2014年10月31日 23:31 三段(十)D-複数のニュースへの考察-前篇


福島第一原発事故に、関連したニュースを扱うため、大凡の流れを取得しておこう。

○ 2011年3月11日

三陸沖を震源とする、東日本大震災(モーメント・マグニチュード 9.0)が発生した。

それにより、福島第一原発の1号機・2号機・3号機が自動停止した。

4号機・5号機・6号機は、定期点検で停止していた。

そして、1号機~4号機の受電設備が損傷し(5号機・6号機は、鉄塔が倒壊し受電不能となる)、
外部電源(同原発外からの電力供給)を喪失する状態となった。

その後、非常用のディーゼル発電機に切り替えるが、津波で水没・燃料のオイルタンクが流出し、
全交流電源(直流のバッテリー以外)を喪失する事態となった。

※敷地内で記録された、揺れの最大加速度は448ガル(経産省 原子力安全・保安院による、耐震安全の最大値は600ガル)。

○ 2011年3月12日

1号機原子炉建屋で水素爆発が発生する。

○ 2011年3月14日

3号機原子炉建屋で水素爆発が発生する。

○ 2011年3月15日

4号機原子炉建屋で水素爆発が発生する。

○ 2011年5月12日

東京電力が、一号機のメルトダウンを認める。

○ 2011年05月15日

東京電力が、二号機・三号機のメルトダウンを認める。

○ 2011年12月16日

政府・東電が、原子発事故の収束を宣言する。




□ はじめに

稼働していた、1号機~3号機の原子炉が、最悪の末路を辿っている。

4号機~6号機のソレは、その状態に至らなかったが、当然かつ必然の結果である。

成す術なく、メルトダウン・メルトスルーするも、実に在り来たりな顛末にすぎんのだ。

なんせ、そうとしかならぬ実態だった。

何の変哲もない対応を美化するも、直ちに影響はないと垂れ流し、
風評被害と標榜する事でさえ、高が知れた他愛もなき趨勢だ。

つまらぬを、格別・特別としなければ、その醜態に耐えられない。

噴飯物の尻拭いを、阿呆臭くも感じてしまう。

玄人と素人が、肯定・否定・傍観に耽り、無知・無智・無恥を晒し、淪落するも至当の流れだ。

そうだ、余りにも伴わずに知らなすぎる存在が、建前・自己都合・利己主義に弄ばれて、
先入観・固定観念・既成事実の範疇で、底が知れた的外れな選択に耽ったのだ。

底が知れたとしたが、正解・誤解・不解かが定かではない、
受け売りによる貧相な情報の範囲で、粗放に喚き散らしていたにすぎない。

そうやって、気休めと自己満足をせねば、己が惨めさに打ち拉がれる。

さりとて、自分の無力を自身で証明していただけで、
その反復の先でソレに気づいてしまうと、恥ずかしくなり儘ならなくなってしまう。

所詮は、何も知らずに生まれ・何も知らずに死んでいく、不意味・不価値な存在による迷走・暴走なのだ。

例え、状況を静観していようとも、無能であるに変わりはない。

万人が、同じ穴の狢である。

的外れな選択としたが、矛盾・曖昧に満ちている、歪んだソレしか叶わない。

それは、出鱈目な理論・根拠・感情・論理により、悪質化・深刻化の一途を辿るのみである。

そうなるは、肝要と隔絶されたまま、突き進んでいるためだ。

だけでなく、己が本性を見極め真向かう事で、より良き品格・見識を育くむを、忘却・失念しがちの状態なのだ。

厳密には、ソレに不可欠な諸条件が、極端に乏しい状況である。

それによって、希薄な自我・人格・個性・精神・感性しか育めない。

推移により、それらは脆くなっていく。

一人の天才すら望めぬ、凡人だけが溢れる瑣末な世界で、富者も貧者も敗者のまま費える。

凡人としたが、個人・集団・国家・国家集塊による、催眠・洗脳・暗示による人形である。

時折、凡人と同等か未満の存在が、より迂闊かつ未熟な実存が、大きな過ちを犯してしまう。

それを、酷く頭が回らぬ人々は、異常な事のように扱い、碌に向き合えずにいる。

要は、極端に異質と扱う事によって、見当違いの対応・対策をする。

それを重ねる事で、悪化させ反復させてもしまう。

端的に言えば、表面的にはぐらかすが限界で、自ずと形成した死角・盲点で、問題・不具合は増悪を続ける。

例えば、法律で規制する事によって、犯罪の尻尾が掴み難くなる。

そうなってしまうは、その規制を逃れるために、悪人が狡賢くなるからだ。

はたまた、法が施行される事により、目を逸らしがちにもなる。

そもそも、表面的に抑え込むだけのため、改善・是正・打開には程遠い。

何より、好都合な線引きで問題・不具合を杜撰に弄くり、不都合には見ざる聞かざる言わざるを決め込む。

なのに、己・己達が正当であると錯覚したまま、どうにもならなくするに熱心な状態だ。

例え、正当であり・不当であり・どちらでもないと知覚していようと、
ならばどうすべきかが導き出せねば敗残者のまま終焉を迎える。

その遥か手前で、全人が頭打ちになっている。

であるからして、いたちごっこが終わらぬだけでなく、どんどんどうにもならなくなるのだ。

とは言え、価値観・方向性・指向性に不備があるため、あたかも不思議な事が起きたと振舞わねば、
そのような目線によって目を背けなければ、未然・事前・直前に防ぐ事が出来ぬは勿論、
已然・事後・直後に碌な事が叶わぬ実態が、原初からの間違いが露呈しばつが悪くなる。

過ちを犯す者は、卑劣・愚劣・下劣な発想が芽生えようとも、
乱りに実現せぬ感覚(自制心)が養えずに、その不足により原始的な選択をしただけだ。

原始的な選択としたが、生きていようが死んでしまおうと、
家族・友達・周囲を巻き添えとし、魔の連環に苛まれる不首尾である。

継承の手段・内容に問題・不具合があるため、それを促してしまう環境が築かれている。

それに対し、様々なレッテルを張る事で、誤った評価を下してしまい、悪化させるに躍起の状態だ。

即ち、格別・特別かのように扱って、実質・本質から離れてしまう。

そのため、抜本的・根本的・根源的な、改善・是正・打開が叶わず、それから遠ざかってしまう。

もとより、肝心が抜けているために、それで精一杯なのである。

それによる、主義・思想・政治・宗教に縋る限りは、どんどんどうにもならなくなっていく。

だから、斯様な現状が紡がれている。

それこそが、現実・事実・真実・真相・実態なのである。

我々は、それらを誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けている。

このままでは、それだけで終わるのみだ。

されども、枢要な答え・術を手に入れても、古臭い在り来たりな選択をして、
自己と周囲を追いつめる存在が、過ちを犯す者が絶える事は無い。

それ程までに、人間とは愚かな生き物である。

だからこそ、這い上がるため奮励するは重要なのだ。

そのためにも、噛みしめねばならぬ事柄がある。




□ 鼻血と被ばく因果関係ない 菅官房長官が批判(2014年5月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014051202000221.html

