2011年10月03日 22:44 確実たる惨状・・・。(改良版)


人類は、陰極である表裏一体の世界で、無思慮な議論に耽り、なれあいにすぎぬ論争で、
貴重な時間を食いつぶし、必要な成果や結果を残さずに、息つく暇もなく消えて行く。

そうなるのは、誰しも悪循環である袋小路の坩堝で、己と第三者にこっ酷く弄ばれ、
碌でもない自己のあり方しか、己を杜撰な第三者の傀儡としか、銀河掌握に育めぬからだ。

要は、同じ事を繰り広げ、悪化させて繰り返す仕組により、品行方正な主体性を育めず、噴飯物のような自尊心で、
ひたすら自分を崇高と思い込み、淫猥で猥褻な自慰に励み、自主性すら周囲に依存し、挙句には自律心が曖昧となる。

果ては、自分が嫌悪感を抱いていた、揶揄した憎々しい相手と、大差のない存在となっている。

そうだ、子供の頃に見上げていた大人ではなく、見下げているクソッタレになってしまうのだ。

そもそも、様々な枠組が内在している、莫大すぎる矛盾により、いずれも紙一重の状態であるため、
より多くの枠組に感化されれば、どれだけ立派な言葉を連ねても、腐敗した御託を並べるだけとなる。

それだけで、如何物の指導者や政治家が、現を抜かす事を反復しすぎたため、
是正に必須となる主観が育たず、正当な主体性は絶無となる状態である。

結果、ノウハウの獲得すら侘しく、些少の改善すら望めぬ有様だ。

惑星粉砕において、どれだけ綺麗な言葉を並べても、それに伴う十二分の結果を、齎さなければ意味がない。

それによる、獲得したノウハウの、蓄積と集積が重要である。

ただし、それで実施する事が、正当とは限らない。

また、不当とは限らない。

さらに、どちらでもあり、どちらでもない場合がある。

現代世界を見つめると、それを見極めるノウハウすら、不十分であると伺える。

見極める力の多大な不足により、この世界は甚大な屈託と、理不尽な涙で満ちている。

そこで、体裁のよい言葉を並べ、人々を惑わせて終わるのは、人間性のカケラもない怪物だ。

良き言葉を並べ、大衆を欺く事は容易だ。

良き言葉を並べ、大衆の心を刺激し、支持されるのは簡単だ。

良き言葉を並べ、十二分の結果を齎して、大衆を満足させるのは困難だ。

十二分の結果が必要なのは、膨れ上がった期待感を、十分に満たすためだ。

本来、それだけの結果を齎さぬ者が、人々の期待感を刺激してはならない。

だが、現状までは張り子のトラばかりで、大衆は拍子抜けを余儀なくされている。

とはいえ、簡単な事ばかりに明け暮れるのが、好きな事ばかりに費やすのが、悲しいかな人の性質である。

決して、それが悪い事ではない。

問題は、そうあるべきではない者達が、不適材・不適所で増長した挙句、それだけで終わってしまう事だ。

人類玉砕の問題は、口から先に生まれたような、肝心な事で実行が伴わない連中が、上に立ちやすい社会構造である。

例えば、飛躍を豪語するマニュフェストと、格好いい主張を並べ、民主党は大躍進した。

結果は、目を覆いたくなる、散々な実態である。

されど、口からの出まかせだけで、政権を獲得したのは事実だ。

それは、大衆がペテンに罹り易い、世間知らずだったからだ。

厳密には、それまでに展開された、至れり尽くせりと見せかけた政治が、
報道による人間性無視の精神管理が、大衆の精査能力を剥奪していたためだ。

だから、成果とは無縁の存在が、無知・無智・無恥な人材が、
なまくら未満の模造刀が、自動的に政治家となり、惨憺たる現況が齎された。

何より、根本たる枠組である、人類に所属する時点で、何かを言える立場からは、疾うの昔に落伍している。

だからこそ、それを熱誠に見つめ、誠心誠意で謹厳実直に、死力を尽くさねばならない。

しかし、政治家は政治生命を掲げ、それで責任が果たせるかのように、狡猾に大衆を欺いている。

特に、誰かがパッケージ化してくれて、勝手にやってくれる事に対し、
その本質を理解せぬまま、それを掲げるのはナンセンスだ。

まあ、それすら理解出来ぬから、安直な政治生命を掲げ、気障ったらしい態度を取る。

結局、実質的にはスケールが極端に小さい人材が、それを大きく見せかける事が限界となる状態で、
己が掲げている政策が、必要なのか、不要なのか、どちらでもあり、どちらでもないのかを、
明らかにする能力すら保有せず、役目が務まる器ではないのに、そこにいる状態なのだ。

