2012年09月16日 22:22 近況を見つめての考察


抜本的な是正を求め、多くの者達が原因と要因を探求し、根源たる人間へと辿りつく。

そして、ある者は人類を救うため、ある者は人類を滅ぼすため、
ある者は人類に巣食うため、独自の思想や主義を掲げ、
宗教ゴッコと政治ゴッコに明け暮れている。

その者が、人類を救いたいのか、世界を救いたいのか、
自分を救いたいのか、その目的と目標により、手段が変わってくる。

中には、一切合切の破壊を夢見、世界の破滅を渇望した結果、人類の繁栄を望む者すらいる。

この、陰極である表裏一体の世界では、あらゆる枠組が抱える矛盾により、
全てが紙一重の状態であり、何をするにしても、不具合が発生する。

その、機能不全へと自動で陥る、悪循環の袋小路の坩堝で、無闇矢鱈に人類を繁栄させてしまえば、
絶滅の原因と要因が発展を続け、甚大なナチュラルプロセスにより、悉く薙ぎ払われてしまう。

そのため、それを未然に予防する、トリートメントが必須である。

それなのに、怠惰に長い歳月を浪費し、宗教と政治が証明したのは、双方がガラクタにすぎぬ事だ。

そもそも、宗教と政治は、最初から最後まで、碌な事が出来ぬ仕組なのだ。

それに関しては、以下の日記から辿って頂きたい。

☆ 潮流は、変わったかね?(改良版)

であるからして、宗教屋と政治屋は、遥か以前に気づくべきだった。

己達が、何もかもを手遅れとし、莫大な軋轢や偏見を生み出す、とんでもない化物である事を・・・。

それが、当然としかならぬ世界である事を・・・。

連中が、我々に齎したのは、全てがハリボテの空間だ。

人々は、その不当を正当と見せかけた、不自由を自由と誤魔化された生き地獄で、
作為的茶番と必然的茶番に翻弄され、同じ事を繰り広げ、悪化させて繰り返す。

確かに、厳密に精査すれば、同じ事の繰り返しはない。

しかし、性質が同じであれば、引き寄せられる末路が変わらぬのだ。

おまけに、性質が反転していても、それが間違いの延長線上であれば、
その延長線上で間違いが生じれば、引き寄せられる末路は変わりはしない。

もとより、現状の維持を助長するだけでも、自壊に向かってまっしぐらの状態だ。

あまつさえ、道義的判断を誤る事が当然で、責任を分散して有耶無耶にする連中が、その舵を取っているのだ。

これでは、何も変わりはしない。

これまでの、宗教屋と政治屋は当然とし、活動屋や預言屋に関しては、
シンプルな流れすら読めぬ、噴飯物の寄せ集めにすぎなかった。

はたまた、行き詰まる事を知りながら、手を打たなかった当事者は、殲滅すべき愚劣の極みだ。

罪人は、真実を把握する技量もなく、人々を諌める能力を持ち合わせていない、
均質化された権力者と、つまらぬ腰巾着である。

少なくとも、近況を軽く見つめれば、各国の政府がゴミダメである事が明白だ。

そうだ、歴史ある大陸の人々、短期間で歴史を築いた半島の人々、双方から影響を受け、
双方に影響を与え、発展を続ける島国の人々、その人々を苦しめるのは、
各国におけるニセモノやペテンの寄せ集めなのだ。

だから、人類共通の問題は当然とし、国民が真摯に抱える切実な問題は勿論、
たかが領土問題すら解決出来なかったのだ。

無論、この世界を築いてくれたのは連中だと、私のように擁護する者がいる。

されど、その程度の世界しか築けなかったと、私のように反旗を翻す者がいる。

それに対し、ではどうすべきだったかを、私のように多角的に求める者がいる。

ところが、その多元的な要求に対し、答えられる私と答えられぬ私がいる。

それを見つめ、様々な意見を肯定もしくは否定し、これからの具体策を示す私と具体策を示せぬ私がいる。

そのうえ、全てを飲み込んで高次元の提案をする私と、全てを飲み込めず低次元の提案をする私がいる。

はてさて、この中に正しい私はいるのだろうか?