菅義偉(すがよしひで)官房長官は十二日の記者会見で、小学館の『週刊ビッグコミックスピリッツ』の漫画『美味しんぼ』で東京電力福島第一原発を訪れた主人公らが原因不明の鼻血を出すなどの描写があった問題について『住民の被ばくと鼻血の因果関係は考えられない』と批判した。同時に『政府として科学的見地に基づいて正確な知識をしっかり伝えていくのが大事だ』と強調した。

□ 美味しんぼ『鼻血、医学的根拠ある』専門家ら反論会見(2014年5月24日)

http://www.asahi.com/articles/ASG5R517DG5RUGTB00R.html

人気漫画『美味しんぼ』で東京電力福島第一原発事故後の鼻血の頻発などが描かれたことをめぐり、専門家や健康被害を訴える当事者が23日、国会内で記者会見を開いた。政府や福島県が『風評被害を助長する』などとして事故と鼻血の関連を否定していることに対し、『因果関係は否定できない』と反論した。住民の自主的な甲状腺検査に協力してきた北海道がんセンターの西尾正道名誉院長は『高線量被曝(ひばく)による急性障害に論理をすり替え、鼻血(との因果関係)を否定する『専門家』がいる』と批判。『放射性物質が付着した微粒子が鼻腔(びくう)内に入って低線量でも鼻血が出る現象はあり、医学的根拠がある』と指摘した。記者会見に電話で参加した福島県内の母親は『漫画全体を読み、福島への愛情を感じた。子どもに鼻血が出ても、話を聞く前から因果関係を否定するような人たちに私たちは本当のことは言わない。国の責任で鼻血を含めた健康調査をしてほしい』と訴えた。崎山比早子・元国会事故調査委員会委員(がん生物学)は『汚染地域は広範にあり、健康障害への懸念は鼻血どころでない。正確な情報を』と説いた。主催の市民団体代表は『鼻血の表現ばかりに焦点を当てて攻撃し、健康障害を訴える声を抑えつけている』と非難した。




前提を、限定・改竄・捏造する事で、安全・安心を標榜してきた。

そう、採用する条件を調整する事で、理論・根拠の不在を隠匿して、様々な策謀を成し遂げてきた。

加えて、バラバラに考えさせ・考える事で、あたかも大丈夫かのように振舞い、家族・友達・周囲・自己を欺いた。

稚拙かつ執拗に、必然かつ当然と扱う事により、それが当たり前だと誇張して、弱者を捩じ伏せてもきたのだ。

そのように、駄々を捏ねる事によって、屁理屈を理屈へと変えた。

そうやって、原発に『安全神話』が形成された。

必然かつ当然と扱うとしたが、偶然と装う事により、義務や責任から逃れ、どうにか居座ろうと、必死になる者もいる。

安全・安心を標榜するとしたが、危険・不安と主張するも可能だ。

安全論者・危険論者は、好都合な答弁をするため、前提に細工を加えている。

それにより、不都合な結果が到来すれば、その内訳を明確とする事で、それをアリバイに逃げ回る。

端的に言えば、安全・安心と高らかに謳っていたのに、時間が経ち問題や不具合が発生すると、
このような前提で考えていたがために、こうなるは想定外と訴え煙に巻くのだ。

作為・無作為に、多くの者がコレを実施する。

頭が回らぬ人々は、何もかも分からぬ実態なのに、それを鵜呑みとするばかりだ。

なんせ、それが一番楽なのだ。

無知・無智・無恥な者は、見解を示すには程遠い状態で、知ったかぶりをして同調する。

はたまた、埒が明かぬ対立に興じる。

どいつもこいつも役立たずのため、付け焼刃の杜撰な感覚による、押し問答で精一杯なのである。

ケリがついたようでも、改善・是正・打開・解決を、無残に放棄したにすぎない。

前提に細工を加えているとしたが、その上塗りを続けてきたため、矛盾と曖昧の整理が出来ずに、
己・己達がカラッポな事すら、肝心が抜け落ちている事さえ、満足に知覚が叶わない醜態で、
なんとなく分かる範囲だけで、そんな最小限の構成で考えて、甚だ余計な操作をしてしまう。