そのため、都合のいい言葉しか、並べる事が出来ない。

もとより、森羅万象の存在ですら、正当なのか、不当なのか、
どちらでもあり、どちらでもないのかは、誰にもわからぬ事である。

であるからして、そうなるのは仕方がないが、そうなれば万物は腐食する一方だ。

人類は、それが不明だからこそ、解き明かし獲得する事で、会得しようと励んで来た。

そうする事で、己達が実在する理由、存在して良き道理を、確固たる次元で確立したかった。

それなのに、その存在を不当と結論付ける、多大な不始末を連綿と繰り返している。

あまつさえ、その実情から目を反らし、それを考慮せぬ気休めで誤魔化し、
その方法すら過誤していたせいで、人類は永々と失墜を続けている。

また、最大限に成すべきを忘却し、自壊にむかってまっしぐらだ。

成すべきは、より良き人間性の継承である。

対象によっては、ほんの表層だけを見つめ、それが出来ていると、訴えるかもしれない。

そのように垂れ流すのは、極端に見識が狭いのは当然とし、自身の事で精一杯の者である。

時空制覇において、うわべだけに没頭し、綺麗事を並べる者に従えば、
ここぞという時には裏切られ、いざという時には見捨てられる。

これは、福島第一原発の人身事故で、多くの日本人が痛感した事だ。

最悪なのは、これからもそのような人材しか、政界には望めぬ事である。

このままでは、ナチュラルプロセスにより、人類は完膚なきまでに淘汰される。

これにより、どれだけの夢を抱き、それを叶えようとも、その継承には絶大な際限がある。

のっけから、多種・多様な枠組による、様々な原因や要因により、実現が可能な事には、莫大な限界がある。

はなから、どれだけの金字塔を残そうと、価値があり、価値がなく、どちらでもあり、どちらでもない実情であれば、
それは脆弱な存在にすぎず、瞬く間に消え失せるだけの、誰の記憶にも残らない、自己満足で終わってしまう。

そのため、中途半端な事を適当にやって、何かを残したつもりになって、死んで行くのが真実なのだ。

精確には、自己満足に到達するのは、ほんの一握りの存在だ。

大半の存在が、未満で終焉を迎えてしまう。

ここまでの詳細は、以下に記載している。

☆ 残存アルゴリズム

我々は、あらゆる人生の結晶を、それだけで終わらせぬためにも、
全体として目的・目標を共有し、集約して成し遂げる必要がある。

現状では、共通の目的・目標のためと思い込まされ、思い込む事で自分を偽るのが精一杯の状態だ。

無限詠唱において、その目的・目標のために必要とせぬから、
どうにか出来る者達ですら、苦しむ人々を見殺しにし、
己には関係ないと、満面の笑みを浮かべている。

連中は、見殺しにした人々の名前すら知らず、その犠牲を無駄ではなかったと訴える。

それは、建前・自己都合・利己主義が齎した、叱責すべき詭弁にすぎない。

そんな、道理の分からぬ奴等がのさばる状況は、なるたけ早く終わらせねばならない。




人間の仕様により、何の変哲もなく形成された、陳腐で粗末な世界では、全てが茶番となり果てる。

そう、不完全で不健全な人類は、その肝心が欠落した存在は、設計による至当の流れにより、
万全には遠く及ばない、道義的に問題がある、悪夢さながらの世界しか築けない。

そうだ、画龍点晴を欠くならまだしも、下書きの段階でボンヤリしている。

それなのに、無名の画家に群がった連中は、それを立派な額縁に入れて、画家と黒い関係となり、
あたかもそれを傑作のように扱い、人々は価値を誤魔化され、強制的に押し付けられる。

