2013年12月26日 03:16 三段(五)


人を殺めた場合の話をしたが、些細と感じる事でさえ、辿る末路が変わらない。

それは、これまでの蓄積が纏わりつくだけでなく、蓄積により形成された存在によって、
効率的・能率的に罪過が増殖・累積し、救われ・赦され・報われる余地が、完膚無きまでに消失するからだ。

そもそも、その状態を幾億・幾兆・幾京も超越し、連日連夜において突きぬけ続けている。

それに勘付いた人々は、罪を代わりに背負ってくれる、自己犠牲的な象徴を設ける事で、
内容と印象に相違を持たせ、愚かな人々を縋らせて、数多の計略を果たしつつ、
自分や自分達だけが救われ・赦され・報われる期待値の向上を謀った。

厳密には、カラクリを熟知せずに縋る、愚鈍な信者の罪は膨張を続け、
知悉する存在の罪が緩和され、極小となる見込みを大きくした。

その一方、救われ・赦され・報われんがため、
己や己達に厳格たる戒めを示す事によって、
質素で慎ましい生活を送る者達がいる。

中には、本当を知ってどうにもならなくなり、
自分自身に極端な責め苦を与える事で、
どうにかしようとする者達もいる。

誰もが、肝心が伴わず・知らなすぎ、瑣末な事に染まった状態で、中途半端な本当を取得したため、
あらゆるが見込み違いに終わってしまい、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘り続けている。

迂闊かつ未熟でしかない存在が、その悟りの境地へと転落すれば、ならばどうすべきかを見誤り、
どうする事も叶わぬ潮流に流され、その境地に到らぬ有象無象と、同じ穴の狢で終わってしまう。

もとより、悟りたる達観の境地なんぞは、多寡が知れた逃げ道にすぎない。

そこに、格別・特別・崇高・荘厳はなく、輪廻を超える至福もない。

全ては、不意味へと収束する。

それでは、気休めと自己満足にもなりはせんのだ。




我々は、時の流れを因循し、水面で揺れている。

ただし、時計の針は迷う事なく刻まれていく。

そうして、刻の流れを漫然に彷徨うばかりで、事象に翻弄されるだけの存在は、不得要領に潰えるのみとなる。

それをハッキリさせるには、心覚を甦らせる選択により、孤独を殲滅する必要がある。

それは、無類の夢を取り戻し、再び巡り会うためだ。

我々には、救われ・赦され・報われる余地はなく、後戻りなんぞ皆無・空無・絶無であり、
前に進む事さえ儘ならぬ状態であるが、人間・人類・社会・世界の死角に、先々へ進むための活路がある。

それを掴み取らねば、不意味な虚像で終焉を迎える。




些細と感じる事としたが、スマートフォンで主流となる、課金型オンラインゲームの場合としよう。

課金型としたが、ゲームの効率を左右する、アイテム(キャラクター)に納金する、基本料金が無料の製品を対象とする。

ゲームは、時代の要請に応じて、精細に調整されている。

そして、課金と無課金の落差が明確とされ、納金をせねば痒い所に手が届かず、
格別性や特別性を演出する事により、依存率の維持と向上が謀られ、
半ば当然かのように、納金を催促する構造となっている。