されば、考慮が不可能だった分、手遅れになってしまう。

不可能な分だけならまだしも、忘却・失念しているは当然とし、
故意に除外している場合があり、捩じ曲げている場合もあるのだ。

だけでなく、その受け売りをしている。

まるで全てを網羅したような口振りで、安全論者と危険論者が意見を並べるが、
思い込み・思い決め・思い違いによる、枢要がゴッソリ抜け落ちた戯言である。

それを妄信すれば、憂き目を見る破目となる。

その程度の己に従えば、損をするは自分自身なのだ。

それで、家族・友達・周囲を巻き添えに、何処までも転げ落ちるは滑稽だ。

そもそも、福島第一原発事故による放射性物質は、人体を破壊する原因・要因の極一部だ。

とは言え、多種・多様な核種が放出されて、その確かな内訳は当然であるが、総放出量は未知数な状態である。

正確かつ精確となる、それらの情報を取得するにも、時点の科学力では無理があり、阻害する勢力が後を絶たない。

それに、様々な経路による循環型被曝を、十分に考慮した見解は示せない。

地域・個体による、あらゆる格差を踏まえるは勿論、それで各々がどうなるかなんぞ、的確に示すは最初から不可能だ。

それ未満の事でさえ、碌に儘ならぬ実情がある。

ハナから、粗雑に取り繕うが関の山だ。

だから、好都合な前提によって、それらしいを並べるも、それだけで終わるのだ。

事態を悪化させぬためにも、そうするしか余地がない。

であるからして、症状が出るまでは、嘯き続けるだけだ。

発病すれば、手術や化学療法で、対処するしかない。

それで、助かる者がいれば、助からぬ者もいる。

事態を悪化させぬとしたが、成す術がないが露呈すれば、実質や本質が明確となれば、自分・自分達が危うくなる。

何より、人体実験への制約が大きいため、大雑把な事しか分かりはしない。

研究・検証のため、子供・大人(老若男女)から、摘出可能な細胞に限度がある。

特に、生存している場合には、それが限られてしまう。

死亡した人体ならば、有効性が高い結果が得られない。

他の生物であろうと、倫理・道徳・常識・正義による壁がある。

もとより、他生物を対象とするのであれば、人体への十分な成果は得られん。

倫理・道徳・常識・正義による壁としたが、それらは矛盾と曖昧に満ちている。

だから、どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなる。

過去の放射線事故のデータなんぞ、条件が大きく異なるだけでなく、
その信憑性に大きな疑問があり、義務や責任を果たす人材なれば、証憑にしてはならぬ代物である。

なのに、立ち処にいる者達は、それを妄りに採用し、希望的観測を並べて、安全・安心を豪語し、自分さえ追い詰める。

福島第一原発事故による放射性物質だけでも、何が発生するかは非常に不分明なのだ。

その他の放射線による影響を加味すれば、何も言えなくなってしまう。

あらゆる原因・要因を内包する、実際の環境を前提とすれば、それは尚更となるのである。

結局、特定の枠組・仕組・存在に対して、好都合な仮定・仮説の採用により、安全・安心・危険・不安を並べる。

おまけに、問題が大きく膨れようものなら、あらゆる原因・要因を加味して、
そうなる事は不思議ではないと、誤魔化し有耶無耶とし逃走する。

つまり、限定・改竄・捏造していない、全条件を前提に採用する事で、
そうなるは至当なのだと扱い、碌に対処・対応をしないのだ。

それは、陳腐化した手法である。

なれば、危険論者の方がマシと感じるが、出来る事は安全論者と大差なく、十二分の提案と解決が伴わない。

それが望めぬ存在に、意味・価値はないのである。

鼻血と被曝に対する、因果関係が否定されてはいるが、その前提は極端に絞られている。

その程度の見解しか示せぬ専門家の意見を、有象無象が鸚鵡返しをしているだけなのだ。

それで、精一杯な実情を踏まえれば、現状は非常に深刻な状態だ。




□ 3・11前に『再稼働反対』 都内で脱原発デモ3万人(2014年3月9日)

http://www.asahi.com/articles/ASG395GNDG39UTIL00N.html

東日本大震災が起きた『3・11』を前に、改めて脱原発を訴えようと、市民グループが9日、東京都内で大規模な集会を開いた。首都圏や被災地から集まった参加者らが『未来のために再稼働反対』などと訴え、首相官邸や国会周辺をデモ行進した。『首都圏反原発連合』など3団体が呼びかけ、主催者発表でのべ3万2千人が参加した。原発政策を巡っては、東京電力福島第一原発事故を受け、民主党政権が『脱原発』を打ち出した。しかし、自民党の安倍政権は路線を転換。先月、公表した新たなエネルギー基本計画の政府案で、安全性を確認した原発については再稼働する方針を示し、新設の可能性も残した。今月中の閣議決定を目指している。原発事故による国の避難指示を受けている福島県楢葉(ならは)町の住職早川篤雄さん(74)は、千代田区の日比谷野外音楽堂であった集会で、約600年続いた寺を閉じる決意をしたことを明かした。『孫を後継ぎにするのが励みだった。原発事故は住民の人生を奪い、生きるすべまで奪い尽くした』と声を上げた。




原発を、肯定する側・否定する側の双方が、無知・無智・無恥で無能力なため、埒が明かぬ状況が長期化している。

無論、万人が井の中の蛙にすぎん。

争う者達は、己・己達に好都合を掲げて、相手の不都合を嘖み続ける。

傍観者は、気が向いたならば、双方の詮索をする。

その経過で、自分・自分達をマシと扱って、争う存在に不満を募らせては、それを無様と見捨ててしまう。

はたまた、争う者達は互い・傍観者を見限る。

見限ろうが・見捨てまいが、正真の改善・是正・打開・解決が、
決して伴わぬ実態でしかないため、巻き添えにするだけで終わるのだ。

そうやって、全人が同じ次元で頭打ちとなる。

このままでは、好都合・不都合を履き違え、争いの渦中にいる事でさえ、
満足に気づく事も叶わずに、空しい日々を送るばかりだ。

誰しも、争いの中に置き去りにされ、常に巻き添えにされている。

誰もが、原初から巻き込まれており、争わずにはいられはしない。

それは、必然かつ当然ではあるのだが、歯止めをかけるだけではなく、少しずつ解いていかなければ、
全てが雁字搦めの状態となり、存在する事が儘ならなくなり、立ち退く事を余儀なくされる。

立ち退くとしたが、それは自滅による絶滅である。

自滅による絶滅としたが、命脈の維持に必須となる、目的・目標・理由がなく、その手段すら朧気だった。

であるからして、濫りに形成・確立してきた。

それにより、矛盾と曖昧を助長し、要用を見失っている。

それでは、自分で自身を追い詰めて、相身互いに零落を続けて、果ては消え失せてしまう。




□ 小泉元首相 原発、即ゼロ

http://t.asahi.com/d5ie

小泉純一郎元首相(71)は12日、日本記者クラブで会見し、『首相が決断すればできる権力、それが原発ゼロの決断だ』と安倍晋三首相に原発即時ゼロの方針を打ち出すよう迫った。原発再稼働や核燃料サイクルに反対の立場を表明。世論の支持が広がれば、安倍政権が原発政策をまとめる上で、無視できなくなりそうだ。小泉氏は会見で、原発ゼロの時期について『即ゼロがいい』と明言した。原発の再稼働については『そんなに多くは再稼働できないだろう。しかも、再稼働するとまた核のごみも増えていく』と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について『どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい』と中止を求めた。原発をめぐる今の政治状況について『野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている』との見方を示した。そのうえで、『首相が決断すれば、反対論者も黙る』と強調。『結局、首相の判断力、洞察力の問題だ』と述べた。