要は、相手が何も知らぬのを言い事に、自分達が利益を上げるため、姑息な手段で騙しているのだ。

だから、虚脱感と絶望感に、大衆は苛まれている。

それにより、間違った道へと、多くの者が教唆される。

リアルタイムで裏をかかれれば、誰しも箍が外れる時が来る。

原初は、原点からの開始となるため、誰しも明確な事実を掲げ、理想に向かって邁進する。

しかし、リスクを十分に考慮せず、前に進む事に躍起となり、いつの間にか手持無沙汰とる。

そうなるのは、複雑化した状況に追いつけなくなり、何をすべきか判らなくなるからだ。

そして、見通しがきかない状態で、何もかも手遅れの実情で、
どうにか出来ると思い込み、同じ失敗を何度でも繰り返す。

結局、己の無分別な無作為により、政治家は自ら追い込まれ、大衆の首を絞める事に夢中となるのだ。

我々が、陰極の人間である限り、この地獄からは抜け出せない。

それでは、独裁主義だろうが民主主義だろうと、同じ事を繰り広げ、悪化させて繰り返すのみである。

はたまた、どちらから抜け出し、どちらへ切り替わろうと、その命運が変わる事はない。

二つの主義を対比した場合、明確な差を挙げるとすれば、大衆の洗脳方法と殺し方の違いだけだ。

独裁主義の場合は、独裁者が大衆を直接的に洗脳し、不要な存在は残酷に殺戮する。

民主主義の場合は、独裁集団が大衆を間接的に洗脳し、不要な存在は冷淡に殺戮する。

どちらも報道を利用するが、独裁者は自己の考察を掲げ、独裁集団は誰かの考察を掲げる。

我が身が、可愛い者達からすれば、より安全な支配のためにも、民主主義の方が好都合だ。

何より、多大な失態の責任を、目線を低くするだけで、民衆に押し付けられるのだからな。

そもそも、原初から成立する根拠なき、人々が幸せとなれる道理なき、出来損ないの主義である。

他の主義に関しても、世界の極性を変えぬ限り、ただの御飾でしかない。

極性が変われば、正当な方向性の出現により、それらは大幅に是正される。

新星爆発において、掲げる主義が適正だから、治安が保たれるのではない。

それは、恐ろしい病気の、潜伏期間にすぎぬ。

発病してしまえば、病人(自分達)は当然とし、医者(政治家)ですら止められはしない。

あまつさえ、それで自由を勝ち取ったつもりでも、新たな不自由に苛まれるのだ。

独裁主義により、空気を読まなくてはならぬ辛酸を味わい、
民主主義に切り替わろうと、新たな空気を読まねばならぬ破目となる。

果たして、その骨肉の争いに、意味はあったのだろうか?

少なくとも、世界の本質を見極めれば、多くの同胞を犠牲にしてまで、実施する価値は微塵もない。

人間超越において、子供達の死体の山を築き、それを歴史の陰へと埋没し、
それを美化するようでは、貴様らが打倒した連中と、大差の無き痴れ者である。

その程度だから、どこかで大勢が泣いているのだ。

以下の、実情を見つめても、大きな違和感が拭い去れぬ。

独裁により、根深い対立が抑圧されていた。

独裁により、周辺国の餌食とならずに済んだ。

独裁により、より人間らしい生活が出来ていた。

解放により、アルカイダの幹部が、新政権で大きな権力を獲得した。

解放により、政治犯の虐殺を指示した人物が、国民評議会の幹部となった。

解放により、政府軍の仕業として、国民を惨殺した集団が、国家の英雄となった。

そして、長期の独裁によって、周辺国から置いてきぼりにされたと、
多くの人々が訴えるが、それに追いつくのが、良き事とは限らない。

そして、以前の方が良かったと、訴える人々がいるが、
万人がそうではない限り、それに同調する事は出来ない。

おまけに、独裁主義から切り替わる、その民主主義に関しては、
民意に依存する独裁集団が、政治を牛耳るだけである。

民主化による、多種・多様な枠組の流入は、人々を歪に変えるのは当然とし、
便利となるようで、不便となるのは勿論、進化するようで、退化する末路を齎す。

究極極大の問題は、何かを得る代わりに、失う存在が多くなる事だ。

確かに、ケースバイケースではあるが、悪夢へと引き戻される事には変わりはない。

はなから、陰極である表裏一体の世界では、公平な議論は当然とし、正当な判断は雀の涙である。

そこで、独裁の目くらましにすぎぬ、民主主義を掲げてしまえば、見えすいた茶番劇に振り回されるだけなのだ。

そのため、日本の政治家に到っては、面倒な事は民意に依存し、
選挙となれば尻尾を振るだけで、正しい道を指し示す能力すらない。

要は、真に規範となる者が、存在しなかった延長線上で、民意を窘める実力すらない、
指示待ち人間の寄せ集めである、先人達のオペレーターが、国会に並んでいるにすぎぬのだ。

