2014年02月22日 15:50 三段(九)


人間・人類・社会・世界は、個人・集団・国家・国家集塊は、可能性の中を漂う可能性である。

だからこそ、それらの追求は止まりがつかぬ上に、いつ勢いが止まるのか予測が困難だ。

ただ、正真たる経緯の取得により、前提の吟味を続けたならば、あらゆる精察は容易となる。

容易となるは、どのようなプラットホームの上で、最小から最大のスケールにおいて、
どんなシステムが稼働しているか、鮮明・的確に把握・理解する事で、
相互作用を正確・精確に紐解けば、洞察・知悉が他愛無くなるからだ。

止まりがつかぬとしたが、それを無理に抑え込もうとしたなら、異なる可能性で切り崩されてしまう。

そうなるは、蓋然性が不分明となる可能性で、相似的な可能性を抑止するため、
盲点から擦り抜けるだけでなく、正面・死角から相殺・撃砕され、終わりの見えぬ対立を強いられ、
枠組・仕組・存在・悪癖は勿論、概念・定義の増加・変化により、無尽蔵な増悪を誘因するからだ。

増悪するは、無秩序な生存競争により、二極化・多極化が齎され、
総体が衰退を続けていき、やがて滅び尽きるためだ。

その経過で、問題と不具合が増殖・進化して、危険性と不確実性が上昇するも、
可能性で可能性を迎え撃つため、終止符を打つが叶いはせんのだ。

要は、絶対と確実が曖昧な存在が、埒が明かぬ対立をしている。

だけでなく、悪質化・深刻化を増進する。

端的に言えば、何をしてもいいのか・何をしてはならぬのか・何をすべきかが、
あるようでない・ないようである・白か黒かがハッキリしない、
訝しい前提を根幹としている胡乱な手段しか振り翳せないため、
問題・不具合・危険性・不確実性を適宜に改めるが至難なのだ。

まして、人間的な存在が起因となる、問題や不具合である限りは、悪化の一途を辿ってしまう。

悪化の一途を辿るは、仕様上の致命的な欠陥により、余りにも伴わずに知らなすぎ、過ちを反復させるためである。

そう、目的・目標・理由が不得要領であり、些細な事実や些少の本当には程遠く、それらの獲得が叶う道理も掴めずに、
枢要となる認識と隔絶された醜態で、判別・区別・分別・識別が儘ならず、碌に考えられずに何でもしてしまう。

そうだ、その考察を成立させるに、不可欠な前提さえ有さず、主義や思想に取り憑かれ、狭い範疇で錯乱している。

つまり、正当であり・不当であり・成立し・成立せぬは当然とし、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、
どれかであり、どれでもあり・どれでもない実態である、前提を根源・根幹・根本・根底とする同質となる存在が、
それを把握・理解・洞察・知悉し改めるが叶わぬ実態で、至要から遠ざかりながらマイナスの領域を徘徊している。

即ち、有耶無耶を前提とする、曖昧模糊となる存在が、本当を知り得ぬ状態で、隠微を繰り返すのみだ。

不得要領としたが、的確に表現する事によって、明確な理解をさせられない。

それは、そうとしかならぬためだ。

そこからの脱却は、可能であり・不可能であり・どちらでもない。

改めるが至難としたが、同上の性質を有するは無論であるが、超迂闊かつ超未熟な人間的な存在が、
致命的な欠陥を極端な次元で継承し、最下級の継承でさえ儘ならぬ状況で、
それを改めるに不可欠となる条件と、隔絶された状態で呆けているからだ。