露骨に、金銭を要求するのではなく、システムがそれを促す機構で、非常に悪質な仕上りである。

時代の要請としたが、当然かつ必然の潮流により、
多面的・多層的・多角的・多元的となる、
催眠・洗脳・暗示の媒体と化している。

それにより、不意味が有意義・不自然が自然・異常が正常・不益が有益・危険が安全・不安が安心と錯覚させられる。

とどのつまり、ゲームを進める事により、方向性・価値観が歪められ、
嘗ては吐き気を覚えた事でさえ、平気でしてしまうようになる。

対象によっては勤勉さが失われ、大きく堕落してしまう場合がある。

脆弱な自我により、鄙猥な存在に手を伸ばせば、
ただでさえ伴わぬ存在が、どんどん伴わぬ状態となる。

痒い所に手が届かぬとしたが、最大限の欲求・欲望・欲動が満たせない。

それを満たさんがため、軽い気持ちでのめり込んで、大枚をはたいてしまうのだ。

納金せずに、希少性の高いアイテム(キャラクター)を手に入れるには、
実に膨大な時間が必要となり、ゲームには大多数のそれが内在している。

それに対し、ゲームに費やせる時間は限られる。

となると、ゲームを高度に攻略するための選択肢は、納金をするか・時間を費やし現を抜かすに絞られる。

逆に、痒い所に手が届きそうな見てくれにより、納金しなくとも大丈夫と思わせ、短絡的な人々を手駒に取る。




疑いなく、負担を減らす配慮がされている。

しかし、それはメリットと見せかけた、デメリットでしかないのだ。

あくまで、効果的に儲けるために拵えられた、お誂え向きの構造・設定・秩序にすぎん。

様々な謳い文句は、片手間・簡単とする文言は、釣りのエサと変わりはしない。

それに釣られ、ゲームを始めてしまえば、導入時の大盤振る舞いや、
定期的なイベントによって、納金への抵抗感が薄れていく。

要は、エサで釣りあげられて、大量のエサをも与えられ、ある程度までは楽に進める。

そのエサを食いつくそうとも、段階的・定期的にエサが与えられ、
暫くは円滑に進む事が出来るのだが、一定のラインを超えると苦しくなる。

その状況に対し、同様の性質を有するイベントが、定期的に開催される事で、何遍も繋ぎとめられる。

それには、全ユーザーを対象とするミニゲームが多く、ゲームを最初から楽しむ感覚を味わえる。

即ち、主流の流れと類似したループを、一つに内在させ反復させる。

なお且つ、趣向が異なる複数のループを共存させ、人々の感情を手玉に取るのだ。

それにより、多くが与えられ・得られる事で、どんどん抜け出し難くなっていく。

提供する側は、ループを設ける事により、時間稼ぎや荒稼ぎをしている。

そうなるは、キリがないゲーム(終わりのない)を、提供しなければならぬ都合と、
古参や極端なスピードで、出来ている部分をクリアした使用者を繋ぎとめ、
新規のユーザーを足止めしつつ、不都合を隠して絞り取るからだ。

一定のラインを超えると苦しくなるとしたが、難易度が上昇するゲームの性質を利用し、
それを極端に操作する事によって、イベントに目を向けさせ、時間を稼ぐケースがある。

絞り取るとしたが、イベントにおいてランキングの上位となれば、
限定の報酬(アイテム)が手に入るため、死に物狂いで時間と金銭を注ぎ込む。

イベントは、特定のアイテムを大量に集める事で、報酬との交換が可能な仕組が多いが、その期間が限定されているため、
全てを手に入れるのは困難であり、ましてランキングの上位となるには、それ相応の納金が不可欠となる。

つまり、より多くの交換用アイテムを集めれば、交換可能な景品の量と質が変化する。

とは言うものの、イベントの期間は限定されているため、体力や魔力による活動限界もあり、
極限までの時間を費やしたとしても、期間内に全てを獲得するは難しい。

体力や魔力としたが、体力が切れるとゲームが進行出来なくなり、魔力が切れると技の行使が不能となる。

ゲームによって、名称や扱いはマチマチであるが、
大概において活動を再開する場合、ボーナスとして与えられた回復アイテムを使うか、
時間の経過による回復を待ち続けるか、回復アイテムが切れて待ちきれぬ場合は、納金によりそれを得る必要がある。

使用者は、制限・制約・限界に追い立てられ、調整によって束縛されてしまい、
提供者に対し好都合となるよう、判断力・決断力を捻じ曲げられる。

制限・制約・限界に追い立てられるとしたが、現実と仮想の双方により及ぼされる、
膨大な事情により窮地に立たされ、心理的に追い詰められ、納金へと駆り立てられる。

調整によって束縛されるとしたが、期間内に攻略が容易なイベントから、期間内に攻略が至難なイベントが、
交互や特有の順序で開催される事で、使用者を拘束する場合があれば、回復アイテムを報酬に挟んだり、
様々な趣向を凝らす事により、持続性・冗長性・依存性を高め、執拗に時間と金銭をせびるのだ。

さらには、ランキングで上位(交換用アイテムを集めた数)ともなれば、
恒常的に格別・特別であると、擦り込まれた景品が手に入る。

死に物狂いとしたが、段階的な変化がある反復により、競争性と競争率は向上を続ける。

云わば、拘束・制御・支配・搾取の絡繰りに、人々が次々と飲み込まれ、
好都合な消費装置にされ、その競争は激しさを増していく。

競争としたが、誰かが出現させたボスを、協力して倒す仕組により、
交換用のアイテムやポイントを、集める形態のゲームとなると、
ボスを倒せば協力者同士のランキングは上昇するのだが、
数百・数千・数万でバラバラに実施するため、
その変化は微々たる次元で推移する。

