2014年02月17日 22:23 三段(八)


人類は、端緒から足を踏み外し、崖から転げ落ちている。

ハナから、見本・手本が存在しないため、行き当たりばったりの状態で、
間に合せの概念・定義により、枠組・仕組・存在を粗造した。

そして、様々な風潮が形成され、それに翻弄されている。

それにより、人間・人類・社会・世界は、当事者の意識に束縛されて、
狭い範囲しか見えなくなり、数多くの過ちを反復させる。

翻弄されているとしたが、旧日本軍の特攻隊員は無論、戦場で散った多くの人々は、
形成された風潮に抗えずに、粗悪な動機付けで紛らわし、不意味な死を遂げていった。

それは、風潮により美化された。

未だに、その趨勢を由とする、内股膏薬がいるのだ。

中には、ただの人殺しにすぎない存在を、破廉恥にも英雄と扱う者がいる。

確かに、上も下も味方も対敵も本人も、無知・無智・無恥でしかなく、
無謀を働くのが精一杯であり、そう瞞着せずにはいられない。

そうしなければ、不意味であるが露呈する。

だがしかし、それを知り反駁すれば、周囲から叩き潰される。

だもんで、自己に詭弁を押し付けて、多くが不意味な死を遂げ、多くを不意味に殺害した。

脆弱すぎる存在は、風潮を形成する事によって、観念の印象を偏向する事で、反骨精神を抑え込んできた。

その重複によって、個人・集団・国家・国家集塊は、潮流に玩弄される玩具となった。

そうして、改善・是正をするに不可欠となる、要諦への発想すら浮かばなくなり、
手遅れの状態を悪質化・深刻化し、止め処無く罪過を累積させている。

ただし、それには無数の限界がある。

そのため、其々の限界に到達すれば、大きな災難に見舞われる。

そうだ、問題と不具合が蓄積されれば、限界を迎えた瞬間に弾け飛ぶ。

何より、埒が明かぬ風潮に対し、新たな風潮が形成され、余計な事をしてしまい、状況は悪化してしまう。

増悪するは、猫も杓子も私も君も、それで限界だからだ。

増悪の風潮であるが、以下のような実例がある。

政治家と呼ばれる果敢無い存在が、無能力であるが露呈する事により、軽々しく野次を飛ばす者が現れる。

嘲弄が簡単で、大した処罰もないのであれば、それに続く者は徐々に増える。

情報媒体の発展等による後押で、凄まじい勢いで度を越していき、お手上げの状態となる事がある。

政治家は、自己の無能力を誤魔化すために、正鵠を突かれぬようにするため、
自力では不可能な内容を掲げて、それをエスカレートさせていく。

国民は、それを賛成・無視・反対する。

結果、吸い上げられる速度が加速する。

なんせ、政治の代償たるや、被治者なのである。

ましてや、結尾の生贄たるや、政治家なのである。

それなのに、それを明確とする事もなく、綺麗事と御託を並べている。

そこに注意せねば、全てが台無しとなる。

ちなみに、全者が碌でもない実態のため、犠牲を綺麗事と御託で欺瞞し、
問題と不具合を放置したまま、悪化させて繰り返すばかりだ。

碌でもない実態としたが、自分自身と相手の無能力から、互いに目を逸らすだけでなく、
その察知すら満足に叶わずに、観取が出来たとて成す術なく、負の原因・要因・実体である、
己・己達が生み出した存在に、窮地へと追いやられてしまい、崩壊・自壊へ突き進んでいる。

無能力となるは、そうとしかならぬ経緯しか辿れなかったため、核心となる能力・機能・作用を取りはぐれて、
人間・人類・社会・世界が実施を続けてきた、催眠・洗脳・暗示によりそれらから遠ざかり、
混乱状態・錯乱状態を当然かつ必然と認識し、救いようがない状態で寝そべっているからだ。

反骨精神を抑え込んできたとしたが、心理的な抵抗を刺激し、それを養う場合もある。

されど、然るべき打開力を有さぬため、不意味な闘争に陥るばかりだ。

万人は、碌でもない事しか叶わぬ醜態で、脱却は皆無・空無・絶無である。

一人の例外もなく、ピンからキリまでの人間的な存在は、どうにもならなくなる実相に憑かれ、
最下級の次元において頭打ちとなり、不意味な気休めと自己満足で消える。

これは、お誂え向きの末路である。

このまま、空漠たる感覚に身を委ねて、凄惨な末路を辿り続けるか、判然たる強固な自我により、
明晰な日々を掴み取るのか、感得により進み続けるかは、我々の選択に懸かっている。