だからこそ、どうすべきだったのかは無論だが、どうすべきかの活路が開けてくる。

何でもしてしまうとしたが、視野狭窄・無知蒙昧なまま、好都合な錯覚の虜となって、常に選択を誤り続けている。

常に選択を誤るとしたが、あらゆる選択に相反する可能性が、無辺際に内在する状態であるため、
完全無欠・明々白々となる選択が、可能であり・不可能である状態だ。

それに、どちらでもない。

それでは、どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなる。

どんどんどうにもならなくなるとしたが、以下のような流れが、それを増進するのだ。

無知・無智・無恥な存在は、自分・自分達にしか通用しない、
前提を基盤とする迷妄を標榜し、圧力により相手が折れるを待つ。

ただし、相手も同じ事をするため、思惑の通りにはならない。

状況を進展させるため、正当性の獲得に躍起となるも、互いが同一の次元である上に、
周囲も同じ穴の狢でしかなく、平行線をたどる憂き目を見る。

その過程において、差別・偏見・軋轢が複雑化し、問題や不具合が悪質化を続け、
危険性と不確実性が深刻化し、目論見が悉く頓挫してしまう。

そもそも、本当を知らずに不意味を働いたため、万人が墓穴を掘らされる破目になる。

このような流れが、無数に犇めいているのだ。



潜在能力を、生かすも殺すも、前提次第である。

万物は、特定の諸条件を前提に存在する。

特定の諸条件としたが、森羅万象が相互作用によって、前提を構成する諸条件となる。

我々は、そこに自前による前提を、作為・無作為に挟み込み、縋り・染まり・見失って、不意味に時間を食い潰す。

時点では、人間・人類・社会・世界が粗製濫造した、不分明かつ流動的な諸条件がソレとなる。

流動的な諸条件の内訳は、個人・集団・国家・国家集塊で異なるが、
極点の敗北主義による不憫な賜物であり、敗残者にお誂え向きな幻想の域を出ない。

そうやって、誰もが過誤した心的表象を根拠地とし、誰しも宙に浮いた状態で死んでしまう。

最初から最後まで、地に足がつかぬままで、碌な事が叶いはしない。

所詮、それは付け焼刃にすぎず、問題と不具合の塊なのだ。

敗北主義としたが、問題や不具合を助長するが精一杯で、
それらを穢れた綺麗事や御託により、誤魔化し有耶無耶とし逃走してきた。

それが、当然かつ必然となってしまい、万人は敗者の生き残りと化し、長きに渡り胡坐をかいている。

注意すべきは、その前提に耐えられる経過を辿らなければ、人々は無残な状態へと追いやられてしまう。

耐えられる経過としたが、理不尽・不服・誘惑に対して、より我慢が可能に育つ流れだ。

これからも、どうにもならなくなる推移により、その経過を辿るがより困難となり、落伍する者の割合が増大していく。

増大としたが、それらが分岐・発展する事により、手がつけられぬ怪物すら誕生する。

そもそも、前提に適合してしまう経過を辿ったがために、一触即発の爆弾人間に仕上がる場合さえある。

適合してしまう経過としたが、その範疇に束縛されている、最良から最悪となる流れだ。

そうなるは、何気無く据えている前提に、致命的な欠陥があるからだ。

それに気付いた存在は、どんな事でもしてしまう。

なんせ、気付かぬ者を出し抜き、それによる弱点を突き、手玉に取る事が出来る。

もとより、それに気付けぬ上に、何も知らぬからこそ、何だってしてしまう。

されば、どうなるかは明白だ。

残念なのは、多寡がその程度すら気付けず、未然・事前・直前に防げずに、
莫大な問題と不具合が蓄積し、手遅れになりすぎた事である。

気付けたとて、そこまでであるのならば、辿る末路が変わりはせぬ。

だから、本当を知れば出来なくなる、余計を何遍でもしてしまい、
抜き差しならぬ状態へ陥り、罪過を累積させ続けている。

そのため、大きく遠回りをしつつも、近道を選ばねばならない。

遠回りをするは、より適宜となる変遷を、より慎重に促すためだ。

近道をするは、大昔に猶予・余地が、消失しているからだ。

それを肝に銘じる事で、良心的・効果的・効率的・能率的に、改善と是正に勤しまねばならんのだ。




我々は、問題と不具合の改善・是正を、包括的かつ適宜に実現しうる、枠組・仕組・存在を基盤とし、
このマイナスの領域における、ゼロに近い素養を生かす形で、遷移を果たさねばならんのだ。

それに、それまでを熟知しなければならない。

熟知としたが、要点を取得する事により、感覚的な精通力を育んで、綿密な経緯の取得を促し、洞察と知悉を容易とする。

そうしなければ、これまでを見失うだけでなく、プラスに転じる事が叶わない。

枠組・仕組・存在としたが、土台に破綻している前提ではなく、真誠の常識を採用する必要がある。

これまで、それをしても大丈夫だったから、これからもそうだと感じようと、そうではないのが真の姿だった。

何しろ、絶体絶命の前提を土台としている、それと同質の枠組・仕組・存在は、
以下を考える能力・機能・作用が、欠如した状態で失敗を重ねている。

しても大丈夫なのか・させても大丈夫なのか・されても大丈夫なのか?