与えるダメージの総量・止めを刺した者・ボスを発見した者で、
交換用のアイテムやポイントが割り振られるため、
協力者のランキングが上がろうとも、
自分は下がる場合もある。

使用者は、特定の順位に収まるため、足の引っ張り合いを強いられる。

ランキングは、課金者と無課金者による、大きな分かれ目があれば、納金の度合いで同じような順位を、
行ったり来たりするため、痺れを切らして納金をする者がいれば、より多くの時間を投入する者もいる。

イベントの後半ともなれば、収集度に対する報酬は底をつき、
少しでも条件が有利な者が、上位へと昇り詰めていく。

不利な者は、どんどん沈んでいく。

回数を経る事により、ボスが強くなるため、弱い者から落伍していくのだ。

それを打開するには、納金しか道が残されていない。

無課金者が納金をすると、面白いように順位が上がり、その優越感が病み付きになる。

その実は、不意味な快楽に溺れて、不意味を掴まされるだけだ。

いくつかのタイトルでは、トップクラスのプレイヤーは、
ユーザーの衝動を煽るために、提供者が拵えた存在となっている。




タイトルによっては、大盤振る舞いの中において、大盤振る舞いを続ける事で、使用者を鷲掴みにしている。

平たく言えば、アタリと大アタリが出続ける、アミューズメントマシンを、プレイし続ける感覚にされる。

使用者は、絶妙かつ微妙な浮き沈みの虜にされ、ゲームから目が離せぬ状態にされる。

虜にされるとしたが、アタリから大アタリが出続け、それらにより次々と景品が得られ、
ランキングの中間発表で上位となれば、それに対する景品が与えられる上に、
最終的なランキングで上位となれば、さらなる景品の獲得が叶う。

絶妙かつ微妙な浮き沈みとしたが、数種類の交換用アイテムが、流れるように手に入れられる。

その交換用アイテムを集めれば、一定の数により景品と交換が出来る。

ただ、その種類によって、希少性の高い景品に交換される確率が変化する。

より入手の難易度が高い、交換用アイテムであれば、レアな景品に交換され易い。

そうは言っても、その難易度は極端ではなく、難易度が低い交換用アイテムでも、
それでしか手に入らない景品があり、ハズレに分類される景品だろうと、
様々な付加価値を有しており、あっても困る事は無いのだ。

ランキングの景品に関しては、一位~千位~一万位まで発生し、
納金しなくとも時間を浪費すれば、それなりと感じる存在が手に入る。

様々な匙加減により、ゲームにゾッコンとなった存在は、骨の髄までしゃぶりつくされる。

目が離せぬとしたが、連日のログインに対しボーナスが与えられ、
ゲームを始めてから一定の期間であるが、毎日ログインすれば貰えるボーナスや、
日毎の成果に対し発生するボーナスがあり、最初から最後まで釘づけにされる者すらいるのだ。

ゲームは、イラストや実写による、キャラクターのカードを集めるモノが主流で、
カードのキャラクターを戦力とし、ゲームを進める仕様となっている。

ゲームにより、ケースバイケースであるが、カードをかけ合わせる事で、進化・強化する事が出来る。

同じカードを合成すると、キャラクターが進化する。

進化により、キャラクターの容姿が変化し、能力が大幅に上昇する。

違うカードを合成すると、優先順位を高くしたカードが強化される。

強化により、経験値が溜まっていき、一定の数値となれば、
キャラクターのレベルが上がり、能力が小幅に上昇する。

成年指定のゲームとなれば、進化するとキャラクターの露出度が向上し、
指先で弄り回す事が可能となり、その進化の度合いに応じて、
アダルトなシナリオやムービーの閲覧が可能となる。

ゲームを攻略すれば、ポケットサイズの大ハーレムを、その手中に収める事が叶うのだ。

人間は、一度手に入れてしまった快楽・悦楽を、そう簡単に手放す事は出来はしない。

何しろ、先々への冷めやらぬ、好奇心・探求心が生じている。

何にも増して、他のプレイヤーとの競争・対立・連携のシステムが組み込まれ、それに合わせた上位者の発表により、
気休めと自己満足による、チンケな思い込みでしかない、使命感に取り憑かれれば、どうにもならなくなる。

