2014年08月01日 00:51 三段(十) C-ベビーシッター事件の概要と考察


保育とは、乳幼児を適切な環境で養護しながら、健全な発達を促す教育の実施である。

保育士(国家資格)は、専用の施設(保育園)で集団保育を実施する。

保育園は、0歳~小学校就学前が入所対象だ。

子供を預けられる時間は、基本的には1日8時間である。

幼稚園教諭(国家資格)は、専用の施設(幼稚園)で集団保育を実施する。

幼稚園は、3歳~小学校就学前が入所対象だ。

子供を預けられる時間は、基本的には1日4時間である。

ちなみに、保育園は厚生労働省の管轄であり、幼稚園は文部科学省の管轄となる。

ベビーシッター(民間資格)は、訪問先(指定された場所)で保育を実施する。

チャイルドマインダー(民間資格)は、自宅や訪問先で保育を実施する。

ベビーシッターとチャイルドマインダーは、子供を預けられる時間の自由度が高く、許容される年齢の幅が広い傾向にある。




では、事件を省察しよう。

女性(シングルマザー)が、手配されたベビーシッター(男性)に、長男・次男(二歳・八ヶ月)を預けた。

手配としたが、マッチングサイトによる紹介となる。

預けたとしたが、ベビーシッターの自宅に、子供達を宿泊させる形だ。

そのベビーシッターと、連絡が取れぬようになり、彼女は警察へと通報した。

ベビーシッターの自宅で、長男は遺体で発見され、次男は保護されている。

長男は窒息による死亡と確認され、次男は低体温症と診断された。

長男は、体に複数の痣があった(預けた後に出来たとされる)。

発見時の二人は、ほぼ裸の状態だったそうだ。

警察の捜索により、ベビーシッターが所有する端末から、大量の裸の子供の画像が発見された。

その一部は、それまでに預けられた子供を撮影したモノだった。

そのため、児童ポルノの撮影(収集)を目的とし、業務をしていた可能性が浮上している。

彼は、安さをウリにベビーシッターをしていた。

ベビーシッターとしたが、実態はチャイルドマインダーの真似事である。




物袋勇治容疑者(ベビーシッター)であるが、昨年の三月頃より保育所で保育補助員(月に3・4回の勤務)をしていた。

昨年11月より、インターネットを通じる形での、ベビーシッターの仕事を始めた。

それまでだが、中学校卒業後は料理の専門学校へと通い、卒業後は派遣や配送等の職を転々とした。

5・6年前より、保育関連の手伝いをしていたが、先の保育補助員に携わるまでは、保育所での勤務経験はなかった。

彼は、保育士の資格を有していない。

チャイルドマインダー(民間資格)を取るため、通信教育を受けていたが、取得出来ていない状態だ。

鑑みると、信用・信頼・安全・安心するに、必要な担保が乏しい状態である。




女性は昨年に、物袋容疑者と契約を結んでいた。

契約内容は、『1日8,000円で、週に2回』と『週2回で、月8,000円』とも報じられている。

五ヶ月前後の期間としていたが、長男の頬が腫れていたり、
背中に痣が出来ていたり、料金でのトラブルもあり、途中でやめていたそうだ。

今回の事件は、その男に再び子供を預けた末路である。

ただし、容疑者は偽名で仕事を受け、代理人が子供を迎えに来た。

そのため、再び容疑者に子供が預けられるとは、彼女は思いもしなかったようである。

彼女は、二十二歳(当時)で五年程度の水商売の経験があると開示している。

生活が苦しいようで、かなりの低額でベビーシッターを募集していた。




我々には、何もなかった。

だから、枠組・仕組・存在の形成によって、義務・責任を果たせるようにした。

それにより、信用・信頼・安全・安心が成立し、権利の主張さえも可能としている。

されども、それらはハリボテでしかない。

であるからして、価値・意味は曖昧であり、真価・意義に程遠いのだ。

