2014年01月29日 03:07 三段(七)


本当を知る由もない人間が、術と答えの獲得が叶う道理もなき人類が、偶発的に粗造した社会・世界・現実を、
あたかも正統のように刷り込まれ、誰しも何も知らずに生まれて、誰もが何も知らずに死んでいく。

厳密には、人間・人類・社会・世界が、概念と定義を形成する過程で、多大な不備による疵瑕により、
本当と不可欠な術と答えから、どんどん遠ざかってしまうため、そうとしかなりはしないのだ。

本来ならば、そうであるを把握し理解し、問題と不具合の原因・要因を、
単純かつ明快に紐解く事で、どうすべきかを洞察し知悉し、
前提たる諸条件を改善・是正すべきだった。

そして、本当を熟知する事によって、先々へ進み続けねばならない。

さもなければ、どんどんどうにもならなくなっていく。

とは言え、杜撰な潮流に流され、必要な発想すら浮かばず、その糸口さえ掴めはしない。

それなのに、救い・救われ、赦し・赦され、報い・報われようと、問題と不具合の原因・要因に縋るばかりだ。

帰するところ、その原因・要因たるは、枠組と仕組を形成する、人間的な存在である。

即ち、人間・人類・社会・世界であり、それらが生み出した存在なのだ。

そこには、自分自身が含まれている。

そもそも、人間の所業なのである。

それでは、自作自演による自縄自縛に陥り、自家撞着を自画自賛しながら、自業自得で自己崩壊してしまう。

枠組や仕組としたが、意図的に己や己達だけが、救われ・赦され・報われんがため、
その期待値を極限まで向上するため、形成した落とし穴にすぎない。

落とし穴としたが、自分・自分達を格別・特別とする存在が、無数に乱立し対立・拮抗・膠着する事で、
それが悪化を続けてしまい、互いの存在さえ打ち消し合い、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

要は、那由他の個人・集団が、自分や自分達には城塞を築き、相手に落とし穴を掘ったつもりが、
互いに同じ事をしているため、それが不意味となるだけでなく、根源的・根本的・抜本的な不備により、
的外れな事しか叶わぬ実態であり、どんな枠組や仕組を形成しようと、落とし穴を掘り続ける破目となる。

個人・集団・国家・国家集塊は、落とし穴を掘り続ける落とし穴となり、
同一の巨大な落とし穴に落ちた状態で、各々が独特の落とし穴に嵌っている。

落とし穴は深くなる一方で、いつしか底が抜けてしまう。

我々は、その落とし穴から抜け出せず、生きていようが死んでしまおうと、どうにもならなくなっている。




万人は、理由・目的・目標を、知らずに生まれる。

それに対し、怠惰な潮流で疎放に拵えた、代用品たる枠組や仕組による、理由・目的・目標が強制される。

理由・目的・目標が強制されるとしたが、自壊・崩壊する枠組や仕組に、より好都合な存在となるよう、
曖昧模糊な感覚が植え付けられ、あるようでない・ないようである、それらに引っかき回される。

それにより、悪化させて反復させるため、迂闊かつ未熟な己と他者の尻拭いで、人生を使い捨てるしかないのだ。

それは、良くもあり・悪くもある。

それに、どちらでもない。

ただし、その限りでは沈むばかりだ。

代用品としたが、正真において不可欠となる、鏡鑑が不在であるため、
必然かつ当然の潮流により、仕方なく生み出される、似て非なるモノである。

似て非なるとしたが、似ているだけで的を得ていない、ただそれっぽいだけでしかない、
不意味な事しか叶いはせぬ、惨憺たる末路を呼び寄せる、時限式の自爆装置にすぎない。