賢明・聡明・明達な人材が、良き案を提供してくれぬがために、無理に引きずり出そうとしている。

もとより、そのような好都合な存在は望めない。

だから、こうなってしまったのだ。

小泉さんは、己ではどうする事も出来ないから、誰かにどうにかしろと騒いでいる。

しかしながら、相手は自分と同類であり、どれだけ束になろうとも、失敗・失態・失墜を重ね、転げ落ちるだけの実存だ。

それを自覚する事で、より伴わせた状態を構築しなければ、より不意味・不価値を働くばかりだ。

彼は、自己責任と方針を定める事で、公民に国民を見殺しにさせた。

自身が、楽観的かつ無責任であり、判断力・洞察力が未熟で、迂闊である事を認めねば、
それにより改めなければ、誰かに押しつけるだけで、辿る末路が変えられない。

小泉さんに従えば、面倒な事をしないで済むと、思い違いをしている人々を、随所で見受ける事が出来た。

どうであるにしろ、莫大である放射性廃棄物と、付き合わねばならぬ運命だ。

そもそも、たったのソレッポッチでは済まされない。

それらに熟知・精通せねば、簡単に円は紙や鉄の屑になる。

そうならぬよう、包括的な改善・是正・打開により、問題・不具合を解決せねばならん。




□ 鳩山由紀夫元首相、旧日本軍による暴行を改めて謝罪

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=79116

2013年11月13日、香港電台によると、日本の鳩山由紀夫元首相が、香港城市大学から名誉博士号を授与された際のあいさつで、旧日本軍による侵略行為について改めて謝罪した。 鳩山氏は、『日本国民として、日本軍によって惨殺された中国人がたとえ1人だけであっても謝罪する責任がある。戦争を言い訳にはできない』とした。また、『今年はようやく南京訪問の希望がかなった。南京大虐殺記念館を見学した際、旧日本軍が無辜の人々を殺害する写真を目の当たりにした』と述べた。




犇く枠組・仕組・存在に翻弄され、内側・外側の諸人の大殺戮を、我々は何遍も繰り返してきた。

そうだ、不作な政治や宗教に縋り、粘着質な木偶人形と化し、悪事を反復しているのだ。

それにより、雁字搦めの状態である。

そもそも、何も知らずに生まれ・何も知らずに死んでいく、余りにも伴わずに知らなすぎる存在が相手では、
どれだけの謝罪をしようが金銭をバラ撒こうが、キリがない状況に終止符を打つが叶いはしない。

何より、してはならぬばかりに明け暮れて、しなければならぬを放棄してきた。

そうやって、悪循環が助長されてきたのだ。

ただ、それによる拮抗・膠着があるため、どうにかなり・どうにもならない。

そう、微妙かつ絶妙な状態となる事で、望ましく・望ましくない状況が、良くも・悪くも形成されている。

ただし、どんどんどうにもならなくなっていく。

成すべきを実施せねば、そうでしかないのである。

その限り、どん底で蠢く人形にしか、誰であろうとなれはせん。

菅さん・鳩山さん・野田さん・安部さん・小泉さんが、猫も杓子も私も君も、それで消えてしまう。

それは、とても不愉快な事である。




□ 原発新設を否定せず

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131116/stt13111617210002-n1.htm

自民党の石破茂幹事長は16日、原発の新規建設に関し『再稼働がよくて新設が駄目というのは理論的に成り立たない』と述べ、必ずしも否定しない考えを示した。都内で記者団の質問に答えた。同時に『新設すべきだと言っているのではない。安心、安全が最高度に確保された最新鋭の原発を全面否定することにはならない』と指摘した。これに先立つテレビ東京番組で、放射性廃棄物の最終処分場に関し≪『どこかやってくれるところは手を挙げてください』というやり方では駄目だ。国がこの場所であれば最終処分が可能だと示し、国がお願いしないといけない≫と述べた。原発即ゼロを主張する小泉純一郎元首相の発言を受け『歯切れの良さに国民が賛同している状況は無視できない』と述べ、平成27年春の統一地方選で脱原発が争点になる可能性に言及した。ただ『自民党内で即ゼロに賛同するのは数人ではないか』との認識も示した。




小泉さん・石破さんは、好都合な理論を掲げている。

それにより、あたかも自己が正統だと振る舞い、同等か未満の存在を愚弄している。

どちらも、正当であり・不当であり・どちらでもない。

強いて言えば、ただの卑怯者である。

どちらに流されようと、尻拭いをさせられる運命となる。

そうとしかならぬ、不遇な実相(実質・本質・現実・事実・真実・真相・実態)なのだ。

存続・撤廃のどちらに転ぼうが、最終的に不可欠な大凡が重なる。

そのため、その部分さえ整えてしまえば、どちらでも旨味の維持が叶う。

それらが整えられる事により、撤廃の結論を固めていても、簡単に覆せるようにもなる。

要は、議論を巻き起こす事により、存続・撤廃の双方を利用し、不可欠の形成を促進させる。

だいたい、当事者の意思・信念・本懐に関係なく、水の泡にする枠組・仕組・存在がある。

我々は、それに振り回される一方だ。

故に、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

総体的な変遷を実現しうる、総合的な改善・是正・打開をせねば、より思い通りではない薄倖な人生を、
筋書き通りと勘違いして突き進んで、嘗てない絶望と後悔に曝されるのだ。

このままでも、多角的・多面的な拮抗・膠着を維持し、
どうにかこうにか存続を続けたならば、表面の極一部だけがソレッポクはなる。

ただし、それは酷く脆い。

我々は、そこだけを見つめながら、ただ何となく生きている。

そして、いつの間にか死んでいる。

そうやって、錯覚を蠢く不憫な存在として、肝心な事をすっぽかしてきた。

そこから這い上がらねば、不意味・不価値で終わるのだ。




□ 時価総額1兆円超の企業数、「アベノミクス相場」で倍増 100社時代に

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140822/fnc14082221460014-n1.htm

株価の上昇で、時価総額が1兆円を超える企業が増えている。大胆な金融緩和を掲げた安倍晋三政権の誕生期待で円安株高の進行が始まる前から倍増し、100社に迫る勢いだ。スマートフォン(高機能携帯電話)の普及を背景に通信大手2社が躍進したほか、自動車関連など海外で稼ぐ企業の時価総額拡大が目立つ。時価総額は株価×発行済み株式数で算出される。上場企業の価値を表しており、大きいと買収されにくくなる一方、株式交換を使ったM&A(企業の合併・買収)で有利だ。22日の東京株式市場は、前日まで9日続いていた上昇が一服。日経平均株価の終値は47円01銭安の1万5539円19銭と反落したが、それでも時価総額1兆円超は97社に上った。SMBC日興証券によると、平均株価が続伸中の19日には平成20年6月以来約6年ぶりに100社を回復した。“アベノミクス相場"が始まる直前の24年11月14日の終値では時価総額1兆円未満だったが、22日現在で超えているのは50社。約4・6倍の1兆4852億円に膨らんだマツダのほか、富士重工業、ダイキン工業、日本電産などが2倍以上に拡大して1兆円を超えた。SMBC日興の伊藤桂一チーフクオンツアナリストは「(行き過ぎた)円高で足を引っ張っていた海外事業が、円安への反転で本来の収益力を取り戻した」と指摘する。上位10社の顔ぶれは首位のトヨタ自動車など8社がアベノミクス相場前と同じ。キヤノンと日産自動車の代わりに、KDDIとみずほフィナンシャルグループが入った。一方、リーマン・ショック直前の20年8月末と比べると、業種別の明暗が鮮明だ。大型M&Aを経てソフトバンクが当時の1兆9238億円から約4・6倍に拡大。これに対し、好調だった薄型テレビ事業が暗転した電機では、シャープが1兆5294億円から5477億円に縮小し、パナソニックも5兆4335億円から約2兆円減った。また、原発事故により東京電力は4兆991億円から6219億円と大幅に下がった。