選択に懸かるとしたが、己が間違いを認めぬ存在に、明白たる正真の発展はない。

認めたとて、どうすべきかが伴わぬのならば、真実の言明における発展なんぞ、神掛けて許容されるべくもなく、
もはや甚だ手遅れの状態のため、虚妄の世界の枠を越えてしまい、疾うに現実化の余地は存在せぬ。

端的に言えば、万人は好都合な自尊心の虜囚となり、己が問題・不具合と碌に向き合わず、
格別・特別に程遠いと認められずに、多大な不足を埋めるを忘却・失念し、
人間・人類・社会・世界は自堕落し、どんどん完全・完璧から離れていく。

まして、その程度の烏合の衆にすぎぬため、どうすべきかを導き出すも叶わず、
過ちを悪化させ反復しすぎたため、正銘たる発展の選択肢はないのだ。

例え、絶滅の危機を生抜き研鑽を積む事で、政治・宗教・主義・思想を捨て去り、
仕様に適合する枠組と仕組を根底に、新たなる未来への飛躍を始めようと・・・。

整合性を調整する事で危機を回避し、転換を可能とする枠組と仕組により、
より良き多様性・多彩性を育みつつ、先々に進み続ける道を切り開こうと・・・。

潮流に弄ばれ絶滅に瀕して生抜くも、政治・宗教・主義・思想に縋り続け、
人と世をより歪な存在に変える事で、実相を改める事なく延長しようとも・・・。

要は、切り捨てて新たな歩みを始めようが、切り捨てず先への道を切り開こうと、
実相を改めず怠惰に延長しようとも、全てが不意味な域から抜け出せない。

ゼロと言う、プラスとマイナスの境界に近付くも、マイナスの領域を俳徊するばかりで、
万人に不老や不死を可能としようが、プラスに転じる事は永遠に有り得ぬ。

しかも、原初から用意されていた、術と答えに準拠しようと、当然の状態となるだけだ。

相違なく、その状態ともなれば、両極を彷徨するため、不意味ではなくなる。

ただ、無意味である。

所詮、在り来たりな選択をするだけでは、意義や真価の獲得には余りに遠く、
凌駕する術と答えに準拠する事で、プラスに転じようとも無に等しい。

そもそも、在り来たりな選択をせんがために、具体的に何をすべきかも分からず、
しっちゃかめっちゃか弄り回して、台無しにするだけで精一杯である。

結局、どうすべきかを無数に紐解かねば、何も始められぬ不憫な有様なのだ。

少しマシとなる、多寡が一時凌ぎの方法すら、酷く曖昧模糊な状態であり、
不可欠を紐解く手段でさえ、不得要領な醜態なのである。

だから、どうすべきかが重要となる。

不可欠を紐解く手段としたが、実現するに必須となる、前提たる諸条件を指す。

それらは、些細な事実を基礎とする事で、徐々に手繰り寄せるしかない。

しかし、必要な要諦が段階的に存在するだけでなく、基礎となる認識を導き出すも簡単ではない。

それすら、特定の諸条件が揃わなければ、判然と獲得するは難しいのだ。

漠然とした、似て非なるそれっぽいだけの感覚であるならば、フィクション・ノンフィクションの作品は勿論、
長期的に時事を見つめる事により獲得が叶うが、妄想・空想・想像の域による天麩羅でしかない。

そいつは、余りに伴わず知らなすぎる存在が、履き違え・足を踏み外した状態で、思い込み・思い決めにより拵えた、
具体性が欠乏した感覚でしかなく、誰しもそれを根拠に生きてしまい、誰もが埒が明かぬ危に瀕している。

さりとて、許し難い程に不調法であるからこそ、幻想と現実における物語が紡がれる。

そうでなければ、自作自演による自縄自縛に陥り、自家撞着を自画自賛した畢竟に、
自業自得で自己崩壊するだけで、人間・人類・社会・世界なんぞ、不意味であるに気付いてしまう。

