2015年02月18日 22:40 三段(十)E-複数のニュースへの考察-中篇


□ 衆院選で政党「支持政党なし」が10万票ーなぜ「政策は一切なし」だったのか?

http://blogos.com/article/101370/

12月14日に投開票が行われた衆院選は与党が現有議席を維持する結果となったが、比例代表の北海道ブロックでちょっとした異変が起きた。「支持政党なし」という風変わりな名前の政党が登場し、10万4854もの票を獲得したのだ(得票率4.2%)。議席には手が届かなかったが、社民党(5万3604票)や次世代の党(3万8342票)を上回った。

●「支持政党なし」の主張とは?

この「支持政党なし」とは、いったいどんな政党なのか。北海道選挙管理委員会が配布した選挙広報によると、「党としての政策なし」と書いてある。その代わり、党のウェブサイトで個々の法案に対する賛否を問い、賛成多数なら賛成、反対多数なら反対を表明するのだという。つまり「皆様方の使者として議決権を行使しに行くだけ」と記している。同党のウェブサイトには、佐野秀光代表のメッセージ動画も掲載されている。佐野代表は「みなさん、この支持政党なしという選択肢がほしくありませんか」と呼びかける。「いまの日本の選挙制度では、必ずどこかの政党に投票しなければなりません。支持政党なしとか、白票で出すと、すべて無効票になってしまいます」このように述べたうえで、佐野代表は次のように語る。「いまの政党支持率をみると、与党の自民党と並んで大変多いのが、『支持政党なし』という方の数なんです。しかし、この『支持政党なし』の方の投票先がいまはありません。これで本当に民意が、選挙で国政に反映できるでしょうか。やはり『支持政党なし』の方々の投票先が必要ではないでしょうか」いわゆる無党派層の声をそのまま素直に代弁するために、「支持政党なし」という政党を作ったのだと、佐野代表は説明している。そして、動画のなかでも、「支持政党なしは、政策は一切ございません」と強調。既成政党に投票すると、その政策の一部に反対だったとしても、一括して賛成したことになってしまうとして、「個別の法案ごとにみなさんの意思表示をしたくありませんか」と呼びかけている。

●政党名と知らずに投票してしまった有権者も・・・

今回の衆院選の比例・北海道ブロックで「支持政党なし」が10万票以上を獲得したのは、このような佐野代表の主張に共感した人が多かったからなのかもしれない。だが、ツイッターには「不在者投票した人から見せてもらったけど既に騙されてた!wこれマジにヤバいわ」といった投稿もある。どうやら、政党名だと知らず、「支持政党がない」という文字通りの意味に受け取って、投票してしまった人もいるようだ。




支持政党なしは、従来の選択肢と同等か未満でしかない。

この在り来たりな発想では、より余計を働いて費えるのみだ。

肝心な選択肢が存在せぬ選挙を、政治家は強制し・有権者は強要されてきた。

はたまた、有権者が強要し・政治家が強制される。

政治家・有権者に、可能な選択の実質・本質だが、特定の領域に固着されている。

それにより、行き当たりばったりの状態で、付け焼刃の判断・決断による、散々な時間稼ぎを強いられる。

そうして、どうにかなり・どうにもならず、どんどんどうにもならなくなる。

我々は、主義・思想・信仰のドツボに嵌り、そうでしかない事に気付けはせん。

政治・宗教に縋るは無論だが、それらが存在する状況下で、無関心でいる事によっても、その知覚が碌に伴わんのだ。

言い換えれば、曖昧に感じる事はあるが、ハッキリはさせられない。

その追求をせぬが、必然かつ当然の環境に置かれる事により、考証する感覚・発想すら芽生えなくなる。

認めたくない・認められない、価値観・方向性・志向性・指向性に染まり、それを意識的・感覚的に拒絶する者もいる。

ただ、その意識・感覚は、非常に希薄なのだ。

それは、醜態により頭打ちとなり、碌な自我が育めぬためだ。

強いて言えば、政治的・宗教的な観念・思考に囚われ、許容域に意識・感覚を固定される事で、
死角と盲点の払拭が至難な状態となり、従順な操り人形に仕立てられるからだ。

これは、些細な事柄でしかなく、真っ当な真実にすぎん。

特定の領域に固着としたが、各々の才幹に応じて、品質に差が発生する。

それらが存在する状況下としたが、存在せぬ場合は実相に準拠して、同じモノを自動で拵えてしまう。

余りにも伴わず知らなすぎ、何も知らずに生まれ・何も知らずに死んでいく実態が、
政治・宗教の形成を自動制御で促す仕掛を成している。

環境上の都合により、そうとしかならぬ仕様なのだ。

そして、正当であり・不当であり・どちらでもない、アベノミクスに内在・関連する諸政策を、
強制的に正当化しようとする素養があり、複数の意識・感覚を逆撫でする選挙戦は、危険因子・不穏分子の誕生・成長を促す。

これまでに築いた・これから構築する、多種・多様な枠組・仕組・存在により、
政治の能力・機能・作用は劣化を続け、面倒な連中の台頭を許す事にもなる。

政治の能力・機能・作用は劣化するとしたが、万全を期したはずなのに、そうすると公言したのに、
既に手遅れの状態であり、それをどうにも出来ずに、死角・盲点を突破されて、より術がない状態に陥る。

それにより、より多くの人々に見限られてしまう。

死角・盲点を突破としたが、人間・人類・社会・世界が共有する、大きな隙を攻められる場合があれば、
概念・定義の追加で発生した弱点を、執拗かつ変態的に攻撃されてしまう。

それによって、多くが台無しとなる。

これは、在り来たりな流れであって、辿るは他愛なき顛末なのだ。




現状までに存在している、あらゆる勢力のソレとは確定的に異なる、術と答えを唱える者が推移により表れる。

所詮、それも果敢無い存在にすぎず、耳を貸せば巻き添えにされる。

手合いにより、十分な予防措置を怠り、とても余計な事をする。

それが災いし、政治・宗教を主導した者は無論とし、その家族・友達・周囲・自分自身を、
ぶっ殺さずにはいられぬ状態となり、惨たらしい末路を引き寄せかねない。

そうするは、己・己達の保身のためであれば、家族・友達・周囲を守るに必要な、帳尻を合わせんがための選択だ。

該当する存在が出現せずとも、同様の惨状が自動的に引き起こされる。

惨憺たる、ギミック満載の世界を、我々は無防備に生きる。




実相に忠実に、概念・定義が具現化される。

それらは、実存であり事象である。

例えば、関連する技術が一定の水準にならねば、その集大成的な存在が日の目を見ない。

ソレが誕生しなければ、それによる事件・事故が発生しない。

要は、無数の技術の成熟により、自動車が誕生するは勿論、更なる技術の進歩により、電機自動車等が生誕する。

その推移に合わせ、自動車を悪用した事件が発生すれば、電機自動車による事故が起きるのだ。

そこには、分岐・収束・発展・衰退を続ける、数多の実存・事象の影響が加わる。

即ち、原因・要因を自ずと形成し、差し迫った状況に突入する。

以下の流れは、その中を漂う単純な推移だ。

安倍総理による、記者会見の内容は無論であるが、選挙戦における政治家の発言が、
危険因子・不穏分子を発現させ、それらの成長を強固に促進する。

アベノミクスにより、高所得層を意識した物価変動が起こり、
中所得層において格差が徐々に広がり、低所得層は落伍により追い詰められる。

そこで、下手な手段で格差を埋めようとすれば、各層で憤りを覚える人々が生じるのだ。

株価・為替相場の変動により、それに準じた選択をするも、それが仇となる状況に陥り、多角的な悪影響が発生する。

政策の施行・条約の発効で、様々な逆作用に魘される。

これらによる、高騰・下落・貧窮・破産によって、多くの者が己を見失いがちとなる。

天災や人災が、それに拍車を掛ける。

そこに、選挙権の低年齢化や異分子が加わる事で、反骨精神が旺盛な個人・集団が暴走する。

異分子としたが、移民・難民の流入による感覚の変異や、
第三国におけるテロリズムに感化され、より人々のタガが外れ易くなっていく。

選挙権の低年齢化としたが、生半可に政治に関心を抱いた若者が、
より安易に反抗勢力を拵えてしまい、その流れに呑まれて過ちを反復する。

状況により、東京オリンピックが標的にされる。

だけでなく、特定のガジェットが揃う事で、少人数によるジェノサイドを、容易に実行するが可能となる。

とは言え、それを察知・実施するにも、相応の応用力が必要となる。

それ以前に、埋めねばならぬ事柄もある。

それらが伴わなければ、発想が浮かばずに、実行は不可能とし、阻止するも叶わん。

どちらが先に、その条件を満たすかによって、辿る末路が僅かだが変化する。

僅かとしたが、善用・悪用・誤用する者が同一のため、作為・無作為に問題・不具合を起こし、
手遅れになってから茶を濁すばかりで、辿る末路がおよそ変わらぬためである。

推移により、より複雑な物理・論理・理論・感情のパズルが、より他愛無く組み立てられるようになっていく。

多極化の進行により、より歪なパズルが次々と組み上がる。

そうやって、未曾有の危機が勃発する条件さえ、人間・人類・社会・世界が整える。

ソレを察知・把握・理解・洞察・知悉・超克し、超惨事を事前・未然・直前に阻止せねばならん。




□ 特集-友だちのピンチ、身近なおとなに話そう。

http://www.gov-online.go.jp/tokusyu/hanasou2014/

○ 加藤ミリヤさんからのメッセージ

生きていれば、つらいこと、嬉しいこと、楽しいこと、いろんなことがある。だってそれが私たちの人生だから。だけどもし友だちが苦しんでいて、それにあなたが気づいたら、寄り添って受けとめてあげて。そしてあなたから勇気を出して大人に話してみてほしい。クラブの先輩、学校の先生、スクールカウンセラー、信じられる誰かが絶対にいる。助けてくれる誰かが絶対に近くにいる。