アベノミクスとは、安倍政権による経済政策の総称である。

それは、大胆な金融政策・機動的な財政政策・民間投資を喚起する成長戦略(3本の矢)を柱としている。

中身は、古臭い苦肉の策の寄せ集めだ。

アベノミクスにより、前進・後退・繁栄・衰退・成長・縮退・成功・失敗する。

はたまた、延命・落命する場合があれば、生誕・死没する場合さえある。

大して、変化せぬ場合すらあるのだ。

中には、自殺・他殺を促される者がいる。

逆に、思い止まる者もいる。

ただ、前者が発生する限り、これは成果に値せん。

確かなのは、マイナスへと収束を続ける事だ。

それは、そうなる素養を有する選択しか、億万劫に叶わない実相だからだ。

そうなる素養を有する選択としたが、相反する性質を内在するソレしか叶わない。

故に、思い通りになる事はない。

表面的に、そうなっていると感じる事は可能だ。

もはや、その反復による蓄積により、矛盾と曖昧は膨れ上がって、万人は転げ落ちるばかりだ。

即ち、のっぴきならぬ状態なのである。

詰まるところ、このアベノミクスたる粗相は、貧困層から富裕層に対しての、
リスクとハザードを助長する、破滅・自壊への呼び水なのだ。

結局は、至上命題を取逃がし放棄した状態で、下手糞な尻拭いをしているにすぎん。

忘却・失念してならぬは、それしか出来ない実態である事だ。

万人が、その状態に嵌り込んでいる。

その実は、現状の実相における、仕様と言えるだろう。

そうでしかない事により、歯止が利く場合があれば、それが利かぬ場合もある。

しかし、どんどん利かなくなっていく。

何故、そうなってしまうのか?

では、ひとつの側面を見つめてみよう。




推移により、資産・財産の意味・価値は変動する。

投資の対象が、変更される場合もある。

推移としたが、様々な原因・要因に及ぼされる影響により、
価値観・方向性・指向性・志向性が変化し、それまでが成立せぬようになっていくのだ。

それに伴い、それまでの仕事・商売が成り立たなくなる。

そのため、非常識を常識に変えて、人々は儲けようとする。

さすれば、それまでの常識の維持が儘ならなくなる。

そうなるは、最下たる実相から這い上がれぬため、貧相な妄想・想像・空想しか叶わず、
己・己達が格別・特別だと履き違え、不適切を働く傾向に囚われるためだ。

既に、余地・猶予・機会が失われ、無残なパズルで溢れている。

無残なパズルとしたが、破廉恥な発想を杜撰に組み合わせた、有名無実の枠組・仕組・存在を指す。

端的に言えば、その経過であぶれた人々が、苦肉の策を講じる事により、社会全体がボロボロになる。

そもそも、原初からズレた事を実施していたため、相身互いに絶滅へとマッシグラである。

それまでの仕事・商売が成り立たなくなるとしたが、普及率・定着率の変動によって、
必要性・必需性が損失を続けて、立ち行かなくなる場合があれば、
無駄であるに気づかれてしまい、通用しなくなる場合もあるのだ。

だから、躍起になって余計な事をしてしまう。

もしくは、何をすべきかが定まらずに、碌でもない事をしてしまう。

定まらぬは、必須となる条件が抜け落ちているためだ。

だけでなく、悪用・誤用への予防が不十分な状態で、手に余る存在を世に送り出してしまう。

そう、不適切を無謀に成立・通用させようとするのだ。

されば、その反動による竹蓖返しに曝される。

普及率・定着率の変動としたが、それが上昇すればニーズは低下する。

類似した感覚を共有しているため、多様なスケールで飽きられてもしまう。

悪用・誤用への予防が不十分としたが、一部のコンテンツビルダーは勿論、
国家や機関が独占していた技術が、一般へと浸透していく事によって、
生じる問題・不具合が底上げされ、多くの者が絶望と後悔に劈かれる。

要は、新たなカテゴリの増加によって、悪用・誤用する存在が出現する。

そうなる事で、問題・不具合が発生するだけでなく、
それを適切に解決するも叶わぬため、埒が明かない状況が増長されるのだ。

あるいは、思いがけぬ使われ方によって、多くが立場を失う破目となる。

無駄であるに気づかれるとしたが、人間・人類・社会・世界が形成した、
幸せの理想像を目的・目標・理由に、その人生を人々は進めていくのだが、
それが産業界による偶像でしかなく、意味・価値が乏しいとバレてしまう。