その竹箆返しは、万人へと満遍なく降り注ぐのだ。

猫も杓子も私も君も、それに苛まれて生きてきた。

これより、より深刻な容態へと推移する。

右も左も上も下も前も後も中心も、能力・機能・作用の不在によって、それに翻弄されるで精一杯である。

平たく言うと、家族も友達も上司も部下も先進者も後進者も自分自身さえも、
不足に苛まれ相身互いに翻弄し・翻弄されるだけで瓦解する。

せめて、時点の前提を改められぬまま、支え合い・縋り合ったならば、
どうなるか熟知する事により、様々な調整をすべきであった。

さりとて、方法を過誤してしまえば、犠牲を助長しかねぬ上に、増悪しか叶わぬ仕上りだ。

であるからして、何をすべきかが核心となる。

全者が、それを掴む事なく、表層かその上澄で、立ち尽くしている。

何と言っても、既存の枠組・仕組・存在は当然とし、
その原点となる前提たる都合により、遥か手前で頓挫する仕掛なのである。

その浅薄さが災いし、安易に突き進んでしまうため、打算的な感覚に振り回されて、
恋愛も仕事も子育ても人生も、益々思い通りにならなくなる。

それに対し、抜本的・根本的・根源的・根底的となる、対応措置をする者が原初より不在なのだ。

パッパラパー・クルクルパー・トンチンカン・チンプンカンプンな状態で、
アンポンタンな想像・空想・妄想により、トンチキな理想を追いかける者ばかりだ。

確かに、局所的な応急措置をする者がいるが、周囲を真似ろと見捨てるが関の山だ。

とは言え、誰かが整然と教えてくれるまで、過ちを反復させるは性質である。

人間・人類・社会・世界には、未然・事前・直前と言える座標軸で、
それをしてくれる存在が不在であり、仕方がないから我慢しているだけだ。

それのみか、事後においても表層かその上澄の感覚で、綺麗事と御託を並べる者しか望めはせぬ。

我慢としたが、どんどん出来なくなっていく。

ハナから、それを知らぬ者で満ちており、十分に思い知らされるまでは、我慢なんぞはするべくもない。

例え、十二分に思い知らされようと、本当を知る・知らされるまで、それが碌に出来ぬのが我々だ。

本当を知ったとて、環境に恵まれなければ、なんだってしてしまう。

それに、己が恵まれていようと、周囲がそうでなければ、巻き添えにされるのだ。

そんなだから、絶対かつ確実にしてはならぬ事を、絶望と後悔に劈かれるだけでなく、
最悪は切り捨てられる選択ですら、碌に考えられぬ醜態でしてしまう。

ただし、どれだけの変遷を促そうと、万人が恵まれる道理はなく、辛酸を嘗めるは必然なのだ。

現況は、究極たる最上と窮極たる最下の格差が極端で、例外なく無知・無智・無恥な敗残者にすぎず、
履き違え・踏み外し・思い込み・思い決めて、何も知らずに生まれ何も知らずぬ死んでいく。