さすれば、目的・目標・理由の不在を看取し、仮初の拘束具が雲散霧消するのだ。

即ち、完全でなく・完璧でなく・特別でなく・格別でなく、何も知らずに生まれ・何も知らずに死んでいくから、
臆面もなく不意味を増悪し反復させるが可能であり、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けてここまでこれた。

不意味であるに気付くとしたが、マイナスの領域を彷徨う限りは、
そこで頭打ちとなる仕掛であり、今の次元では極端に進行が速い。

進行が速いとしたが、それは以下の速度を指す。

どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなる。

些細な事実への筋道であるが、発端がなければ始まりもせぬ。

それのみか、それまでに何を培うのかは無論とし、切欠により何を成すかが重要なのだ。

成すべきは、正確かつ精確に見極めながら、どうすべきかの追求であるが、
可能とする観点が須要となり、その吟味の継続も肝要となる。

正確かつ精確としたが、我々は超未熟・超迂闊であり、それが可能な道理もないため、
それを十二分に加味する形で、解き明かし続けねばならない。

観点としたが、極小から極大となる存在を、内・外から厳正に精査する。

また、局外者・当事者の実態を解析する事で、価値観・方向性・思考力を噛み分けて、
其々が辿る経過・末路を洞察・知悉し、どうすべきだったかを把握・理解する。

さらに、以下を念頭に刻まねばならない。




常に、そうなるとは限らない。

大概の目算は、建前・自己都合・利己主義を下地とする、依估・執心・浅学菲才による画餅である。

如何に、思惑の通りの状況が続き、順調と感じていようとも、その程度の思考であれば、通用しなくなる時がくる。

何事にも、繁栄と衰退があり、始めと終りがある。

その理由を、商売・経済を例に挙げてみよう。

商材が、有益と評価されたならば、入手のため人々は奮闘し、市場は賑わいを見せるが、
時代の要請から外れたり、やがては需要が満たされ、必要性が消失してしまう。

時に、真似をする存在が出現し、シェアの奪い合いとなり、八方塞がりにもなるのだ。

あるいは、それを凌駕する存在が出現し、神速で乗り換えられてしまう。

最初から、秩序のなき競争をしているため、手を変え品を変えねば落伍する。

それに伴い、競争相手も同じ事をするため、途方もない争奪を強いられる。

競争としたが、生き残りをかけた、壮絶な潰し合いだ。

潰し合いにより、問題と不具合は増長を続けて、全てが思惑から外れてしまう。

そうなるのは、理不尽な競争・収奪に曝され、人々は奮闘する理由を見失い、
市場は目的・目標を喪失して、どうにもならなくなるからだ。

従って、正真の経緯を取得する事により、正鵠を突く心的傾向を基盤とし、博い発想で取り組むは当然だが、
競争の影響を極限まで緩和する、枠組・仕組・存在を詮術として、適宜な変遷を促さねばならない。




人間・人類・社会・世界が定めたルールは、正当であり・不当であり・どちらでもない。

人生は、素晴らしくあり・素晴らしくなく・どちらでもない。

どれかに固執すれば、矛盾に蹂躙されるだけでなく、問題や不具合と向き合えずに、
悪質化・深刻化の反復を続け、逃走の累世を辿る運命となる。

特に、好都合な認識の虜ともなれば、穢れた綺麗事と御託を並べる、
歪な偽善と茶番の怪物となり、不都合な状態へ追い遣られる。

第一、側面を十二分に加味せずに、好都合な認識を流布すれば、
己の無能力を曝け出す上に、どんどん罪深くなっていく。

罪深くなるは、一面的・部分的な情報の流布により、人々を裏切り謀り唆し陥れるためだ。

短絡的な情報に丸め込まれた諸人は、提供される情報の範疇で翻弄されて、己が無知・無智・無恥をひけらかす。

誰しも、その範囲のどれかが正しいと感じるが、視野狭窄・無知蒙昧な有象無象による、
非常に浅薄な感覚による妄言にすぎず、賛成・無視・反対するに不可欠となる、
最低限の情報すら示されていないため、それっぽい事をすればいいと決めつけ、
デモや抗議活動で偏見や軋轢を助長し、己を論理的・相手を感情的と思い込み、
不意味な失態を晒し続けた挙句の果て、本当により切り捨てられてしまうのだ。