バレてしまうのは、偽善・茶番の反復は無論だが、綺麗事・御託の陳列によって、どんどん剥離していくからだ。

それによって、矛盾・曖昧が膨張して、社会的なステータスが、無意味・無価値となる。

手が届かぬため、阿呆臭く感じる場合があれば、実質・本質が露わになる事で、
所詮は一時のハリボテであり、足枷と看取される場合もある。

そうやって、不意味・不価値と見限られてしまうのだ。

現状の実相では、その程度しか築けない。

それを克服する術と答えを得られずに、多くの者が失敗・失態・失墜を重ねている。

正真の成功に結び付かぬ、蹉跌を重ねる事による成功は、蜃気楼と変わりはしないのだ。

その成功は、成功であり・失敗であり・どちらでもなく、より薄っぺらくする近因・遠因にすぎない。

肝心を埋めねば、本当に欲しいモノには届きはしない。

傍らにあっても、その知覚が碌に叶わない。

それまでは、富・名誉・栄誉・権力・名声・家柄は、妄想・空想・想像・幻想と変わりない。

もとより、体裁を整えるためのソレならば、無いと考えた方がマシであろう。

そればかりに拘れば、肝心な事に気付き難くなってしまう。

大切な存在を、見落しがちにもなる。

であるからして、それらを大切にするに、心を傾けて進むべきだ。

具体的には、家族・友達・周囲・自分自身だ。

誰しも、それが酷く下手糞だ。

なればこそ、深く噛みしめる必要がある。

噛みしめるべきは、全人が未熟かつ迂闊でしかない事だ。

例外は、一人もいない。

もれなく、私と君が含まれている。

我々は、常に頭打ちの状態である。

それを自覚し、己を磨き続けねばならない。

さもなければ、碌に自我・人格・品格・気高さを養えず、より無知・無智・無恥で終わってしまう。

そうだ、酷く浅薄な理想・野望・策謀を濃厚と錯覚し、視野狭窄かつ無知蒙昧な醜態でくたばるのだ。

それ程、馬鹿らしい事はない。

それを念頭に置く事で、家族・友達・周囲・自己の不足を補いつつ、より良き日々を送って頂けると幸いである。

それが、互いの擦れ違いを緩和し、大きな溝を埋めてくれる。

何より、枢要へと近づいていける。

矛盾・曖昧が膨張するとしたが、それにより人々は迷子となる。

そのせいで、判別・識別・区別・分別が崩壊し、理由・目的・目標が不在の状態で、途方に暮れとんでもない事をする。

それが、個人・集団・国家・国家集塊を、最大の絶望・後悔へ突き落とす。

自浄作用の限界を超える水面下の推移が、総体を未曾有の危機へと引きづり込む。

何が起きるかを、把握・理解・洞察・知悉する事によって、未然・事前・直前に防がねばならんのだ。

常に、そうなるとは限らない。

だからこそ、それを見越した備えが欠かせない。

時点では、ズレた事をして危険性・不確実性を向上するで精一杯だ。

何故、そうなってしまうのか?

ならば、どうすべきなのか?

現状は、その遥か手前で座礁して、徐々に沈んでいる状態だ。




絶望と後悔に劈かれるとしたが、もう少し補足をしよう。

技術の発展と普及により、それらが悪用・誤用され、問題・不具合が発生する。

例え、善用しているつもりでも、障害・弊害は後を絶たん。

そうなるは、正当と定めた方法で運用しようが、それは便宜上の扱い方でしかなく、
善用であり悪用であり誤用であり、決して正当にはならぬからである。

扱い方を下手に定める事で、己・己達で死角・盲点を形成してしまい、悪質化・深刻化を助長してもしまうのだ。

何より、中途半端な対策・対応により、実質・本質が浮き彫りになる。

それにより、危険分子や不穏因子を育んでしまう。

危険分子や不穏因子としたが、それは家族・友達・周囲・自分のため、ひいては全人類・世界の未来のために、
理想を抱いて邁進する者達を筆頭とし、それらに追随するあらゆる人々である。

世を憂えた者達は、自分・自分達の実質・本質を見誤り、不備を改めずに突っ走ってきたのだ。

それによって、特定の影響が発生してしまう事で、総体が瓦解する条件が整えられる。

不備を改めずに突っ走ってきたとしたが、実相を見極められぬまま、暴走・迷走に明け暮れた。

不出来な主義・思想・信仰に憑依され、未熟な妄想・空想・想像に弄ばれ、
迂闊な自分自身に騙され唆されて、見失い遠ざかりながら生きている。

総体が瓦解する条件が整えられるとしたが、ソレには以下のような理由がある。

具体性・合理性・必要性・信憑性・信頼性が希薄で、
上辺の羅列や淡い感覚の域を出ない、主義・思想・理想しか築けぬ者達は、
己・己達が正当かつ正統と疑わずに、それらを完全・完璧だと思い込んで、
同等か未満の有象無象を道連れとし、碌でもない事を繰り返してきたのだ。

例え、実態を把握・理解するだけでなく、実相を洞察・知悉していようとも、
枢要な術と答えを持ち合せぬ限り、同じ狭域の粗末な選択しか叶わん。

その限り、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

遍く、個人・集団・国家・国家集塊が、その命運から抜け出せぬ状態で、肝心が伴わぬ選択を重ねている。

その選択に犠牲が伴うならば、それだけどうにもならなくなる。

はなから、生かそうが殺そうが、犠牲にするばかりだ。

価値観・方向性・指向性・志向性が違えど、同一の範囲で失敗・失態・失墜を重ねるため、
同様の盲点・死角を共有する状態となる事で、それを克服するための発想が浮かばなくなる。

その過程において、矛盾と曖昧は膨張を続ける。

膨張により、理論と根拠が成立しなくなる。

もとより、報われる・救われる・赦される、道理も根拠も持ち合せぬ状態で、苦痛に悶えているにすぎんのだ。

我々は、ソレを幸福・不幸と感じながら、余計な事をして生死を反復する。

問題は、それだけである事だ。

そうして、どんどん手遅れになっていく。

もはや、甚だ手遅れの状態である。

とは言え、悪質化・深刻化する事しか、野次馬連には叶いはしない。

だからこそ、どうすべきかが定まってくる。

されど、余りにも伴わず知らなすぎるため、碌でもない事しか決められんのだ。

それに対し、肯定・否定・傍観する者が発現する。

ただし、それだけ・そこまでで終わってしまう。

これは、必然かつ当然の流れである。

特定の条件が揃う者なれば、途轍もなく面倒な事が見えてくる。

その者でさえ、統計の産物にすぎない。

その追求を続けてしまえば、余りにも他愛がない。

先進者により、歪な目的・目標・理由が形成され、猶予・余地・機会が奪われてきた。

それによる、政治観・宗教観・人生観に染まれば、より深遠の窮状へと沈む一方である。

そうして、より高くなったハードルを、後進者は強制されてしまう。

そして、後進者は先進者となる。

後進者は、先進者の尻拭いに追い回されて、どうにかしようと躍起となるが、
どうすればいいか分からぬのに、知ったかぶりをして退転させる。

冒頭で、未然・事前・直前に防ぐ事が出来ぬは勿論、已然・事後・直後に碌な事が叶わぬとした。

されども、築かれた枠組・仕組・存在・前提によって、問題・不具合が抑止・抑圧されているのだ。

それを十分に見極めずに、何も知らずに生まれ何も知らずに死んでいく、不憫な存在は批難・批判・誹謗・中傷に耽り、
履き違え・思い決め・思い込み・勘違いして、やり直そうとして酷く余計な事をしてしまう。

