2014年01月12日 01:59 三段(六)


スマートフォンにおける、ゲームに関する話をしたが、提供者だろうが使用者だろうと、
同時に何をしているのかに対し、好都合な部分に執着しがちとなる。

例え、不都合に目を向けたとて、表層の上澄み程度であり、極端に乖離しているため、碌に改めるが叶いはしない。

提供者が、使用者の負担を減らすべく、画期的な対策をしようとも、打算的な思惑が介在する、
浅薄な対応にすぎないため、双方が心得違いをしたまま、堕落を続けるだけとなる。

打算的な思惑が介在するとしたが、そうではないと否定しようとも、
それで金を稼いでいる限りは、そうとしかなりはせんのだ。

金を稼いでいる限りとしたが、それを無償で提供しようとも、
何かをさせている時点で、そうとしかなりはしない。

どのような対策をしようとも、堕落を続けるだけとなるは、そうなる由縁を知らぬからだ。

しかし、その訳合を知ったとて、どうすべきかが伴わねば、どうする事も出来ぬまま、淪落を続ける運命である。

淪落を続ける運命としたが、姑息な手段の寄せ集めにより、人々を欺き唆しているため、
転落を続けるは当然であるが、様々な目論見が崩される事で、その速度が必然的に加速する。

姑息な手段の寄せ集めとしたが、兼ねてより実存している、
悪徳詐欺商法でも用いられる、人を誑かし陥れる技法の集積だ。

遍く存在が、それらを研ぎ澄まして、所構わず流布している。

されば、どうなるかは目に見えている。

目論見が崩されるとしたが、仕様を分析する事によって、
模倣した存在が次々と生み出され、予定が狂わされるは良くある事だ。

加えて、制限・制約を解析する事により、将来的な計略すら見透かされ、模倣犯に先を越されてしまう。

制限・制約を解析するとしたが、作為的に実装していない機能や、不足する能力や作用が吟味され、
展開を推察・予測・想定されて、その延長線上にある存在を、先にリリースされてしまう。

例えば、流通の機能を採用せぬ事により、ゲーム内のアイテムの価値を、
じっくりと高めてから、段階的な緩和によって、堅牢な地位を築き上げる。

要は、トレードの機能を実装せず、その予定すらないと明言し、格別性と特別性を高めて、
十分な状態になってから、それを解禁する事により、充実化と活性化を実現する。

簡単に言うと、ユーザー間の流通を不可能とし、手に入れるための投資をさせる。

その投資によって、アイテム(キャラクター)への価値観は上昇し、
それを入手する効率を左右する、課金アイテム(回復)の価格が定着していく。

また、アイテム(キャラクター)を購入する事に、その価格の設定に対し、違和感を覚えなくなる。

さらに、トレードの解禁により、取引が盛んとなれば、より回転が速くなる。

逆に、厳格な制限・制約を固持する事で、価値と意味を堅持・上騰させる場合がある。

自分の力でしか、手に入れられない仕様により、得難い感覚を提供するのだ。

その感覚を、専用のコミュニティで共有させれば、価値と意味は上昇を続けていく。

成熟したコミュニティに参加させれば、新参は古参の価値観に同調していく。

タイトルにもよるが、提供する媒体を限定する事で、それを段階的に広げる事で、価値と意味の最適化を図る。

ソフト・ハードの双方に対し、厳重な制限・制約を課し、十分に成熟させてから、段階的に解放する場合と、
力量の多大な不足により、段階的な増強をする事で、完成度を高めるのとでは、基幹に大きな差が生じる。

作為・無作為のどちらにせよ、類似した流れになるのだが、潮流を作為的に形成しうる、腕前がある方が盤石となる。

確かに、常にそうなるとは限らないし、初歩的な傾向(ノウハウ)の模倣だけでは、先駆者の優位を看破するは難しい。

ひいては、そのような傾向が見極められ、ゲームを提供する媒体そのもの、
既存のソフト・ハードによる拡張で、既成のゲームを超えた存在が、次々と送り出されてしまう。

もしくは、ジャンルによる傾向を見澄した、その究極系とも言える存在と、
独自の技術を組み合わせた、圧倒的な存在が提供される。

とどのつまり、システム・スキームを模倣され、ストーリー・ビジュアルさえ真似をされ、
それらを洗練するだけでなく、様々な技術との融合によって、凌駕する存在が生み出される。