されば、不十分すぎる情報を流布してしまい、衆人を弄んだ人道から離れた連中は、
救われ・赦され・報われるべくなく、罪過によって絶望と後悔に劈かれる。

誰もが、底が知れたゾンザイでしかなく、肝心な事が叶わなかったがため、
自己都合を押し付け合いながら、浪費と使い捨てに晒されている。

いつか、我慢が出来なくなり、万事休すの時がくる。

真実の言明における、改善と是正を目指すのであれば、綺麗事や御託で煽り立てる事で、
絶滅を加速させる失態は演じず、枢要の実態を明晰・判明に示し、不可欠な提案をする必要がある。




好都合・楽観的な認識を根底とする限り、死角・盲点・水面下で、
問題と不具合が増殖し、悪くなる事はあろうと、良くなる事はないのだ。

さりとて、不都合・絶望的な認識に固執すれば、合理性を欠いた対応をしがちとなる。

それ故、超希望的観測から超絶望的観測を顧慮し、是非を検証し極上の選択をせねばならぬ。




それをしたら、後でどうなってしまうのか?

あらゆる情報を鵜呑みとせず参考程度に受け止め、先入観・固定観念・既成見聞による束縛を相殺し、
論理的・物理的な模擬実験を掌中で実施する事で、事実・実態・真実・真相・実相を見澄す力を養い、
真理・摂理・哲理・真意・神意を明瞭に諒解して、遺憾なく正確かつ迅速に察知しなければならない。

これに関しては、黎明を迎えるべき人として、最低限のマナーではあるが、
政治や宗教で頭打ちとなり、遥か手前で断念した状態だ。

それらに染まり、いつまでも縋り続けるならば、それ以下・未満で終わるのだ。

けれども、それらを切り捨ててはいけない。

その選択を過誤すれば、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

であるからして、本来の職分を明快とし、整合性を明朗に案配し、至適の役目を提供する。

だけでなく、不可欠な応化の実現により、本当を現然たる状態として、
のっぴきならぬ人々に対し、十二分の受け皿を用意する。




良いと扱われる大学に入ろうと、未来は良くもあり・悪くもある。

そう、将来の展望は輝きに満ち、失意が蔓延る晦冥なのだ。

どうなるかは、己と周囲の選択により、非常に大きく変化する。

それにより、良き大学校に入れたのに、希望を胸に進学した筈が、進退に窮する場合がある。

はたまた、大した大学にも入れてやれず、悔悟を胸に進学した筈なのに、好機に恵まれる場合さえある。

多くの者達が、良き大学に入りさえすれば、どうにかなると嘯いてきた。

そもそも、どんどんどうにもならなくなる、腐乱した実相に憑依されている。

それでは、どれだけの大学に入ろうとも、どうにもならなくなる一方だ。

何と言っても、様々な手段で篩にかけたつもりが、キチガイの量産をしていただけで、
それに該当する自分自身を含めて、肝心な人材を得るが叶はなかった。

そんなだから、優秀とされる人材を採用しようとも、抜き差しならぬ状況が悪化するのだ。

机上の空論で、教育・人事を進めた反動は大きい。

それが、選ぶ・選ばれる双方に対し、夢想だにしない末路を齎す。

だからこそ、遠い過去から近い過去を念入りに精査し、近い未来から遠い未来を注意深く吟味し、
未曾有の突発的な有事を最大限に想定し、包括的となる対策を段階的に纏めておき、
有事に示せるようにしておくだけでなく、可能な範囲で非常時への備えをしておく。





人間・人類・社会・世界が、変化を続ける過程において、多くが生み出され浸透した。

とは言っても、仮初の僥倖にすぎんため、時間が経てば気付くのだ。

新聞、要らなくね?

ラジオ、要らなくね?

テレビ、要らなくね?

買う必要なくね?

借りる必要なくね?

つうか、読む時間も、聴く時間も、観る時間も、金もなくね?

スマホ、要らなくね?

宗教、要らなくね?

政治、要らなくね?

何も、面白くなくね?

挙句の果てには、このような事に気づいてしまう。

オレら、要らなくね?