そのため、あらゆるがその域から抜け出せはしない。

これまで、その狭い域に束縛されている、後でどうなるか分からぬは当然とし、
それを碌に考える能力もない存在が、人々を悪戯に振り回し徒消してきた。

そうだ、リーダーシップがあるとされる者達は、表面を乱雑に弄り回すためだけに、
同じ穴の狢を引っ張り回し、浪費して使い捨てるだけの、有象無象にすぎなかった。

所詮、我々は烏合の衆でしかなく、一人の例外なく癲狂なのである。

そう、前向きと評価される・後向きと揶揄される、そのどちらであろうが、
どちらでもなからうと、酷く悪堕ちした存在なのだ。

まして、思想や主義に取り憑かれていれば、表層の上澄みで対立を続け、悪化させて繰り返すで精一杯だ。

だから、政治家を目指す木偶人形が、穢れた綺麗事と御託を並べ、それっぽいモノになりはするが、
それを批難・批判する人形が現れ、穢れた綺麗事と御託を並べ、それっぽいモノになるのだが、
不意味な気分転換に終わり、連綿と咎める傀儡が出現し、体裁良き言葉を並べては消える。




偶人は、批難や批判に躍起となり、余りに伴わず知らなすぎ、呆然たる提言を掲げている。

おまけに、些細な事実・些少の本当は無論とし、普遍・不変・不偏たる自明の理を理解せず、
それによる常識・俗識・良識さえ把握が叶わず、目先や自分の事すら碌に考えられない。

あまつさえ、そのような体たらくであるため、碌な考えもなく余計な事をして、
危険性・危害要因・不確実性を助長し、無知・無智・無恥な怪物のまま、立ち消えを余儀なくされる。

呆然たる提言としたが、そんな感じにしてみれば、そうなるかも程度の内容を、
中身がある具体案のように見せかけ、人々を欺き誑かし唆しているのだ。

それが、十二分を集約した提案であればいいが、どれだけ詰め込んだつもりであろうと、チャチな妄想・空想・想像にすぎない。

なんせ、根源的・根本的・抜本的・根底的に、絶望的な状態である枠組と仕組に、
同質の人材が碌なノウハウもなく飛び込んで、何とかしろと喚き散らすが関の山である。

そうやって、試行錯誤を繰り返し、抜き差しならぬ状況を、どんどん深刻化させる。

はたまた、現実を叩きつけられ諦めてしまい、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

相違なく、人材はピンからキリまでおり、課題もピンからキリまである。

されど、個人・集団・国家・国家集塊は、最下級の次元から抜け出せず、致命的な欠陥に追い回されている。




ある者は、誰が政治家になろうが、良くはならぬと訴える。

ある者は、誰が政治家になれば、きっと良くなると訴える。

前者は、勘が良いのかもしれないが、どうしてそうなのかを、碌に説明するが叶わない。

後者は、それらしい言葉を並べるが、それは思いすごしであり、
碌な説明になっておらず、前者と同じように、頭が働いていない。

ちなみに、後者が崇敬する対象でさえ、前者・後者の双方と同じで、頭が回らぬ存在なのである。

頭が回らぬ存在は、思い通りにならぬを、周囲の不足と考える。

その実は、自分自身が脳足らずであり、周囲と同等かそれ以下となる、幼稚な目線しか育めていない。

互いが、多寡が知れた程度である限り、そうなるは必然かつ当然だ。

そもそも、現況の実相で生み出せる、概念と定義には際限があり、その範疇で組立てるだけとなる。

何より、どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなる、腐った実相に取り憑かれている。

この期に及んで、ゼロやイチからモノを生み出すと、目を輝かせて宣う存在がいるが、
これまでの莫大な蓄積がなければ、絶対に不可能な事をしている。

相違なく、言葉の綾ではあるのだが、その蓄積に精通する事もなく、
それっぽいをパズルのように、ただ組立てるばかりとなれば、
より強力な珠玉の殺戮兵器を、なんとなく生み出して、
その制御が碌に叶わず、自壊・崩壊しかねない。