全ての存在は、正当であり、不当であり、どちらでもあり、どちらでもない。

それらの回答は、正解であり、誤解であり、どちらでもあり、どちらでもない。

本来、それは望ましくない状態である。

それでも、以下の状況である事は明白だ。

現況では、聡明かつ賢明である、中国人と韓国人と日本人の同胞達が、
薄汚いチャンコロとチョンとジャップに虐げられている。

だが、我々を虐げる者達は、我々と同様の存在である。

ただ、あちらにいるのか、こちらにいるのかの違いなのだ。

我々が、真に見つめるべきは、何処かにいるより未熟な自分と、何処かにいるより成熟した自分だ。

それを見極め、より未熟な自分を噛み締め、より成熟した自分を超えるため、邁進しなければならない。

人々が、それに気づかなければ、人類が真の黎明を迎える事はない。

それでは、陰極の世界で、何処までも負極へと、沈んで行くのみだ。

それは、諸賢には相応しくない。




中東の独裁政権は、危険分子に対する、最大の抑止力だった。

何より、中東地域の安寧に、多大な貢献をしていた。

そうだ、築きあげた己の楽園を、その大切すぎる玩具箱を、そう易々と手放す者はおらぬ。

それに、下手な動きを見せれば、超大国の業火に炙られる。

そう、余程の事でもなければ、少なくとも対外に対しては、血生臭い選択はせぬのだ。

ただし、他国に対する蹂躙が、伝統のような例外もある。

全ては、確固たる支配のための、邪な策謀が織り成している。

しかし、それが比類のない安寧を、維持していた場合があるのだ。

だが、暇潰しの侵略ゴッコと穀潰しの民主化ゴッコが、それを完膚なきまでにぶち壊した。

そして、腐敗した虚栄心と自尊心により、残虐非道の限りを尽くし、人々は『偽物』の平和と自由を手に入れた。

中東の近況を見つめると、民主化ゴッコによる反動か、
もしくは危険分子に扇動されての暴挙なのか、
人々は己の未熟を曝け出している。

どうやら、己の信じる存在を侮辱されたから、己達でさらに恥辱しているようだ。

極端に強い信仰心と歪んだ信仰心しか育めぬ存在は、
その教理と哲理と原理において、最も卑しい異端者となる。

その愚行を許す神あらば、それは神ではなく汚物である。

超絶絶頂において、連中が暴挙に及ぶ事で、その神も預言者も救世主も、ただの捏造にすぎぬ事が証明される。

それらが本物だったならば、神に対する冒涜たる行為を、
糞尿にも満たぬバイキンに許す事なんぞ、
未然に相殺されている。

これに対し、試練だの、運命だの、天の思召と宣うならば、
そのような身勝手を振る舞うならば、
あらゆる神々が許しはせぬ。

都合のいい解釈で、誤魔化してはいけないよ。

例え、それを正当化する設定があろうとも、それを理由に乱暴を働けば、神の真意によって裁かれるのだ。

その限りでは、勝ち誇った顔で突っ立っていようと、
ナチュラルプロセスに裁かれる運命の、
ただの負け犬にすぎぬ。

臨界突破において、吐き気を覚える人間に信仰され、あまつさえ正当化の材料とされ、
神も預言者も救世主も実在したならば、腸が煮えくりかえって、もうカンカンの状態である。

もし、箱の外の存在や、全てを司る者が実存するならば、
はたまた地獄があるならば、ならず者は奈落へと追いやられる。

この世で、ナチュラルプロセスに裁かれる。

あの世で、信じる存在に裁かれる。

退廃的な人間には、お誂え向きかもしれぬが、それは万人に回避して頂きたい。

デモとテロは、クルクルパーとパッパラパーのバーバリズムである。

デモが発生するのは、テロが発生するのは、略奪が発生するのは、殺戮が発生するのは、
その中枢に無知・無智・無恥である、碌でもない人材しかいないからだ。

無知・無智・無恥に関しては、以下に記載している。

☆ 私の演説

連中が、無数の同胞からさげすんだ目で見られ、己が信じる存在から、落伍者の烙印を押され、
暴力と略奪を繰り返し、自爆で吹っ飛び続ける限り、人類の尊厳は何処までも暴落する。

残念な事に、連中も我々なのだ。

ただ、育めぬ環境だったか、育める環境だったかの違いである。

劣悪な環境で、先入観と固定観念に取り憑かれ、己と第三者の建前・自己都合・利己主義に振り回される、
滑稽な御人形さんとなる事は、虚飾に満ちた人生を送る事は、なるたけ諸賢には遠ざけて頂きたい。

何より、それを諸賢から追い払うのが、当方の切実な願望である。

権力者や徘徊者が、究極極大に注意すべきは、己達の目論見通りに、事が運ばなくなる仕組である事だ。

まあ、何をやっても批判されるのが、当たり前の状況であるからして、百も承知の事であろう。

勝手な、主義や主張を並べれば反発が生まれ、方向性を定めようとすれば、さらに分岐して格差が広がる。

もう、民主主義だの多数決だの並べても、何もかも手遅れとした以上、それは何の意味を持ちはしない。

そのため、政治家や是正を目指す者が、これから何をすべきかは、自動で定まっている。

それなのに政治家は、チンケでチンプな事ばかり並べ、実行力が伴わずに消えていく。

それなのに是正者は、タイソウでチンプな事ばかり並べ、実行力が伴わずに消えていく。

しかし、そうなるのは至当である。

もとより、そうなるように、形成されている。

この、魔の連環たる大迷路の寄せ集めからは、そう易々と脱出する事は叶わない。

その迷路は、巨大化と複雑化と増加を続けている。

そこから抜け出したい想いを込め、多くの創造屋が脱却に必要となる概念や定義を、様々な媒体で流布して来た。

現況では、それすら泥沼を形成する、災厄の呼び水となっている。

我々は、仕事と娯楽の双方から、精神を劈かれている。

このままでは、まとまりがつかない状態で、螺旋となって下降するのみだ。

その打開こそが、人の歩むべき道である。