忘却・失念してならぬは、有限的な箱庭の実験動物となり、燻っているため辿りつくだけで、それを認める事でしゃんとして、
より良き変遷を促したのならば、絶滅の発想が浮かび出る余地は、完膚無き迄になくなるのである。

現況の枠組・仕組・存在は、絶滅に導く自爆装置であり、打開の道があるを知ろうと、それを渇望する存在は多い。

そのような存在によって、揚げ足を取られぬように、未然・事前・直前までに、
手を打つは当然であるが、已然・事前・直後の拵も、疎かにしてはならんのだ。

何より、己がそれにならぬよう、油断をしてはいけない。




様々なスケールの集団があるが、同様に考える存在が相互に存在する。

それを知覚し、その上手・下手を感知する事により、間違いを犯さぬよう歩まねばならん。




政策の箇条書・穢れた綺麗事と御託を並べるは簡単だ。

もとより、精細に吟味しようが漠然とした代物であり、束になろうと実現が可能となる道理もなく、
正当であり・不当であり・どちらでもなく、どんどんどうにもならなくなる一方なのだ。

その、劣悪化する状況を見つめ、同等か以下か未満の者が、己の方がマシと錯覚する。

であるからして、頽廃の一途を辿る。

その二の舞を演じぬよう、既に転落している穽陥から、万人と共に這い上がる事で、より良き活路を進み続ける。




様々な業界による、好都合な認識の流布が、稼ぐための謳い文句が、総体を追い詰めてきた。

それだけか、デメリットをメリットと見せかけて、
リスク・コスト・ハザードを強制し、執拗かつ稚拙にペテンにかけてきた。

中には、何の変哲もない内容を、魅力と掲げる者がいる。

したらば、化けの皮が剥がれていく。

おまけに、それを後押しする原因・要因・理由は、業界が自ずと形成してバラ撒き続ける。

好都合な認識の流布としたが、特定の都合を吹き掛けるため、苛立ちを覚える者が存在する。

あまつさえ、折り返し地点を迎えると、そのような人々が目立つ状況となり、総体の緊迫状態が上昇を続けていく。

しかれども、必然かつ当然の潮流により、そうなっただけでしかない。

それを加味する事で、選択を誤らぬよう、精進せねばならん。

就いては、より正確かつ精確となる経緯の取得により、
不意味な犠牲を極小に抑えられる、より良き選択を重ねる必要がある。




新たな枠組・仕組・存在の増加により、それらが悪人に善用され・極悪人に悪用される。

勿論、既存の存在との連携により、それはより深刻となるのだ。

そうやって、リスクやハザードは増殖・進化して、人間・人類・社会・世界が脆くなる。

脆くなるとしたが、既成・緩和のどちらだろうと、それが苦肉の策である限りは、劫火に燃料を注ぐだけとなる。

例えば、受け皿がない状態で、規制を強めてしまえば、
寄る辺がない者で溢れ、茫然自失の挙句の果て、窮策を余儀なくされる。

逆に緩和をすれば、禁止項目を許容する事により、危険性と不確実性が向上する。

その緩和を規制すれば、問題や不具合が増殖を続けて、どんどん後がなくなっていく。

はたまた、以下のような場合がある。

法で、雁字搦めとしてしまえば、仕方なく従うだけとなる。

それが、厳守される存在でなければ、お構いなしの存在によって、守る側が犠牲にされるのだ。

何しろ、法で規制する程度であれば、臭いモノに蓋をするだけで、無頓着な者は野放しとなる。

ハナから、そのような者で溢れているから、罰を与える事で煙に巻いてきた。

規制や緩和は、表層やその上澄を上から弄り回すだけで、根源的・根本的・抜本的・根底的となる、
改善・是正・解決には遥かに遠い状態で、原因・要因に対する取組も同様の有様で、
下から自然増加した致命的な欠陥により、応酬の繰り返しを悪化させるが精一杯だ。

前車の轍を踏まぬよう、多角的に浸透を続けていく、包括的な対策を実施しうる、枠組・仕組・存在を形成し、
危険性と不確実性を緩和し、問題と不具合の解決を促し、本当の危機への備えを重ね、先々へと進まねばならない。