要は、特定の機能を提供する、誰ぞが形成した部品を集め、何かを組立てるを続ければ、
その過程で様々な綻びが生じ、肝心な時に何も出来ずに、翻弄されるばかりとなる。

作為・無作為に、問題や不具合がある部品が供給され、どうにもならなくなる場合があれば、
仕様を十分に諒解していないのに、それを端無く採用したがために、どうしようもなくなる場合もある。

直接的・間接的に、問題がある部品を生み出してしまい、そうなってしまう場合さえあるのだ。

他にも、気付かずに悪意ある部品を採用し、重要な情報が奪われる場合があれば、
組上げた存在が乗っ取られてしまい、思いがけぬ末路を辿る場合すらある。

端的に言えば、これまでの経緯を正確かつ精確に会得せず、
歪んだ実態と碌に向き合わずに、余計な事をすれば身を滅ぼす。





政治家は、運頼みの闘争を繰り広げる。

宗教家は、神頼みの闘争を繰り広げる。

政治家や宗教家に憂いを感じた人々も、先が見えぬ闘争を繰り広げている。

斯うして、既存の枠組と仕組の亡者となり、不意味な末路を引き寄せるに、分け隔てなく一心不乱となる。

自我が脆弱かつ散漫であれば、悪循環の袋小路の坩堝と察知せず、陰極における表裏一体の世界であり、
あらゆるが紙一重の状態と考える事も無く、思想でも主義でも哲学でも信仰でも何でもない、
ありのままの真実すら見つめられずに、家族や友人や周囲や自分を犠牲とし、
人間と人類と社会と世界に弄ばれ、奪い失い奪われるのみとなる。

本当を加味してしまえば、たったのソレッポッチでは済まされない。

それでは、余りにもつまらなすぎる。

まして、始まってもいないのだ。

碌でもない人間・碌でもない人類・碌でもない社会・碌でもない世界は、
より良きを求める事で、より雁字搦めになって、より碌でもない状態になる。

追求によって、実に多くが生み出されるが、その経過で悪循環は加速を続ける。

悪循環は加速を続けるとしたが、生み出した存在を維持するため、
それに翻弄され続ける運命となり、健康や生命さえ脅かされるのだ。

また、脅かされる健康や生命を守るため、新たな存在が次々と生み出され、
それらを手に入れるために、より脅かされる破目になる。

さらに、あらゆるスケールにおいて、バラバラに反復させたため、
もはや後戻りは不可能であり、進めば悪循環が悪化する。

然も、己・己達の首を絞める存在を、格別・特別と刷り込み・刷り込まれ、満身創痍で谷底へと落ちていく。

結局、多くを得たつもりが、しがらみに全身が拘束され、それはどんどんきつくなっていく。

挙句の果ては、それでペシャンコになる。

そんな、この世を地獄に作り変えながら、破滅にマッシグラの大競争では、ハナから終わっている醜態なのだ。

確かに、生まれては死ぬが命運であり、生涯はとても儚い玉響である。

さりとて、その刹那は無限の可能性を有している。

けれども、正真において永遠と向き合う事もなく、どん底でジタバタしながら、絶滅へと流され続けている。

だからこそ、多くを伴わせる事で、その失意のどん底から、這い上がらねばならん。




疾うの昔に、どうにもならぬと、論決が下されている。

そうなるは、甚だ不器用であるが災いし、余りに伴わず知らなすぎて、ならばどうすべきかを、碌に導き出せぬためだ。

例え、それらしい内容を導き出そうとも、それっぽいだけでしかなく、所詮は天麩羅にすぎなかった。

そんなだから、あ~でもない・そ~でもない・こ~でもないとバラ撒いて、
主犯や共犯者となり、直接的・間接的な虐殺・殺戮に無我夢中となり、
人間と人類と社会と世界が、不能であるとの証明を続けている。