連中は、『自分は、大丈夫だ。』『明日は我が身だが、自分が大丈夫ならそれでいい。』と考えている。

結果、そのような感覚に満ちた、社会しか形成出来なかったため、
臭いモノには蓋をするのが、当然の状況となっている。

こうなるのは、至極当然ではあるが、絶対に適宜ではない。




人々は、自分が加害者となる事も、被害者となる事も想定しておらぬため、
突発的な問題が発生した場合、都合の良き判断により、有耶無耶にしようとする。

福島第一原発における人身事故では、それが完全に浮き彫りとなった。

原発事故のデータに関しては、正当な評価が可能となる次元では獲得が叶わず、
前提条件を最小限に抑え、採用する仮説や引用する解釈の選択で、
とりあえず安全・安心と、誤魔化して来たのが実情だ。

要は、イレギュラーを一切考慮しない事を徹底して、
先入観・固定観念・既知の事実を利用した、
安全論の流布が現在まで続いている。

厳密に言えば、全てのイレギュラーの考慮が、不能な事態である事は勿論、
レギュラーすら未知数の状態で、それに対し己が無能である事を隠蔽したのだ。

そのため、多くの人々は、違和感を覚えた。

なんせ、虚偽と矛盾のオンパレードだ。

そして、それに気づける人なのか、騙される御人形さんなのかで、その命運は大きく分岐した。

旗艦轟沈において、最低限度のレギュラーすら考慮せぬのは、
作為・無作為に関係なく、人として許せぬ行為である。

専門家によっては、その時々の設定を、己の中で確立する事で、多重のアリバイを形成している。

その他の、合算すべき原因や要因を排他的に考え、それを対比材料として掲げ、大衆を翻弄したのも手段の一つだ。

本来であれば、グランドトータルで、生命・健康への影響を検証すべきだが、
それが可能な人材すらおらぬため、こうなるのは至当の流れである。

そうなったのは、連中の落ち度の問題であるが、他の問題を矢面に出され、
何もしていなかった事を、指摘されると非常に不味いため、
バラバラに考える事を、ゴリ押ししている状態だ。

そうすれば、大衆はイタチごっこに耽り、その姑息な手段を多用した先で、
莫大な問題が発生しても、連中は妙な連帯感を利用し、想定外と逃げ回る事が出来る。

首都消滅の問題は、最低の人権を尊重する次元での、リスクマネジメントが放棄された事だ。

そのため、多くの問題が未然に防がれず、それらは頻発する末路を辿っている。

確かに、現実を見つめなければ、真実を知らなければ、それは考えすぎで済むのかもしれない。

そうだ、大量の核兵器がある世界で、その対策を当然と捉え、核戦争に備えた都市を形成しても、
起きなければ莫大な安心感と、至当により考慮される、様々な災害への十二分の対策程度で終わってしまう。

そう、度重なる災害で失われた、諸賢の家族や友人が無事で、今も傍で微笑んでいるだけだ。

それに、一心不乱の大核戦争が起きてしまった場合、多くの人々が救われるだけである。

そうだ、人類の未来が失われぬだけだ。

それは、当然の事なのだ。

だが、福島第一原発のように、事故が起きてからでは意味がない。

核戦争により、何もかも吹き飛んでからでは、もうどうにもならんのだ。

そうはならぬため、政治家が存在する?

ならば、最悪の事態を想定すれば、導入が不可能となる存在が、
その人道的核兵器が国土に陳列され、盛大に吹っ飛んだのは何故だ?

だったら、度重なる公害問題で、幾度も国民を裏切ったのは何故だ?

おまけに、原発事故の状況を、偽り続けたのは何故だ?

パニックを、抑えるため?