批難や批判により、挑発に奮励するのではなく、的確な提案が叶えばいいが、
能力・機能・作用が不在で、我侭を垂れ流すが精一杯だ。

結句、どうにも出来ない事で熱くなり、相身互いに零落を続けてしまう。

そのような、つまらぬ暇ツブシで、時間を使い捨てれば、後悔・絶望するのは、自分自身なのである。

何もかもが、使い捨てとしかならぬ世界で、使い捨ての存在に浪費されて、果ては使い捨てられてしまう。

家族・友達・周囲は当然とし、それが自分自身であろうとも、そうせざるを得ぬのが現状だ。

ならばこそ、自己には傲慢に他者には謙虚に、篤実かつ闊達に生きねばならぬ。




悪循環たる袋小路の坩堝である、陰極における表裏一体の世界は、あらゆるが紙一重の状態である。

表裏一体・紙一重としたが、個人・集団・国家・国家集塊を、精確に見れば莫大な差があるが、
実相を正確に吟味してしまえば、同じ事を繰り返しているだけだ。

繰り返しとしたが、底が知れた不意味な反復だ。

所詮は、多寡が知れた烏合の衆にすぎず、碌でもない事しか出来はしない。

それを噛み締める事で、時点の環境における自分の夢、目的・目標・理由を鮮明とし、
後には戻れない過ちを犯さず、巻き込まれ犠牲にならぬよう、健気・鋭敏に歩まねばならぬ。




儲けるには、相手に損をさせねばならない。

そこで、無秩序な競争に興じてしまえば、好循環な悪循環が増悪を続ける。

そんなだから、奪い失い奪われるが加速し、耐えられぬ者から破局する。

このままでは、究極の肯定者・窮極の否定者・極点の傍観者が、無限に増殖する出口のない大迷路の寄せ集めで、
無様にも目くそ鼻くそを笑うに我武者羅となり、知らず・得られず・遂げず・残さずにくたばる。

人間・人類・社会・世界は、己が催眠・洗脳・暗示により、崩壊・自壊を促される実態で、
それを十分に自覚しなければ、成す術もなく絶滅してしまう。

他にも、念頭に刻むべきは多々あるが、大要は『段』に記載している。




我々は、重箱の隅を突くばかりだ。

なんせ、余りに伴わず知らなすぎ、それしか出来はせんのだ。

言い換えれば、その程度であったがために、絶対してはならぬを反復し、
どうにも出来ぬ状態となり、そうやって茶を濁している、

つまり、建前・自己都合・利己主義の怪物となり、向き合うべき問題・不具合から目を叛け、
好都合な感覚で表層の上澄みを弄り回し、より手がつけられぬ状態にして逃げ回る。

万人が、そのような体たらくであり、敗残者にしかなれぬ世界で、
自殺や他殺をする事により、付加的な屑になるは滑稽だ。

より良きを感得する事で、自分を見返し・自身に吠え面をかかせて、先々への活路を見出してこその人である。

原初より、目的・目標・理由が不在であり、何もかもが定かでなかったため、
一時凌ぎの代用品の形成により、覚束無い実態を紛らわしてきた。

そのように、暇を潰す方法の追求を続ける事によって、
差別・偏見・軋轢を濫造・助長しまくり、どうにか手持ち無沙汰を補っているのだ。

さあれども、それにより問題と不具合が溢れてしまい、
より不適な対処しか叶わなくなっていき、その不意味な暇潰しさえも出来なくなる。

そろそろ、不意味な暇潰しで終えるのでなく、勉強・仕事・人生を謳歌すべきだ。

さもなければ、意識せぬ本当によって、切り捨てられてしまう。

切り捨てられるとしたが、それで解き放たれるわけではない。

願わくは、無類の目的・目標・理由の感得により、より多くの人々がそれを回避せん事を・・・。

無論だが、もはや手遅れの存在が跳梁跋扈し、先天的に多くが叶わぬ命が生まれ、不可避・回避が不能な真相がある。

不可避・回避不能としたが、つまみ上げる手段の確立が、確実・絶対に不可能となる、このままの状態であればだ。

とは言え、それには仕様上の限界がある。

それ故にこそ、冷静・懸命・聡明・賢明に生きねばならぬ。




三段(九)に続く。