だからこそ、皆で這い上がらねばならぬ。

意義・真価・理論には程遠く、意味・価値・感情さえ曖昧で、
直観・理性すら碌に育めずに、ここへと辿り着いてしまった。

それにより、ここまでこれた一面がある。

けれども、それには限界があるのだ。

このままでは、絶妙かつ微妙である状態の維持が、極端に不如意となる時が到来する。

そうなってしまえば、極点のマイナスへと引き摺り込まれ、いつの間にか不意味に消滅てしまう。

その洞察と知悉が叶ったならば、単純な事に気付けたのであれば、
その境界・最中に存在する事は、極限に幸運であり・不幸である。

それに気付く事が叶わねば、不出来な人形のまま終焉を迎える。

しかれども、成すべきを果たし続けねば、その活路さえ切り開かねば、ガラクタのまま廃棄される。

結局、正真の勉強・仕事・人生を翫味し、感得せねば不幸で終わってしまう。

仕方がないとしたが、そう自覚していようと、融通が利かぬ事に対し、心が強く締め付けられ、苦悩するは尋常である。

仕方ないとするは、それまでの経緯であり、無理に抑え込む事しか、誰もしてくれなかった。

そして、何も知り得ぬ状態で、子供は放り込まれる。

放り込まれた子供は、そのまま大人となり、本当と程遠い場所で、虚妄に弄ばれて死ぬ。

本当を念頭とすれば、正統な清規は多いのだが、碌な説明も叶わぬ状態で、半端な対応に明け暮れる。

万人は、本当を知る道理が得られずに、体裁を整えるに躍起となった。

上っ面を取り繕うばかりで、ホンモノを導き出せぬがために、ニセモノに縋るしかなくなった。

それ故、私も君も泣いている。

その涙が潰える前に、超絶絶頂に勇健となる状態で、究極極大に美味すぎる食事を、
臨界突破の人数で味わうため、無数の一つを成し遂げるのだ。




我々が、惨憺たる潮流に突入したのが、進化の経過での出来事なのか、介在者により仕組まれたのか、
確然な正真を示すは難事だが、成すべき本懐は変わらぬため、それは然したる問題ではない。

されど、本来の希望を把握・理解すれば、目的・目標・理由を熟知すれば、
意図・成果を洞察・知悉すれば、全てを解き明かすは単純となる。

ただし、不十分な状態で本当を示せば、差別・偏見・軋轢が高揚する。

そうなるのは、それを認めさせたくない存在や、認めさせたい存在の対立によって、絶大な障害の発生が必至だからだ。

既に、莫大な犠牲が発生しており、未だ嘗てない次元において、それが明確となる事あらば、その反動は計り知れんのだ。

進化論を認めさせたい者がいれば、認めさせたくない者がいる。

大御神を認めさせたい者がいれば、認めさせたくない者がいる。

介在者が、神的存在でないと判明すれば、ばつが悪くなる者が大勢いる。

その逆もまた然りだ。

そうだ、判然とさせてはならぬ状況であり、それを阻害する勢力で満ちている。

だからこそ、それが局外者や何らかの影響により、突発的に明確化される事態を想定し、
そうなろうと大丈夫な環境の調整を、未然・事前・直前に施さねばならん。

とは言え、既存の枠組・仕組・存在により、術と答えを導くに不可欠となる、
能力・機能・作用から遠ざかり、余りにも伴わぬ実態なのである。

それ故に、多くの本当を知らなければ、どうにもなりはしないのだ。

されど、受け入れる準備をせずに、免疫がない状態のままで、それに曝されてしまえば、何もかも儘ならなくなる。

そうなるは、これまでが覆されるからだ。

それによる犠牲は、想像を絶する次元となる。

何しろ、晒される本当の内訳によっては、政治や宗教の域を超えてしまい、超神速で絶滅へとマッシグラだ。

内訳としたが、全者の不誠実によるソレがあれば、隔絶され獲得が困難なソレもある。

勿論、それだけではない。

であるからして、本当を乱用する存在により、惨事が引き起こされる前に、前提を応化する必要がある。

それには、包括的な着手が不可欠であり、順序に注意を払わねばならん。

仮の話となるが、本当を携えて開示する者が、外部から飛来したとなれば、
これまでの行いが仇となり、多くの者が立場を失うのだ。

無論、たったのソレッポッチでは、済みはせぬのが現実である。

何と言っても、灼然たる接触をしただけで、大きな混乱が発生するのだ。

そもそも、それ以下・以上のスケールにおいて、現実的な台無しの流れが無数にある。

そのため、接触・公表を控える者は多い。

接触・公表を控えるとしたが、それには以下のような可能性がある。

透徹した、知識・技術・医療を有する玄人からすれば、素人は極端に野蛮な敵性実存の場合がある。

もしくは、術と答えを引き出させるための、基本的な実験生物の場合もある。

はたまた、どうでもいい存在なのだ。

どう扱われるかは、当事者・関係者・局外者に委ねられている。

従って、可能な限りを踏まえ、備えねばならんのだ。

枢要となるは、人間と呼ばれる解答に対して、どのような式が成立するのか、ソノモノを公式とした場合は、
どんな解が要求されるかだが、既存の枠組・仕組に縋る限り、歪んだ感覚しか得られはせん。

