2012年08月24日 01:24 初歩的な話・・・。


去年の、十月の日記を修正していましたが、最近の出来事への考察を加味したため、最新の日記とさせて頂きます。

また、長い日記となりますが、読んで頂けると幸いです。



原初からの不動である、不完全で不健全な人類の仕様により、何の変哲もなく形成された、
ガラクタにすぎぬ世界では、有象無象による跳梁跋扈の挙句、全てが茶番となり果てる。

その世界には、野放図な振る舞いをする、烏合の衆を統率するため、様々な主義や思想が存在する。

それらは、万全には遠く及ばぬ、同義的な問題が積算する、破滅への誘い水にすぎない。

そうなるのは、正当であり、不当であり、どちらでもあり、どちらでもない、宙に浮いた状態だからだ。

その限りでは、不偏性・普遍性・不変性は、愍然たる次元であり、
片寄り不平等で色褪せ易い、吹けば飛び散るような、
脆弱で歪んだ世界しか築けない。

そもそも、陰極である表裏一体の世界では、その悪循環の袋小路の坩堝では、
様々な枠組が抱える矛盾により、何もかもが紙一重の状態である。

そのため、ありとあらゆる枠組が、存在して良き道理は当然とし、
成り立つ根拠すら存在せぬ、ゴミクズと同然の存在なのだ。

はなから、道理と根拠は実存せず、それを当然とする事で、
そうだと思い込んで決めつけ、お茶を濁したにすぎない。

このゾンザイな世界では、ゾンザイな主義や思想により、
ゾンザイな人間が権力を握り、ゾンザイな大衆を迫害する。

権力機構は、それが露呈せぬよう、誤魔化す事ばかりに必至となり、それだけで精一杯となる。

そうなるのは、人間の仕様は未完のままで、性能は据え置きの状態で、複雑化する状況に対して、
人員の増強により対応するが、不純な思惑が先行し飽和状態となり、各々のノルマが減少する。

はたまた、オブジェクト指向による簡略化により、
無数の手続きが集約され、内部構造の把握が不要となる。

厳密には、面倒な事は下に押し付けられる状態となり、
上の人間は動作原理すら、理解する必要が消失する。

結果、より下層に対する依存率が向上し、上層には何もせぬ連中すら発生し、各々に要求される能力が低下し、
全体の水準が劣化の一途を辿り、切迫により打開策を要求されても、手持無沙汰となり何かをしようにも、
不可能となった意思疎通や甚大な能力の不足により、何をすべきかが不得要領となっているのだ。

もとより、それが解る人類ではない。

だから、リスクを十分に考慮せず、前に進む事ばかりに躍起となり、何もかも手遅れの状態となってから、
やっとこさ間違えに気づくが、それでも誤魔化す事ばかりに熱中し、さらなる深みへと沈んでいく。

意思疎通が不可能となるのは、上層の人材が内部構造や動作原理を知らず、
下層の人材がそれを説明するが、それを理解する能力すら欠如しているためだ。

時折、逆の場合もあるが、それが理解出来たとて、上層と下層の主張が、擦れ違う事がある。

もし、主張が一致しても、実施する内容が、正当であり、不当であり、
どちらでもあり、どちらでもなければ、新たな不具合の元凶となる。

人類玉砕の問題は、より良き道を歩むため、何をするのが適当なのか、見極める力が欠如している事である。

それだから、ああでもないこうでもないと、先駆者の失策や考察を前提とし、いつまでもくっちゃべっているのだ。




様々な主義や思想が、ゴミクズと同然の存在としたが、独裁主義と民主主義の場合としよう。

双方が、虫ケラの噴飯物となるのは、独裁主義を掲げる独裁者は当然とし、民主主義を掲げる独裁集団は勿論、
双方に所属する大衆の思考は、正当であり、不当であり、どちらでもあり、どちらでもない状態であり、
無節操な躍進に甘んじるため、いつかは必ず破綻する、最悪の末路から逃れる事が絶無なためだ。