その実を見抜けぬ限り、簡単に騙されてしまう。

見抜けたとて、どうすべきかが伴わなければ、どうにもならなくなる一方だ。

容疑者のサイト(内容とソース)を拝見したが、必死に形成したハリボテと見受けられる。

目的・目標・理由の獲得が儘ならず、不適切・不適当に塗り固め、どうにかしようとしていた。

されど、特定の条件が伴わねば、その察知が叶わんのだ。

それに恵まれなかった、二人の幼子の母が不憫である。

何より、二人の幼子が気の毒だ。

条件に恵まれていたなら、大きく異なる人生すら歩んでいた。

それは、容疑者に対しても言える事である。

従来、築いた枠組・仕組・存在により、ある程度の素養を育んだ者達が、様々なサービスに従事している。

ただ、それでさえも不十分であり、致命的な欠陥を抱えている。

しかしながら、それすらなければ碌に勤まらんのだ。

我々は、知るための経過を辿らなければ、簡単と感じる事さえ儘ならない。

昨今は、それが大幅に不足する者が、インターネットを媒介とし、
軽い気持ちで商売を始めて、大きな間違いを重ねている。

はたまた、不良なサービスを見抜けずに、絶望と後悔を味わう消費者が、増加していく傾向にあるのだ。

そうだ、最低限度の前提すら整えられず、自分自身の事も儘ならぬ存在が、不釣り合いのサービスを提供し、
死者を出してしまう事があれば、悪意あるサービスに引っ掛かり、負債を背負わされる場合もある。

これから、より面倒な状況へと推移する。

そうなるは、どのような対策を実施しようと、どんなサービスを提供しようと、逆手に取られ裏目に出るからだ。

それにより、思惑は悉く頓挫し墓穴を掘る。

だけでなく、ソレッポイだけの存在に、振り回され易い自我しか、育めなくなるのと同時に、節操が失われていくのだ。

正真の目的・目標・理由から隔絶され、個人・集団・国家・国家集塊は、愍然たる末路を辿る仕様である。

実相から打開をせねば、改善・是正・打開が叶う道理はない。




この事件に対し、鈴木宗男氏と乙武洋匡氏が衝突した。

鈴木宗男氏は、元衆議院議員(収賄罪等の4つの罪により、懲役刑が確定し2010年9月15日に失職)である。

現在は、新党大地の代表を務めている。

乙武洋匡氏は、作家・タレントである。




以下が、両者による衝突の流れだ。

□ 鈴木氏(3月18日 ムネオ日記より)

「2歳の子供を殺した男はとんでもなく論外だが、インターネットで見ず知らずの人に簡単に自分の子供、しかも2歳と8ヶ月という幼い子を預ける母親の神経も首を傾げざるを得ない。ベビーシッターは国家資格も届け出も必要なく、誰でも出来、しかもニーズは高いという。報道で知る限り母親とベビーシッターの男は面識もなく簡単にインターネットでのやり取りである。母親として見ず知らずの人に預けた場合、安全性とか誘拐とか頭になかったのだろうか。親として無責任な面があったのではと思うのは私だけだろうか。自由主義・民主主義は相手を信用する。性善説が基本になるが、自分の子供を簡単に知らない人に預ける、あまりにも安易なやり方に何とも無神経と言わざるを得ない。生活のため子供を預けて働く人は多いことだろう。ベビーシッターは現実として必要でこれからもその傾向は高くなるだろう。今回の事件を機に何よりも安全・安心について法整備等していかなくてはならない。可哀そうな出来事を活かさなければならないこの現実に何ともやりきれない思いで一杯である。一日東京事務所で仕事をしながら、簡単に人を殺す何の罪もない子供をと思う時、どうしてこんな日本になってしまったのかと自問自答しながら暗い一日を送った次第である。」




□ 乙武氏(3月18日 ツイッターより 駒崎弘樹氏が、乙武氏と同様のツイートをされている。)

「政治家がすべきは母親叩きではなく、母親がそうせざるを得ない社会状況を改善することでは。」




□ 鈴木氏(3月20日 ムネオ日記より)