速度が必然的に加速するとしたが、後でどうなるかを碌に考えていない、粗末が極まる延長にすぎぬため、
致命的な欠陥の払拭は叶いはせず、悪質化させて反復させるばかりで、より埒が明かぬ状況へ沈んでしまう。

後でどうなるかを碌に考えていないとしたが、それによって生み出されたつまらぬ存在は、
後でどうなってしまうかを、より考えずに生み出された存在に、瞬く間にかき消されてしまうのだ。

そうでなくとも、後の事を考える能力・機能・作用が欠如し、浅知恵と悪知恵ばかりを働かせて、
余計な事を反復させすぎたため、何をやっても裏目となり、全てが仇となり自滅する。

ちなみに、些細な事実・些少の本当を有する者は、未満である者が生み出した存在を、超越する存在を容易に創造する。

さりとて、上には上がいくらでもあり、下には下がそこそこある。

猫も杓子も私も君も、どん底でもがいているだけだ。

何と言っても、本当に面白いのか良く分からない、面白いと感じるようにしただけの、
反復が心地よい程度のゾンザイ風情では、簡単に使い捨てられ・忘れ去られてしまう。

面白いと感じるようにしたとしたが、そうする事で傀儡・木偶に、仮の魂を与えてきたのだ。

人間・人類・社会・世界は、それを連綿と繰り返してきた。

その傀儡・木偶には、我々も含まれている。

極端に乖離しているとしたが、広汎な洗脳・催眠・暗示に染まり、根暗で後ろ向きに生きるを、何とも思わなくなっている。

それによって、有識者とされる存在に対し、どうすべきかを尋ねれば、根暗で後ろ向きな解答しか得られない。

その解答は、氷山の一角から滴り落ちた、水滴の中を漂う塵に等しい、極僅かな認識・知識から齎される。

それを参考にしてしまえば、より深い暗澹へと沈んでしまう。

根暗で後ろ向きに生きるを、何とも思わないとしたが、人間・人類・社会・世界は、
争いの原因・要因・理由たる、枠組・仕組・存在を自ずと形成し、自作自演の戦争を続けている。

戦争としたが、万人が敗残者にしかなり得ぬ、稚拙で憫然たる不意味な喧嘩だ。

その喧嘩では、何も勝ち得るが叶わぬ、自分自身への苛立ちを、誰しも己に叩きつけながら、誰もが互いにぶつけ合う。

自分自身への苛立ちとしたが、思惑に対し不都合な存在を、批判・批難・嘲弄・揶揄するも、
自己中心の尺度で考える限り、自分本位な内容を連ねるため、己の欠点を露呈・吐露する事になる。

なんせ、先入観・固定観念・取得情報を根底とする、建前・自己都合・利己主義に踊らされ、
相手側の設定を碌に加味せずに、腐った実相に囚われた状態で、思っている事を並べてしまう。

端的に言えば、視野狭窄かつ蒙昧無知な醜態で、自分に歩があると思い決めして、
自身が言われ嫌な思いをした内容や、知っている情報の範疇において、
後でどうなるかを碌に考えず、次々と繰り出してしまうのだ。

言い換えれば、これまでに解決が叶わなかった、有象無象の受け売りをするだけで、
対立を続ける同じ穴の狢と、同等の次元で頭打ちとなり、期待を裏切る事しか叶わない。

そう、思わせ振りな言動と行動により、達成が不可能な事柄に対し、
期待感を煽りまくるも、上っ面を整える事でさえ、満足に叶わぬ実態であり、
期待させた側だろうが期待した側だろうと、己が無能により立ち消えを余儀なくされる。

もとより、思惑に対し不都合な存在を、どうする事も出来んがために、批判・批難・嘲弄・揶揄をしてしまう。

そうする事で、自己が無能力者であるを、紛らわそうとしているのだ。

よしんば、冷静・賢明・聡明を装う事で、相手を叩きのめしたつもりでも、
多寡が憂さ晴らしにすぎぬため、惨憺たる末路へとまっしぐらだ。

相手側の設定としたが、それを可能な限り取得して、粗方の共有が出来ているかを確認し、
十二分に配慮した対応をせねば、四方八方から叩きのめされる。

そうなるは、敵・味方の神経を逆撫でするだけでなく、周囲を失望させるだけで精一杯だからだ。

敵・味方の神経を逆撫でするとしたが、互いの認識の相違により、折り合いがつく事はなく、
相手に合わせるべくもなく、馬鹿の一つ覚えによって、相互扶助に明け暮れている。