無能な独裁者に従えば、その国家は滅び去る。

無能な独裁集団に従えば、その国家は滅び去る。

無能な大衆に従えば、その国家は滅び去る。

ただ、それだけなのだ。

世界紛糾において、いずれ壁に突き当たり、何度でも竜巻に突っ込んでズタズタとなる、
不道徳な主義や思想しか、至当により獲得が叶わぬのは、全人類の痛恨事である。

あまつさえ、主義や思想とは異なる、多種・多様な枠組が流入し、破滅への速度を加速させている。

極性の変更により、明確な方向性を取得せねば、人類は枠組に押し潰され、その短い物語は終焉を迎える。

それにしても、大局的に見ても、対極的に見ても、大曲的に見ても、
表層から深層と深層から表層を見ても、不出来な世界である。

全体を見つめれば、世界は莫大な屈託と、理不尽な涙で満ちている。

連日のように、理不尽な暴挙が披瀝され、その犠牲者が泣いているのだ。

スタンスを反転し見つめると、誰しも憎悪する相手と、
同じ事を繰り広げ、悪化させて繰り返している。

雑魚が相手を小者と罵り、小者が相手を雑魚と罵り、互いに没落を続けている。

己の中で崇高とする目線、下衆とする目線で見渡しても、深刻この上ない状態である。

中立的な目線は無論とし、どちらかに都合のいい目線で精査しても、惨憺たる状態なのだ。

地球をコップの中の水と捉え、水面から水底を見つめ、水底から水面を見つめても、世界はイカサマで満載だ。

結果から根源を辿り、根源から結果を辿っても、論を俟たない悪夢さながらの世界である。

そう言えば、民主党には唯一の功績がある。

それは、遥か以前から、日本が腐乱していた事を、適宜に証明した事だ。

ほんの少し前まで、連中のような木偶人形が、野党だったのだ。

さすれば、与党だったクソッタレ共は、糞ガキの寄せ集めなのは確実だ。

見本となるべき連中が、その体たらくならば、国民は赤ちゃんである。

そして、木偶人形や糞ガキや赤ちゃんから、大差のない政治家が誕生する。

その質は、劣化を続ける一方だ。

だから、これから出てくる連中も、それっぽい事で誤魔化して、次世代にツケを残し消えてゆく。

例えば、増税に対し面の皮が厚い怪物は、次世代にツケを払わせぬため、
それが必要だと訴えるが、実際は次世代と現役世代の負担が増加する。

そいつが綺麗事を並べるのは、都合のいい御託を陳列するのは、
それを阻止出来ぬ政府の無能を、隠匿するマヤカシにすぎない。

連中は、中身を弄りまわし、余計な事に手を伸ばし、おシャカにするのが限界だ。

とりわけ、欧米を手本と掲げ、既成の概念や定義の範疇で、誰かさんが実施した事を参考に、
日本を変えるとする魑魅魍魎は、浅知恵で大衆を裏切る、愚の骨頂たる存在である。