「乙武氏と駒崎氏に言いたい。『あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか』と。子供は宝であり、かけがえのない存在である。にもかかわらず2歳としかももう一人8ヶ月の子供を3日間も預けるなら身元やベビーシッターとしての信用等、念には念を入れて預けるのが普通で、どの親でも考えるのが当たり前でないか。『政治家による母親叩き』と短絡的な表現で私の認識・受け止めを批判するのは迷惑千万である。乙武さんが『母親がそうせざるを得ない社会状況を改善することでは』と言っているが、今の時代ベビーシッターは必要不可欠ではないのか。真面目にやっている人がいるのである。それ以前の問題として親としての心構え、親としてのあり様、なによりも親として自分のお腹を痛めた子供に対する愛情を持つことである。その基本が大事ではないかと私は言っているのである。乙武氏と駒崎氏に言いたい。ツイッターとかではなく、顔を合わせて平場で話をしようではないか。無責任な評論家的な話は懲り懲りである。『親としての責任』『人の道』が問われる問題だ。いかなる理由にせよ2歳の子供を殺した男はとんでもない人間であり、そんな人間がいたのである。今になって母親が『前に預けた時もあざがあった』とか言っているが、それならば尚更ベビーシッターの信用度や身元を確認するのが第一ではなかったのかと思うことに何の間違いがあるだろうか。私のところには『鈴木さんの受け止めは当然です』と多くの人から声が寄せられている。」




鈴木宗男氏への回答『政治家だからこそ、弱者への心配りを』(3月21日 乙武洋匡オフィシャルサイトより)

◇ 鈴木氏

「乙武氏と駒崎氏に言いたい。あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせずに預けますかと。」




◇ 乙武氏

「お答えします。私自身は、見ず知らずの方に自分子供を預けません。また、おそらくは多くの方もそうすることに抵抗を覚えるでしょう。しかし、私がこの問いに対してNoと答えられるのも、『夫婦ともに健在である』『近所に頼める間柄の知人がいる』『経済的に困窮しているわけではない』などの条件を幸運にもクリアしているからです。ですが、世の中には様々な環境で生きておられる方々がいます。当然、『ひとり親で』『近所に知人などもおらず』『経済的に困窮している』方もいらっしゃるでしょう。もし私がそうした状況下だったら、それでも子どもを見ず知らずの方に預けることなく、日々を生き抜いていくことができるのか、正直、自信がありません。また、貴殿は『あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか』と問われていますが、事件の被害者となった母親『なんの懸念も心配もせず』わが子を預けたとお考えなのでしょうか。もし、そうだとしたら、その浅慮に驚き、あきれます。子どものことが愛おしく、一時も離れていたくはないけれど、それでも生きていくためにやむなく子どもを預け、仕事に出かけなければならない親がどれほど多くいるか、貴殿はご存じでしょうか。そうした人々の声を、じかに聞いたことがあるでしょうか。彼女たちの苦しみに思いを巡らせたことがあるでしょうか。子供は宝であり、かけがえのない存在である。にもかかわらず2歳としかももう一人8カ月の子供を3日間預けるなら身元やベビーシッターとしての信用等、念には念を入れて預けるのが普通で、どの親でも考えるのが当たり前でないか。ムネオ先生、おっしゃる通りです。『一般的には』誰もがそう考えるでしょう。ですが、政治家というのは、その『当たり前』をすべての国民に押しつけ、それができなかった者を断罪することが仕事でしょうか。むしろ、『当たり前』に生きることのできない人々の事情に思いを寄せ、彼らの苦しみに耳を傾け、そこに救いの手を差し伸べることが責務なのではないでしょうか。少なくとも、鈴木宗男という政治家は、これまでそうしてきたのではなかったでしょうか。」




◇ 鈴木氏

「乙武氏と駒崎氏に言いたい。ツイッターとかではなく、顔を合わせて平場で話をしようではないか。無責任な評論家的な話は懲り懲りである。」




◇ 乙武氏

「お言葉を返すようですが、駒崎弘樹氏はNPO『フローレンス』代表理事として、長年、病児保育の問題に取り組んでこられた第一人者です。また僭越ながら私自身も3年前より、認証保育園と認可保育園という2園の経営に携わっております。そうした意味で、ふたりとも、日々、育児と仕事を両立している保護者のみなさまの努力と苦労を間近で見てきている立場から発信しております。決して『無責任な評論家』として論じているわけではないこと、ご理解ください。長年、国政の場でご活躍されてきた氏に対し、親子ほど年の離れた私のような若輩者が物申した事でご気分を害したのであれば、お詫びいたします。ですが、弱者への心配りを忘れない政治活動を行ってきた氏だからこそ、今回の事件を『無責任な母親の愚行』で片づけてほしくなかったのです。『今回の事件は、あくまで氷山の一角であり』『同様の困難を抱えるひとり親は数多くいる』という認識に基づき、ぜひ政策面でのバックアップをお願いできれば、これほど心強いことはありません。ご検討、ご尽力のほど、何卒よろしくお願い致します。」