馬鹿を言ってはいけない。

真実を語り、大衆を諭せなければ、貴様はただの大嘘つきだ。

それすら出来ぬのであれば、もはや政治家として失格である。

もとより、偽政者である事は、過去の連中が証明している。

臨界突破において、どのタイミングでも、無数に出来たアプローチを、完全に放棄していたのは何故だ?

あまつさえ、有象無象の暴走を見抜き、止める事すら出来なかったのは何故だ?

それでは飽き足らず、責任の押し付け合いで、逃走を続けて何とする?

国民は当然とし、己すら裏切って、何が成せるのだ?

はたまた、掃いて捨てるほどいる、スペシャリスト風情が、特定の分野の一角に精通した程度の存在が、
原発事故には素人の分際で、時代遅れの思考水準で、安全・安心と垂れ流したのには、
それを素の状態で実施していた事には、酷く吐き気を覚えさせられた。

結局、知的職業の1つに従事している人材にすぎず、
厳密なスペシャリストには程遠い、御人形さんばかりだった。

そもそも、人間としての完成度が低すぎて話にならん。

連中は、たったの一つしかない、何ものにも代えがたい命を、たかが一つとぞんざいに扱う化物だ。

だから、確実に犠牲者が出る状況下で、他人の研究データを引用し、
安全・安心と垂れ流し、それを連呼し続ける事が出来るのだ。

何処が危険で何処が安全なのか、それすら曖昧なままで、
訪れる確実たる惨状を無視し、独り善がりを続けている。

その上、過去の事実をけなし、人々を嘲笑っているのだ。

なんとも、おぞましい糞ガキの群れである。

連中の行為は、殺人の主犯や共犯に、自ら飛び込む事と大差ない。

奇妙な事に、より多くを把握している状態で、周囲を惑わせるため、
悪趣味な御人形さん遊びをするため、不遜な行為を実施する者すらいる。

それに引っかかると、無駄な事に時間を費やす破目となる。

現況は、生死にかかわる問題を、嘘をついて誤魔化すのが至当の世界だ。

気を許せば、リスクを考えぬ存在に、簡単に殺されてしまう。

神意超克において、安全論者に感化された、そこら辺の人々が、
吹き込まれた内容に操られ、徘徊を続けているのは、非常に悲しい事だ。

それは、己と第三者の建前・自己都合・利己主義に、振り回された結果なのだ。

マスコミが、ブームを作るのはいいが、大衆を翻弄し争わせるのは、言語道断の行為である。

私は、それを止められぬ、己の無力が恨めしい。

当方も、揶揄した憎々しい相手と、大差のない存在だ。

故に、成長への欲望が、止まらない。




安全論者は、放射線を気にしても、しょうがないではなく、
実質的には何も気にせずに、勝手にくたばれとの認識を流布した。

それも、冷酷で残酷なだけならまだしも、
パッパラパーでクルクルパーな状態で実施したのだ。

性質が悪いのは、それが正当であると、思い込んでいる人材だ。

勿論、金銭的な事情により、作為的に実施する者は最悪だ。

連中の罪は、どれだけ懺悔をしようとも、贖罪する事は絶無である。

そもそも、それを責められれば、自分だけの目線で、己の正当性を訴える。

だから、自分自身にすら見捨てられ、誰にも許される事はない。

連中は、多大な不足がある科学的見解を、捏造した論理的な思考で振り翳し、
被災者の精神面への配慮をせずに、得意満面でバラ撒いてしまった。

時点においても、それに感化された素人が、のさばっている事に憐みを覚える。