そう、誰かさんの操り人形となり、同じ失敗を繰り返す事を前提とする、杜撰な贋者に過ぎぬのだ。

我々は、連中が余計な事をせぬよう、しっかりと見張らなければならない。




人類は、己達で作り出した生き地獄を、当然の存在であると、普通なのだと思い込み壊れていく。

至当なのは、地獄さながらの世界しか、人類が築けぬ仕様である事だ。

特に、自然から離れた存在へと接近し、不自然な存在に満たされただけ、足下にある奈落の底が深くなる。

超絶絶頂において、自然は人類に蹂躙され、不自然は人類を束縛する。

先ず、アルファー版とベータ版の人類が、リリースされた環境が自然であり、
正式にリリースされた人類が、勝手に作り出した環境が不自然となる。

そう、ネイティブな開発環境に対しては、圧倒的な自由度を誇るが、
そうではない環境に対しては、互換モードでの稼働を強いられる。

要は、日本人はWindows 95クラスのアプリケーションであり、
日本はWindows Vistaクラスのオペレーティングシステムである。

双方は、アップデートを適用される事も無く、セキュリティーホールだらけの状態だ。

おまけに、オペレーティングシステムに関しては、新規インストールではなく、
アップグレードを続けた結果、様々なトラブルを内包している。

現実を精査すれば、世界各国における人間のバージョンは大差なく、
稼働する環境の違いで、多種・多様な不具合を、発生させているのが実情だ。

残念なのは、高い整合性を保ち稼働している環境を、そうではない環境が侵害する事だ。

例えば、原子力発電所が爆散すれば、未開の地や遥か遠方で、
自然と同化し生きる人々や懸命に生きる動物達を、
その巻き添えとする可能性がある。

先進国が、大核戦争を始め世界を焼き尽くせば、あまねく生命がその巻き添えとなる。

既に、福島第一原発における人身事故により、多くの生態系が痛めつけられた。

無知・無智・無恥な人間は、それを見つめずに、己の事ばかりに始終する。

あまつさえ、家族や友人は当然とし、己の事すら誠心誠意で見れぬのだ。

しっかりと見つめ、生真面目に見極めぬ限り、人類は何処までも堕ちていく。

このままでは、多くを道連れに、炸裂して塵と化す。

道連れを抑止するため、より良き未来を掴むため、
人類の設計を大きく改善し、仕様を改める必要がある。

だが、それを実現するため、現状までに形成された宗教や主義や思想は、
膨大な偏見や軋轢を形成する、とんでもないガラクタばかりだった。

そのガラクタを受け入れる程に、思考の制約は増加を続け、
固定観念・先入観・既知の事実でしか、処理する事が出来ない、
本質的な考察には及ばない、打算しか出来ない人形となってしまう。

注意すべきは、そんな御人形さんに、人生を阻害されぬ事である。

様々な枠組を受け入れ、知恵をつけたつもりでも、所詮は愚鈍な人間なのだ。

そうだ、類似した枠組に感化されながら、量産されたマリオネットだ。

当方も、その中の一体にすぎない。

ただし、操り糸を己で噛み切り、勝手に彷徨い続ける、不気味な傀儡である。

臨界突破において、大概の場合に共通となる、枠組に影響されるだけでも、
他力本願な意識に嵌入し、自主性を放棄した状態に仕上がってしまう。

はたまた、水面下での調整は当然とし、己の場合はどうするかは勿論、
打開のヒントすら示さずに、他者に対し自分で考えて打開せよと、
無理難題を吹っかけて、己への同調を求める者が形成される。

この傾向に関しては、誰でも簡単に気が向けば可能となる、
抗議活動に参加する者達に、顕著な次元で見受けられる。

まあ、画一的で新鮮味のない、ありきたりなタイプである。

何処にでもいる、普通の人々なのだ。

そんな方々に対し、不埒なレッテルを張るのは、非常に適宜ではない。

確かに、碌でもない連中が混じっているが、一括して扱ってしまえば、
方々を鼻で笑っている、撃滅したいあの子達と、肩を並べる事となる。

それは、自分が人であるためにも、なるたけ避けたい所だ。




現況では、打開力は当然とし、己の行動に対する、責任を果たす能力すらない、
全ての日本人に降りかかるであろう、莫大なリスクを考えられぬ者が、
自分達に都合のいい解釈で、多くの同胞を翻弄している。