このメッセージは、間接的な存在による、非常に無難な内容だ。

そう、陳腐な局外者が垂れ流す、在り来たりな羅列である。

とは言え、ある程度の効果が望める。

逆に、追い詰められる場合もある。

追い詰められるとしたが、この口車に乗る事により、下衆な者に縋ってしまい、望ましくない事態に陥る。

あるいは、寄り添う努力をするも、巻き添えにされるだけでなく、裏切られる場合さえあるのだ。

まあ、どうであるにしろ、追い詰めるだけだ。

なんせ、『私は、傍にはいない。代わりに、背中を押してやる。それで、どうなっても、私には関係ない。』と突き放している。

これでは、謀り・唆し・陥れると大差ない。

こうやって、新たな犠牲者が生み出され、泣き寝入りを余儀なくされ、鼻高々に教唆をした人々は、それを知らずに去っていく。

知ろうとも、はぐらかすで精一杯だ。

何より、間接的・直接的な対応・対策を、どのスケールで実施しようが、より肝心を切り落とす仕掛だ。

効果が望めるとしたが、肝心が伴わぬ実態を屏障しつつ、あたかも潤沢と見せかけられる。

そうだ、臭いモノに蓋をするに、御誂え向きの綺麗事だ。

それを真に受ける者ほど、軽薄な言葉に扇動され、予想外の状況に陥入し、絶望と後悔に劈かれる。

非常に無難としたが、標準的な作風(許容される内容において、一般的な分類に含まれる)だからだ。

とは言え、この脈絡の文章である限りは、発信する側の真意に関係なく、多くを見限る破目になるのだ。

そう、在り来たりな選択をすれば、より肝心を常に切り落とす。

それにより、有効性が乏しくなっていく。

さりとて、不特定多数に配布するともなれば、特定の条件に恵まれていないなら、この内容の流布は必然かつ当然だ。

それが、子供・大人・被害者・加害者・人間的存在を、何時までも何処までも追い詰めてしまう。

確かに、段階的なアプローチにより、表面的な解決は遂げられる。

表面的な解決としたが、最善・最良の改善・是正・打開をしたつもりだろうと、
作為・無作為の除外によって追い打ちをかけている。

そうして、危険性・不確実性の向上に拍車をかけ、
悪質化・深刻化を引き起こしてしまい、より埒が明かない状況を増長している。

作為・無作為の除外としたが、好都合なケースを対象としている、
穢れた綺麗事や御託の流布により、不都合となるケースの悪化を促す。

はたまた、合致するケースであろうとも、分断・放棄・摩り替えにより、体裁を整えているにすぎない。

不十分な対応しか出来ぬと、誰かが教えてくれるまで、無作為にそれを繰り返す。

誰かが教えてくれたとて、自分自身で自覚しようと、どうすべきかが伴わねば、ソレを作為的に反復する。

されども、後者として事に当たらなければ、より行き届いた対応が叶わない。

前者なれば、その部分を深く見つめる事により、より良き調和を目指さねばならん。

有効性が乏しくなるとしたが、いじめや家庭内暴力が、何遍も反復される事で、実態が露呈するためだ。

即ち、埒が明かない状況に対し、多くの人々が匙を投げる。

ただし、表層の上澄み程度の感覚により、そうとしかならぬと考えていて、どうしてそうなるかを知らない。

能力・機能・作用の不備・欠如により、その次元で頭打ちとなり、惨めな窮状を改められん。

そうやって、多くが自己と他者を切り捨てている。




実相に従順な、何の変哲もない流れにより、遍く事象・存在が紡がれる。

そして、自前の矛盾と曖昧に翻弄され、より肝心から遠ざかっていく。

ソレを念頭に置かなければ、正面から向き合うも叶わん。

何をしようとも・何をさせようと・何もしなくとも・何もさせずとも、差し引きマイナスにしかならぬ世界で、
とんでもない速さで転げ落ちるばかり、よりマシな選択を滅多に掴めぬ実態で、その知覚が儘ならずに過ちを反復する。

これを噛みしめねば、到底において先には進めん。

このままでは、蜃気楼を漂う残像で終わるのだ。

だからこそ、せめてもの選択が肝要となる。




□ 世界で流行のアイス・バケツ・チャレンジ、音楽業界でも賛否両論

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=53&from=diary&id=3021336

世界中で流行している「アイス・バケツ・チャレンジ」。難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)を支援するためのチャリティー活動で、知人などから指名を受けた人は、24時間以内に「100ドルを寄付する」か「氷水をかぶる様子をSNSなどで公開」のどちらかを選び、さらに自分も3人を指名するというものだ。海外では、ブッシュ前大統領やマイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツらのほか、レディー・ガガ、ジャスティン・ティンバーレイク、ディスクロージャー、リリー・アレンなど多くのミュージシャンが挑戦。日本でも急速に広まっており、音楽業界では浜崎あゆみ、秋元康、AKB48・渡辺麻友などがチャレンジしている。同活動に対しては「金持ちなら寄付しろ」「氷水をかぶってどうなるのか」「ただの売名じゃん」「病気のことを本当に理解しているのか?」など批判も多い。ニューヨーク在住のミュージシャン・大江千里も、自身のブログにおいて“否定するつもりはないが、ファッションとして行うのではなく、チャリティー活動の本質を理解した上でやるべきではないか"という趣旨の発言をし、話題となっている。一方、乙武洋匡から指名を受けて氷水をかぶった上で寄付をした氣志團・綾小路翔は、活動について学んだ上で賛同したとコメント。ファンからは「売名だと思われたら残念」「辞める勇気を持ち、3人を指名しないでほしかった」などの意見も届いたが、「皆さんそれぞれが、しっかりと考えた上で選択していますよ。ただセレブリティが悪ノリでやっていると思うのは大間違いです」と反論。自分で決めたことだと強調した。チャリティーとミュージシャンの関係について、音楽業界関係者はこう話す。「慈善活動に意欲的なミュージシャンは昔から多く、代表的なものには1984年にエチオピアの飢餓をきっかけに発足したチャリティープロジェクト『バンド・エイド』やアフリカの飢餓を救うため85年に制作された『ウィ・アー・ザ・ワールド』が挙げられます。チャリティーブームを巻き起こすほどの影響力があった一方で、当時から『偽善だ』『音楽を政治利用すべきでない』などの批判も多かった。今回も同じ議論が繰り返されている印象ですが、“3人を指名"“SNSで拡散"というチェーンメール的な要素が加わっていることから、反発するミュージシャンは今後増えていくかもしれないですね」 賛否両論の同活動だが、22日現在では、ももいろクローバーZ、VERBAL、ファンキー加藤らが指名を受けており、音楽業界でもまだまだ広まっていきそうだ。




甚だ、皮肉な事をされていると、患者と家族が感じている。

はたまた、若干の違和感を覚えていようと、温かく見守る患者と家族もいる。

他にも、様々なケースがある。

患者と家族の気持ちを憂慮すれば、この在り来たりな苦肉の策は、望ましい選択とは言いきれん。

ただ、未熟かつ迂闊な存在を利用し、波及させるには手頃な手段だ。

経緯に恵まれなければ、これを最善・最良と認識し、なんとなく実施してしまう。

純粋だろうが・不純だろうと、同じ事をしてしまうのだ。

より多くの条件を加味すれば、善いとも悪いとも言えなくなる。

条件を限定さえすれば、善し悪しをつける事が出来る。

結局、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないのだ。

とは言え、この水準の偽善と茶番に、人々を巻き込みたくない。

我々は、偽善と茶番に明け暮れるが、それにも品位・品格がある。

これでは、伝えたい事が伝わらずに、簡単に忘却されてしまう。




無知・無智・無恥なれば、これを喜んで見つめて、安易に参加してしまう。

把握・理解を深めれば、後から恥ずかしくなる。

その反復により、誰しも成長を遂げていくが、余りに未成熟な状態のまま、誰もが死んでいくが真相だ。

ずっと、平行線を辿る者達がいる。

そもそも、それすら叶わぬ者がいる。

それにより、より良き提案をするが儘ならん。

這い上がらなければ、虚しい気休めと自己満足だけで、その人生を終える事になるのだ。

これが、それを見直す切欠になれば、何よりであると感じはする。

患者・家族・遺族・肯定派・否定派・参加者・傍観者を考慮せねば、正真に画期的・不可欠な活動を導き出せはしない。




□ パキスタンの学校襲撃、140人以上が死亡

http://on.wsj.com/1wGrFWE

パキスタン北西部ペシャワールでタリバン系の武装勢力が16日、陸軍が運営する学校を襲撃し、少なくとも141人が死亡した。犠牲となったのは主にこの学校の生徒で、パキスタンでも最悪の部類に入る襲撃事件となった。犯行グループは引き続き、生徒らを人質に取って学校内にとどまっている。複数の政府関係者によると、事件発生から9時間ほどが経過したものの、襲撃は続いている。事件が始まって以来、陸軍と警察が学校を取り囲んでいる。陸軍高官によると、夕暮れまでに治安部隊が犯行グループのうち6人を殺害し、学校の広い敷地内の大部分を制圧した。犯行グループが学校内に複数の爆弾を仕掛けたことから、対応に時間がかかったという。この学校に通うアミール・アメーン君は、けがを負ってペシャワール市内の病院に運ばれた。アメーン君によると、試験中だった教室に銃を抱えた2人が入ってきて、生徒の頭を目がけて1人ずつ銃撃した。この2人はパキスタン北西部やアフガニスタンで使われるパシュトン語を話し、「神は偉大だ」と繰り返し叫んでいたという。イスラム過激派「パキスタン・タリバン運動」の広報担当者を務めるムハンマド・クラサニ氏は犯行を認めた。「ワジリスタンでの軍事活動に対する報復」として自爆テロリストを派遣したと述べ、学校の「上級職員」が襲撃の狙いだったと説明した。パキスタン・タリバン運動は2年前、今年のノーベル平和賞に選ばれたマララ・ユスフザイさん(17)を殺害しようとしたことでも犯行を認めている。ユスフザイさんは声明で「ペシャワールで起きた無慈悲で冷酷なテロ行為に心を痛めている」とし、「罪のない子供たちが自分の学校でこのような恐ろしい目に遭ってはならない」と述べた。




実相に準拠し、主義・思想・信仰・学問が、枠組・仕組・存在・事象が、自動で生成されてきたのだ。

実装される、能力・機能・作用に逆らえずに、個人・集団・国家・国家集塊は、思考と振舞いを余儀なくされる。

それにも、クオリティ(品質の善し悪し)がある。

恵まれずに、損な役回りを演じさせられる人々が気の毒だ。

それは、被害者側・加害者側の双方に言える。

テロリストもマララさんも、ナチュラルプロセスによって、性質の悪い人形と化している。

自然作用により、そのように仕上げられたのだ。

仕上げた側さえ、そうするように仕込まれただけだ。

まあ、モノは言いようで異なる見方を据えようと、正当であり・不当であり・どちらでもない。

確かなのは、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもない、
どれかであり・どれでもあり・どれでもない実態が、様々なスケールによる対立・拮抗・膠着を演出する。

