2012年10月01日 18:47 だからこそ、やらねばならぬ事がある。
容姿は子供だが、頭脳は大人らしい探偵が仰っていたが、
確かにあの平面的な世界では、真実はいつも一つなのだろう・・・。
だが、立体たる『現実の世界』には、無数のスタンスに対する、無限の真実が存在する。
重要となるのは、より正統となる真実を、そこから見極める事である。
注意すべきは、真実が誠実とは限らぬ事だ。
それが、現実の恐ろしさである。
それを裏付けるように、原子力発電所へのミソロジーは、醜悪な妄想にすぎなかった。
未だに捏造となるメリットに、多くの人々が振り回されている。
我々は、仕様に基づく脆弱な精神により、都合の良き真実を、選択する傾向がある。
そう、己と第三者の建前と自己都合と利己主義に弄ばれ、先入観と固定観念と既知の事実に束縛され、
真実には程遠い解答を絶対と信じ、漠然とした感覚で人生を歩んでしまうのだ。
されど、この高度なリスク社会では、表面上の情報だけで生きてしまえば、
その深層を探り立ち向かわなければ、心と体をズタズタにされるのが真実なのだ。
だからこそ、真摯に見極めねばならない。
さもなければ、ホンモノの真実によって、容易く殺されてしまう。
少し、遡った話をしよう。
2011年3月11日、東日本大震災を発端とし、福島第一原発において、前代未聞の人身事故が発生した。
その、人身事故の発火点となった、宮城県沖を震源とする東日本大震災は、
当方の人生において、空前絶後の大参事である。
地震発生時は、両親と共に自宅におり、母は台所の椅子に座った状態で、
自分はもう死んでもいいから、私と父を助けてくれと神に訴えていた。
若干、母が取り乱したので、それを落ち着かせる言葉を、私と父で投げかけたのを覚えている。
私と父は、互いの部屋の危険となる部分を支えていた。
ただし、未然に地震への対策を施していたため、些少のモノが落下する程度で済んだ。
そもそも、東京都の指示により、耐震強度に不満がある住宅から、新築に転居して間もない状況だった。
何より、地震の発生に関しては、東京都の職員による注意があり、恩師と友人と知人から喚起されていた。
そのため、半信半疑でありながらも、念のための配慮をしていたのだ。
しかしながら、それに留まっていた事を、現状では後悔している。
もしかしたら、誰かを救えていた可能性は否めぬ。
現に、私達が救われている。
大地震の収束後は、退路を確保するため、玄関の扉を開放した。
すると、同じフロアの方々も、互いの安否を気にかけつつ、今後の対策を始めていた。
私は、そのまま階段を降下し、近隣の状況を確認した。
可能な範囲で、周囲の安否を見定めていると、大きな余震が発生したので、
近辺に散らばる人々に対し、頭上への注意を呼び掛けた。
それと、近所の子供が屋外にいたので、家族が心配するだろうから帰宅し、安全を確保するようにと伝えた。
それから、自宅に帰宅したのだが、父が私を叱りつけた。
理由は、大きな余震の発生時、私が不在だった事により、
母が心配して宥めるのに苦労し、父も私を心配したためだ。
両親に何も言わずに、外出してしまったのは、不手際だったと反省している。
その後は、可能な限りの情報を獲得し、必要に応じ多人数で流布していた。
日本政府と東京電力と大手報道のスタッフが情報源だったため、
嘘つきで終わらずに済んで、良かったと安堵している。
それでも、非公式となる内側の情報ではなく、公式の情報に振り回されていた。
そうなるのは、やはり無知なためだ。
それに、真実とされる情報は残酷であり、適当に形成された体裁にすぎぬ内容を、信じたい気持ちに囚われていた。
まあ、残酷な真実も現状に到っては、感覚が麻痺した人々や空気を読みすぎた人々には、もう当たり前の事である。
はたまた、感覚が鋭敏な人々や空気を読まなすぎる人々にも、もう当たり前の事なのだ。
確かに、受け取り方に違いがあるがね。
両者を超える真実を把握し、感覚が洗練された人々や割り切った者からすれば、もう気にもならぬ事だ。
そして、手遅れとなった頃に、大衆は痛感し自覚する。
至当と知覚した日々が、地獄への階段だった事を・・・。
所詮、福島第一原発における人身事故は、『福島級の核燃料』と『MOX燃料』による、史上空前の原子力事故にすぎない。
そうだ、メルトダウン・メルトスルー・メルトアウト・メルトブラストが、
三つの原子炉で発生し、一号機から六号機が、まだ破局する可能性がある程度だ。
たかが、たった一件の事故である。
それで、甚大な有害物質が拡散しようと、人類を無慈悲に侵食する、原因と要因のほんの一部だ。
はなから、古今未曾有の海洋汚染は当然とし、世界初のプルサーマル事故である事は、オマケにすぎぬのが実情である。
残念ながら、そこまで現実は寛容ではない。
震災の夜、以下の日記をMIXIに記載した。
2011年03月11日 23:59 M8.8に修正 国内最大規模地震
類似した内容の日記を、記載する状況が到来せぬ事を願う。
先に、無数のスタンスに対する、無限の真実が存在すると記載した。
結果、ありとあらゆる主張すら、特定の対象や環境でしか、通用せぬのが事実である。
そのため、無闇矢鱈に自己顕示欲に従えば、偏見と軋轢が増長を続け、リスクばかりが増大する。
そうだ、そのような迂闊を働けば、目的と目標が異なる人々が刺激され、
支離滅裂に入り乱れ、だらしのない暴走を繰り広げ、
惨憺たる末路を引き寄せてしまう。