特に、安い挑発に乗る、身勝手な連中は最悪だ。

殲滅したいあの子達と、同じ事をするから、同じ事しか出来ぬから、
仮初の自意識で動くだけの、誰かの御人形さんだから、
不快な醜態を晒すだけで終わってしまう。

それなのに、自分の失態に気づきもせず、無残に見せびらかした醜態を、素晴らしい事のように示している。

連中は、人間として未熟だ。

誰かの操り人形となり、もしくは操り人形にもなれず、下卑た感情に踊らされて、
ただの嫌がらせを実施して、自分はあたかも正義のように、振る舞うガキには反吐が出る。

それは、正義であり、不義であり、どちらでもあり、どちらでもない状態だ。

それでは、ただの悪戯である。

いつまでも大人になれぬ、糞ガキの悪ふざけにすぎぬのだ。

もし、その程度が政治家ならば、即座に引きおろさねば、痛い目を見るのは大衆だ。

そいつらは、リスクを十二分に考慮した、最良の決断が不可能となる、不的確な人材だからだ。

無論、十分な考慮すら望めぬ。

だから、それをしてしまったのだ。

何より、刹那的な感情に流されて、道義的判断を著しく謝る人材に、重要な事を任せてはいけない。

領土問題は、そのようなリスクを測れぬ、無能な連中の置き土産である。

そもそも、誰の所有物でもない土地に、勝手な所有権をのたまえば、ナチュラルプロセスの報いを受ける。

そして、主要な神々が存在するなら、現世でも地獄でも来世でも、因果の応報に晒される。

はたまた、真に神がいるならば、もれなく裁きの対象となる。

そして、天国と地獄があるのならば、全人類が積算させた過失により、
これまでに誕生した全人類が、地獄で炙られていても不思議ではない。

神は、自分に都合がいい者と、身勝手な存在に容赦はせぬ。

もとより、人間は死んだら無となるか、地獄行きがお誂え向きの仕様である。

だからこそ、箱の外にいる存在へ挑戦し、解き明かさなければならない。

そうしなければ、永遠に楽園には、辿り着けぬのだ。

神と呼ばれる存在が、世界と人類を生産する、唯一のメーカーであれば、全ては同じ会社の製品だ。

そのような根本を見つめ歩み寄らねば、政治家のように無知・無智・無恥のまま、何も果たせずに死んで行く。

それは、適宜ではない。




福島第一原発における人身事故では、リスクを計れぬ連中に、大衆は盛大に裏切られた。

そして、安全・安心をバラ撒いて、己にすら裏切られた者共は、隠遁生活で身を震わせている。

それでも、大きな組織に所属する者達は、連帯して責任を負うのではなく、
連携して責任を分散しつつ、誰かに押し付ける事で、なんとか表に留まっている。

その程度の、碌でもない連中だから、党派や派閥に関係なく、
新参や古株に限らず、次の総選挙や有事の際に、
皆殺しにしようと訴えられるのだ。

しかし、政治家を殺戮する程度の、ちっぽけな暴走であれば、誰にでも簡単な事である。

そうだ、政治家が無能である事を証明し、代替となる組織を用意して、
政治家の抹殺を美徳と認識させ、大衆を振り回すのは容易い事だ。

特に、日本人に共通する、最悪のやる気スイッチを刺激するだけで、
それを扇動した者ですら、止められぬ程の地獄を演出可能だ。

だが、短絡的で消極的な手段を選択するのは、それを扇動する者達が、無能である証拠となる。

その、無能を隠して成り上がった集団は、それを指摘する新たな勢力に淘汰され、
その新たな勢力に関しても、大差のない軍団に、打ちのめされる命運なのだ。

結局、誰しも無能だから、同じ事が繰り返される。

我々は、己の無能を認める事で集結し、目標と目的を集約する事で、成し遂げる必要がある。

それまでは、どんぐりの背比べで、莫大な時間が消費されるのみだ。

そもそも、人の事を言っている場合ではない、同じ穴の狢にすぎぬ者が、目くそ鼻くそを笑っている。

人のフリ見て我がフリ直す、その余地すらない状況で、嘲笑う事に陥るのは、矮小で稚拙で滑稽だ。

それに、自国の偽政者と他国の類似品を対比し、自国の方がマシと言う者がいるが、
そうやって対比して、己を慰める時点で、どちらもどん底であると、気づかなくてはいけない。

自分と他人を比べ、己を慰めるのも、気の毒な人間の所業である。

そのように、誤魔化してばかりいるから、永劫の失墜を続けている。

だから、いつの間にか人形と入れ替えられ、自分が殺されている事にも気づけぬのだ。

そのため、第三者の建前・自己都合・利己主義に振り回されても、
莫大な矛盾にすら気づかず、とても誇らしげな表情で、
ただ同じ言葉を連呼してしまう。

あまつさえ、打開力がない相手に対し、打開力が無い状態で挑んでいる。

おまけに、その相手となる政治家は、自分の身が安泰となるならば、
どちらに転ぼうと構いはしない、不敏な人材の寄せ集めである。

場合によっては、政界から退けられる事で、責任から逃れたい者すらいる。

無論だが、どうにか留まる事で、責任を分散しつつ、誰かに押し付けたい者もいる。

結局は、連中も画一的で新鮮味のない、ありきたりなタイプなのだ。

民主政治は、世論に靡いた結論を標榜し、連綿と失敗を繰り返す構造だ。

であるからして、抗議活動をどれだけ実施しようと、過去の公害問題と同じように、
上澄みすら変える事が叶わず、我々が辛酸を味わうのは、いつもの事にすぎぬのだ。

だからこそ、奇抜な交渉活動により、打開策を提供しなければならぬ。

提供すべきは、固定観念・先入観・既知の事実を前提とする、
『きっと』や『かもしれない』の、低レベルであってはならない。

それでは、相手と同等の状態のため、何も解決が叶わないからだ。

その程度の考察で、人々を振り回すのは、無責任極まりない行為である。

もし、自分達は一般の人間だから、そうなるのは仕方がないとするのであれば、
それをアリバイとして、これからも活動を続けるのであれば、
大衆を裏切った連中と、同じ末路を辿る事となる。