それを認める事によって、一歩前に踏み出そうともせず、どうにもならなくしながら、いつまでも胡坐をかいている。

今まで、無限たる重層構造における、表層の上澄み程度の認識・知識を基盤とし、遍く矛盾に成す術なく翻弄されるばかりで、
己が前向きか後向きか碌にわからぬ存在が、なんとなく問題や不具合を目にして、虫がよすぎる対応で茶を濁してきた。

かくの如き、人間と人類と社会と世界は、連日連夜において非人道的を反復させ、全人類の恥さらしのまま終焉を迎える。

その流動の中では、あらゆるを知りつくしたつもりだろうと、己を格別・特別・完全・完璧と感じようと、
恥を恥とも思わずに跳梁する、どこまでも救いようがない、出来損ないのゴミ屑にすぎない。

したらば、一面的な批難・批判は当然とし、誹謗・中傷の応酬は無論、不意味な気休めと自己満足をして、
ゴミ屑以下のゾンザイになるのではなく、人としての良心を根拠とする、倫理・道徳・常識・正義を基礎に、
冷静な精神・懸命な考察・聡明な判断・賢明な決断を心掛け、前向きに前えと進む努力をすべきだ。

そうは言っても、成すべきを厳密に示されようが、そう易々と出来る事ではない。

ましてや、価値観・方向性・思考力がバラバラな人々に対し、
大雑把な文字列を見せびらかしても、混乱の渦に陥れるだけとなる。

仮に、どれだけボリュームがあり、整合性が取れているようでも、前提に不備があれば不意味である。

しかも、これまでの内容を取得しようとも、それで何らかの変化を感じたとて、まだプロローグ(本編の導入部)の最中である。

先ずは、些細な事実を基礎とする事で、人間と人類と社会と世界が、
どのような状態かを感得して、前向きに前進する感覚を養い、
己を完全に見失う事態と、なるべくオサラバしよう。




其々が、自己の権利を肯定・保護し、他者の権利を否定・侵害し、
好都合な矛盾に寝そべり、平衡感覚を喪失している。

そんな、何の権利も有していない、義務・責任に程遠い上に、
エゴを主張するだけの存在は、滅多に起き上がろうともしない。

例え、起き上がる素振りを見せようと、疾っくに手遅れの状態であり、
混濁した理論と感情により、矛盾に翻弄されるばかりで、悪化させるが精一杯なのだ。

エゴを主張するだけの存在としたが、建前・自己都合・利己主義により、
勝手すぎる理論と根拠を掲げる、自己中心主義の敗残者である。

そうだ、成立する道理が微塵もない、錯覚による理論と根拠を掲げ、独り善がりをする虫けらだ。

例えば、世界共通の認識と掲げ、己が妄想・空想・想像を、正当化しようとする者は、
酷く矮小な脳味噌の持ち主で、自分の頭の中にある蜃気楼のような、小さな楽園・地獄しかみえていない。

また、非人道的な事を反復させ続け、それだけで人生を終えるのに、自分達の非を認める事もなく、
非人道的と誰かを責める者は、偏見・軋轢を助長するだけの、偽善と茶番の人形にすぎない。

さらに、条件を限定・選択・捏造・改竄し、常にそうかのように振る舞う者は、
問題が起きれば想定外と訴えるばかりで、肝心な時には足を引っ張るばかりである。

尚且つ、自分で自身の人生を棒に振る、ド素人でしかない有識者に縋り、
風評被害だと垂れ流す者達は、無知・無智・無恥な兇漢なのだ。

だから、バカの一つ覚えによる、不要な批難と批判の応酬が、いつまでも繰り返されている。

矛盾に翻弄されるとしたが、どちらか・どれかに絞り続けねば、矛盾を緩和・相殺する事は出来ず、
感情があり思考し生存する、人間的な存在である限りは、それをなくすは叶いはせん。