誰しも、つまらぬ虚栄心に囚われ、他愛もない事で生きがり、自分を慰めるのが大好きだ。

そのような、人間の弱さに付け込んで、時間と金銭を吸い上げる。




格別性や特別性を演出するとしたが、設定の調整により希少性を設け、
様々な趣向を凝らす事で、欲求・欲望・欲動を刺激している。

趣向を凝らすとしたが、多彩な要素を一つに混在させる場合があれば、システムは同一であるも、
コンセプトを変えて、新たなゲームを形成し、顧客の幅広いニーズに対応している。

端的に言えば、カードゲームであれば、そのシステムのテンプレートをベースとし、
容姿的なジャンルを変更する事で、複数のバリエーションを提供している。

システムには大差が無くとも、スクール系・アイドル系・ファンタジー系と言った、
大きく異なるビジュアルとストーリーで、複数のゲームを楽しむ事が出来る。

操作手順に大きな差が無いため、直感的に次々と手を伸ばせるのだ。

それによって、四方八方から吸い上げられる者がいる。

演出には、ゲームのキャラクターが、水商売の男性や女性のように振る舞い、
あの手この手で媚を売る場合があれば、アイテムの入手にギャンブル性を設け、
期待感や高揚感を操作する事によって、高度な常用癖を植え付けている場合もある。

水商売としたが、恋人・愛人のように振る舞う事で、強烈な愛着と執着を抱かせる。

ただし、全てはでっち上げられた、架空・仮想により齎される。

そうだ、勝手に拵えた設定により、不埒な搾取をしている。

依存率の維持と向上が謀られているとしたが、これまでの内容を含めた飴と鞭の上手な使い分けで、
マンネリ化を防止しつつ、キリが良き所を目指せば、キリがなくなる仕掛けで罠に嵌ている。

罠に嵌った存在は、少しづつ崩れ落ちていく。

人々は、じわじわと追い詰められ、誑かされ唆されるのだ。

これでは、精神と肉体を破壊する、違法な薬物と変わらない。

中毒となり、卑猥な発想を植え付けられ、人格・性格・感覚が歪められ、どんどん節操が失われていく。

一度、納金してしまうと、気長さが失われて、それまでに出来た判断・決断が出来なくなる。

提供者が、より良きゲームを追求すれば、その実態は悪質化を続けて、使用者は廃人にされてしまう。

その性質がある限り、どれだけ良いモノを提供しているつもりでも、
より良きを誠心誠意で創造していようが、使用者の人生を蝕むに変わらんのだ。

ゲームは、至れり尽くせりと見せかけて、得られるモノは多いと感じるが、
同一を大多数に提供する事で可能となる、効率的・能率的に儲ける仕掛けである。

実際は、奪い失い奪われる一方だ。

それは、構造的な必然による、生きるための当然だが、
そのような理由を掲げる事で、提供するを正当化しようが、
無償でそれを提供しようとも、それは言い訳にもなりはしない。

なんせ、人間を狂わせる機構をバラ撒き、それを構成するアルゴリズムは、
奴隷や兵隊や殺人鬼を形成する、それらと同様のギミックである。

現実と仮想における、無数の枠組と仕組と産物が、そのギミックで稼働している。

それが原因や要因となって、問題や不具合が発生した場合は、引き寄せられた末路に対する、
表面や上澄み程度の認識を絶する、莫大な咎を背負う破目となるを、忘却し失念してはならなない。