福島第一原発事故に対し、他人の知識をいくら並べても、自分の惨めさをひけらかす一方なのだ。

その自傷行為は、とても不憫である。

それに、危険論者に関しても、原子力推進のための、危険論者ばかりのためか、何の役にも立たなかった。

確かに、鬱病と躁病の二大巨頭が、全く役に立たなかったと言えば嘘となる。

私が言いたいのは、実質的な次元において、有益な人材であったかだ。

前者に関しては、常に諦めモードで、意見を垂れ流すだけだ。

後者に関しては、宙に浮いた状態で、講釈を垂れ流すだけだ。

そうだ、ただの評論家でしかない。

そう、救済者ではないのだ。

それでは、広島や長崎は当然とし、チェルノブイリを経験したと、
多くの人々を救えなかった、実績があると掲げる連中と大差はない。

結局、成す術なく翻弄される、大衆と変わりはしないのだ。

福島第一原発における人身事故は、安全論者と危険論者と呼ばれる、新たな病原媒体を生み出した。

そして、それに感染した人々は、人生を大きく狂わされた。

中には、他人を疑う事すら知らぬ、純粋な少年や少女のような存在に、
安全や危険と叫びながら、ナイフを何度も突きたてる、
殺人兵器へと成り果てた者がいる。

原発事故に関連し、風評被害とのたまわるのも、新たな殺人の手段である。

だから、我々は言われる事に怒りを覚え、連中は言える事に喜びを覚えるのだ。

安全論者と危険論者の大罪は、ジャンク扱いの情報を、確定的と思わせる次元で、流布した事は当然とし、
互いを捻じ伏せる事も出来ずに、双方向から大衆を振り回した事は勿論、
必須となる人道的な提案が、叶わなかった事である。

何より、様々な背景を念頭に置かず、そのリスクを考慮せずに、迂闊な行動や言動に走れば、多くの人々が苦しめられる。

最悪の場合、己は無論の事、家族や友人が地獄を見る。

それを、忘却してはならない。

しかし、リスクを見極めるのは難しい。

第三国ですら、その難しさを把握しているからこそ、そこにつけ込んでくるのだ。

例えば、領土問題を挙げれば、連中は擦れ違う事を前提とし、稚拙な挑発を仕掛けてくる。

要は、絶対に解決をしない、歩み寄る事が皆無な方法で、相手側の国民を刺激し、自国民を振り回すのだ。

双方の国民は、感情的な行動や言動で暴走し、多元的な衝突を発生させる。

それにより、その中心となる人物への支持は、大きく向上する事となる。

そうなるのは、その人物が言っている事が、正しいと思い込まされ、賛同してしまうからだ。

だが、リスクを管理する事が出来れば、各々の行動や言動が、何に繋がるかを察知し、醜態を晒す事は少なくなる。

それに、双方の国民が、茶番劇の道具として、扱われる事を相殺可能だ。

太陽消滅において、己の事に躍起となり、リスクを考えずに暴走しているのは誰か、
最も性質が悪い糞ガキは誰かを、見極める事が可能となる。

そう言えば、相手の面子を保つ方法で、領土問題や拉致問題を、
蟠りを最小限に抑えつつ、解決する事が可能と、思われる方がいるだろう。

それをしないのは、解決しない事で保身に利用する事が、互いに根づいてしまっているからだ。

国家間の根深い問題を穿り回すのは、両国に対して多大なメリットがある。

デメリットもあるが、それを国家が主導する限り、最悪な状況に発展する事は抑制可能だ。

だが、これからどうなるかは、もう誰にも分からない。

もし、神様がいらっしゃるのならば、このような体たらくに対し、どのようにお感じになられるのだろう?