そう、一つの点にでもならなければ、それに翻弄される運命である。

ただ、一つの点にはなれぬため、迂闊かつ未熟に余計を働けば、それを飛び越え消滅するのだ。

それなのに、どちらか・どれかに絞る事によって、
それをなくすに躍起となれば、いつの間にか消え失せてしまう。

人間・人類・社会・世界は、認識・識別・分別・判別を統括する、
価値観の相違たる矛盾をなくそうと、どれか一つに絞り続ければ絶滅する。

そうなるは、無闇矢鱈に価値観を統合しようとすれば、危険性・危害要因・不確実性は上昇を続け、
理由・目的・目標が蒸散して、過程で破滅する場合があれば、結果に自滅する場合さえある。

危険性・危害要因・不確実性は上昇を続けるとしたが、無理矢理に強要すれば、
それへの反発は必死で、丁寧に協力を仰ごうと、それに従うべくもない。

それに、これまでの感覚で調整する限り、碌でもない実相であるため、辿る末路が変わりはしない。

理由・目的・目標が蒸散するとしたが、格別性と特別性を打ち消して、
化けの皮が剥がれてしまい、全てを見失ってしまうのだ。

さすれば、あらゆる拘束具が外れてしまい、より自我が脆弱な存在から過ちを犯す。

矛盾があるため、どうにかなり・どうにもならない。

矛盾がなければ、どうにもならない。

どうであるにせよ、どうにもならぬため、様々な経緯で集束し、終息を迎えてしまう。

終息を迎えるとしたが、そうなるは矛盾に翻弄されながら、秩序のない競争を繰り広げた揚句に、
不意味な独り善がりをするために、全てを食い尽してしまう場合があれば、
それしか出来ぬ事に気付き、凄まじい勢いで零れ落ちる。




生き残りをかけた、奪い合いの競争率は上昇を続け、価値観・方向性の変化も相なって、
刷新を続けねば落伍するため、生活を維持・向上せんがため、方途を尽くすに躍起となる。

その過程において、多くの過ちが反復されるが、碌に非を認める事もなく、歪んだ謝罪で煙に巻く。

そして、手を変え品を変えて、それを全体で反復させる。

それでは、どうにもならなくなる一方だ。

そうして、相身互いに助け合うと見せかけ、仲良く追い詰められていく。

そうやって、ミニマムからマキシマムの単位で、瀬戸際へと追いやられてしまうのだ。

瀬戸際へと追いやられるとしたが、後進者が先進者の真似をする事で、
より後戻りが叶わなくなる状況が、烈々に増悪される場合があれば、
途上国が先進国を追掛ける事で、総体が劣化を続ける場合もある。

それを、改善・是正したくとも、既存の枠組と仕組に染まれば、自動的に穀潰しとなってしまう。

要は、問題と不具合を生み出す、原因・要因に取り込まれ、その一部と化してしまう。

そのように、小さな悪循環が大きな悪循環に取り込まれ、
それを加速させる場合があれば、新たな悪循環を生み出す場合もある。

総体が劣化を続けるとしたが、刷新を続ける過程において、目新しさを演出するため、人の弱さに漬け込んで、
効率的・能率的に金を稼ぐため、タブーに手を出すようになり、嘗ては吐き気を覚えた事でさえ、平気で実施するようになる。

加えて、文明の発展に寄り添う形で、問題と不具合は発展を遂げていく。

その、問題と不具合に対処する頃には、甚だ手遅れの状態であり、
対処の虚を衝かれてしまい、それらは悪質化してしまう。

そもそも、手遅れになって対応するため、そんな知らぬフリをしている間に、お構いなしの存在は、遥か先へと進んでいる。

おまけに、本来ならば問題視する事により、規制をしなければならぬ者達が、
問題や不具合を誘発する存在は勿論、汚職天国の虜になってしまい、
より取り返しがつかぬ事態が、激発される状態を増進する。

あまつさえ、対処の機会を逃し続けた挙句に、取り返しがつかぬ事態が発生すれば、
手がつけられぬ状態であるため、事態をより深刻な状況にして、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