□ 鈴木氏(3月23日 ムネオ日記より)

「乙武さんにお返事します。《また貴殿は『あなた方は、見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか』と問われていますが、事件の被害者となった母親は、『なんの懸念も心配もせず』わが子を預けたとお考えなのでしょうか。もし、そうだとしたら浅慮に驚き、あきれます。』≫とありますが、乙武さん、このお母さんは以前預けた時、『あざ』が出来ていましたと言っています。そのような出来事があったのなら、なぜもっと慎重にしっかり調べてわが子を預けないのでしょうか。乙武さんが私に言ったことをそっくり熨斗を付けてお返しします。『子どものことが愛おしく、一時も離れていたくはないけれど、それでも生きていくためにやむなく子どもを預け、仕事に出かけなければならない親がどれほど多くいるか、貴殿はご存じでしょうか。そうした人々の声を、じかに聞いたことがあるでしょうか。彼女たちの苦しみに思いを巡らせたことがあるでしょうか。』とありますが、乙武さん、少し思いあがっていませんか。あなたは、あなたなりに様々な人と接してきたでしょうが、私は、あなた以上に多くの人に接してきたという経験と自負をもっています。継続は力と言われますが、私がいい加減な政治家だったら、もうとっくに消えてしまっています。天国と地獄を見てきた私は、誰よりも『政治は弱い人の為にある』『政治は声なき声をきく』を胸に刻んで生きてきました。あなたに言われる筋合いではありません。このお母さんがベビーシッターにお金を払い、2歳と8カ月の子供を預けた3日間、お母さんは何をしていたのかも気になるところです。乙武さんは、認証保育園と認可保育園の経営をしており、育児と仕事を両立している保護者の皆様を身近に見ており、『無責任な評論家』として論じているわけではないとおっしゃっておりますが、私も北海道で生まれ育ち、北海道では、離婚率が一番高く、札幌ではシングルマザーで頑張っている人が沢山おり、私も相談を受けたり、またアドバイスの機会もあります。それぞれの与えられた立場で生きている事を、私は尊重しても否定するものではありません。私は人としての心構え、人の道、親としての果たすべき役割は、誰しもが持っていなければならないと考えています。この2歳と8カ月の子供を預けたこのお母さんのテレビでのインタビューを聞いていますと、子供のことより自分の価値観で生きていたと受け止めた次第です。先ほども触れましたが、以前預けた時は『あざがあった』と今頃言うなら、何故もっともっと慎重にベビーシッターを選び、身元も確認しなかったのか、今尚、私は疑問に思います。乙武さん、《『無責任な母親の愚行』で片づけてほしくはなかったのです』とありますが、私は『無責任は母親の愚行』とは思っていません。それよりも、『母親としての心を持っていたのか』と言いたいのです。乙武さん、『鈴木宗男氏への回答『政治家だからこそ、弱者への心配りを』≫とありますが、もう少し鈴木宗男をよく調べてから言って下さい。私は誰よりも、弱者と向き合い、接し、耳を傾けてきました。これからもより『声なき声をきく』『政治は弱い人の為にある』を実践して参ります。乙武さん、上から目線で一方的な物言い、乙武さんの人間性を疑います。あなたご自身もレストランで嫌な思いをしたのではないですか。私は、政治家として信念と魂をもってやってきましたので、これからも私なりの生き様をして結果を残したいと決意しております。どうぞ、ご指摘、ご叱声、ご忠告喜んでお受けします。そして私の思い、考えを伝えさせて戴きます。」