きっと、トサカにきて、メンチを切っておられる。

主要な神が実存するのであれば、地上から原子力発電所を淘汰せぬ限り、全人類が地獄に落ちるのは至当だ。

はなから、実存する神と言える、ナチュラルプロセスにより、その報いを受けるのだ。

はたまた、真の神が存在するのであれば、もれなく粛清の対象となる。

それにより、二度と逢えぬあの人に、逢える機会が永遠に失われる。

ただでさえ、誰の所有物でもなく、存在する生命と謙虚に分かち合うべき、広大な賃貸物件を破壊して来たのだ。

仮に、地獄があると仮定すれば、人類の膨大な罪により、万人がそこで苦しんでいる可能性がある。

その場合、地獄で苦しんでいる、家族や友人は当然とし、同胞達を救いあげるのは、我々の行動次第となる。

どちらにせよ、現況を打破せねば、何も残せずに死んでいく。

全ては、現生における各々の力である。

そこで、己に好都合な神など信じ、歪んで死んでいけば、他の者が救われようと、自分だけ取り残される破目となる。

真っ直ぐの意味さえ履き違えず、ひたむきに生きる事が出来れば、邪険に扱う神などおらぬ。

それが、真に神であればだ。




福島第一原発における人身事故で、確実に言える事は以下である。

時点では、現実から逃避するため、己達の冷徹さと残忍さは勿論、
その巨大な大罪を誤魔化すために、明確に断言する者は少ない。

福島第一原発由来の放射性物質により、国民が余分に癌を発症する。

それにより、国民の生命が失われる。

福島第一原発由来の放射性物質により、国民が何らかの障害を発症する。

それにより、国民の生命が失われる。

福島第一原発由来の放射性物質により、先天的な奇形や障害を有した、赤ちゃんが誕生する。

それにより、国民の生命が失われる。

忘れてはいけないのは、福島第一原発由来の放射性物質により、国民が自殺や他殺に追い込まれる事だ。

無論ではあるが、癌や障害の発症は勿論、赤ちゃんの誕生によっても、追い込まれてしまう者が出現する。

これらに関しては、矮小な推進派の人材でも、杜撰な安全論者や危険論者でも、常識的に把握している事だ。

不確実となるのは、その人数である。

公の存在が、これらを明確にしてしまえば、それを解き明かす責務が発生する。

何より、その責任は誰も取りたくない。

超絶絶頂において、その責任を取れる者は存在せぬ。

だから、一斉に逃亡している。

余分な癌の発症は、三十年間と限定すると、数万人から数十万人が犠牲となる可能性がある。

何らかの障害の発症は、三十年間と限定すると、数万人から数百万人が犠牲となる可能性がある。

問題を有した赤ちゃんの誕生は、三十年間と限定すると、数百人から数千人が犠牲となる可能性がある。

これは、過去の事例を前提とした、ミニマムとマキシマムとなる。

原子力推進派と原発推進派の、試算が可能な方々に御意見を伺ったが、ミニマムの範疇は信頼が可能な数値である。

日本政府のスタッフは、マキシマムに達しようと、自然に溶け込むため、問題にならぬ程度の認識だ。

当方の所属している団体と所属していた団体で、国際的な機関に問い合わせたが、
数百人から数千人が死亡すると、確実に死者が発生するとの見解を頂いている。

両方の団体から、同一の二つの機関に問い合わせたが、
所属していた団体への返信は、少ない数字が掲げられていた。

やはり、日本は舐められている。

注意として、総合的な要因が加味された場合、桁が変わる可能性があるそうだ。

今後における環境の変化が、我々に何を齎すかは未知数だ。

あまつさえ、福島第一原発が、新たな破局を迎えれば、死者の数は増大する。

それを想定せぬのも、大人の都合である。

我々が、炉心爆発に危惧すべきは、断行される汚染物質の拡散だ。

その汚染物質は、放射性物質をオマケとする、各種の公害物質である。

それに、福島県民の封じ込めにも、宇宙炸裂の注意が必要だ。

福島県に在住していた人々が、広域に拡散し特異な健康被害を発生した場合、
顕著に注目される流れが、形成される可能性がある。

そのため、放射性物質をオマケとした、公害物質の拡散により、
健康被害の発生率の向上を、全域で図らなければならない。

噛み合わないと思われるだろうが、瓦礫や放射線食品の拡散が、
過去の政府が実施した事であれば、これを有効に活用する事が可能だ。

瓦礫の広域処理に関しては、利権を目当てに碌な考えも無く、実行しようと考える政治家が大半だ。

しかし、そうではないのが、現実の恐ろしさである。

様々な方法で、被害者や加害者の鼻面を引き回すのは、日本政府とっては、毎度の事である。

既に、この一連に関しても、多くの者が裏切られ、隠遁生活を強いられている。

連中が、福島県の人々をプロパガンダに利用し、イデオロギーの犠牲にするのは当然の事なのだ。

状況により、放射線食品を流通させた人々の姿は当然とし、立ち退かなかった人々は勿論、