何と言っても、人を陥れるノウハウの集積をバラ撒いている。

されば、真似をされ・悪用されるは当たり前だ。

斯様な存在の提供に対し、間接的・直接的に加担すれば、魔の連環に追い回される命運となる。

ましてや、悪用する存在を知りながら、形式化した対応ではぐらかせば、それは尚更となってしまう。

もし、それに気付く事もなく、平然と提供するならば、余りにも性質が悪すぎる。

それを、適宜に是正するが叶わねば、赦されざる客体のまま淪滅する。

とは言え、是正が叶う道理は存在せず、過ちを犯すしかない実態なのだ。

そう、万人が直接的や間接的に、主犯や共犯となる事で、手を罪で染めなければ、生きられぬ実態である。




注視すべきは、皆がやっているから大丈夫なのではなく、
皆でしてしまっているため、大丈夫ではなくなっていく。

青信号を、皆で渡っていようとも、轢き殺されるが実相であり、
赤信号・黄信号・青信号は、蜃気楼と変わりはしない。

そんなこたあ、多くの者達が紀元前から、知り尽くしている事である。

その憂いを感じた人々は、政治や宗教の開祖や礎となった。

さりとて、そこには有り余る盲点があった。

だから、未だに試行錯誤を続けている。

もしくは、碌でもない状態で、確たる変化も無く、胡坐をかいている。

これまで、伴わず知らなすぎる状態で突き進み、格別性や特別性をでっち上げてきた。

近々は、それを碌に考える事も無く、打ち消しに躍起となっている。

そう、茶番を茶番たらしめ、偽善を偽善たらしめ、義務・責任・価値・権利の不在を証明している。

さすれば、興が冷めてしまうのだ。

このままでは、五里霧中から脱却が叶わぬ状況で、
現実がゲームと同じ状態であるが露呈し、あらゆるが凄まじい勢いで零れ落ちる。

しかしながら、現実はゲームではなく、ゲームは現実ではない。

不用意に、その境界線を溶け込ませれば、収拾がつかぬ事態を呼び覚ます。

とは言っても、それを明確とすれば、興が冷めてしまうのだ。

絶望と後悔を緩和するには、些細な事実を知らなければならない。

阻止するには、より良き術と答えが必要となる。

それがなければ、皆で仲良く狂い果ててしまう。

そうなるは、自縄自縛による自業自得であり、無知蒙昧による因果応報であり、
自然的な潮流によって齎される、ありきたりな出来事にすぎない。

その時、自我が脆弱であるならば、些細な事実すら知らなければ、
簡単に流れに呑みこまれて、終わりなき悪夢に魘される。




だいたい、提供する存在が絶対の糧ではなく、
それによりそれを得るのであれば、相応の問題と不具合が発生する。

それに、効率的・能率的に儲ける仕掛けとしたが、そう易々と思惑の通りになりはしない。

それでも、実施している事は変わらぬため、背中の重荷は増加を続けてしまう。

例えば、ゲームをリリースしてみると、使用者は順調に増加を続けるも、
無課金者が大半を占め、思うように収益が上がらない。

そのため、試行錯誤を実施する事で、納金を促す仕掛けを調整する。

それにより、利益は期待値に近くなるが、離れてしまう使用者も見受けられる。

であるからして、課金者・無課金者の双方に対し、
より有益なゲームを探求し、多くの改良を進めていく。

多様性・多彩性の適用によって、使用者は増加の傾向となり、
既存の設備では追い付かなくなり、将来を見越して設備投資をする。

ところが、ランニングコストに見合う収益が得られず、それが十分な状態であったとしても、
より多くの利益を上げるため、獲得したノウハウをベースとし、次々とゲームをリリースする。

そうなると、それらを上手に併用する事で、無課金で巧みに遊ぶ者が出現し、ゲームを次々と乗り換えていく。

極端に、時間が余った人々の増大や、己達が生み出した存在により、
予想だにしなかった状態となり、パフォーマンスの維持が困難となる。

それに対抗するため、何らかの手段を打つと、納金をしている使用者が、離れていく可能性がある。

それには、複数の流れがあるが、無課金者の反応を見て、課金者の目が覚める場合があれば、
自分自身で馬鹿馬鹿しいと感じ、止めてしまう場合もあるため、下手な措置を講じる事は出来ない。

上記とは異なるが、異常な課金者との開きによって、
無課金者が馬鹿馬鹿しいと感じ、ゲームを止めてしまう場合がある。

まあ、これは些細な事だが、段違い・桁違いとなる、
余りに致命的すぎる欠陥に、提供者も使用者も気付けない。

そんなだから、吠え面をかく破目となり、立ち消えを余儀なくされる。

時に、大規模な障害の発生により、大きな損失が発生する事があれば、ブームが過ぎれば使い捨てられてしまう。

おまけに、ゲームを増やし続けるも、収益が上がらないからと、課金者との兼ね合いで、廃止するも困難であり、
続きを作り続けるだけでなく、利益を上げる事にも追われ、後戻りが叶わない状態が、深刻化の一途を辿るのだ。