国家が支援する抗議活動は、国家が責任を保有する事で、
原子力発電所を存続する事を、求めない約束となっている。

そうなるのは、双方に都合が良いからだ。

正当であれば、原発が再稼働している、勝算が微塵もない状態では、
同義的にそれに必須となる、対応を求めるのが、至極当然の流れである。

何より、反原発を訴えるからには、無駄を省き電気料金を下げる事を、全力で要望する必要がある。

また、過剰に支払わされて来た、電気代に対しての見解を、求めなくてはならない。

さらに、万人が利益を求める社会における、基盤となるエネルギー産業に関しては、
社会の持続性を高めるため、極限まで最適化したコストで、企業と家庭に提供されねばならない。

その目玉となる原子力発電所が、今後も継続されるのであれば、
何も出来ない事が明白である、電力会社に押し付けるのではなく、
国家が責任を持って、構築・管理・運営する事を強く要望するべきだ。

最大に求めるべきは、より適正な原発被災者と被災地への対応である。

それなくして、人道を進む事は叶わない。

もし、政治家と直接的となる、質疑応答の機会を与えられても、
自分達に都合の良き主張を並べ、事前に伝えておけば済む内容で時間を浪費し、
堅実的に求めるべき内容を示さず、平行線で終わるような事があれば、双方への注意が必要となる。

刮目すべきは、それに応対した政治家が、いつも通りの言葉を並べるのであれば、御飾である事が確実となり、
その対応を批難する政治家が発生するが、これまでに大した事をしておらぬのであれば、それはただの茶番と判明する。

その場合は、抗議活動の対象を即座に変更し、短期を前提とした戦術抗議と長期を前提とした戦略抗議が必須となる。

要は、抗議の対象を変更し、効率的な活動を実施せねば、何も変わらぬ事が明白だからだ。

当方の場合は、『抗議』が『交渉』となる。

戦術部隊には、早急の解決が望まれる、電力コストの最適化は当然とし、
原発被災者と被災地への具体的な対応策を掲げさせ、正統な世論の形成と調和を実現する。

また、原発を稼働する場合において、同義的に不可欠な要綱を掲げ、
それをせぬ理由への解答を、全ての政治家に対し要求する。

さらに、大人の事情に配慮しつつも、実施可能な要綱をピックアップし、最低限でもそれを実現するように促す。

戦略部隊には、原子力発電所の稼働率の極小化を念頭に置きつつも、戦術部隊の支援を主体とした活動を実施させ、
地上からの原子力発電所の淘汰を前提とした、エネルギーの最適化を実現する団体の前身を形成し、
より明確な目標と目的を掲げ、多くの人々と集約して、成し遂げられる準備を進める。

また、直ぐに提案が可能となる、既存のエネルギー施設の安全性と恒久性の向上策を掲げ、
活動による経済へのマイナスとなる影響を、大幅に軽減する事で、経済界との連携を可能とする。

さらに、ラーニングコストが低すぎて、既存の利権への配慮により、
導入に制約がある発電方式を、関係者を上手く繋ぎ合せ、
打開となる提案により、その制約を排除する。

総選挙となる前に、福島第一原発における人身事故に関し、真相を把握する範囲でシンプルに紹介し、
当方の目線ではあるが、政治家はこれからどうすべきか、国民はどうすべきかを伝える事で、
発生が懸念される多数の問題を未然に防ぎ、世界の極性を変更する観念を流布する。