だからどうすべきかを考える、機会・猶予・余地が、僅少の者達が不憫だ。




我々は、損をし不徳を重ねるに成熟して、得をし徳を重ねるに未熟すぎる。

未熟だから、そうとしかならぬのだ。

そして、究極極大・超絶絶頂・臨界突破の赤字に沈んでいる。

その限り、特定の範疇において、成す術なく屠られる、人形や家畜で終わる。

その程度では、救われ・赦され・報われる事はない。

他殺や自殺をすれば、僅かな期待値は瞬時に消し飛んでしまう。

取り返しのつかぬ選択をすれば、それを取り返す選択は叶わない。

だからといって、自暴自棄となり過ちを反復すれば、よりどうにもならなくなるだけだ。

実に、儼たる仕様である。




□ 女児が自爆テロ、19人死亡…ボコ・ハラムか

http://www.yomiuri.co.jp/world/20150110-OYT1T50152.html?from=tw

AFP通信などによると、ナイジェリア東北部ボルノ州の州都マイドゥグリの市場で10日、自爆テロがあり、少なくとも19人が死亡、大勢の負傷者が出た。警察関係者は「犯人は10歳ぐらいの女児」としており、爆発物を体に巻き付けていたという。犯行声明は確認されていないが、同国のイスラム過激派組織「ボコ・ハラム」は、拉致した少年や少女を自爆テロ犯として使っているとされ、関与が疑われている。この市場では先月も2人の女による自爆テロが起きていた。




我々は、単純で複雑で微妙で絶妙で平凡で非凡で正常で異常で正当で不当な現実と理想を、
先入観・固定観念・既知の情報に基づいて、認識・識別・判別・区別・分別・差別する。

少女は、ソレが芳しくない連中に、使い捨てられたのだろう。

少女を含め、巻き添えにされた人々が可哀想だ。

巻き添えにした側も同様だ。

個人・集団・国家・国家集塊による自作自演によって、人間・人類・社会・世界は自給自足をしている。

自給自足するは、主義・主張・思想・信仰であれば、それらの対立・拮抗・膠着であり、枠組・仕組・存在・事象でもある。

この必然かつ当然によって、加害者であり被害者であり傍観者でもある、犠牲者・生存者が連綿と精製されてしまう。




守るべきモノ(自己暴走への抑止力・担保)に、恵まれぬ存在は怖いもの知らずだ。

それは、家族・友達・周囲・自己を、これまでに築いた全財産を、失わず奪われぬ選択をする、意識・感覚が育めぬためだ。

恵まれているように見えようと、お構いなしの選択をする者がいる。

結局は、不遇だった。

支えてくれる存在により、人間は賢明になれば・愚昧にもなる。

このままの政治・宗教が続けば、より思わしくない方向へと推移する。

それは、そうとしかならぬように出来ているからだ。




□ 「報道の自由に対するテロ」 安倍首相も強く非難

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2389599.html

安倍晋三首相は8日午前、フランスの風刺週刊紙シャルリー・エブド本社に対する銃撃事件について、「言論の自由、報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない。強く非難する」と述べた。首相官邸で記者団に答えた。 また、「被害に遭われた方々に対し、心からお悔やみを申し上げたい」と語った。菅義偉官房長官は同日午前の記者会見で「テロに屈しないという決意の下、国際社会の緊密な連携は極めて重要だ。わが国としても積極的に取り組んでいきたい」と強調した。




お構いなしの攻撃をしたら、お構いなしの反撃をされた。

それに対し、お構いなしの報復をした。

そして、お構いなしの復讐をされる。

それが、連綿と続いている。

結局、新聞記者も風刺画家もテロリストも仏首相も同じ事をしている。

同じ事としたが、在り来たりな選択であり、下賤な嫌がらせの応酬だ。

相手の事は無論だが、自分の事も目先の事も考えられずに、取り返しがつかぬケンカをしている。

互いに、家族・友人・周囲を巻き添えとし、存在せぬより酷い有様でくたばる。

もはや、後には戻れぬ状態となり、矛盾と曖昧に翻弄されて、悪化をさせるで精一杯だ。

これでは、埒が明かんのだ。

有り余る不足により、どうする事も出来ないから、相手に対し嫌がらせをする。

それにより、問題・不具合・危険性・不確実性をややこしくし、家族・友達・周囲・自分自身の首を絞めてしまう。

だから、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。




報道・言論の自由は、建前・自己都合・利己主義による、矛盾と曖昧に満ちた幻覚である。

そう主張する事により、誤魔化し有耶無耶とし逃走を続けてきた。

そうやって、切り捨てる運命なのだ。

そうせねば、ソレしか出来ぬ実態を隠せず、碌でもない事が繰り返せない。

その実情と向き合い、どうすべきかを提案せねば、前に進めぬは無論であるが、
碌な歯止めを効かせられず、猛然たる勢いで沈み続ける。

これまでに記載した、複数の表現・要点を前置きに、諸事万端の追試を実施せねば、ソレを軸として歩きださねば、
表層や上澄みにすぎぬ感覚で、余りに余計な事を働き過ぎた、不意味・不価値な存在として、時間の狭間に葬られてしまう。

それは、超絶絶頂・究極極大・臨界突破に惨めである。




矛盾と曖昧の膨張を抑止・抑圧する、安全装置を形成せずに、全てを始めてしまった。

とは言え、そうとしかならんのだ。

ソレしか叶わぬ環境に放置され、ソレをしただけなのだからな。

安全装置を形成としたが、乱立による対立・拮抗・膠着が、その役目を杜撰に代行している。

ソレが仇となる、大多数の末路が控えている。




□ 「余裕ですよ」「警察は無能です」……スーパーの菓子につまようじで穴「動画投稿」19歳少年に逮捕状

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1501/16/news054.html

東京都内のスーパーで商品の菓子につまようじを入れる様子や商品を万引する様子を撮影した動画が、動画投稿サイト「ユーチューブ」に公開された問題で、警視庁が、都内に住む少年(19)が関与した疑いが強まったとして、窃盗容疑で逮捕状を取ったことがわかった。警視庁少年事件課が、店の防犯カメラの映像などから、動画は同一の少年が自分で撮影したものとみて特定を進めていた。つまようじを商品に混入する動画(「ユーチューブ」から)動画は「店の商品にいたずらしてみた」などのタイトルで、10本以上が公開されていた。調布市のスーパーで商品棚の菓子のパッケージにつまようじを刺し入れる様子や、武蔵野市のスーパーでメロンパンの袋を破って棚に戻す様子、同市のコンビニで飲料を万引する様子などが撮影されている。状況を説明しながら、「余裕ですよ」などと話す声も入っていた。同じ投稿者の名前で、万引する様子を撮影した動画も投稿され、ネット上で波紋を呼んでいた。1月上旬に店側の相談を受け、警視庁が捜査を開始。13日に公開されたとみられる動画では「逃亡することを決意しました」と“宣言”。「少年院に入るのはいや」と少年であることを示唆するコメントや、相模原市緑区の京王相模原線橋本駅で撮影された映像もある。14日に公開されたとみられる動画では、さらに父親から出頭を求めるメールが来たことなどをあげるとともに、「警察は無能です」などとも話している。投稿者名のプロフィルには、「博多駅で通り魔を犯すとYouTubeに動画をUPして警察に捕まった」などと記載。同課は声や店の防犯カメラの映像から、平成25年6月に、ネット上で殺人予告をしたとして威力業務妨害容疑で逮捕された少年の犯行とみて調べていた。スーパー側は12日に被害を警察に届け出ており、経営する会社は「食品を扱っている会社として許し難い内容であり、大変困惑している。警察の捜査に全面協力している」としている。




反骨精神(自己と周囲に対する、アレルギー反応)に駆られ、憂さ晴らしをしているのだろう。

錯覚により、大きな得をしていると、徳を重ねているのだと、考えているかもしれん。

余りある不足は無論だが、自己の矛盾と曖昧に翻弄され、自分で自身を追い詰めている。

大損していたと痛感する頃には、何もかも手遅れになっている。

ソレが叶わねば、何時までも何処までも転げ落ちる。

我々は、思い知る・思い知らされるまで、何でも何度でも反復してしまう。

彼が、不憫で気の毒で可哀想だ。

収まりがつかなくなり、落とし所が見えぬのだろう。

自分自身の失敗・失態・失墜を、他者に転嫁するばかりに必死となり、この選択をしているのかもしれない。

恵まれぬ経過を辿った存在が、類似した主張をしたケース(主に再犯時・ほぼ同一の内容)がある。

彼もまた、同類の被害者であり・加害者なのだ。




我等は、自縄自縛・自暴自棄に嵌入して、自傷行為・自慰行為を生甲斐に、零落を続ける不格好な生き物だ。

このニュースの動画の投稿者は、その有様を顕著に反映している、実相による伝統的な操り人形だ。

その限り、目先や自己の事を考えようが、つもりになるで精一杯なのだ。

だから、肝心な事が分からず、肝心な事が出来ない。

己だけが、わかっていない事がわからない。

何故そうなのかを、教えてくれる者がいない。

であるからして、こんな事しか出来んのだ。

本当の事を知らなければ、それ以前を埋めなけらば、自我による選択は叶わん。

これより、より不意味・不価値な暇潰しに、明け暮れる存在が増加していく。

そして、より下手糞な尻拭いを連鎖させる。

それを、改善・是正・打開しうる選択を、より執拗に迫られる時がこよう。




彼は、実相により生成された、ゼンマイ仕掛の人形だ。

我々は、彼の言動と行動の影響によって、在り来たりな反応を強制される。

それを強制するは、彼ではなく実相なのだ。

彼を泳がせ、最大限の利用を検討する人々でさえ、その実相による操り人形にすぎない。

私も、滑稽な人形だ。

彼が、肝心を教えてくれる者に恵まれ、より良き日々を歩める事を願う。




□ 東大、軍事研究を解禁 公開前提に一定の歯止め

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000069-san-pol

東京大学(浜田純一総長)が禁じてきた軍事研究を解禁したことが15日、分かった。東大関係者が明らかにした。安倍晋三政権が大学の軍事研究の有効活用を目指す国家安全保障戦略を閣議決定していることを踏まえ、政府から毎年800億円規模の交付金を得ている東大が方針転換した。軍事研究を禁じている他大学への運営方針にも影響を与えそうだ。東大は昭和34年、42年の評議会で「軍事研究はもちろん、軍事研究として疑われるものも行わない」方針を確認し、全学部で軍事研究を禁じた。さらに東大と東大職員組合が44年、軍事研究と軍からの援助禁止で合意するなど軍事忌避の体質が続いてきた。ところが、昨年12月に大学院の情報理工学系研究科のガイドラインを改訂し、「軍事・平和利用の両義性を深く意識し、研究を進める」と明記。軍民両用(デュアルユース)技術研究を容認した。ただ、「成果が非公開となる機密性の高い軍事研究は行わない」と歯止めもかけた。以前は「一切の例外なく、軍事研究を禁止する」としていた。東大などによると、評議会は審議機関で、軍事研究の是非など運営方針の決定権は総長にある。総長には審議結果に従う法的な義務はない。それにもかかわらず、東大は評議会での一部の総長らの軍事忌避に関する発言をよりどころに禁止方針を継承してきた。東大は解禁理由について「デュアルユース研究は各国の大学で行われている。研究成果の公開性を担保する国際的な動向に沿った形で、ガイドライン改訂を行った」と強調している。東大の軍事研究をめぐっては、昨年4月、複数の教授らが平成17年以降、米空軍傘下の団体から研究費名目などで現金を受け取っていたことが判明し、学内の独自ルールに手足を縛られてきた研究者が反旗を翻した。5月には防衛省が、不具合が起きた航空自衛隊輸送機の原因究明のため、大学院教授に調査協力を要請したが、拒否された。