愚の骨頂たる存在は、その猿芝居に振り回され、己の欠点を露呈・吐露する。

実質と本質を把握し理解する存在は、三文芝居と滑稽な観客を、馬鹿馬鹿しく見つめている。

または、裏で糸を引く事により、三文芝居を企て・長引かせ、愚かな人々を手玉に取る。

どうであるにせよ、火に油を注ぐが限界であり、時間を稼ぐも儘ならない。

実相を洞察・実態を熟知・真相を知悉する存在は、
それらの水面下で馬脚を現す事もなく、
周到に条件が整うのを待つ。

それにもピンからキリがあり、最上たる究極から最下たる窮極を抱擁する、
超克する術と答えを有した、個人・集団からしてみれば、その手足の一部にすぎない。

けれども、上を見れば方図がない。

火に油を注ぐとしたが、自国の安寧を揺るぎない状態とするため、某国を敵性国家として教育したのであれば、
第三国の批難・批判を始めてしまえば、扇動された人々の矛先は、手頃な存在へと向けられる。

植付けられた、怒り・憎しみを発散するにも、可能な範囲で実施するしかなく、
植え付ける側に関しても、様々なしがらみによって、有限的な対応しか叶わない。

偽政者が、批難・批判を繰り返すも、思惑の通りになりはせず、支持した無能な人々の牙は、無才な先導者へと向けられる。

何らかの譲歩を引き出せたとて、それまでの蓄積によって、それで満足せぬ者は多く、
譲歩を引き出した存在を抹殺する事で、殲滅したい相手との命の奪い合いを、声高に実現する場合さえあるのだ。

あるいは、偽政者が自己保身を図って、戦争をおっぱじめる場合すらある。

経緯がどうであれ、戦争と呼ばれる大喧嘩をすれば、奪い失い奪われるばかりであり、
気休めや自己満足にもなりもせず、生きていようが死んでしまおうと、
膨れ上がり加速を続ける、罪科に追い回されてしまう。

周囲を失望させるとしたが、己が正義・正当・正統であると宣い、権利・義務を主張・誇張する存在は、
自己が不義・不当・異端であるを明確とし、弱点をひけらかしているため、簡単に足を掬われてしまうのだ。

原初から、それらが不在であるは無論であり、成立する道理すら不在なため、虚飾をせずにはいられない。

足を掬われるとしたが、無数の側面があるにも拘らず、己に好都合な認識を振り翳し、内外にバラ撒いてしまうため、
敵対する側は吐き気を覚え、局外者さえ疎ましく感じ、味方すら違和感を覚え、指摘をするようになる。

そもそも、同じ穴の狢であるため、それに相手が応戦すれば、
自己と相手の欠点を並べ、互いに転げ落ちるだけだ。

結果、虚飾をする存在・対立を深める存在は、周囲から孤立・敵視されるようになる。

何より、関係者・局外者における設定を、可能な限り同一とせぬ状態で、
余計な事を働いてしまえば、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

ただし、実相を改善・是正しうる、より適宜な変遷を促さねば、それすら儘ならんのだ。




政治家は、正真において、国家・国民を想っていれば、絶対にしてはならぬを平気でしている。

宗教家は、正真において、信仰・信者を想っていれば、絶対にしてはならぬを平気でしている。

万人は、真実の言明において、家族・友達・周囲・自分の事を考えていれば、
確実に許されざる行為を、碌に関知せずにしている。

そこで、それらの明確化に繋がる失態を犯せば、家族・友達・周囲・自身が、ぶっ殺されるだけでは済まされない。

であるからして、それに繋がる情報を流布するは、いささかの危険を孕むは事実である。

さあれども、そうなるを知らなければ、備えるも・退けるも叶わんのだ。

ましてや、必然かつ当然によって、人間・人類・社会・世界が、そうなる道を歩んでいる。

従って、それを回避するは至難である。

かと言って、そのような末路を辿るは、諸賢には相応しくない。

疑いなく、お誂え向きの末路ではあるが、術と答えがあるのであれば、
不足を知る事によって、それを補えるのであれば、くぐり抜けねばならんのだ。

されども、その機会を失う可能性がある。

最初から、存在しない可能性もある。

そのような可能性を考慮せねば、肝心な機会を得る可能性さえ喪失する。

絶滅を凌ぐためにも、以下を心に刻まねばならん。

時に、自分や自分達は大丈夫かのように振る舞い、相手を執拗に罵るだけの連中がいるが、
人間・人類・社会・世界を構成する存在である限り、ピンからキリまで愚図・下劣・下等でしかない。