例え、統制された行動に見えても、中身は滅茶苦茶なのが実質だ。
また、それを扇動する側の思惑も、バラバラなのが本質である。
さらに、それを第三者がどう受け取るかは、参加する側と扇動する側の思惑を、遥かに超越するのが真相なのだ。
そのため、水面下で扇動した者や代表者が、その計略を明確化するため、フォローをする破目となる。
時には、敵対する側の人材に、それを語らせてまで、なんとか矯正を試みる。
そうなると、やはり茶番だったと決定され、時には新たな憶測すら発生し、より収拾がつかなくなる場合がある。
おまけに、インターネットや直接的な調査で意見を収集し、
思惑が通っていると思っても、それが本心ではないのが実態だ。
前者は、匿名性があると思い込んだ状態で、強気になっての意見である。
後者は、世間体を気にした状態で、弱気になっての意見である。
要は、気分次第で賛成にも反対ともなる。
あまつさえ、それは相手によっても、簡単に変わってしまう。
であるからして、解答たる真意を、把握しなければならない。
ただし、それすら気分に支配されている。
そう、状況や心境の変化で、それは常に可変するのだ。
それを支配するのは、非常に困難な事である。
特に、様々なコンテンツにより、概念と定義が大発展と大分岐をした日本には、
日本政府・電力会社・大手報道に、銀河超越に裏切られた国民には、
特定のパッチを適用しなければ、全ての策謀が泡と化す。
それを、無理に纏めようとすれば、特定の方向性で制御しようとすれば、大きな災いが降り注ぐ・・・。
そうでなくとも、手を加えておらぬ事にすら、人々は噛みついてくる。
故に、成すべき事はたったの一つだ。
現況において、既存の理屈で余計な事を実施すれば、自分の首を絞める事となる。
そうだ、人々に良かれと思いながら、誠心誠意で出力した言葉や文章が、
個人や団体を凶事へと誘い、己を共犯者へと仕上げてしまう。
なんとか、己が起因となる凶行を諌め、体裁を整えたつもりでも、
それで鬱積した不具合は、そう易々と解消される事は無い。
それでは、多少のキッカケがあれば、何度でも蒸し返してしまう。
そもそも、人間の仕様に準拠する、哲理と原理と心理しか、その杜撰すぎる仕組しか、真実に値する実存は無い。
何より、様々な枠組が絡み合い、一国の最高権力者の言葉が、本心によるものなのかすら、誰にも分からぬ状態だ。
それに、対象によってはどうでもいい事で、対象によっては殺し合う場合がある。
誰の思惑による、言葉や行動かが不明な状態で、多くの者が不毛な争いを続けている。
中でも、中東の暴動は最悪だ。
それに、日本を渦中とする、領土問題の一連も、実に滑稽である。
国益を理解し、領土問題を放置する者がいる。
国益を理解し、領土問題を放置せぬ者がいる。
国益を理解せず、領土問題を放置する者がいる。
国益を理解せず、領土問題を放置せぬ者がいる。
だが、突き詰めた話をすると、どうでもいい分類の話となる。
神意超克の問題は、人類全体が抱える切迫した問題は当然とし、各々が抱える切実な問題は勿論、
国家として抱える深刻な問題と対比すれば、枝葉にすぎぬ次元の内容で、全体が揺す振られる事だ。
多くの問題と結び付け、領土問題を重く見せかけているが、
実存する全ての問題からすれば、氷山の一角から滴り落ちる水滴だ。
まあ、大半の日本人からすれば、瑣事な出来事である。
中国人からしても、13億の極一部の戯言なのだ。
所詮、全ては思い込みとなる。
だ~れも、な~にも、し~らない状態で、クルクルパ~とパッパラパ~へとなり下がり、イジメやケンカに耽っているだけだ。
その状況下で、勝手な主義による主張をならべ、でしゃばる人間が出現すれば、
知識人でもなければ人格者でもない、碌でもない噴飯物だと証明される。
既に、潮流が変わらぬ事で、望むべき優秀な人材が、不在だった事が証明されている。
己と周囲が、格別で特別であると思い込み、勝手に決め付けられた存在が、天才とレッテルを貼られるのが実像だ。
だから、飽きた頃には捨てられる。
世界中で、天然ボケやボンクラが、テロやデモを実施し、
それと大差なき者達が、政治家を気取っている。
そこでは、ただ我儘なだけの人間が、リーダーとして君臨する。
だから、悪化の一途を辿るのだ。
どちらかであり、どちらでもあり、どちらでもない、歪な世界に我々がいる。
そこを見つめて、歩み寄らねばどうにもならぬ。
そうではない限り、解決する気が毛頭ない事と変わりはしない。
まして、相手を罵倒しているようでは、ただの戯れである事が明白だ。
それでは、どうにもならぬ事は、誰でも知っている。
はたまた、それで解決する流れとなれば、出来レースである事が確定する。
作為的であろうと、必然的であろうと、手遅れである限りは茶番なのだ。
手遅れの状態で、何かを実施するのであれば、それは評価に値する事は無い。
だからこそ、やらねばならぬ事がある。
自分には無理だが、誰かがどうにかしてくれる。
しかし、どうにかしてくれる者が、存在しなかったのが現実だ。
頼りとした、それらしい連中は、その問題に対しては、己と大差がない存在だった。
それを知らず、何もかもが手遅れとなった。
それでは、何を実施しようとも、マイナスからは抜け出せない。
そのような、見応えのない人形劇に、もう観客はカンカンである。
例え、戦争の展開を描こうと、そのような時代錯誤では、直ぐに飽きられてしまう。
人々が望むのは、限りある過去ではない。
限りない未来なのだ。