ここに到るまで、退廃的・変態的な解しか得られず、救われ・赦され・報われたければ、
背徳的な存在を支持・信仰せよと、酷く倒錯的な連中が要求してきた。

それらには、その結果として何が得られるのかを、示す者・示さぬ者・示せぬ者がいる。

例え、ビジョンを示していようとも、プロセスが曖昧なだけでなく、スキームの確立が不能であり、
必要な条件が揃う道理もない、慇懃無礼の碌でもない代物で、ただ惑わしている場合がある。

もとより、どれだけ精度が高く編纂されていようと、政治的・宗教的な主義・思想の賜物なら、
膨大な不可欠との隔絶を余儀なくされて、不意味な気休めと自己満足で終わるのだ。

そう、些細な事実と些少の本当から、手繰り寄せたモノでなければ、碌な時間稼ぎさえ儘ならない。

何より、バラバラな状態である全体に対し、より良き提案でなければ不意味だ。

その実態に対して、政治的かつ宗教的な主義・思想を、自己都合の我侭をゴリ押しすれば、
武力衝突の火種となるだけでなく、それでは永続的に埒が明かんのだ。

それに気付けたならば、ならばどうすべきかが、少し位は見えるだろう。

その追求による、より適宜な変遷が叶わなければ、愛国主義者は売国奴でしかなく、
自由を求めれば不自由となって、平和を求めれば戦火に焼かれて、
夢・希望・理想を追いかければ、悪夢・絶望・現実に切裂かれる。

おまけに、利便性の追求を続けたつもりでも、より不便な状況へ転落する一方だ。

あまつさえ、逆手に取られて裏目となって、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

このままの状態で、救い・救われ・赦し・赦され・報い・報われようとすれば・・・。

それに対し、細心かつ砕身の注意を払わなければ、救われ・赦され・報われたがために、
身勝手に余計を働いた挙句の果てに、完膚無きまでに絶滅さえしてしまう。

それを齎した存在を、救い・赦し・報われるようにするには、相応となる絶望と後悔が不可欠となる。

対象によっては、切り捨てられてしまうのだ。

術と答えを導き出すに肝要となるは、リスクとハザードの発生を抑えつつ、
有事に対する十二分の備えを維持し、先々へ進み続けるストラクチャーだ。

それに不可欠となるを、自然的な能力・機能・作用から逆算し、人間を歪な存在とせずに付与するのだ。

そのためにも、目的・目標・理由を明晰とし、少しでも前を向く事によって、前へと進み続けねばならない。

なのに、個人・集団・国家・国家集塊風情は、自然的な能力・機能・作用に弄ばれ、
不可欠となるそれらの獲得が叶わず、前を向いて生きる事さえ儘ならない。

これまで、表面を取り繕う事ばかりだった。

それで、心を満たすで精一杯だった。

内面は、上っ面がそれっぽい感じになるよう、狭い範囲で弄り回されるだけだった。

それでは、直ぐに頭打ちとなるだけでなく、折り返し地点を迎えてしまえば、溢れだす襤褸によって倒壊する。

この広大な領域に対し、人間と人類と社会と世界は、特定の確率で自動で生じる、多寡が副産物にすぎんのだ。

それは、自然であり・不自然であり、偶然であり・必然でもある。

それに、良い事であり・悪い事であり、そのどちらでもないのである。

しかも、政治や宗教は杜撰なオマケにすぎず、ホンモノを導き出すまでの代用品だ。

それらは、ホンモノが存在しないため、仕方なく形成された代物だ。

従来、正解であり・誤解であり・不解である、不始末な存在に縋り・染まり・見失い、その疆域で平衡感覚を失い死ぬのみだ。

それを熟知し解き明かさねば、どうでもいい論点で言い争い、つまらぬを格別・特別と扱い、
見当違いの理論を撒き散らし、己の無知・無智・無恥を晒し、自己を追い詰めるだけとなる。