悪質化するとしたが、規制の内容を把握・理解する事で、脆弱性を改善する場合があれば、
相手の手口を洞察・知悉する事で、規制を未然・事前・直前に予測し、堅牢な状態を築いている場合もある。

様々な悪質化の反復により、悪人はどんどん薄っぺらくなり、極悪人はどんどん狡賢くなる。

即ち、この世には善用する悪人・悪用する極悪人しかいない。

その両者により、全ての命が継承されていく。

手がつけられぬ状態としたが、手遅れとなり発生した問題に、
そう易々と対処するは叶わず、事態に流されるばかりとなる。

それで、どうにもならぬ状態となったのに、どうにかなったかのように振る舞い、進退窮まった状況が深刻化を続ける。

深刻化を続けるとしたが、様々なデータを掲げる事により、
経済・雇用の改善を訴える者がいるが、その恩恵が満遍なく浸透する道理はない。

その水面下で、問題と不具合が分岐・発展を続け、好都合な数値を簡単に覆す、大惨事さえ引き起こされる。

好都合な数値としたが、御都合主義の理論と根拠により、場当たり的に形成した指標にすぎず、
時間の経過により状況は複雑化し、どれだけ算出方法を調整しようと、それらは意味を成さなくなっていく。

はたまた、事故・事件が減少の傾向にあろうとも、それは取得が可能となる最小値であり、
大丈夫かのような印象を濫りに流布して、油断をすれば瞬く間にひっくり返る。

もとより、錯雑化する矛盾に蝕まれた、無秩序な生存競争をしているため、どんどんどうにもならなくなっていく。

原初より、しようがしまいが、どうにもならない。

矛盾により、変えようとすれば、変えられなくなる。

とは言え、変えようとせねば、変わりはしないのだ。

確かに、一定の概念と定義の範疇で、目覚ましい変化を遂げていく。

ただし、ハイリスク・ハイコストで、荒唐無稽に非効率的であり、恥知らずのまま終焉を迎える。

荒唐無稽に非効率的としたが、後でどうなるかを碌に考えずに、試行錯誤を反復させたため、
有り余る問題と不具合によって、好循環な悪循環で満ち溢れ、人材・時間・金銭が乱費される。

後でどうなるかを碌に考えぬとしたが、イチイチ考えていたら、思い通りに進めなくなる。

ただし、それを考えずに進んでしまえば、後で何が起きるか分からない。

人間・人類・社会・世界は、余りに考えなさすぎたがために、夥しい竹蓖返しに劈かれる破目となる。

恥知らずとしたが、人間・人類・社会・世界は、何をするか予断ならぬ、
恩を仇で返す可能性が濃厚な、絶滅寸前の怪物・巣窟である。

どれだけ、可能な範囲において、文明を極めていこうと、
不可欠な変遷が促されぬ限り、身の程知らずの負け犬で終わる。

ハナから、どうにもならぬ環境に、どうにも出来ぬ状態で、放り出されているのだ。

それに気付く事で、多大な不足を認めねば、どうにかなり・どうにもならない。

認めようと、どうすべきかを導き出せねばそれまでだ。

導き出した内容に不備があれば、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘り、家族・友達・周囲は無論とし、自分自身にぶっ殺される。

無論、かけがえのない存在を、己が無能力によって、皆殺しにもしかねない。

しかしながら、ある程度を導き出せたとて、染まらなけらば機会が得られず、染まってしまえば機会を失う。

だからこそ、どのような個人・集団を形成するのか、どうすべきかを練り続ける必要がある。

我々は、救い・救われ、赦し・赦され、報い・報われる、権利・義務・価値・意味を持ち合わせていない。

最初から、何も勝ち得てはいなかった。

真価と意義を掴み取るを念頭に置き、常にそうなるとは限らぬを心に刻み、
万人で勝ち取る事によって、分かち合わねばならない。

さもなければ、超絶絶頂・究極極大・臨界突破の災厄に、ほんの一瞬で掻き消されてしまう。




空虚な存在は、その伽藍堂を満たすために、多くを渇望しここまできた。

それにより、正解であり・誤解であり・不解であり、何でもない無数の答えが導き出された。

そのため、倫理・道徳・常識・正義は因循姑息で、誰しも聡明・賢明ではなく、誰もが碌でもないがため、
杜撰な枠組と仕組・不純な概念と定義が形成され、それらに縋り・翻弄されるばかりである。