問題と向き合う者達にしても、肝心がゴッソリ抜け落ちている、無知・無智・無恥な役立たずである。

そのような図星を言われると、愚蒙な者は大声でそれを否定し、より愚劣な者は乱暴で打ち消そうとする。

特に薄汚い連中は、罵声や暴力を奮う事もなく、理屈・道理的・論理的と見せかけた、
屁理屈・非道理的・非論理的な内容に縋り、傷を嘗め合いながら腐らせていく。

中には、意気地の欠片もない醜態で、陰口を叩くだけの蛆虫もいる。

とは言え、野次馬連の正鵠を突こうが、目くそ鼻くそを笑うにすぎず、碌な者は一人もいなかった。

唾棄すべきは、目の前にある問題と不具合に、立ち向かう存在を尻目とし、
図星を突いてしたり顔となるだけで、それだけで終わる存在である。

吐き気を覚えるは、それが図星となる理由さえ知らず、大半の者が見本を振り回している。

その見本は、壁にぶつかり諦めた存在による、厚顔無恥な逃げ場にすぎない。

意表を突き、打開策を示す存在でさえも、
言動・行動・精神・肉体・感情・理論が四散し、
危険性・危害要因・不確実性を助長するばかりだ。

だから、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続け、己・己達が幻術に嵌り、錯覚の中を生きている。

幻惑に溺れている存在は、タブーを破る事で新しさを演出し、不祥事を積み重ねるばかりである。

タブーを破るとしたが、好循環な悪循環の乱立・拡散・浸潤により、
総体の悪循環化が増悪してしまい、何をしても上手くいかなくなる。

好循環な悪循環の乱立・拡散・浸潤としたが、絶対の糧を提供せずに儲ける者、
中間搾取で儲ける者が増殖し、市場がその巣窟へとなり下がる。

それを解す事もなく、緩和や投資をしてしまえば、より後戻りが叶わなくなる。

コンテンツに関しても、換骨奪胎に陰りが生じ、猟奇・狂気・卑猥に走り、公的良俗が粗末になる。

だからと言って、遥か手前で空中分解しており、疾っくに手がつけられぬ状態で、今となっては嘯くが関の山なのだ。

そのため、底抜けに破廉恥な醜態であるのに、あらゆるは杞憂であると決めつけて、どんどんどうにもならなくなっていく。

相手を執拗に罵るとしたが、気に食わぬ個人・集団を嘲笑せんがため、
レッテルを形成し愚弄するが、まともな個人・集団は存在せず、
自分勝手な卑しい虫けらは、お節介で目を回している。

これ程までに見苦しく、救いようがない存在は、この地上では我々だけだ。

しかしながら、煩雑に概念と定義を形成し、
偏見や軋轢を生じさせて、自前の問題や不具合により、
自慰や自傷に励まなければ、それにより自画自賛をせねば、
何も無い事に気づいてしまい、気休めと自己満足が出来なくなる。