それを自覚せねば、余りにも余計な事を繰り返してしまい、
在り来たりな真実が明瞭となるだけで、誰よりも自分自身が許せなくなるのだ。

このままの状態で、本当が明白となってしまえば、その恥ずかしさに耐えられず、どうにもならなくしてしまう。

本当としたが、その総量は実に膨大であり、自分の嘘偽がそれを増やす。

それだけに、冷静な気魂・懸命な考察の研磨を怠る事無く、聡明な判断・賢明な決断を心掛けねばならぬ。

真実の言明における経緯を取得して、前提たる諸条件を把握し理解せねば、
現実と向き合う事さえ不可能であり、どうすべきか知悉も洞察も叶わない。

今日まで、これまでの内容を碌に加味する事もなく、どうにもならなくなる実相に憑依された、
木偶の坊の杜撰な一般論や感覚によって、セラピーやカウンセリングが提供された。

それによって、精神を患った子供と大人は、悪循環へと送り返されるか、
新たな袋小路に追いやられ、連綿と打ち棄てられている。

加味をせぬのは、それが不都合なだけでなく、そこまで頭が回らぬためだ。

なんせ、それをしたら儲からなくなる上に、これまで何をしていたかがバレる。

ハナから、必要な発想が浮かばぬため、それしか出来はしないのだ。

油断していれば、良きと確信し実施した事でさえ、大きすぎる代償を支払わされる。

それは、諸賢に相応しくない。

既存の枠組・仕組の人形となれば、正真の経緯を説明するは当然とし、
実相を明確とする切欠も得られず、何も掴めぬまま凄惨な死を迎える。

その実を踏まえ、包括的となる改新を有言実行し、各々が他の追随を決して許さぬ、
唯一無二の存在であるを証明し、より多くを掴み取らねばならん。

それまでは、紛争・貧困の原因・要因を放置し、それで苦しむ人々を食い物にして、
不意味な気休めと自己満足に耽り、命を弄び虐げる化物で終わるのだ。

慈善団体・人権団体・愛護団体は、万古不易の実態を背景に、破廉恥な事を続けている。

だいたい、機能・能力・作用の欠如により、碌でもない実態で頭打ちとなる。

その半端な支援の結果が、新たな悲劇を呼び寄せるのだ。

結局、虫が良い連中の掃き溜めにすぎない。

だから、どれだけの寄付がされていようと、与えられて当然・必然と振る舞い、
己・己達が拵えたルールに基づき、訳無く浪費して使い捨ててしまう。

他にもやりようがあるのに、好都合な認識で煙に巻いて、自分・自分達が正当と掲げ、
穢れた綺麗事と御託を並べ、気休めと自己満足に陶酔し、不意味の反復を続けている。

結句、万人がそれで限界となるため、浅ましい応酬が終わらんのだ。

そこからの脱却により、守り抜いてこその人である。




価値観・方向性・思考力は、個人・集団により大きく異なる。

国家や国家集塊の間ともなれば、それは尚更となるのだ。

とは言え、表面上の推移による差であり、内面的となるソレに関しては、
実質・本質に確たる差はなく、どん底でもがいているだけだ。

所詮、有象無象の寄せ集めであり、全てが烏合の衆にすぎない。

そして、自国・他国の文化さえ碌に知らず、客観的な印象すら碌に精査せずに、
救いようがない醜態の平々凡々が、誹謗中傷・批難・批判をしている。

そもそも、根源・根本・抜本・根底において、疾うに座礁した状態であるために、使いものにならぬ人材しか望めず、
精通・解決には程遠い状態であり、何をするにしても埒が明きはせぬ、余りに果敢無さすぎる実態である。