それは、責められるべきであり、責められるべきではない。

なんせ、その程度で頭打ちとなる、腐乱した実相に憑依されている。

そうだ、問題と不具合を適切に解決するに、不可欠となる条件と隔絶されており、
どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなっていく。

例え、その実相の払拭が叶わなくとも、それなりに時間を稼ぐ方法はある。

それなのに、人間・人類・社会・世界は、程遠い場所で胡坐をかき、
戦争と呼ばれる自慰・自傷のような、とても楽な選択に靡いてしまう。

そして、戦争で何か学んだフリをして、知ったかぶりの積み重ねによる、
インチキな枠組・仕組・存在を形成し、同じ過ちを悪化させて反復させる。

それにより、詭謀による枠組・仕組・存在は、どんどん追い詰められていく。

無論、それらに染まった人々も、同じように追い込まれていく。

窮地に立たされれば、人間も人類も社会も世界も、窮余の策を余儀なくされる。

平たく言えば、本当に気が狂ってしまうか、気が狂ったフリをしてしまう。

そう、どうにも出来ぬからこそ、益々どうにもならなくなる、
より後戻りが叶わなくなる選択で、誤魔化し有耶無耶とし逃走するのだ。

それに対し、無意味なだけでは飽き足らず、不意味な処方が実施されてきた。

追い詰める側・追い詰められる側が激突し、互いに不意味な犠牲を払うはよくある事で、
その犠牲を穢れた綺麗事と御託で美化し、犠牲が出る度に何遍でも覆い隠してきた。

その上、激突する双方・一方に対し、周囲は知らぬ素振りをするか、
甚だ手遅れの状態となってから、追い詰めるにしゃかりきとなる。

気が狂ったフリをするとしたが、祖国や未来のためと声を上げ、多くの若者が散っていった。

そのような声を上げたのは、上も下も味方も対敵も、簡単な選択に溺れるだけの、
碌でもない大馬鹿であり、己も同じ穴の狢であり、遣る方がなかったためだ。

要は、不意味な選択を強制するため、甲斐無い選択を余儀なくされ、仕方なく漏らした絶叫なのだ。

それを、家族や友達や周囲や自分のためとしようが、不意味な泥沼の争いをするのであれば、
しょうもない事のために零す、しょうがない嘆声なのである。

そう言い聞かせる事により、送り出される者・送り出す者は、不意味な選択を耐忍んだ。

本当に気が狂ってしまうとしたが、そう言うモノだと勝手に思い込んで、
自ら戦場へと赴きくたばる者がいれば、家族・友達・周囲を死なせる者もいる。

その実は、大馬鹿の寄せ集めだから、そうなったにすぎんのだ。

より後戻りが叶わなくなる選択としたが、それが和平・戦争のどちらであろうと、
臭いモノに蓋をする選択でしかないため、問題と不具合は悪質化の一途を辿る。

何をしようと、多寡が一時凌ぎの対応でしかなく、様々な存在の思惑により白紙にされ、複雑化された状態で蒸し返される。

穢れた綺麗事と御託としたが、それを並べるしかない時点で、蓄積された問題と不具合を、
適宜に改善・是正する能力もなく、正面から向き合う機能すらなく、術と答えを導き出す作用さえない。