面倒を後回しとし、なし崩し的に進めている状態であるため、表面をどう取り繕うと中身が変わらない。

であるからして、やる事・やれる事が変わらん。

下手に、軍事に重点を置くのならば、既に完成し改良が進行する、秘匿兵器群の部類に対する、トレースをするだけになる。

そう仕向けられる以前に、ソレしか叶わない実態で、予算・人材を溝に捨てる。

おまけに、不正が繰り返される。

そうだ、同じ轍を踏む破目となる。

あまつさえ、裏切り者が出現して、痛い目を見せられる。

どうであろうと、先が思い遣られる。

まあ、誰かの暇潰しの足しにはなろう。




我々は、暇潰ししか叶わんのに、碌な暇潰しが出来ない。

政治や宗教は、そのための道具である。

趣味や仕事は、そのための材料なのだ。

さしずめ、人間は道具・材料を形成・維持するための消耗品だ。

不自由にしか生きられぬ存在は、自由になろうとし、より不自由になる。

政治や宗教は、その過程で形成された雑巾にすぎない。

問題・不具合を自給自足せねば、己・己達で自分・自分達の首を絞めねば、暇すぎてどうにもならなくなってしまう。

そんなだから、悪循環の袋小路の坩堝から抜け出せない。




□ 平成27年1月20日 内外記者会見 | 平成27年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ

http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0120naigai.html




共通敵の形成と、敵性勢力圏内での混乱の構築だが、
第一義的に推し進める構造のため、イスラム国の元凶は複数国に及ぶ。

多種・多様な、個人・集団・国家・国家集塊が、自分・自分達の思惑を遂げんと、イスラム国に加担を続けている。

それにより、相互に相手の手玉に取られて、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

誰が、誰のために言動・行動をしているか、指導者ですら錯覚している状況下に、
同等か未満の有象無象が大集結して、大多数の主謀者が介在を続けている。

この、危険性と不確実性は途方もない。

政府は、それを十二分に熟慮した上で、適度な揺さ振りをかけながら、
交渉窓口の適正化を図りつつ、打開を模索せねばならんのだ。

それは、至難である。

シンプルな条件で、事態が進行しているとしても、コチラの条件を突きつけねば、相手の独り善がりを容認する。

易々と、人質を殺せぬ状況を形成し、二人の意思確認を実現して、対外折衝を進行しなければ、より面倒に苛まれる末路だ。

至難としたが、可能とする人材がいれば、在り来たりな選択となる。

介在を続けるとしたが、自然(表面的な交渉・取引)・不自然(水面下の交渉・取引)の双方から影響を及ぼす。

それらは、悪意・善意・無意が原動力である。

厳密には、どれかであり・どれでもあり・どれでもなく、非常に曖昧な状態で判断・決断を下している。

余りに伴わず知らなすぎるため、そうとしかなりはせんのだ。

何も知らずに生まれ・何も知らずに死んでいく、より典型的な不意味・不価値な骸が、
より余計な事を闇雲に実施する事で、悪質化・深刻化の助長を続けている。




諭す事を怠れば、無鉄砲を働く本人だけではなく、その家族・友人は無論であるが、総体が巻き添えにされかねない。

当人は、自傷・自慰を自画自賛し、自己の未熟さと迂闊さを、周囲に対し披露している。

それに気付けば、恥ずかしくてたまらなくなる。

我々は、自分自身に実装した・されている、能力・機能・作用を『性能』とし、
許容される範囲でそれを行使して、生まれては死んでいく生物なのだ。

それを、忘却・失念してはならない。

さもなければ、己が無知・無智・無恥を、必要以上にひけらかして、莫大な期待値を消失する。

恥ずかしくてたまらなくなるとしたが、それによって成長・縮退を、人間的生命は反復している。

その条件に恵まれず、人質になるに到達した二人が、不憫で気の毒で可哀想である。

条件の合致により、二人が救われる事を願う。

現状の実相で許容される、最上となる選択への糸口を、多くの人々に掴んで欲しい。




相互に相手の手玉に取られるとしたが、様々なスケール(グローバル化)で、それが凄まじい勢いで進行している。

イスラム国の内情なんぞ、氷山の一角から滴り落ちた、水滴の中の塵にすぎんのだ。

であるからして、難易度が低い選択をする限りは、どんどんどうにもならなくなる。

難易度が低い選択としたが、他殺・自殺・暴言・暴力が良い例だ。

所詮、どうにも出来ぬ故の、安易な逃げ道である。

結局は、酷く下手糞な時間稼ぎによって、肝心から遠ざかるばかりである。

それにより、本当に欲しいモノが手に入らなくなる。

気付いた頃には、もはや手遅れの状態だ。

実に、酷な仕掛けである。

本当に欲しいモノとしたが、大切な存在に贈りたいモノでもある。




第一義的に推し進める構造としたが、以下の流れが含まれている。

危険因子・不穏分子を炙り出すため、特定の地域への集合を促すために、
過激派勢力を形成・支援・分断し、それを根回しで制御する事により、最終的にはソレを一網打尽にする。

とは言え、過激派勢力が成長する過程で、面倒な連中が勝手に集結する。

高度な成長を遂げるには、ソレを纏めるにも秩序・財力が必要だ。

故に、そのための選択が不可欠だ。

さすれば、制御されていると、同等の状態になる。

そして、過激派勢力であるため、一網打尽にされかねん。

どちらにしろ、同じような経過を辿り、大差がない結果となる。

弱体化により、統率がとれぬ状態となれば、その勢力は瓦解してしまう。

そうなると、また誰かが纏めようとする。

ソレが誰とて、辿る末路が変わりはしない。

より不毛な選択に、束縛される人々が無残だ。




意図がどうであろうと、ソレを隠匿した状態で、同じ事をするだけでは、同じ結果にしかならん。

それに、その選択の真意を探られ、皮肉な末路を辿りもする。

真意を探られるとしたが、選択の前提を推察され、不都合な事実が剥離し、
敵味方で憶測が錯綜し、思い通りにならぬ上に、竹箆返しを食らうのだ。

はたまた、意図や真意を明かそうと、間違いを犯している限り、辿る末路が変わりはせん。

何を建前にしたとて、ソレをした事に変わりはなく、より余計を働くだけにもなる。

内容により、多少の緩和がある場合があるが、余計を働くに変わりはせんのだ。

真意と意図を明かし、それに伴う選択をしなければ、十分な結果が得られはしない。

ただし、ソレを可能とするに我々は程遠い実態で、実相による制限で余計しか叶わぬ命運だ。

なんとなく、ソレを察した人々が政治・宗教により、
歯止めをかけて人々を導こうとするも、それらは在り来たりな落とし穴だった。

それにより、強固な錯覚の虜にされる。

そこから抜け出せずに、己・己達で矛盾と曖昧を膨れ上がらせ、
自分・自分達で問題・不具合を助長し、台無しにする条件を整えてしまうのだ。

台無しにする条件としたが、それを内部で整えるは在り来たりで、外部からの影響で滅びる場合もある。




□ ISISに対するコラ画像が流行

http://matome.naver.jp/odai/2142181104980381001




相手・事態を軽視し、自己・弁疏を過大に評価し、余計を働く者は後を絶たん。

なんせ、それをしたらどうなるか、ある程度の水準で考察し、判断・決断を下そうにも、相応の経験が必要なのだ。

そこそこの経過に恵まれずに、思い知らされる事態となれば、自己の無謀さが許せなくなり、より余計な事をしがちとなる。

自己の無謀さが許せなくなるとしたが、己が無知・無智・無恥に嫌気がさし、憂さ晴らしをせんと躍起になるのだ。

反動が懸念される。

反動による影響は様々で、自分自身を擁護せんと、軽視した相手に加わり、蛮行を働く者すら出る。

そうだ、間違いを正当化しようとし、惨めな選択により淪落する。

家族・友達・周囲・自分自身に、当たり散らす者がいれば、自我を消失する者もいる。

全人が、ソレを糧に成長を遂げられれば良いが、それは到底において叶わぬ望みである。




□ <イスラム国拘束>「私は健二」…友が解放願うFB開設

http://mainichi.jp/select/news/20150127k0000m040072000c.html

◇NY在住の映像プロデューサー、ツイッターでも

イスラム国とみられるグループに拘束された後藤健二さん(47)の解放を願い、後藤さんの友人でニューヨーク在住の映像プロデューサー、西前拓さん(52)は、フェイスブックとツイッターに、英語で「私は健二」というページを開設した。「I AM KENJI」と書かれた紙を持った自分の写真を掲載するよう呼びかけており、投稿が相次いでいる。西前さんは10年ほど前、番組製作を通じて後藤さんと知り合った。「一緒にいると楽しくなる人で、正義感も強かった」という。後藤さんらの拘束を20日に知り、ショックで何もできなくなった。しかし、「何かしなければ」と思い、仏週刊紙「シャルリーエブド」銃撃事件後に連帯を示す合言葉になった「私はシャルリー」をヒントにして、ページを作った。後藤さんへの連帯の気持ちを表すことで、殺害をとどまらせたいとの思いを込めた。「彼がいかに愛されているかを示したいと思った。決して、主義主張やイスラム国への挑戦を訴えているのではない」という。ページには連日、世界各国の賛同者から、「早期の解放を……。双方に百害あって一利なし」「イスラム国も、ともに平和で公正な世界を作ろう」などのメッセージとともに、写真が投稿されている。西前さんは「国籍や宗教、信条を超えて、人の心を持ってほしい。健二を殺さないでほしい」と話している。