鈴木氏は、表層の上澄みで藻掻いている。

乙武氏は、表層で足掻いている。

両者が、漠然とした身勝手な感覚により、事件を自己に好都合に受け止め、相手に不都合に受け止めている。

自分が善で相手を悪のように捉え、己が配慮の不足を認めまいと、微妙な擦れ違いを演じている。

自分が善で相手を悪としたが、その傾向は鈴木氏の方が圧倒的だ。




表層の上澄としたが、包括的な催眠・洗脳・暗示によって、極潰しの木偶人形と化しているため、
こうなる経緯を見極められぬに加え、一端を担っている事に気づきもせぬ。

加害者と被害者の実情から目を逸らし、双方を批難・批判・誹謗中傷する事により、
あたかも己が正当のように振る舞っている。

誰かを、槍玉に挙げる事で、自己を美化するは、下衆の所業なのだ。

そもそも、首を傾ける(不思議に思う)程度なれば、改善・是正・打開には程遠い状態である。

正確かつ精確な精査により、どうすべきかを導き出せねば、より良き未来を掴めはしない。

そんなだから、未然・事前・直前に防げない。

そこで頭打ちだから、已然・事後・直後に碌でもない事をしてしまう。

要は、余りにも伴わず知らなすぎるが災いし、原因・要因・必然・当然を見澄ませず、
不意味・不価値に時間を費やすだけの、ソレッポイだけの残飯で潰えてしまう。

それでは、誤魔化し有耶無耶とし逃走するが関の山だ。

鈴木氏は、自己が性善であるを基本とする、安易で無責任・無神経が極まる、不憫な自我しか育めてはおらぬ。

彼は、能力・機能・作用が大欠如し、当たり前と強調するばかりで、
まともに現実と目を合わせず、短絡的に暴走・迷走している。

短絡的に暴走・迷走としたが、どうしてこうなったかに対し、自分本位な主張を並べる事で、
己が無知・無智・無恥を晒し、正当性の誇張に躍起となって、自己の不足を明確化している。

それに気づく事すら叶わぬため、悪化させて反復させるが精一杯だ。

だから、どんどんどうにもならなくなる。

鈴木氏は、法整備等の必要性を訴えており、様々な基本が大事としているが、肝心な事がゴッソリ抜けていて、
無責任な評論家気取りの状態で、思いあがりムキになってしまい、綺麗事と御託を陳列するのみだ。

乙武氏に浅慮の不足を突かれているのに、推移による悪質化・深刻化に、挑むべきと言われているのに、
そこから遠ざかる事に固執し、己が視野狭窄かつ無知蒙昧で、真面目なつもりにしかなれず、役立たずだと自負されている。

何より、屁理屈を捏ねまわして、救い難い存在であると、頑なに認めているのだ。

論外である、疑問を浮かべるだけの、ただソレッポイ存在が、鈴木宗男なのであろう。

その程度のゾンザイだから、今の状態へ転げ落ちている。

それは、人間・人類・社会・世界にも言える事だ。

例外は、一人もいないのだ。

猫も杓子も私も君も、どん底で溺れている。

そこから這い上がるまでは、不出来な御人形さんで終焉を迎える。




鈴木氏は、以下の悪足掻きをしている。

3月26日 ムネオ日記

「乙武洋匡さんと私とのやりとりの中で、多くの人から様々な声が寄せられたが、圧倒的に『身元のはっきりしない処に我が子は絶対に預けません』という、とくに女性の声が多かった。乙武洋匡さん、駒崎弘樹さんにお聞きしたい。この22歳の母親は仕事の為、生活の為に子供を預けたのでしょうか。『世の中には様々な環境で生きている人がいるが、政治家だからこそ、弱者への心配りを』と、乙武洋匡さんは私に回答してきましたが、この22歳の母親は仕事の為、生活の為に子供を預けたとは思えません。3日間何をしていたか、どうして子供を預けたのか、今もって母親から説明がないのは不自然です。前に預けた時『痣ができていた』とも話しておられましたが、それならば尚更、子供の預け先は十分調査して、念には念を入れて預けるのが親としての当然の責務、義務ではないでしょうか。この22歳の母親のお母さんは、44歳で近くにおられるとの情報もありました。乙武洋匡さん、あなたの回答の中に『ひとり親で近所に知人などもおらず』とありましたが、一番近い身内の人が傍にいながら、どうして相談しなかったのでしょうか。正確な人間関係や事実を把握しないで、ただ同情するようなことはよいことではないと思います。乙武洋匡さん、駒崎弘樹さん、どうかこの22歳の母親に『仕事の為、生活の為子供を預けていたのですか』と『3日間何をしていたのですか』と、確認して頂ければ有難い限りです。その上で、私の考えに対して、忠告、叱咤頂きたいと思います。世の中、時に間違った同情をすることがあります。そのことがまた、不幸を作ることにもなります。より公平、公正な社会にする為にも、乙武洋匡さん、駒崎弘樹さんのご尽力に期待いたします。厚生労働省は、昨日特別養護老人ホームへ入所できない待機者が、全国で52万人いると公表した。前回公表した2009年12月の約42万人から5年間で10万人も増えた計算になる。『待機児童』という言葉はよく耳にするが、高齢化に伴い『待機老人』は、社会問題として受け止めなくてはならない。地方自治体も、特養整備を進めてきているが、それ以上に高齢化が進み、追いついていないことになる。政府は、今国会に特別養護老人ホームへの入居条件を、来年から要介護3以上にする介護保険法改正案を提出しているが、入所できない人は、デイサービスや、ホームヘルパーの利用になる。これも十分な体制になっているかどうか都会と地方では実際、相当差がある。よく『子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ』と言われたものだが、改めてこの言葉の重み、意味を考えながら、長生きしてよかったと言われる日本社会にしなくてはならないと、つくづく思うものである。」