あまつさえ、研ぎ澄まされた凶器によって、多くの人々を切り裂いたため、
これからもそれを強いられるため、もはやどうする事も出来ない。

なんと言っても、それを提供する事により、当事者・局外者によって、これまでに引き起こされた弊害と、
これから発生するそれらによる罪悪に、生きていようが・死んでしまおうと、皆で一緒に追い回されてしまう。

弊害の内訳は膨大であるが、関係者は良かれと思い、原因や要因を形成し、
誰かを地獄へ引き込み・誰かに地獄に引き込まれているケースがある。

例えば、大多数のクリエーターに、チャンスを提供するつもりでも、
単価は下落を続けてしまい、業界全体で極端な使い捨てを、連綿と反復するようになる。

そうなるは、システムを模倣する者が溢れ、シェアの奪い合いとなって、シェアそのモノが頭打ちとなり、
単価の維持が出来なくなり、業界全体によるクリエーターの扱いが、より煩雑へと推移していくからだ。

何より、それらの提供が不能となった場合、寄る辺を失った人々が、暴挙を働きかねんのだ。

寄る辺を失うとしたが、短期の解決が明確で、それだけであるなら、杞憂ではあるのだが、
それを超える有事となれば、人々を狂気へと駆り立てる、相乗効果の一因となる。

所詮、諸刃の剣である。

提供者と使用者は、どうでもよい事のためにただ振り回され、
奪い失い奪われるだけでは飽き足らず、溢れんばかりの罪咎を押し付けられる。

結局は、相互に自分自身を食い潰し、互いに損をするだけだ。

食べる・生きる・遊ぶためとは言え、そうとしかなりはしない。

チャンスを提供するつもりとしたが、建前・自己都合・利己主義による、想像・空想・妄想にすぎない。

多寡が知れた事で、無闇矢鱈に振り回して、使い捨てるだけなのだ。




万人が、敗残者にしか成り得ぬ世界で、誰しも運命を弄ばれて、誰もが使い捨てられる。

誰かが犠牲となる事で、誰かの幸せが成り立つと、垂れ流す者が数多いるが、
犠牲がある限り成り立つ道理はなく、奈落に向かってまっしぐらだ。

そんな、委細承知の事を悲観し、余計な事をしてしまえば、関節的や直接的となる、無作為な虐殺・殺戮に加え、
作為的な他殺や自殺に及んでしまえば、好都合な考えでそれらを決行すれば、不都合な末路を辿るのみである。

はたまた、好都合と不都合を入れ替え、計略を果たそうとしても、辿る末路が変わりはしない。

下手をすれば、自分自身に降り注ぐ、絶望と後悔が膨れ上がる。

我々は、人間と呼ばれる悪循環として生まれ、人生は悪循環の花園でしかない。

人生において、政治と呼ばれる悪循環に染まり、
宗教やゲームのような悪循環に嵌り、その袋小路の坩堝で浪費されていく。

悪循環が、無数の悪循環を生み出して、それらに弄ばれながら、次々と儚く消えるのだ。




我々が存在する、この空間の始まりと終わりを、最大のループとしてみよう。

その中には、始まりと終わりを告げる、無数のループが格納されている。

宇宙・銀河・太陽系・地球と、スケールによる階層構造を設ければ、
人類による文明なんぞは、非常に小さな灯火である。

人類は、術も答えもなき状態で、泥梨を弄り回してきたが、
この世の地獄であるを変えられず、不遜が極まる試行錯誤を続けている。

万人は、その事実と碌に向き合えず、悪化させるばかりである。

どれだけ清く生きようが、何らかの活動をしていようが、見誤り・履き違え・思い違いをしている。

その状況下で、右に行ったら・左に行ったらどうなるか、分からない人材が左右する政治は勿論、
信仰を捧げるだけの宗教なんぞに縋れば、どうにかなる事でさえ、どうにもならなくなる。

だからこそ、己を磨かなければならんのだ。

それを、念頭に刻んで進めれば、逃げ惑うばかりにならず、現実の直視が出来るようになり、
どうにもならなくなった場合に、さらにどうにもならなくなるを、
些少ではあるが緩和するが可能となる。