アイスバケツチャレンジと同様で、苦しんでいる本人を蚊帳の外にし、
対峙すべき相手・問題を無視して、身勝手なお祭り騒ぎに興じている。

その点は、イスラム国と同一だ。

対峙すべき相手・問題を無視としたが、相手(イスラム国)は無論であるが、
多くの対象・環境に合致せぬ手段で、なんとなくソレッポイ事をしている。

要は、モノマネによるハリボテを拵えるが、その能力・機能・作用の限界のため、
どうにもならない事をしているのに、どうにかなりそうだと錯覚している。



我々は、己・己達に許容される範囲で、気休めと自己満足を謳歌する。

ただ、許容領域の拡張は各々に委ねられ、矛盾と曖昧を整理し不足を補えば、よりマシな選択が可能となるのだ。

この事件においては、特定の前提を据える事で、二億ドルの拠出を掲げて、二人を殺せぬ状態として、
綿密な条件の調整により、相手を囲ってしまうのが、マシな分類の選択だろう。

なんせ、そうでもせねば二人が殺される。

その前提により、ソレしか余地がない事を知らしめ、柵による雁字搦めの状況を緩和し、
特異な調整を実施する事によって、今後の火種を抑止・抑圧するのだ。

前提としたが、イスラム国と日本政府が据える方針を変えねば、二人が殺されてしまうのは目に見えている事と、
譲歩しようと譲歩しまいが相手の思う壺であり、先ずこちらの譲歩によって互いの妥協点を探り、
イスラム国が戦う理由を削ぐ土壌の構築により、相互と全体の将来を確保する事を明確に伝える。

また、これまでに記載した日記の要点を簡潔に伝え、イスラム国の理念を尊重した提案を提供する。

さらに、相手が交渉に応じない場合は、従来の方針に切り替える事で、
周辺国に四億ドルを拠出して、イスラム国の掃討を要請する。

ニュースの活動に関しては、後藤さんの救出が叶うのであれば、
日本政府の選択を支持する意思を、束ねる内容とすべきだっただろう。

こちらも、据えるべき前提がある。

それは、現状の方針では二人は殺される。

ソレを変えてでも、二人を救う事を支持する。

ただし、殺戮の支援にならぬよう、特段の調整をして欲しい。

交渉が不能であれば、最終的な判断・決断は政府に委ねる。

以後は、連鎖を極小に抑える選択を要請する。

重要なのは、人質の状態を確認する機会を得、適正なパイプの確保を実現する。

人質が生存しているのであれば、湯川さんを殺すと決めていても、魅力的な話に乗る可能性がある。

その後は、人質の生命を維持し交渉を進め、最終的な宅地介入を進めていく。

まあ、これも好都合なシナリオだ。

だからこそ、強烈なダメ押しが欠かせん。




イスラム国は、嫌がらせが叶えば十分な実態で、敵性勢力に混乱・対立を形成し、
あわよくば併合が可能となろう、個人・集団の形成を図っている。

身代金と死刑囚は、そのための口実にすぎない。

連中は、取引が成立しようと成立しまいが、満面の笑みを浮かべるだけなのだ。

相手を手玉に取る事で、その内部に亀裂を生じさせて、複数の思惑を通そうとするは、
かなり古典的な手法であれば、意識せずとも同様を働くなら、同じ状態になる陳腐な手段だ。

それすら見越した対応をせねば、連中を喜ばせるだけで終わってしまう。

総理には、心証(武装勢力全体)を憂慮し、最初の会見に挑んで欲しかった。




関係者・部外者による、直接的・間接的なあらゆる選択の積み重ねが、連中の台等を許して面倒な事態を招いている。

無関係と感じる選択でさえ、その一端を担うのだ。

即ち、連中の成長を促して厄介事を誘引するは、我々であり・我々でなく・誰とは言えぬ。

確かなのは、世界で共通となる前提により、選択を強制・制御されている。

環境的な原因・要因により、強要される部分もありはするが、どうにかなり・どうにもならず、
どんどんどうにもならなくなる、先送りを強いられる運命である。

先送りとしたが、不意味・不価値な時間稼ぎだ。

より環境に恵まれなければ、より余計な時間稼ぎの駒にされてしまう。

利己的・利他的な思惑により、表・裏で行動・暗躍する有象無象は、その被害者であり加害者なのである。

我等は、義務・責任・価値・権利を有せぬまま、実相に従順な判断・決断を下している。

ソレしか出来はしない実態が、人間・人類・社会・世界の実相なのだ。

人間を歪に変えずに、変える術と答えを得ねば、どんな選択をしようとも、辿る末路が変わりはせぬ。

この傾向を知悉・熟知すれば、少し先・暫く先の粗方の予見が可能となる。

その精度は、各々の性能で変化する。

より余計な時間稼ぎとしたが、取り返しのつかない、暇潰しをしてしまう。

それを埋め合わせるには、這い上がる選択が不可欠だが、相応の罠が仕掛けられている。

本当を鑑みてしまえば、それを越える事によって前向きに前へと進まなければ、
生まれてきた理由・目的・目標に触れる事さえ叶わん。

時間稼ぎとしたが、その埋め合わせを実現するため、機会を得るまでのソレでもある。

そこには、長寿・抗加齢の類は含まれていない。

副次的に、短期間で実現するに到りそうではある。

とは言え、変遷を促さずとも実現される事だろう。

それは、望ましき選択ではない。




□ 首相官邸前が「ディスコ」になった

http://blogos.com/outline/104292/

首相官邸前が「ディスコ」になった 「世界平和を祈って踊るだけ」「官邸前DISCO化計画」

東京・永田町の首相官邸前でディスコパーティーを行おうというイベント「官邸前DISCO化計画」が1月26日、実施された。官邸前の歩道に特設のDJブースが置かれ、DJとして沖野修也さんと岡田てつおさんが出演した。このイベントは昨年12月に続き、今回で2回目。主催した山口歩さん(33)は、ディスコの形式を取ったことについて「官邸前からは、反対の声を上げてマイナスイメージが届けられることが多い。そうではなく、楽しいメッセージも届けたかった」と語り、「世界平和を祈って踊るだけ」とイベントの趣旨を説明した。 「世界中の異なる地域・宗教の人たちが一緒に楽しめるように」イベントは午後6時過ぎに開始。途中、メインゲストの沖野さんがDJブースに立つと、官邸前はひときわ大きな歓声が上がった。その後、機材のトラブルなどがあったものの、参加者らは約3時間にわたってビートを刻んだ。 インターネットでイベントを知ったという会社員の男性(37)は「官邸前に来るのは初めて。今日は音楽を楽しみにきた。外だと解放感があって音の聞こえ方が違う」と感想を話した。また千葉県から来たという40代の男性は「デモも大事だが、それだと一般の人との間に垣根ができてしまう。それは残念なこと。楽しいほうが求心力もあると思う」と述べ、イベントの趣旨に賛成していた。 一方で、この日のイベントについては「イスラム国」による日本人人質殺害事件の最中にあって開催するのは不謹慎ではないかという意見もあった。 DJの沖野さんも出演すべきかどうか悩んだというが、「世界中の異なる地域・宗教の人たちが一緒に楽しめるように空間演出するのが、僕のDJのコンセプト。今日のイベントはそのコンセプトと一致する」と考え、出演を決めたという。沖野さんは、参加者に対して「世界のこと、未来のことについて、自分の頭で考えてください」と呼びかけ、ライブを締めくくった。




同胞が惨殺され、一人が絶望に瀕している状況下で、その家族・友人・周囲が苦しんで、
関係者が奔走しているにも拘らず、この程度に耽るようではしがない。

難易度が高い選択を望むには、目も当てられぬほど拙すぎる。

しかしながら、これしか出来ぬ実態のため、これをしているだけなのだ。




在り来たりな問題が発生し、在り来たりな対処をする。

それに対し、在り来たりな反応をしてしまい、在り来たりな選択をしてしまう。

そうやって、在り来たりな事を繰り返して、どうにもならなくなっていく。

我々は、虚しい生き物だ。

在り来たりとしたが、より肝心を切り捨てたままで、なんとなく動いているだけだ。

沖野さんは、その知覚が儘ならぬ状態だ。

その醜態に基づく選択が、埒が明かぬ状況を形成し、思い通りにならなくする。

それが、これまでを築いてきた。

そして、これからを奪うのだ。

より不意味・不価値な暇潰しと、より下手糞な尻拭いの連鎖により、より困難な事態に遭遇してしまう。

そこで、在り来たりな選択を続けるなら、更なる遠回りを余儀なくされる。

とは言え、余りに伴い知りすぎているか、本当を知る破目ともならねば、そうとしかなりはしないのだ。




□ 後藤さん殺害映像 「対応は適切だった」政府答弁書

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150203-00000517-san-pol

政府は3日午前の閣議で、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が日本人2人を殺害したとみられる映像の公開に関し、一連の政府対応について「あらゆる手段を講じてきている。対応は適切であったと考える」とする答弁書を決定した。民主党の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えた。




