでさえマイナスの存在が、さらなる負の領域へと転げ落ちる。

それで、償った・償わせたフリをすれば、もはや救いようがない状態だ。

自明であるが、取り返しのつかぬ事をすれば、どれだけの事を実施しようと、気休めや自己満足で終わる。

しかしながら、何かで不安を紛らわせねば、贖罪をするが可能なのだと、
己に嘯く事で割り切らなければ、偽善と茶番の日々に戻れぬのだ。

だがしかし、気休めや自己満足にもならず、
償える・償えぬのどちらを考えていようとも、
全ては不意味となり、益々どうにもならなくなる。

なんせ、そうとしかならぬように出来ている。

生きていようが・死んでしまおうがとしたが、あくまでこの世における話である。

あの世があり、神がいるとするならば、窮極の絶望と後悔に苛まれる。

救われ・赦され・報われるに、最低限となる状態の形成さえ叶わず、
それを求めてしまえばどうなるか、余程に身勝手でなければ、察する事が出来るだろう。

今更、どれだけ嘆いても遅すぎる。

遥か昔より、雁字搦めに一つと繋がり、悔やんでも取り返しがつかぬ、無数の過ちを反復させてきた。

そこで、人間と人類と社会と世界が、手前勝手に拵えた設定に縋り、
見て見ぬフリに明け暮れるならば、裁きを与えるのはそれからだ。

それ故にこそ、己に傲慢となり他者に謙虚となる事で、
信じられる自分自身を育み、罪を犯すを退けねばならん。

そうするは、負の期待値の向上を、少しでも抑えるためだ。

さりとて、これまでの内容を取得せねば、それをするに最低限となる、心構えの足懸りすら掴めない。

裁判ともなれば、してしまった事に対し、生きてる間にどうなるか、
そこそこの情報が示されるが、そこにも限界と制約がある。

リスクとハザードの上昇により、何が引き起こされるかを教えられぬのは、
枠組と仕組に染まる事で、能力・機能・作用を損失している場合や、
それらを取得していても、束縛され伝えられぬ場合もある。

束縛としたが、立場や慣習により、抑圧されている。

結句、手続きに必要となる、一定の情報しか与えられない。

若干、それに劣る内容ですら、未然・事前に教えてくれる者は限られる。

直前ならば、それを望むは無理な話である。

であるからして、人を殺してしまえばどうなるか、ありきたりな内容しか取得が叶わず、
その反動により思い知らされる事で、次々と痛感する破目となろうとも、
最も肝心となる事柄に関しては、死んでも分かりはしない。

報復や復讐をしようがしまいが、どうにもならぬに変わりなく、
気休めや自己満足に走れば、益々どうにもならなくなる。

どう足掻こうが、その一方通行なのだ。

原初から、気休めと自己満足すら叶わぬ、
不幸でしかない存在が、幸せを求める事により、
繁栄・衰退が反復されるが、本当を知らぬままである。

だからこそ、私がここにいて、君がそこにいる。

それは、とても素晴らしい事であり、そうではない性質もある。

一つ言えるのは、『繁栄・衰退の反復』には限界があり、
折り返しを迎えてしまえば、『誕生と絶滅の反復』の餌食となる。

それを、高度に阻止しうる変遷を促し、先々へ進み続けるが叶えば、
目指すべき『人』となり、無上の人生を刻むが叶う。

それこそ、本当に素晴らしき事だ。

それまでは、万人が自縄自縛に陥り、穢れた綺麗事や御託を並べ、
偽善と茶番に明け暮れて、陳腐な応酬を反復させる。

注意が必要なのは、本当を知ってしまえば、何も出来なくなる事だ。

本当を知らなければ、どうにもならなくなる。

本当を知ってしまえば、どうにもならなくなる。

だからと言って、中途半端な状態が、永遠に続きはしない。

何しろ、本当は何をしているか・させているか・されているかは無論、
してきたか・させてきたか・されてきたかと真向かいながら、
存続するに不可欠となる、術や答えを有していない。

最初から、用意されていたにも拘らず、気付けなかった術や答えは勿論、
それらを超克する術や答えに対し、遥か遠い場所で駄々を捏ねている。

そこに付け込まれれば、人間と人類と社会と世界が、本当を振り翳す存在に滅ぼされる。

その真意がどうあれ、不可欠な条件が伴わぬ状態で、
迂闊かつ未熟に本当をバラ撒けば、犠牲が伴うは変哲もない事だ。




三段(五)に続く。