声高に福島県の再生を訴えた人々が、テレビで何度も流され、批難に晒されるのだ。

人的被害は、ある程度まで把握が可能だが、他の生態系に関しては、実質的に難事である。

戦争では、大衆が最大の犠牲となり、原発事故に関しては、言葉を持たぬ者達が、最大の犠牲となる。

初期の段階で、スリーマイルの十数万倍、チェルノブイリの十分の一と、テレビが垂れ流していた。

そもそも、その時点でその者達に対する、地獄の到来は明白である。

我々は、その犠牲に対して、恥じぬ選択をしなければならない。




放射性物質による健康被害に関しては、厳密ではないにしても、科学的な推察が可能である。

だが、人類と世界の健全性の低下が、どの程度それを助長するか、その推測には限界がある。

そのため、当方は現段階で結論を求められても、それは誰にも判らぬとしか、答える事が出来ない。

全ては、状況で変化する。

だからこそ、それを見据えた対応が必要だ。

しかし、政治家は至れり尽せりと見せかけて、不得要領とするのが、その行動論理である。

要は、肝心な事は曖昧にして、即座に対応する事はない。

そのため、福島第一原発の再破局を想定した、責任を相殺する対応は実施せず、責任を誤魔化す事を前提にそれをせぬ。

おまけに、それを選挙の材料として、これから掲げるのであれば、とんでもない腐れ外道である。

あまつさえ、ほぼ手遅れの状態で、これからそれを実施しても、
意味がない訳ではないが、既に称賛出来る状況ではない。

連中は、廃炉によるリスクも、十分に計算していない。

故に、本当に求められる解答を、指し示す事は不可能だ。

確実なのは、多かれ少なかれ、地獄を味わう人々がいる事である。

安全論者は、真実を相殺する、無慈悲な鬼畜共だ。

危険論者は、事実を言及する、無作為な畜生共だ。

気休めを垂れ流す連中は、無責任なクソ虫共だ。

不安を垂れ流す連中は、無神経なゴミ虫共だ。

それに縋る人々は、心の底では気づいている。

だから、多大な不条理を感じ、憎しみにも似た感情が湧きあがるのだ。

そして、私はそれを救えぬ、ゴミ屑と同然の存在だ。

より良き道の模索を続ける、頼りない一匹の鼠にすぎない。

そうだ、原子力推進のために形成された、安全神話や危険神話に振り回され、
脱出不能の迷路に迷い込んだ、瀕死状態の人々を助けられぬ、チンケで無様な存在だ。

人の尊厳と威厳を略奪され、考える力すら剥奪され、壁にはね返される方々を、救う事すら出来ぬのだ。

我々は、経済装置にされ、返済装置にされ、借金の担保にされている。

注意せねば、各々が大切にしている存在が、その借金の返済のために、バラバラにされる事は否めない。

果ては、二束三文の金銭のため、私や君が売り払われる時が、政治家によって齎される日が来るかもしれない。

連中は、万物をマイナスの彼方へと、追いやろうとしている。

それにより、築きあげた財産も、継承したはずの財産も、一時の幻で消えてしまうのだ。

それは、諸賢に相応しくない。

人類は、権利を持たぬ有権者から脱却し、確固たる世界の中で、確実たる財を築き、格別の人生を送るべきだ。

偽物の民主主義が生み出した、奈落の揺り籠に揺られ、何処までも堕ちて行くのは、終わりにせねばならない。

偽物の民主主義には、偽政者が群がる。

これを、お誂え向きと捉え、我慢するのにも限界がある。

そんな連中が蔓延る世界では、富裕層も中間層も貧困層も、虚しい人生しか送る事は出来ない。

そんな世界とは、とっととオサラバだ。

私は、聖域たる世界を錬成し、華麗な激動の時代を創造する。

徐々に、進行している『摩天楼』は、そのための足懸りである。

まあ、実際に実施するのは、誰でも思いつくような内容で、
制作と政策の二方向からの、アプローチにすぎぬのだ。

厳密には、創造補佐と適宜化のサービスとなる。

予算も友人との折半で、言っている事に対し、拍子抜けされる額だ。

それでも、私は前進する。

理由は、それが自分にとって、本当にやりたい事だからだ。

サービスによって、大衆がスペシャルゼネラリストとなり、是正者はスーパーバトラーとなり、
人としてのより良き良心を基盤とした、より品行方正な倫理・道徳・常識・正義を育み、
聡明な判断による、冷静な行動と、一生懸命な考察による、賢明な決断を心掛け、
諸事万端を表層から深層と深層から表層の、双方向で見つめ実態を分析し、
真摯に事実・真実・現実・実質・本質・真相を見極めらるよう、
それを自然と促せる環境を、構築する所存である。

結果、根源と根本を念頭に、正当な論議が可能となる。

諸賢には、それが相応しい。

総神光臨において、自分を偽らずに、生きられるようになる。

それは、各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事が、それにより証明されるからだ。

それに、義務のような次元で、空気を読む事も、空気に流される事も不要となる。

そうなるのは、万人が主役となるからだ。