適切であり・不適切であり・どちらでもない。

確かなのは、互いの方針を転換せねば、二人が殺されるは至当で、その変転が皆無な実態で、手を拱いていたにすぎん。

その実は、効力・効果が殆ど望めぬ選択により、手持無沙汰を紛らわせていただけだ。

そうだ、有効な選択を可能とする、権限を有す存在が不在で、有効な手段を有す事無く、茶を濁すで精一杯だった。

そうでしかないのに、適切(最善・最良)をしたと訴えている。

とは言え、コレしか出来ぬ実態を踏まえれば、そうとしか言えぬのが実情なのだ。

結局、分断・放棄・摩り替えにより、体裁を整えていたにすぎない。

はたまた、批難・批判・誹謗・中傷する者達は、己・己達の不熟な実態を棚に上げて、
突破口の形成には程遠い醜態を晒し、無知・無智・無恥を証明している。

所詮、政治家も有権者も穏健派も過激派も肯定派も否定派も有神論者も無神論者も猫も杓子も私も君も同じ穴の狢である。




あらゆる選択は、正解であり・不解であり・正当であり・不当であり・便利であり・不便であり・正義であり・不義である。

それは、正しく・間違いだ。

それに、誤解であり・曲解でない。

もしくは、どれでもない。

そうなるは、絶対であり・絶対でなく・絶対はあり・絶対はない。

とは言え、軸がある事に気付かなければ、誰かが代わりに繰り返すのみ。

それだけで済めばいいが、過ちを犯した存在には、甚だ酷な仕掛けである。

我々は、過ちを犯さずには生きられない。

故に、より聡明な判断と賢明な決断を下せるよう、
冷静な精神による懸命な思考を肝に銘じて、前を向いて前へと進み始めねばならんのだ。




□ 自爆テロ要員名乗るツイッター「うかつに洗脳されるな」の指摘も

http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/362962/

残忍さが恐怖を呼ぶ「イスラム国」の関係者と思われるツイッターが話題になっている。イラク出身のイスラム国戦闘員で「ハーデス」と名乗り、自爆テロ要員だという。ハーデスは翻訳機能を使って、日本語でやりとりをしていた。特に1月下旬にはやりとりが活発だったが、現在は凍結されている。食事などイスラム国の日常、イスラム国の主張について日本人ユーザーと意見を交換。ユーザーらは「彼らがどうして怒っているのかよく分かった」「諸悪の根源はアメリカではないか」「これがテロリストと呼ばれている人たちの本当の姿だ」と感動のコメントが殺到していた。もちろん、「成りすましじゃないか」「イスラム国の戦略でしょ」と疑う意見もある。イスラム国のネット事情に詳しい関係者は「ニセモノであれ、イスラム国による洗脳の一環でしょう。うかつに乗るのはよくない」と警告する。イスラム国にはメディア部門がある。人気ゲームをまねた勧誘ビデオが作製されるなど、クオリティーが高い。「メディア部門は戦場から遠いところにあり、一時期は拠点がフランスにあるとささやかれたこともあります。ツイッターもそうですが、あまりにも時期が“適切"すぎる。イスラム国のやることはスケジューリングがしっかりしており、使えるツールは全部使っている。理由と意図があってやっているとみて間違いない」(同関係者)自爆テロ要員という“設定"も巧妙だ。「特攻隊員と最期のやりとりをしているみたいな興奮や緊張があります。これから死ぬという人の言葉なら、なんでもない言葉でもありがたみは100倍になる」(同)ハーデスツイッターの真偽はともかく、背後に意図があっても不思議ではない。




□ 日本語でTweetしていたイスラム国自爆要員ハーデスさんが切なすぎる。

http://matome.naver.jp/odai/2142222254072200701




○ これがテロリストと呼ばれている人たちの本当の姿だ

より未熟かつ迂闊であれば、より蓄積が乏しければ、必然かつ当然の実情を、新知見のように感じる。

そして、共有・共感を希望する。

必然かつ当然としたが、実相による実態である。

云わば、在り来たりな有様だ。

より肉体・精神が幼ければ、その傾向は強固となる。

なんせ、先進者と同じ経過を辿るまで、同一の情報の取得が叶わない。

なれば、それは新たな発見である。

それにより、誰かに追い付く度に舞い上がり、誰かと同じ台詞を反復している。

ただ、それだけの事なのだ。

○ 諸悪の根源はアメリカではないか

人間・人類・社会・世界による、催眠・洗脳・暗示に嵌るは無論、自分自身のソレから抜け出せず、
表層の上澄み程度の認識により、軽薄な考え方を垂れ流している。

そこからの脱却が叶わねば、同じ水準の台詞を繰り返すばかりだ。

改善・是正・打開には程遠く、より肝心となる事柄から段階的に隔絶され、
矛盾と曖昧を膨張させるばかりの存在では、そこから這い上がるは皆無・空無・絶無だ。

だから、どうにも出来ずに終わってしまう。

○ 彼らがどうして怒っているのかよく分かった

何が何だか分からぬのに、自分・自分達で拵えた錯覚の虜となって、醜態を誤魔化して正当化しているだけだ。

手軽な手段で人々を惨殺し、怠惰な無い物強請りをしている。

なのに、それでどうにかなると思い込んでいる。

なるは、どんどんどうにもならなくなるだけだ。

○ 成りすましじゃないか・イスラム国の戦略でしょ

どうであろうと、辿る末路が変わりはしない。

とは言え、これによる経験は重要となる。

テロ行為によって、家族・友達・周囲が惨殺されて、自己が甚振られる破目となれば、
自分自身が存命しているまでは、過去の認識の再検討が促される。

それにより、考えが大幅に変わってしまう場合があれば、日記に類似した感覚に辿りつく場合もある。

生き残れば、コレと酷似する羅列を綴る事もあろう。

他にも、様々なケースがある。

有識者や専門家は、この実を明晰にするも叶わぬ実態で、妄想・空想・想像・理想を流布する。

ハナから、前提を捏造・改竄・隠蔽・限定する事で、成立するかのように見せかけるで限界だ。

人々は、それに慣れてしまう事によって、好都合な設定を常識と勘違いし、精神的な三重苦となり突っ走る。

そして、誤解が解けるまで、擦れ違いを演じる。

そうでなくとも、間違いを重ねるばかりだ。




我々は、堅牢で脆弱で常並だ。

これまでに培ってきたモノは、その命脈を維持するための道具・材料だ。

それらの冗長性を高めるには、浮き沈みの操作が要となる。

故に、値上げ(インフレ)の演出により値下げ(デフレ)の機会・猶予・余地を演出する。

逆もある。

どう転んでも、場面的な成果は得られる。

それが、面倒な引金にもなる。

機会・猶予・余地を演出としたが、実相により自動化されているにすぎん。




生きる・生き残るため、理不尽な選択が重ねられてきた。

土地・食糧・金品のため、術なく殺された者は数知れぬ。

その理不尽を緩和せんと、多種・多様な手法で秩序が築かれた。

そうだ、家族・友達・周囲・自分のため、より良き世を人々は求めたのだ。

その秩序は、混乱の原因・要因の素養を有する。

故に、その形成は成功であり・失敗であり・どちらでもない。

何より、肝心が抜けている。




□ 小学校授業で日本人遺体の画像見せる

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150205/k10015248441000.html

3日、名古屋市の小学校の授業の中で、イスラム過激派組織「イスラム国」に殺害されたとみられる日本人の遺体の画像などを、教諭が5年生の児童に見せていたことが分かりました。名古屋市教育委員会は不適切だったとしたうえで、「子どもたちの心のケアに努めたい」と話しています。名古屋市教育委員会によりますと、3日、名古屋市東区にある小学校で、女性教諭が5年生の社会科の授業の中でイスラム過激派組織「イスラム国」に殺害されたとされる、湯川遥菜さんとみられる遺体の画像と、後藤健二さんとみられる男性がひざまずいている画像を、教室のテレビの画面に映し出したということです。画像は、教諭がインターネットから取り込んだもので、一部、加工されていましたが、遺体の部分については加工されていなかったということです。これまでのところ、画像を見て、体調不良を訴えた児童はいないということですが、外部からの問い合わせを受けて、教育委員会が事情を聞いたところ、教諭は「情報発信の在り方や命の大切さについて考えてもらおうと思った」と話しているということです。記者会見した名古屋市教育委員会の三浦友久指導室首席指導主事は、不適切だったとしたうえで、「市内の学校に注意喚起を行い、再発防止を図るとともに、子どもたちの心のケアに努めたい。保護者や子どもたちに迷惑をかけ、申し訳ない」と話しました。




何が、間違いなのか?

何故、それが間違いになるのか?

ソレを、明晰に伝えられるなら、ある程度は容認される。

とは言え、この画像を使用した時点で、それが望める人材ではない。

ハナから、それは実相によって、皆無・空無・絶無だ。

であるからして、無難な内容を伝えるしかない。

されども、無難に伝える(在り来たりな見本を示す)程度なれば、伝えられた側は矛盾・曖昧に気付いて迷子になるのだ。

そして、同等か未満の感覚を携えて、行ったり来たりを繰り返す。

はたまた、自分自身の実態は無論であるが、相手の本性の熟慮が出来ぬのに、不完全な作用を与える事により、
残酷な発想を植え付けてしまい、卑劣な蛮行に憧れを抱くように、感覚を歪めてしまう場合がある。

さりとて、その不満足な影響だろうと、余計な選択を拒絶するよう、感覚が誘われる場合もある。

しかし、直ぐ反転するケースがあれば、それが持続するケースもある。

だけでなく、相手の自我を破壊する破目となり、挙句の果て自己のソレを破壊する。

そのケアを第三者が試みようと、それさえ無難な手段であるため、問題・不具合が発生してしまう。

しかしながら、それしか許容されぬために、それを行使するのみである。

その行使により、既存の枠組・仕組・存在に対して、そこそこ適応する存在が仕上がる。

適応・不適応に拘わらず、実相に素直な存在なのだ。

行使するのみとしたが、許容される選択の積み重ねによって、
形成した概念・定義を維持するため、その継続を無理強される命運となる。




常に、そうなるとは限らない。

だからこそ、己・己達の期待値を向上せんがため、自分・自分達の思惑の成就を願って、枠組・仕組・存在が拵えられてきた。

そして、様々な事象が引き起こされる。

かてて加えて、実相の払拭が叶わない。

それによって、互いの思惑を様々なスケールで相殺し、埒が明かない潰し合いを演じてしまう。

埒が明かない潰し合いを演じるとしたが、各々に特有の主義・思想・信仰が内在・混在し、
ソレが正しいとバラバラに思い決め・思い込み、ソレを互いに押し付けるための競争が止らない。

あるいは、どれが正しいか分からず、右往左往する者さえいる。

のみならず、どれも不当と認識し、その追求すらしない。

一方、己が正当とする存在を形成して、それを広めようと躍起になって、新たな厄介の種になってしまう。

どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、どれかであり・どれでもあり・どれでもない実相により、
どれかに絞るも叶わぬ醜態で絞らずにはいられはしない。

なんせ、ソレしかする事がない。

要は、それしか出来はせんのだ。

原初から、同じ範疇の概念・定義の獲得しか叶わず、その権利・利権を固持・主張するために、
それらをどうにか奪い取り生き残るため、終焉の見えぬ争いに身を委ねねばならん。