批難・批判・誹謗・中傷せずとも、同じ範疇で零落を続けていく。

そのツケによる反動は、全人を狂気へと引きづり込む。

このままでは、何も出来なくなる。




技術の発展と普及としたが、後退・衰退してもしまう。

その過程において、人々の感覚が変化を続ける。

それにより、危険性と不確実性が向上すれば、偏見・軋轢が助長されてしまう。

そうやって、悪質化・深刻化が促される。

後退・衰退するとしたが、延長線上の存在が定着する事で、一昔前の維持が儘ならなくなる。

つまり、経緯・経過を支えた存在に対する、依存度が低下を続ける事によって、それらを忘却・失念しがちとなる。

そもそも、新たに誕生する生命においては、新しき存在の恩恵を主体に育つ。

パソコンがあれば、ワープロやタイプライターの必要性は乏しい。

スマートフォンがあれば、パソコンがなくとも、間に合う場合がある。

対象により、手書きの必要性が乏しいためか、嘗てはすらすら書けた文字さえ、思うように綴れなくなっている。

だからと言って、パソコンやスマートフォンに精通している訳ではない。

何より、より過去に生誕した先進者から、新しき存在に追い付けなくなる。

パソコンやスマートフォンの必要性がなければ、それらを導入するは面倒な事だ。

十分な経過を辿らず、それらを導入してしまえば、失敗・失態・失墜を重ねる。

前者は、新しきを知り・古きをしらぬ。

後者は、古きを知り・新しきを知らぬ。

前者は、やがて後者となる。

前者だろうが後者だろうと、十分な経過を辿れずに、手に余る存在によって、置いてきぼりにされる。

それが、旧世代と新世代に大きな壁を築き、空疎なまま生きるを余儀なくする。

感覚が変化を続けるとしたが、あらゆる存在・事象により、それが促されるだけでなく、
それが変化する事によって、様々な存在・事象が生じる。

包括的な原因・要因により促される、総体的となる感覚の推移は無論であるが、
様々なスケール・パートにおけるそれを、深く思惟せねば後で痛い目に合わされる。

痛い目に合わされるとしたが、後でどうなるかを十分に考慮せずに、余計をした事へのツケを払わされる。

技術の発展と普及により、起きる事を具体的に記載しよう。

3Dプリンタ・3Dスキャナの普及により、それまでに出来た事が儘ならなくなる。

それまでに出来た事が儘ならなくなるとしたが、
先進技術を扱える人材の登場により、従来技術で頭打ちの人材が埋もれる。

埋もれる人材と同様に、その技術も失われていく。

そして、手軽になる事によって、優位性が低下を続ける。

優位性が低下を続けるとしたが、扱える者の増加による競争率の向上と、
それによるシェアの拡大・分散により、機会・猶予・余地が失われていくのだ。

例えば、以下の程度は序の口とし、多くが同様を実施すれば、既存の売買に影を落とす。

○ アインクラッド風ライトスタンドとカメラケージと3Dスキャナー

○ 3Dプリンタ用ファイルのダウンロード-機材編

要は、限られた存在にしか出来なかった事が、より多くの存在に実施されてしまえば、
価値・意味が低下を続けるだけでなく、多くの存在がその巻き添えにされる。

これによって、品質に対しての感覚の変化は勿論だが、
自給自足の感覚が浸透・定着する事で、多くの玄人があぶれてしまいかねない。

挙句の果ては、全体の衰退・縮小を良しとする、怪奇が極まる感覚すら浸潤する。

以下のような事も発生する。

ドローンや衛星が手軽となれば、そう易々と分からぬを良い事に、
並べてきた・並べている大嘘が、様々な手合に暴露されてしまう。

その情報は、インターネットにより、瞬く間に波及していく。

だけでなく、既存・新規の技術と連携すれば、高度な盗聴や監視が容易となり、犯罪が発展・進化してもしまう。

特定の存在が出現する事によって、関連した事件が発生する事により、特有の感覚が波及し根付いていく。

赤ちゃんポストが出来れば、そこに放り込めば大丈夫と考える者が出現する。

赤子の死体を放り込む者が出れば、同じ事を考える者が追随する。

そうやって、犯罪は発達を遂げてきた。

以下のような変化もある。

マクドナルドを、安い・早い・美味いと感じていた者でも、高い・普通・飽きたと感じるようになる。

それ自体と周囲環境の推移が、感覚を強固に変化・定着させる。

時間をかけ、定着した印象を変えるには、それ相応の調整が不可欠だ。

マクドナルドは、悪化させる選択を反復している。

目的・目標・理由を、推移を見極めて定めなければ、憂き目を見るは不思議でない。

特定の時期に、時代の要請に合わせ過ぎた事が、大きな憂いを齎す結果となった。

コンテンツによっても、感覚の変化(価値観・方向性・指向性・志向性の変化・分散)が発生する。

スケールの変化も生じる。

全てが合わさる事で、これまでは起こり得なかった、未曽有の危機さえ誘発される。

獲得と喪失の鬩ぎ合いで、矛盾と曖昧は肥大化を続けて、破廉恥な迷走・暴走によって、
思惑は悉く頓挫し墓穴を掘り、皮肉な末路を辿る破目となる。

それに対する、十分な配慮が不可欠であるが、下回る対応・対策しか叶わん。

そうなるは、仕様上の都合である。




□ 17歳マララさん、ノーベル平和賞 銃撃屈せず女子教育権利訴え

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014101102000142.html

ノルウェーのノーベル賞委員会は十日、二〇一四年のノーベル平和賞に、パキスタンで女性や子どもの教育を受ける権利を訴え、イスラム武装勢力に銃撃されたマララ・ユスフザイさん(17)=英国在住=と、インドの児童労働問題に取り組む人権活動家カイラシュ・サトヤルティさん(60)の二人に授与すると発表した。「憲法九条を保持している日本国民」は受賞を逃した。マララさんの十七歳での受賞は全部門を通じて史上最年少。マララさんは十日、英バーミンガムで「世界の子どもたちの教育機会を増やす運動の始まりだ」と受賞の喜びを語った。ヤーグラン委員長は、子どもの権利に焦点を当てた理由について「世界の平和的な発展には必須だ」と述べた。マララさんは出身地のパキスタン北西部スワト地区で、「パキスタンのタリバン運動」が女子教育を禁止していることを十一歳の時にブログで告発。テレビなどで活発にタリバンを批判して「過激派への抵抗のシンボル」となり、同国の国民平和賞を受賞した。タリバンに殺害を予告されていたマララさんは二〇一二年十月九日、下校中のスクールバスで頭部を銃撃され意識不明に。搬送された英バーミンガムの病院で奇跡的に命をとりとめ、現在は同地の学校に通う。事件を機に世界の注目が集まり、昨年七月には国連で演説。「一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えられるのです」と訴えた。サトヤルティさんは非政府組織(NGO)代表を務めインドの貧しい農村で子どもが労働から解放される仕組みづくりに取り組む。平和賞受賞に年齢制限はない。