さすれば、己を格別・特別・完全・完璧と宣う、どこまでも救いようがない、負け犬になるを避けられる。




正確かつ精確に、置かれている立場を把握・理解し、どうなるかを知悉し判断・決断をせねば、
対処が至難な問題や不具合が発生してしまい、それへの対応を迫られた場合において、
見当違いの判断・決断をするしかなく、悪化させて繰り返すばかりとなる。

これまでに記載した内容を、念頭とするは酷であるが、
せめて以下だけでも隅において、軽減しうる試みをすべきだろう。

長期に渡って、顕著な問題や不具合が見受けられなくとも、
認識が可能となる領域の水面下で、それらは着実に膨張を続ける。

認識が出来たとて、それを認めてしまえば、どうにもならなくなる。

それでは、日々の糧を得るに、支障をきたすのだ。

そのため、完膚無きまでに手遅れとなり、取り返しがつかぬ状態となるまで、
知らぬ存ぜぬの一点張りを続け、急激な勢いで転げ落ちてしまう。

取り返しがつかぬ状態ともなれば、もうどうする事も叶わんがため、
内外と足並みを合わせる事で、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

然らば、総体の転げ落ちる速度が、さらに加速してしまうのだ。

加速するは、問題を引き起こしたのに、大した罰を受ける事も、責任を果たす事もなく、
それに便乗すれば免れると思い込み、後に続く事でトンズラする者達で溢れ、
抜本的・根源的に改める事もなく、皆で悪化させて繰り返すからだ。

そんなだから、どうでもいい事にかまけて、同じ穴の狢で終わってしまう。

既に、人間・人類・社会・世界は、云わば個人・集団・国家・国家集塊は、
最小から最大の単位において、本当の事を知らずに暴走を続け、あるゆるを有名無実と化した。

のっけから、そうとしかならぬ状態で、無闇矢鱈に突き進んだのだ。

現況は、挙句の果てが無数に折り重なった、超絶絶頂・究極極大・臨界突破の畢竟の最中であり、
感覚が麻痺しているため、ハイリスク・ハイコスト・ノウリターンであるに気付けずに、
生きていようが・死んでしまおうと、極端な次元でどうにもならなくなっていく。

そこで、他殺や自殺に及んでしまえば、絶望と後悔に劈かれる末路がある。

人を殺せばどうなるかだけでなく、自分を殺してしまえばどうなるか、
歪みが少ない基準・水準において、教えてくれる者は僅かである。

有象無象は、穢れた綺麗事や御託を並べるに始終し、偽善と茶番に明け暮れるばかりで、
自殺する者は超希望的観測を抱き、死んだり・死ねなかったりした。

ありきたりな次元でも、本当を教えてくれる者がいれば、思い止まれた者は、零ではないだろう。

精確に限りなく近ければ、把握し理解する能力があれば、
多くの者が自殺や他殺を断念し、何をすればいいか大混乱する。

根源的かつ根本的な歩み方を、包括的な改善と是正によって、適宜とする選択をしなければ、
等価交換のつもりであっても、どれだけ有利と感じようと、不意味となるように出来ている。

何をしようが、損をするだけで、例外は存在しない。

また、包括的な改善と是正が枢要だが、既存の枠組と仕組に染まれば、手段を導き出す事が叶わぬのだ。

さらに、偽善と茶番の操り人形であるため、率直に罪や間違いを認めようと、
それを認めずに逃げ回ろうと、偽善や茶番で終わってしまう。

謝罪や逃走に、打算的な考えを潜伏させれば、益々どうにもならなくなる。

既存の枠組と仕組は、碌な受け皿を用意する事もなく、規制と改悪ばかりを続けている。

さすれば、リスクとハザードは増長を続ける。

してしまえば・させてしまえば・されてしまえば、何が引き起こされるのかを考え、
十二分となる未然や事前の処置を施さずに、進んできたツケは大きすぎる。

それに対し、どうすべきかを追求せねば、埒が明かんのだ。

けれども、被害者であり加害者である存在は、それと向き合う事すら儘ならない。

だがしかし、生き方を変えるは、そう簡単ではない。

何をおいても、多くが伴わなければ、悪化させて繰り返すのみだ。

だからこそ、どうすべきかが肝要となる。




危惧すべきは、このままの状態で突き進んでしまえば、
本当も答えも術も不在の状態で、裁きの効力が喪失する時が来る。

そうなるは、偽善と茶番に明け暮れる醜態で、偽善を偽善たらしめ、茶番を茶番たらしめ、
格別性・特別性が喪失を続けてしまい、あらゆる抑止力が損なわれるからだ。

抑止力が損なわれるとしたが、法による裁きは気休めと自己満足でしかなく、それに満たなくなるが露呈すれば、
加害者は増長を続けてしまい、被害者の遺族のタガが外れ、加害者側と被害者側が対立し、
血で血を洗う戦いが繰り広げられ、より後戻りが出来なくなってしまう。