気休めと自己満足としたが、不意味な自壊にすぎない。

見苦しい存在は、バレなければ大丈夫と高を括り、同義的な判断を誤りがちとなる。

そう、監視・検閲・選別・粛清・報復のため、どんな仕組や枠組があるかを知らず、
些細な事実を知る由もない状態で、余計な事をしてしまうのだ。

まして、本当が追い打ちをかける真相なんぞ、微塵も知らぬから罪を犯してしまう。

そうやって、自分自身に裏切られて、歯止めを掛けるが叶わず、どんどん手遅れとなって、
出し抜いたと思っていた存在は当然とし、見知らぬ存在にさえ出し抜かれてしまう。

そんなだから、他殺・自殺・窃盗・誨淫・強姦・姦淫・詐欺により、想像を絶する絶望と後悔に苛まれる。

ここまでの内容さえ認められぬ、悔い改めぬ愚か者であるならば、救われ・赦され・報われる余地はない。

だがしかし、こうなるは必然かつ当然であり、それを認められぬも性質である。

認めたとて、多寡が一時凌ぎによる、偽善と茶番でしかない。

偽善と茶番としたが、償うための枠組と仕組は、それによる産物にすぎず、
罪を償える方法がないため、気休めと自己満足の手段を、人間が確立したにすぎない。

それに従えば、どうにかなると思う時点で、どうにもならぬ実態なのだ。

だから、絶え間ない過ちを継続し、その罪は増加・増悪を続けている。

そこからの脱却によって、先々へと進み続けられる選択をせねば、目先や自分の事すら考えられぬ存在が、
いつの間にかとんでもない事をして、いつの間にか消えてしまうのだ。

忘却してはならぬのは、罪を犯したのであれば、それ相応の罰を受けねば、切り捨てられてしまう事だ。

救われ・赦され・報われる余地はないとしたが、狡猾かつ杜撰な宗教や政治によって、
救われぬ・赦されぬ・報われぬ期待値が、リアルタイムで跳ね上がり続けている。

もし、神がいるとするならば、懺悔に不可欠となる状態に対し、遥か手前で堰き止められたまま、暴落の一途を辿っている。

その実を把握・理解する事で、篤実かつ闊達な精神を育み、互いに誠意を尽くさねば、絶望と後悔に劈かれる。

ただ、誠意の尽くし方を勘違いすれば、解決すべき問題や不具合を見誤れば、
伴わぬ状態で譲歩をしてしまえば、悪化させて繰り返す破目となる。

愚図・下劣・下等でしかないとしたが、そうとしかならぬ構造なのだ。

人間的存在は、排水が不能の洗濯機を回り続ける雑巾であり、洗濯槽には汚水が垂れ流されている。

そのために、大人になる頃には腐れ切っており、子供の頃に憧れた職業にしても、汚職や衰萎で腐朽している。

雑巾は、次々と洗濯機(世界)へと投げ込まれる。

いつしか、洗濯槽(社会)は腐乱した雑巾で埋め尽くされ、洗濯(選択)は不可能となってしまう。

洗濯が不可能となるまでに、粉々になっている雑巾があれば、洗濯槽から零れ落ちるソレもある。

排水が不能としたが、雑巾の残骸が排水ホースにつまっている。

余談だが、洗濯機の提供者・使用者は、その状態を放置している。

これまで、罪過は累積の一途を辿るのみだった。

そうなる道を、只管に突き進んできたのだ。

そこから這い上がるには、肉体・精神・心・魂・自分・人間・人類・社会・世界とは何か?

理論・感情を扱うにしても、それらが本当は何であるのか?

そして、どのような環境において、どのように運用しているのか?

政治・宗教とは、何のためにあるのか?

実の所、それらは何なのか?

だから、どうすべきなのか?

それを可能な限り、鮮明かつ顕著に取得せねばならない。

さもなければ、迷信の中で生きる破目となる。

些細な事実を取得するは当然とし、簡潔の獲得により要領を得なければ、
碌に割り切る事も叶わなければ、これからを生き伸びるも儘ならない。

何しろ、悪夢たる現実と虚構たる理想の狭間で、惨めすぎる足の引き摺りあいと、
不可能な尻拭いを押し付けられて、浪費され・使い捨てられるばかりだ。

根源的・根本的・抜本的・根底的となる、実相や実態を提起する事により、どうすべきかを解き明かし、
より適宜な提案を実現し続けねば、何も変わらないどころか、悪化の一途を辿ってしまう。

だからこそ、しゃんと見極め続けねばならん。

とは言いつつも、それが出来る者がいないのだ。

偽物はイカサマで終わり、壁を高くするばかりで、最下級の糸口さえ掴めない。

それ故にこそ、殲滅したい相手であろうと、守り抜く選択が不可欠となる。

なんたって、それは道を違えてしまった、自分自身の生き写しである。

それを洞察・知悉せねば、碌な覚悟が定められず、
薄汚い卑怯・卑劣・卑屈な化物のまま、裏切りながら徘徊する運命となる。

深く刻むべきは、義務や責任を果たせぬからこそ、間違いを犯さぬのは当然であり、
それを恙無く実現するためにも、冷静・賢明・聡明となる努力が不可欠だ。

さすれば、少しマシな明日が来るだけでなく、それに応える未来が引き寄せられる。




三段(七)に続く。