◆紛争抑止へ子どもの権利擁護

今年のノーベル平和賞は、ウクライナ危機やイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」との戦いといった国際情勢ではなく、子どもの権利にスポットを当てた。国連教育科学文化機関(ユネスコ)によると、紛争や貧困や児童労働などを背景に、世界では五千七百万人(二〇一一年)の子どもが初等教育を受けられていない。最も多いのがナイジェリアで一千万人余り、次いでマララさんの出身国パキスタンが五百万人以上、四番目がサトヤルティさんのインド。四分の三をアフリカのサハラ砂漠以南と南西アジアが占める。これらの地域には、民主主義といった西洋的な価値基準を敵視し、女性の権利を過度に抑圧するイスラム過激派の温床となっている国が多い。さらに教育を受けられないことが貧困や紛争と相まって、児童労働や少年兵、過激主義の伸長にもつながっている。ノーベル賞の創設者アルフレド・ノーベルは、平和賞の対象を常備軍の廃止・縮小や平和の促進、国家間の友愛実現に貢献した人物にと遺言した。現在の平和賞は「平和」の概念を広くとらえており、子どもの権利擁護も紛争予防の重要な手段とみなしたことが、今回の授賞につながったと言える。




少女は、粗悪な偽善と茶番により、標的に仕立て上げられた。

そして、無知・無智・無恥な大人達が、気休めと自己満足を得るため、女の童に銃弾を浴びせたのだ。

とは言え、無知・無智・無恥は、肝心が決して伴わぬ、全体の共通項である。

だから、彼女は自分で自身を追い詰めた。

彼女の判断・決断は、正解であり・不解であり・誤解である。

先駆者と同等か未満の水準たる、劣悪な選択しか叶わぬが不憫だ。

受賞は、良くもあり・悪くもあり・どちらでもない。

何より、敵対する存在の神経を逆撫でし、降りかかる火の粉は大きくなり、
余計な主義・思想の介在を許し、その局勢は支離滅裂になるのだ。

そんなだから、どうにもならなくなる。

その実を踏まえ、発する言葉を厳選しなければ、より深刻な逆境に立たされる。

それに気づくまで、その発想が浮かばない。

発想が浮かぼうと、どうすべきかが定まらない。

定まらぬは、要領の不足は無論だが、もはや手遅れだからだ。

定めたとて、そうであるに変わりない。

彼女のような存在を、好都合・不都合と扱う連中により、多くの人材が玩具にされてきた。

正真の脱却・前進のため、良き選択に恵まれるを願う。




経験により、発想が発現して、感覚が変化する。

それらは、反復により磨かれる。

親が、それだけ・そこまでなれば、子は同等か未満になり易い。

大概、延長線上の存在に囲まれる事によって、遥か先にいると子供は勘違いしている。

大人も、似たようなモノである。

これから、それは尚更となるだろう。

だからこそ、より良きを重ねる努力が必要だ。

されど、感覚が未熟であれば、過ちを重ねてしまう。

何しろ、実相による制約もある。

時点では、せめてもの選択が肝要となる。

とは言え、それすら儘ならん。

そうとしかなりはせぬ、経緯・経過しか辿れなかったのだから・・・。

であるからして、思い込み・思い込ませる事で、信じ込み・信じ込ませる事で、大丈夫と決めつけてきたのだ。

そうやって、どうにか成立・通用させんと躍起になっている。

政治がそうだ。

宗教がそうだ。

子供がそうだ。

大人がそうだ。

そうでしかないから、そうとしかなりはしない。




子供とは、思い知らされる前の大人である。

大人とは、思い知らされた後の子供である。

これは、一つの側面にすぎない。

大人・子供に対する、概念・定義は大多数あり、矛盾と曖昧に満ちている。

結局、どれかであり・どれでもあり・どれでもないのが我々だ。

矛盾と曖昧に満ちているとしたが、いつまでも埋まる事がない差は勿論だが、
埋めるための能力・機能・作用の欠如が、状況・状態の腐朽に拍車をかけてしまう。

子供は、絶大な経験の不足により、大人の感覚が分からない。

大人は、より迂闊で未熟だった頃の、感覚に寄り添うべくもない。

子供の感覚による、杜撰な選択を見過ごしたなら、
我が子が自分と同じ目に合い、自身も巻き添えにされかねん。

故に、親は子に口やかましい。

子は、親による忠告を聞き捨て、自分は大丈夫と思い決め、無闇矢鱈に突っ走るのだ。

はたまた、我が子に限ってそんな事はないと思い込み、子の大暴走を手助けしてしまう親すらいる。

だけでなく、感覚が未熟である親が、子の忠告を受け入れず、大失敗する場合もある。

そうして、擦れ違いを演じ、溝を大きくする。

子は、己が浅はかであると、碌に知覚が叶わない。

親も同様だ。

親と子は、相互の感覚の違いにより、互いの気持ちが分からん。

何故、そうなるのかさえ朧気なのだ。




我々は、相反する性質を常に有し、同質の選択しか叶わない、不両立に満ちた生き物だ。

故に、思い通りになる事は一つもなく、完全・完璧に成り得る事もない。

逆の素養もあるが、それは実相に相殺される。

だから、人生は深く・浅く・面白く・つまらない。

そして、どうでもないのである。

それを洞察せねば、肝心な事に気付けぬ。

そうだ、肝心な時に察知が叶わん。

察知が出来たとて、舵の取り方を知らなければ、不可欠な条件が伴わぬなら、
船を座礁させるだけでなく、やがては沈没させてしまう。

ただし、術と答えを手に入れようと、完全・完璧に成る事はない。

ただ、このままであるならば、どうでもいいに収束し、消えてしまいかねない。

そうだ、鬱積に耐えられずに、台無しにしてしまう。

そうやって、肝心へと繋がる発想さえ浮かばずに、
主義・思想・信仰に憑依されて動く、無気味な人形で全てを終えてしまう。

だからこそ、家族・友達・周囲・自分自身と、かけがえのない存在と共有する、
好きな・大切な人々と過ごせる、健やかな時を大切にして欲しい。

それは、刹那の神秘・奇跡であり、飛び切り尊いモノである。

なんせ、我々にはソレしかないのだから。





三段(十)E-複数のニュースへの考察-中篇に続く。