埒が明かぬからこそ、それをどうにか整理するために、仕組・枠組・存在が形成された。

ただし、精通・解決とは、隔絶されている。

故に、誹謗中傷・批難・批判が関の山となる。

それのみか、研ぎ澄まされた存在と感じようが、それっぽい事をするで限界なのだ。

採用が可能となる前提の不備が、多寡がその程度で、万人を終わらせる。

前提の不備としたが、以下のような欠陥が発生する。

一つの選択には、複数の選択が内在する。

前提により、自覚が可能となる、量と質が変化する。

それに、年齢を重ねれば、感覚が変化する。

致命的な欠陥を基盤とすれば、それなりの状態へと推移する。

それに対する認識が甘く、周囲が自分に同調せぬを、疑問視するだけではなく、
自身の不足や劣化により、解せぬ苛立ちを隠せずに、選択を過誤する者は多い。

前提に不備があれば、相手の意図・感覚を読み取れず、自分自身の制御さえ儘ならない。

果敢無いとしたが、自動車のメカニズムを殆ど知らぬ夫婦が、
煙を吹いている自家用車を見つめながら、感覚でいつまでも言い争う事に酷似する。

その内容は、余りに滑稽で、聞くに堪えん。

言い換えると、問題を適正に解決するに、必須となる知識を有さず、かけ離れた内容を並べて、口喧嘩をしている状態だ。

夫婦は、車の構造が曖昧模糊な状態で、修理する能力を有していない。

何より、修理と言う発想さえ有しておらず、そのメカニズムを学習しようにも、
余りに多くの条件が欠落しており、そいつは皆無・空無・絶無である。

加えて、夫婦の家族・友達・周囲も同様の状態で、自動車が故障する度に都会へ買いに行き、
夫婦が住んでいる田舎の鉱山の近隣には、大量の故障車両が所狭しと転がっている。

村の住民は、それを改善・是正する事もなく、何代も前からそれを反復させて、当然であり必然と認識している。

確かに、それを疑問に思う村人もいるが、長いモノに巻かれる選択に耽る。

そうして、見当違いの理由で永遠と言い争って、どんどん廃車が積み重ねられていく。

はたまた、その実態を改めるために、都会より訪問者がくるが、村人を説得するが叶わん。

相互に対する、段階的な把握・理解が欠如し、それを埋めるに不可欠となる、
手段の洞察・知悉が叶わずに、平行線を辿り続けるばかりだ。

端的に言えば、問題や不具合を解決するには、大きく三つの階層に内在する、正確な情報が必須となるのだ。

されど、それを形成する過程に不備があり、第一層目はグチャグチャの状態で、
第二層目はぐっとグチャグチャで、第三層目はもっと破局した有様だ。

我々は、それらを一から整理しなければ、表層の上澄みで嘆くが精一杯で、
それを碌に把握・理解もせずに、余計な事を繰り返すのみである。

けれども、それを反復させるしか叶わぬ実態であるため、過誤した状態で悪意をぶちまけるだけとなる。

そこから、どうすべきか紐解かねば、不意味な応酬に始終する。

しかしながら、それが状況を長引かせる事で、ここへ辿りつけた一面がある。

それを忘却・失念すれば、切り開く未来に影が生じる。

それに、注意をせねばならん。




時が経ってから・年を取ってから、あの声に耳を傾けておけばよかったと、絶望・後悔する事は無数にあるのだが、
確定的となる改善・是正が伴わぬ限り、如何したとて辿る末路が変わらぬ上に、そのせいで早死にする事さえあるのだ。