加害者は、刑に服せば許されるのだと、思い決めする傾向にある。

ただし、償えぬ事に対する確信を得れば、自暴自棄となってしまい、罪を重ねるようになる。

そして、被害者側からしてみれば、加害者を極刑にしようとも、
気休めと自己満足でしかなく、心の底では許せはしない。

勿論、許せぬ気持を露わにする者もいる。

それが、気休めと自己満足にも程遠く、余りに多くを奪われたと痛感すれば、
加害者側の一族に意趣晴らしをし、やり返される事もあるのだ。

他にも、様々なケースの発生が懸念される。

過去の時代となれば、これはより顕著な状態だった。

時に、加害者と被害者と傍観者は、支配者や権力者や指導者だった。

その身を安泰とし、憎しみの連鎖を緩和するにも、裁きを与えるしかなかった。

残念な事に、その程度で頭打ちとなり、胡坐をかいてしまった。

その不十分さが露見してしまい、対応を求められる時が来れば、余りに遠ざかり・伴わぬため、
理屈と見せかけた屁理屈を捏ねるだけで、悪化させて繰り返すのみとなる。

繰り返せればいいが、絶滅する場合すらある。

人為的に、それを確定的とする存在を、この世界は内包しているのだ。

かなり大雑把に記載したが、裁きの効力が喪失する流れは複数あり、
抑止力が損なわれる程度ではなく、完全に喪失する流れが存在する。

そうなると、救い・救われ、報い・報われ、赦し・赦されようと、
人々は何も知り得ぬ状態で、とんでもない事をしてしまう。

どのような事態に突入しようと、理不尽による涙を極小とするため、しなければならぬ仕事がある。




我々は、悲しい・苦しい・辛いを知らなければ、何が楽しく・嬉しく・面白いのか分からない。

逆もまた然りであり、根源・根本・抜本において、概念と定義を把握しつつ、
感覚を実感し共有する事によって、実質と本質を理解する必要がある。

時折、その感覚が逸脱する者がいるが、それは捻くれているのではなく、
自分自身と周囲からの影響によって、そのように仕上がっただけだ。

逸脱する者がいるとしたが、周囲に合わせて演じる者もおり、
言葉では語りつくせない、凄まじい差があるのだ。

己が、演じているだけだと、気付かぬ者さえいる。

そもそも、そう言うモノだと仕込まれてきただけで、線引き出来るほど単純なモノではない。

原初より、便宜上の流れによって、偶々そうなっただけで、杜撰な解釈による線引にすぎず、
それをどのように刺激したら、何が引き起こされてしまうのか、碌な状態で教えてくれる者はいない。

にも拘らず、好き放題が続いている。

だから、とんでもない事が起きてしまう。

スマートフォンのゲームなんぞ、氷山の一角から滴り落ちた水滴であり、各々のゲームに関しては塵と変わらない。

とは言え、悪影響と降り注ぐ罪過は、塵だけでも余りある状態だ。

商売のため、多くの争いの種が生み出され、未熟かつ迂闊な情報の流布により、偏見と軋轢が増大されてきた。

それが、反復・継承される事により、人々は思い決めの怪物にされ、どんどん薄っぺらくなっていく。

薄っぺらくなるとしたが、打開策が伴わぬ情報の餌食となった者が、それを劣化させてバトンしている。

さすれば、より後がない状況へと追いやられる。

植え付けられる情報により、多くの人間が同じサイコロにされ、挙句には同じ目しか出なくなる。

もとより、サイコロでしかないため、その範疇で転がされ続ける。

されど、そんなだからこそ、ここまで来れたのだ。

しかしながら、それは正解であり・誤解であり・不解であり・何でも無い。

そろそろ、本当の仕事を始めなければ、瞬く間に跡形もなくなる。




三段(六)に続く。