そうやって、臭いモノに蓋をする事により、自分自身の無能さえも覆い隠し、家族・友達・周囲・自分を欺いている。

とは言え、既に手遅れであるため、取り返しがつかぬため、そのように嘯くしかないのだ。

何より、パッパラパー・クルクルパー・チンプンカンプン・トンチンカンな醜態である。

結果、問題と不具合は放置され、この期に及んで振り回される。

これまで、心が傷つき壊れてしまった存在に、原因や要因を解き明かす事もなく、
表層やその上澄み程度の認識による、出鱈目を言い聞かせ黙らせてきた。

そろそろ、親身になって世話をするかのように見せかけ、
見捨てて引きづり回すのを止めねば、仮初の人道が砕け散る災厄に見舞われる。

出鱈目を言い聞かせてきたとしたが、些細な事実・些少の本当は当然とし、多くの要諦の取得が叶わぬ存在が、
腐った実相に取り憑かれた、一般論や感覚に依存し提供する、セラピーやカウンセリングは、
謀略による枠組・仕組・存在に対し、好都合な存在となるよう調整する、
催眠・洗脳・暗示にすぎず、適正な治療ではないのだ。

確かに、それしか叶わぬ実態であるため、適正と扱うは良くもあり・悪くもある。

はたまた、どちらでもない。

しかしながら、それでは互いを追い詰めるばかりだ。

それによって、窮余の策を余儀なくされる。

周囲は、知らぬ存ぜぬを貫き通すか、様々な圧力で追い詰めてくるか、
散々に手遅れとなってから、杜撰な後始末を強行してくる。

親身になって世話をするとしたが、人間・人類・社会・世界は、
己・己達に好都合となるよう、認識・識別・分別・判別を歪めてきた。

云わば、自分達が生き易くなるよう、正当化・正統化に躍起となり、
あらゆる虐殺・殺戮から目を叛け、ご都合主義の怪物と化している。

であるからして、碌でもない事しか叶わないのに、正しい事をしていると勘違いする。

ご都合主義の怪物としたが、問題と不具合に辛酸を嘗めさせられ、深く傷つきすぎた子供や大人を、
問題と不具合を放置したまま、心のケアとやらで追い払い、したり顔になっている。

特に薄汚い連中は、目を叛けぬフリをして、どうにかしろと喚き散らす。

結局、追い詰める側・追い詰められる側は、適正となる解決の力を保有しておらず、
双方・一方を救おうとする存在も同様で、追い詰める事で我慢させるが限界なのだ。

それなのに、良い事をしたと思い決めし、己が欲望を満たし悦に浸っている。

万人は、正当であり・不当であり・正統であり・正統でなく、どうでもない事しか出来はしない。

だから、その強制力が強まろうが・弱まろうが、埒が明かぬ状況から抜け出せない。

気がつけば、自分達が介入し解決した、問題や不具合に追い詰められ、立ち退きを余儀なくされる。

相違なく、ケースバイケースである。

現状は、それが極端に酷い状態であり、適切に改めるも叶いはしない。

その限りでは、不意味に終焉を迎える。

我々は、余りにも伴わず知らなすぎ、どれだけの事をしようとも、
何もせぬと変わらぬ事にすら、碌に気付けぬ不憫な状態だ。

何もせぬと変わらぬ事としたが、余計な事しか叶わぬため、
罪過を累積するばかりの、惨めな実態なのである。

つまり、何もせぬのではなく、それ以下・未満となる、マイナスの領域で終えてしまう。

右へ行ったらどうなるか、左へ行ったらどうなるか、前に進んだらどうなるか、
後ろに進んだらどうなるか、その場にいたらどうなるかが、まともに分からぬだけでなく、
自分が前向きか後向きなのか、自身がどこに存在しているのか、どちらに進んでいるのかさえ、
不得要領であるマイナスに等しい存在は、より良き未来を目指すつもりが、次々と崖から飛び降りている。

それが、政治家であり・宗教家であり・我々なのだ。

このままでは、いつまでも敗北主義者のままだ。

根源・根本・抜本・根底から紐解く事により、より適宜な変遷を促さねばならない。

それは、人が黎明を迎えるための、全てを始めるための発端となる。




三段(八)に続く。