常に、同一となる矛盾に苛まれる事によって、相反する者と同様の性質を有しており、
どんな選択をする・しないに拘わらず、大差ない場所を転げ落ちるだけである。

万人は、マイナスの領域を間断なく転げ落ちる、善であり・悪であり・どちらでもない。

故に、稀なチャンスを逃そうが・逃すまいが、絶望・後悔に打ち拉がれるべきであり、絶望・後悔に打ち拉がれるべきでない。

然るに、どちらでもない。

そうなる所以を熟知すれば、人生は究極に面白くなり、窮極につまらなくもなる。

はたまた、何も変わりはしないのだ。

それを熟知していようとも、その先へ踏み出せぬのであれば、術と答えを掴む事は出来はせぬ。

今まで、それが叶わなかった。

であるからして、なるべく好都合に受け取る事で、不都合でさえ好都合から採用し、どうにかこうにか存続している。

それが災いし、あらゆる可能性を予測してから、事実確認する発想さえ浮かばず、好都合な情報を軸に喚いている。

注意すべきは、能力・機能・作用が欠如したまま、事実を掘り返し続けた場合である。

不可欠となる、それらから遠ざかる事により、事実に対する脆弱性は向上し、
やがてはつまらぬ事実でさえ、惨憺たる末路への呼水となる。

時点でさえ、解決が叶う道理もなき実態で、危うい応酬を続けているのだ。

それだけか、空虚である紙屑と鉄屑を、より空疎な存在に変換し、無残に振り回されている。

空疎な存在に変換としたが、その一つに金銭の仮想化がある。

物理から論理へ、随伴する危険性や不確実性の向上を、
十分に計り知り対策が叶わなければ、抜かりがある分だけ災難に苛まれる。

見落した部分は、悪質化・深刻化を続けていく。

仮想化により、えげつない商売でさえも、どんどん増えていくのだ。

既に、多くが目立っているが、本番はこれからとなる。

何と言っても、物理から論理への変換だけでなく、物理から物理への交換に関しても、抜かりがありすぎて手遅れである。

マイナスの存在は、よりマイナスの存在を生み出し、陰極の深潭へ引きづり込まれる。

それにより、万人が吠え面をかかされる、惨憺たる幕切れが到来する。

誰が、それを引寄せるのか?

それは、未熟かつ迂闊な、自分自身である。

だからこそ、しゃんとせねばならない。




これまでの内容は、最下限の人間として思考していれば、安直に綴れる他愛ない羅列にすぎん。

最下限としたが、既存の枠組・仕組・存在に、縋り・染まり・見失う事で、
差別・偏見の化物と化せば、永遠に編纂が叶いはしない。

段とする、日記の取得で獲得が可能な印象は、表層やその上澄みで全てを費やし、
酷く老いてから沸き上がる感覚や、死を間際に気付くソレに類似する。

さりとて、それらは正真と似て非なる感覚で、明確化を試みようが虚妄にすぎず、酷く漠然とした幻覚の域を出ない。

そのような、説明するが不如意な感覚に責め立てられ、自己の制御が儘ならなくなる場合がある。

時折、若者が類似した状態になり、大きな過ちを犯してしまう。

なんせ、雁字搦めの状態となった、理由を知る機会は少なく、宗教に縋れば供物にされ、
政治に縋れば犠牲にされ、奪い失い奪われた挙句に、使い捨てにされるだけだ。

要は、先進者が形成した柵によって、後進者は収奪の嵐に曝される。

そんな、金銭・健康・生命を脅かす、堂々巡りに翻弄され続けて、それで正しいと嘯かれれば、
多くの疑問が沸き上がって、肉体・精神に異常が激発し、爆発するは必然かつ当然だ。

衷心では、些細な事実や些少の本当を軸とする、改善・是正・打開・解決を望むのに、その実現を阻害する環境を強いられ、
真成の目的・目標・理由と隔絶され、正当かつ不当な事柄で浪費されれば、いとも容易く心なんぞ砕け散るのだ。

これまで、追い詰められ消沈した人々に対し、ただ追い討ちをかける事ばかりに、人間・人類・社会・世界は励んだ。

とは言っても、それで頭打ちだったのだ。

糅てて加えて、それらしい内容を並べていようと、肝心な提案が天麩羅なだけでなく、不意味な末路への道標だけだった。

それでは、どんどんどうにもならなくなっていく。

しかし、そこまでを知ったのであれば、活路の前に足を進めるが叶う。

されど、踏み出さなければ、全てはそれまでだ。

近々の反復は、人々を捻くれた人形へと堕落させ、最悪を誘因し易くする有様である。

各々が、それへの注意が必要だ。

人間的な存在は、家族・友達・周囲・自分のかけがえのなさ、自身や他者を殺害してはならぬ真の所以や、
自己に傲慢で他者に謙虚であるべき理由を、あるだけの綺麗事や御託で煙に巻いてきた。

それによって、極端に理に適わぬ内容でさえ、違和感を感じなくなっている。

それに対し、注意を払うは重要であるが、極端に意識をしてしまえば、食み出し者にもなりかねん。

この事から、これまでを念頭に踏まえながら、より良き日々を歩んで頂きたい。

また、ロウミス・ロウトラブルを意識し、ノーミス・ノートラブルを、やり通して頂けると嬉しい。

さらに、道義的となる判断・決断を過誤せぬよう、より良き前提を調整して頂けると幸いだ。




三段(十) A-ビットコインの概要と考察に続く。