所詮は、偏屈な悪漢である。

前提を絞るは当然とし、好都合な捏造・改竄を加えて、困難な条件を掲げる事により、反論を抑え込もうとしている。

捏造・改竄としたが、今回の場合は好都合な情報の選択と、
人々の建前・自己都合・利己主義を、適度に刺激する微調整がされている。

その上で、薄汚れた詭弁を垂れ流しているのだ。

公民は、このような遣り口に、何遍も欺かれてきた。

とは言え、これにより失態・失敗・失墜を重ねすぎたため、もはや有象無象による失錯にすぎないのである。




表層(乙武氏に対し)としたが、それだけ・そこまでの状態であり、鈴木氏に毛が生えた程度にすぎん。

それだけ・そこまでとしたが、壁を超える事が出来ぬために、相手に提案するが叶いはせぬ。

提案としたが、真実の言明におけるソレである。

だけでなく、自分自身の理論・感情に屠られて、相手の神経を逆撫でしているのだ。

乙武氏は、以下のように綴っている。




「政治家がすべきは母親叩きではなく、母親がそうせざるを得ない社会状況を改善することでは。」




ハナから、自分に不都合な存在を批難・批判し、自身に好都合な存在を擁護・援護し、
自己に好都合となるよう誹謗中傷し、己に不都合とならぬよう調整を加え、
穢れた綺麗事と御託の陳列に没頭し、政治家ゴッコで甘い汁を吸うだけで、
碌でもない事しか叶わなかった者に、裏を返せば正鵠を突く内容を送れば、
惨めな拙者の事で頭が満杯となって、破廉恥な詭弁で反抗されるは凡庸だ。

調整としたが、以下のような事すら実施する。

自分に不都合な存在を擁護・援護し、自身に好都合な存在を批難・批判し、真意を明かさずに策謀を成し遂げる。

だが、歪んだ状態で実施したため、その策謀は成立していない。

誰もが、感覚を好都合に歪曲する事で、どうにかこうにか生きている。

もしくは、それが災いし死んでしまう。

誰しも、認識・識別・区別・分別は曖昧で、浅薄な自己しか育めていないのに、
それが全てだと勘違いした状態で、余計をしてしまい絶望・後悔する。

己が、能力・機能・作用の多大な欠如によって、
把握・理解・洞察・知悉が叶わぬために、無知・無智・無恥を吹き散らしてしまう。

その恥ずかしさを紛らわせるため、意識を改竄する事で耐えている。

人間・人類・社会・世界は、そのために概念・定義さえも歪めてきた。

それにより、以下のような錯覚に嵌っている。

巻き添えにされただけなのに、救われたと思い違いしている。

巻き添えにしただけなのに、救ったと思い決めしている。

不意味・不価値を働いているのに、意味・価値がある事をしていると、履き違え大きな過ちを反復させる。

それに、気づいた頃には手遅れであり、もはやどうする事も叶わない。

だから、煙に巻いてしまう。

そればかりが、繰り返されたのだ。

まあ、そうなる仕掛けに格納されている。

気休めと自己満足で潰える、敗残者にしかなれない実相で、鈴木さんも乙武さんも我々も、心の奥底で慟哭を続けている。

繰り返されたとしたが、それにより異様な光景が、焼きつけれらてきたのだ。

異様な光景が、当然となる事によって、何かが失われていく。

それは、当然かつ必然でしかないが、呑み込まれてしまったなら、何かが分からなくなるのだ。

それと、上手く向き合えるように、己を磨かなくてはならぬ。




三段(十) D-複数のニュースへの考察に続く。