抗う事を怠れば、造作無く呑みこまれてしまう。

状況により、家族・友達・周囲・自分自身が、成す術なくぶっ殺されてしまう。

ソレを許さぬためにも、無難な選択を重ねるしかない。

ソレが災いし、期待値が損失・喪失を続ける。

催眠・洗脳・暗示により、ソレを美しく捉える者がいれば、ソレに吐き気を覚える者もいる。

そう、割り切る者がいれば、割り切れぬ者がいる。

どちらとて、より深い錯覚の中に沈んでいる。

吐き気を覚えたとて、力ずくで変えようとするなら、それは仇にしかなりはしない。

さすれば、前者によって叩き潰されれば、後者に塗り替えられるからだ。

そうでなくとも、思い通りになる事はない。

あらゆる選択には、己が意に反する素養が無数に含まれ、ソレを制御するは不可能でしかない。

だから、そうなったように見えても、どうにもなっていないのだ。

前者だろうが後者だろうと、在り来たりな存在にすぎぬため、在り来たりな顛末を辿るのみだ。




格別性・特別性・希少性・普遍性・不変性・不偏性の演出により、価値・意味・意義・真価の捏造・歪曲・粗造を続けてきた。

それにより、矛盾・曖昧は膨張・化現を反復する。

これより、杜撰に拵えたハリボテが、より剥がれ落ち易くなる。

それは、実相に従順な玩具ではなく、人として考えられぬ有様が、ソレを促進するためである。

剥落の度に、成す術なく翻弄される破目となる。

正確には、下手糞な選択を重ねてしまう。

実相に素直なれば、己が無知・無智・無恥を弁えず、自分自身の行動・言動によって、自己・他者を追い詰めてしまう。

ましてや、どん底にいる事の知覚が叶わず、這い上がる意識さえ浮かばない。

それでは、肝心な部分が変わりはしないのだ。




□ <名古屋モスク>脅迫・嫌がらせ 「後藤さん人質」で相次ぐ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150205-00000033-mai-soci

イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)による人質事件で、名古屋市中村区のイスラム礼拝所「名古屋モスク」へ脅迫や嫌がらせの電話が相次いでいる。モスクの代表役員で、パキスタン人のクレシ・アブドルワハブさん(57)は「イスラムは平和の宗教であり、過激派組織とは無関係だと知ってほしい」と訴えている。クレシさんによると、嫌がらせ電話は、後藤健二さんの殺害場面とされる動画がインターネットに流れた今月1日の5、6件がピークで、この時は電話線を抜いた。「日本から出て行け」「家族構成は分かっている」といった内容で、愛知県一宮市の別のモスクには「殺す」との脅迫もあった。名古屋モスクには「日本人の敵だ」と中傷するメールも送られ、警察に届け出た。こうした嫌がらせは、名古屋モスクが1998年7月に完成してから初めてという。2001年9月の米同時多発テロや04年にイラクで香田証生さんが過激派組織に殺害された際も無かった。今回は「過激派が『イスラム国』の名称を使っているから、イスラム教徒に矛先が向かう」と考える。今月2日には、モスクに通うパキスタン人が営業先の日本人に「来るな」と追い払われたという。以前から偏見は強いと感じてきた。数年前に次男が小学高学年だった時、級友に「お前、爆弾巻いてるの?」と聞かれ、クラスが笑いに包まれたが、教諭は放置したという。次男はこれを機に一時、不登校になった。クレシさんは「一気に『ヘイト(憎悪)』が向かってくるかも」と恐れている。クレシさんら国内10カ所以上のモスクの代表者は先月末、「イスラム国」という名称がイスラムのイメージを不当に損なっているとして、同名称を使わないよう報道機関などに求める運動を始めた。「『イスラム国』の名称を使えば、暴力的な宗教だとの偏見が助長される」と指摘する。英語の略称「ISIS(イラク・シリアのイスラム国)」や「ISIL(イラク・レバントのイスラム国)」、アラビア語の略称「ダーイシュ」などの使用を呼びかけている。クレシさんは、性風俗の業態名として誤用されていた「トルコぶろ」を「ソープランド」に改名する運動が80年代に成功した例を引き合いに、「名前による負のイメージは影響が大きい」と話し、使用名称の変更に期待を寄せる。同モスクでは見学を受け付けており、希望者にはイスラムについて説明したいという。




○ イスラムは平和の宗教であり、過激派組織とは無関係だと知ってほしい

表面的な感覚で、好都合な認識を垂れ流している。

○ 日本から出て行け・家族構成は分かっている

より希薄な感覚により、自己の無能(視野狭窄・蒙昧無知)を証明している。

前者と後者は、己の性能に許容される、安易な選択をしている。

どちらとて、画一的な存在なのだ。

後者ともなれば、駄々を捏ねる糞ガキであり、在りし日の我々と変わらん。

○ 過激派が『イスラム国』の名称を使っているから、イスラム教徒に矛先が向かう

名称が異なろうと、それをポリシーと扱う限り、偏見と軋轢が生じてしまう。

ハナから、差別を助長・阻害する道具であり、戦争と平和のシンボルでしかなく、
在り来たりな暇潰しの装置であり、それを信条とすれば奈落へ落ちる。

政治・宗教に、意味・価値・意義・真価の付与を実現し、鋭敏な選択をするに余りに程遠い実態で、
どん底でのた打ち回るで頭打ちな限りは、誰が何処でどれだけの詭弁を弄したとて、実質・本質に相応な末路しか辿れはせん。




□ 人質事件:「日本政府に恥辱が目的」…IS機関誌

http://mainichi.jp/select/news/20150213k0000m030086000c.html

イスラム過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)のウェブ版英字機関誌「ダビク」の最新号が公開された。ISは「安倍晋三(首相)は『イスラム国』と戦うために2億ドル(約240億円)の資金提供を表明した」と従来の一方的主張を展開した。日本人の人質殺害について「傲慢な日本政府に恥をかかせるのが目的だった」などと述べた。ダビク最新号は巻頭の2ページで日本人人質事件を特集し、殺害された千葉市出身の会社経営、湯川遥菜さん(42)と、仙台市出身のフリージャーナリストの後藤健二さん(47)の写真も掲載した。IS活動地域の周辺国に対する非軍事分野での2億ドルの支援について、同誌は「ISとの戦いに使われるのは明白だ。思慮が浅く、傲慢な判断だ」との見解を示した。また「(支援表明前は)日本の標的としての優先順は低かったが、今や、あらゆる場所で標的になる」と脅した。当初2億ドルの身代金を要求した点は「金には困っていないし、日本政府が2億ドルを支払わないことも分かっていた。第二次大戦後、西洋の奴隷になった日本政府に恥をかかせるのが目的だった」と説明した。一方、ヨルダンに収監されていたIS前身組織メンバーと後藤さんとの交換交渉では、ヨルダンのイスラム教指導者、アブムハンマド・アルマクディーシ師が仲介役を務めたと明かし「ヨルダン政府が(ISに拘束されていた)ヨルダン軍パイロットを交換に含めようとして事態を複雑化させた」と指摘した。アルマクディーシ師は当時ヨルダンで収監されていたが、事件後の今月5日に釈放された。師の側近は毎日新聞の取材に、交渉を仲介したことを認めていた。




○ ISとの戦いに使われるのは明白だ。思慮が浅く、傲慢な判断だ

名目の云々に関わらず、直接的・間接的な影響を及ぼす。

だからとて、その末梢的な煽動に流され、軽率な選択に及んでしまい、窮地に陥るは余りに滑稽だ。

そう、敵性勢力に機会・猶予・余地を与えて、己・己達を殲滅する手伝いをしている。

そもそも、好都合な前提を基盤とし、ソレッポイと感じる事を、なんとなく実行している。

そうなるは、その前提の質は無論であるが、それが不得要領な事によって、それしか叶わないためである。

それなのに、自分・自分達が正しいと決めつけ、道義的判断を誤り人道を踏み外し、背徳的な過ちを堂々と続けている。

それこそ、無闇矢鱈で破廉恥だ。

○ 日本の標的としての優先順は低かったが、今や、あらゆる場所で標的になる

それは、御互い様である。

政府には、流入した斥候・本体の鎮圧に、力を入れて欲しいと感じる。

海外に拠点を有す、複数の勢力が戦力を潜めている。

主流となる、組織への合流・鞍替・便乗が懸念される。

前提的に相容れぬ勢力とて、合致点を見出せば例外ではない。

状況により、国内原産の個人・集団が、選択を余儀なくされよう。

国家・国民が、余程の苦境に陥らねば、左程の面倒にはならん。

そうならぬよう、政治屋は励まねばならん。

○ 金には困っていないし、日本政府が2億ドルを支払わないことも分かっていた。
第二次大戦後、西洋の奴隷になった日本政府に恥をかかせるのが目的だった

我々は、相手を過大・過小に評価して、その言葉を好都合に受け取る。

それにより、これを負け犬の遠吠えだと、決めつける場合があるのだ。

その認識で対峙すれば、足を掬われかねない。

どうせ、コチラ側では不当であろうが、アチラ側では正当と扱われる。

連中は、それで十分であり、ソレしか叶わない。

相手の実情は勿論だが、双方の前提を斟酌して、結末を先読みする事で、この台詞を吐けぬよう、先手を打たねばならん。

さもなければ、手玉に取られてしまう。

○ ヨルダン政府が(ISに拘束されていた)ヨルダン軍パイロットを交換に含めようとして事態を複雑化させた

余計を働けば、危険性と不確実性が向上する。

始めてしまえば、人質を返えそうが返すまいと、辿る末路が然して変わらない。

相互で、事態を紛糾させてしまい、引っ込みがつかぬ状態だ。

だからどうすべきかを過誤する限り、どうにもならなくなるばかりだ。




政治と宗教に眩惑され、主義・思想・信仰に弄ばれ、矛盾と曖昧の整理が叶わず、余りにも伴わず知らなすぎ、
錯覚から抜け出せぬ実態で、穢れた綺麗事と御託を並べ、操り人形は滑稽に踊るのだ。

実は、実相に制御されているだけで、自我による選択が出来てない。

それ以前に、碌な自我が育めない。

己・己達の主張を認めさせんと、躍起になる存在なれば、そうとしかならんのだ。

その類は、自己が最も忌むべき存在へ、自分自身を仕上げてしまう。

言うなれば、そうとしかならぬカラクリだ。

テロリストや政治家や宗教家や活動家は、その顕著な典型と言えるだろう。

典型としたが、例外は存在しない。

誰もが、同じ穴の狢である。

誰しも、不憫で気の毒で可哀想な存在だ。

所詮は、より器用で・より不器用で・より自由で・より不自由になる動物だ。

他の種に比べ、その幅が広いだけであり、多寡が知れた獣畜なのだ。

ソレを自覚し不足を埋めねば、能力・機能・作用の拡張が叶わず、
より本能に諾々で歪な化物と化し、失敗・失態・失墜を重ねてしまう。

ソレが、主義・思想・信仰に縋り染まって、ソレを言い訳に暴走する程度では、碌でもない玩弄物で終わるのみだ。

拡張が叶わぬとしたが、在り来たりな格差が発生するだけでなく、より肝心な部分を放棄して迷走を続ける。

その経過で、悪循環の袋小路の坩堝が築かれ、推移により様々な変化を遂げる。

変化を遂げるとしたが、より雁字搦めの状態となり、そこから抜け出し難くなる。

そこからの解放を試み、起死回生の機宜を伺う者達がいるが、下手をすればソレで台無しにもなる。

この表裏一体の世界では、全てが紙一重の状態である。

その極性は、陰極(マイナス)だ。

隔たりは大きくなり、意図・真意と大きく乖離する、皮肉な末路を誘引してしまう。

故に、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

だからこそ、ならばどうすべきかの追求が肝要なのだ。

批難・批判・誹謗・中傷・暴言・暴力で頭打ちなれば、不意味・不価値な玩具の域を出ない。

とは言え、その玩具がないならば、全ては平坦に紡がれる。

端的に言えば、起伏がない時が流れる。

まあ、何も知らずに生まれ何も知らずに死んでいく実情により、どちらかであり・どちらでもあり・どちらでもないから、
いずれかであり・いずれでもあり・いずれでもないため、無知・無智・無恥な実態で争わずにはいられはせんのだ。

そんな連中が、主導権争いを続けている。

これは、悪夢である。




我々は、実相に蹂躙され続ける、従順な操り人形である。

人間・人類・社会・世界は、同一のアルゴリズムに準拠する、粗雑なプロセスの集合体であり、不熟な一つのプログラムである。

同一のアルゴリズムとしたが、森羅万象・諸事万端が、実相に支配されている。

それに基づいて、個人・集団・国家・国家集塊は、相互作用の促進・維持に必要な、
アプリケーションの形成を続け、より肝心から遠ざかりながらも、より肝心を求めて彷徨い続ける。

実相に支配されているとしたが、選択の幅が恒常的に変化しない。

ただ、そのスケールの変化は発生する。

アプリケーションの形成としたが、枠組・仕組・存在・事象の精製だ。

それにより、埒が明かぬ状況を自ずと作りだし、錯覚の中を蠢くを余儀なくされる。

埒が明かぬ状況としたが、矛盾・曖昧・問題・不具合が、悪質化・深刻化の一途を辿る。

その解決を試みようと、悪化させて繰り返すで精一杯だ。

錯覚の中を蠢くとしたが、特定の主義・思想・信仰・観念に汚染されて、準じた先入観・固定観念・既成事実に囚われ、
建前・自己都合・利己主義に振り回されるも、その実態の察知が叶わず改めるも儘ならない。

ソレが全てと、履き違え・思い込み・思い決め、死角・盲点の払拭が叶わぬまま、在り来たりな選択を重ねるのだ。

在り来たりな選択としたが、より肝心が伴わない思考による、酷く限定的な判断・決断である。

であるからして、応じた失敗・失態・失墜を重ねる。

それは、考慮・配慮を欠いただけ、手遅れになるからである。

手遅れとなって、取り返しのつかぬ状態となる。

それで、思い知らされようとも、もはやどうにもならん。

そうやって、どんどんどうにもならなくしてしまう。

より肝心の欠如により、そうとしかならぬ仕掛なのだ。




この世界たる領域は、マルチプラットホームのハードウエアである。

実相は、オールインワンパッケージの精製を促すソフトウエアだ。

厳密には、オペレーティングシステムの素養を含む、様々なプログラムを自動精製する指針だ。

指針と言っても、定かではない事によって、それが原因・要因となり、コントロールされるのだ。

云わば、分からぬからこそ突き動かされて、欲求・要求を埋めるに必死となる。

そして、政治・宗教が自動で形成され、ソレが宛がわれる事によって、強固に制御される命運となる。

そうでもせねば、完全・完璧に程遠い存在は、簡単に滅んでしまうからだ。

不完全なればこそ、ソレを生み出さずにはいられはしない。

されども、ソレがある事が仇となり災いして、そこまで・それだけを強いられる。

結局、在り来たりな実相により、変哲もない世界が築かれ、其々が宛がわれた環境で、それらしく生きるだけだ。

この実を十二分に熟慮し、より良き再構成を実現せぬ限り、抜本的・根本的・根源的となる、改善・是正・打開が叶いはせん。

さりとて、常に限界は生じる。

注意すべきは、主義・思想・信仰を絞ろうとすれば、在り来たりな失敗を辿るのみであり、それらを放棄するも生半可な選択だ。

オペレーティングシステムの仕様を熟知し、より良き指針への変遷を実現して、階層構造のオプティマイズをする。

それだけでも、矛盾・曖昧・問題・不具合が解けていく。

何より、自動制御を促す指針の変遷により、包括的な変化が総体へと波及する。

さすれば、より強固な感覚・自我を育みながら、正真の目的・目標・理由を握りしめ、前向きに前えと進み始められるのだ。

それこそが、人の黎明となろう。




忘却・失念してならぬは、真実の言明における、試練に遭遇する事だ。

どうであるにしろ、それは避けられぬ運命である。

その遥か手前で滅びぬためにも、それを乗り越えるためにも、至当な選択をすべきである。

だけでなく、取り戻すための選択を、可能な環境を構築する。

そして、各々が他に追随を許さぬ、唯一無二の存在であると、証明をせねばならんのだ。

証明としたが、順当な選択をした場合における、必然かつ当然の成果にすぎない。

成果としたが、それは経過・結果である。

内側で、どれだけの事をしようとも、隣へ行けるようになろうと、果ては外側へと辿りついて、
階層を昇り全てを知ろうが、新たな階層の礎となろうと、凡ては平々凡々たる道筋だ。

そうだ、政治・宗教を超克しようと、時間・空間を超越しようが、何の変哲も無い取捨なのだ。

現状は、忘却・失念・放棄によって、窮状から抜け出せずにいる。

そう、その遥か手前で座礁し、沈没を続けているのだ。

内側の壁龕で、意味・価値を築くために、多くが必死に生きている。

ただし、どん底から這い上がれぬ実態で、不意味・不価値に費えるのみだ。

それ程までに、人間・人類・社会・世界は拙い。




本能と理性の板挟みとなり、その不一致に翻弄される事で、矛盾と曖昧を増大させながら、人間的生命の連鎖が紡がれる。

致し方ない、在り来たりで無難な選択の積み重ねが、その性格・人格・職業・命運を定める。

自然作用に抵抗が不可避な生命は、実相に主体性・自主性を掌握された状態で、
結果を挑戦的に軽視し概念・定義を形成し、悪質で劣悪な縄張り争いを続けているのだ。

それによって、価値観・方向性・指向性・指向性は乱離拡散し、個人・集団・国家・国家集塊の独自性は豊富だ。

厳密には、潤沢に見えているにすぎず、幅が狭く底が浅く空っぽだ。

実際は、没個性的でしかなく、各々の自我は希薄だ。

我々は、そこいらの毛の荒物と変わらん、取るに足らない野蛮な獣である。

ただ、そうでしかない事が、十分な水準における、認識を拒んでしまう。

だから、どうにもならんのだ。

順々な変遷を実現し、先々を目指せる存在ともなれば、雁字搦めとなり出鱈目に犇く、
嘗ての己・己達と同じ我等を、不憫で気の毒で可哀想に思う。

もしくは、気にも留めんだろう。

変遷が不要・未開であっても、高度な技術を獲得する存在や、その進行度が低い存在なれば、
回り諄い諷示をしてくれるが、そこまで・それだけに留まる。

なんせ、それしか叶わんのだ。

コンディション・タイミングが合致すれば、良き交流が望めるが、それは稀なケースだ。

進行度が高度なれば、もはや枝葉の存在にすぎない。

それに気付かなければ、より他愛も無い生命は、より瑣末な生涯を送り、より末梢的に絶滅する。

局外者の存在は、可能性の域を出はしない。

けれども、整然と潜在能力を見澄ませば、より肝心が見えるようになる。

ソレを念頭とせねば、仕様もない選択を重ねて、立退くを余儀なくされる。

既に、孤立し置き去りにされ、使い捨てにされている。

それに、手玉に取られている。

超絶絶頂・究極極大・臨界突破の屈辱・絶望・後悔に劈かれぬためにも、変える事で変わり・変わる事で変えねばならん。

それによって、初めて我等は自立する。




テケトーにボールを投げれば、悠々と入る大きな穴があった。

違和感を覚えるようになり、情報を整理して見つめ直すと、その穴はボールよりも小さく、球は一つも入っていなかった。

まあ、これは極端な比喩である。

主義・思想・信仰に縋り染まれば、パッパラパー・クルクルパー・チンプンカンプンになる。

そうでなくとも、そうでしかない。

だからこそ、そこからの脱却を望んで、政治・宗教を拵えたのだ。

それにより、救われ・赦され・報われると信じるようにした。

何より、生きるため・死ぬための、目的・目標・理由が無い。

それだけに、それを補わずにはいられず、それらを拵える事によって、どうにか保とうとしたのだ。

ただし、実質・本質が変動する事はなく、多寡が気分転換に終わっている。

おまけに、同じ事をバラバラにしたため、差別・偏見・軋轢を増悪する。

その理不尽による、血と涙は留まる所を知らない。

あまつさえ、そうでしかない事の知覚が伴わず、ソレを感じようと明確に示せずに、
各々が実情に応じた錯覚に嵌って、ただ上澄みを捏ね繰り回している。

それでどうにかしようとするも、失敗・失態・失墜を累積させ、どうにもならなくするだけだ。

より肝心な事が分からずに、より面倒を杜撰にあしらい、後回しにしたツケは大きい。

とは言え、その御蔭でここまで来れた一面があり、原初からそうとしかならぬ仕掛なのだ。

その仕掛けは、仕様上の都合によって、瓦解・崩壊・自壊する。

その最中で、我々は選択を迫られる。

滅びるか?

繰り返すか?

道を切り開くか?

そこで、政治的観念・宗教的観念に従えば、零落を続けて惨憺たる末路を辿る。

栄達に不可欠な選択肢は、それらに準ずる実態では掴めない。

そうでなくとも、その獲得は至難であり、実現するは困難である。

互いの協調により、各々がメインストリームとなりながら、効率的・効果的に変遷するが道である。

殊の外、須らく備えよ。




三段(十)F-複数のニュースへの考察-後編に続く。