まあ、誰でも出来る事である。

須らく見極めるべきは、政治家と対立する、抗議活動側の人材が、
政治家と同じ穀潰風情の、寄せ集めではないのかだ。

その程度であれば、抗議活動への参加は、特定のリスクを背負う、自傷行為で終わってしまう。

あまつさえ、活動を主導する人材が、政治家と官僚の踊りゴマである場合は、利用までされてしまうのだ。

それは、なるたけ避ける必要がある。

確かに、東日本大震災と福島第一原発の人身事故により、
人々が味わった臨場感や高揚感や危機感の反動を考慮すれば、
行動力のある人材を抗議活動に縛り付け、ガスを抜かねばならぬ。

しかしながら、傅くべき国民に対し、その醜態の強要は、許されるべきではない。

それを未然に防げていた、より良き無数の選択肢を、選べなかった当事者達に、深い憐みを感じてしまう。

今後の選挙で、私が記載した当然の内容を、偉そうに掲げる連中が出現するならば、それは新たな茶番劇の幕開けだ。




誰かの道具として、感情に振り回され、リスクを想定せず行動すれば、
その身から出たサビにより、痛い目を見るのは自分自身なのだ。

現状の世論は、それを十二分に考慮していない、薄っぺらい仕上りである。

それは、最悪の末路を望むかのような、自滅主義と敗北主義に感染した戯言だ。

私が指摘するのは、報道が掲げている世論の、明哲性の低さである。

銀河超越において、世論を形成するのは、報道による作為的茶番・必然的茶番である。

その、リスクを度外視した情報の流布が、不十分すぎる世論への見解が、多くの国民を振り回している。

例え、様々な配慮をしていても、所詮は不味い調味料にすぎず、
人々は上辺だけの認識で、無分別な徘徊を余儀なくされる。

報道が伝えなければ、人々は多くを知らずに死んで行く。

それを考えると、必要不可欠な存在ではある。

だが、ただの必要悪に陥るならば、見直さなければならない。

報道は、福島第一原発における人身事故で、大衆の首がへし折れる寸前まで手玉に取った。

それなのに、謝罪すらしていない。

政治組織と報道組織が、連携して責任を分散しつつ、誰かに押し付て誤魔化している。

ジャーナリズムと呼ばれる、邪神を崇拝する愚かな連中は、
現時点でも大衆の感情につけ込む、矮小な報道に従事している。

その手腕が、悪戯や喧嘩の次元から抜け出せぬため、大衆に対し無数の害悪を齎している。

それが、国家が手を拱いている状態で、己の空想や妄想のために、
行き過ぎた行為を実施する、糞ガキを生み出してしまうのだ。

厳密には、人々に惨めな姿を曝け出させ、世を混乱へと陥れる。

悲しいかな、そうなるのは至当の流れである。

我々は、極性の変更の実現により、最高のジャーナリズムを確立しなければならない。

それがなければ、偉大なる視聴者たる大衆に、テレビが真価を提供する事は皆無だ。

報道に携わる諸賢は、スペシャルゼネラリストとスーパーバトラーとして、
各々が他の追随を許さぬ、唯一無二の存在である事を証明しつつ、
屈託を打ち払い、理不尽な涙を相殺する君主と従者となれる。

それは、とても素晴らしき事だ。




問題の解決において重要なのは、対処のスケールを過誤せぬ事だ。

その場合、被害者側に加害者が発生し、加害者側に被害者が発生し、状況が複雑となってしまう。

確かに、世論の後押しが必要な場合は、拡大化は一つの手段であるが、
配慮を欠いた状態でそれを求めると、方法を過誤した人々の出現により、
新たな加害者と被害者が発生し、本来の問題が立ち退きを余儀なくされる。

逆もまた然りだ。

関係者が世間体を気にし、その露呈を恐れた場合において、縮小化を実施しようとするが、
方法を過誤した当事者の失態により、事態はさらに深刻となり、取り返しがつかぬ状態となる。

状況によって、最小に抑えたつもりが、短期間で最大となり、誰の手にも負えなくなるのだ。

何より、スケールの過剰な拡大により、余りにも過熱してしまうと、
犯罪や隠蔽の高度化を引き起こし、より解決が困難となる状況を形成する。

加害者は当然とし、被害者は勿論、自分の事すら考えられぬ者は、
そのリスクを考慮せず、失態を何度でも繰り返してしまう。

そう、何度も犯罪を犯した者や何度も隠蔽を実施した者と、同じになってしまうのだ。

それと、方向性が異なる相手を、説得したい場合には、相手の主張を認めつつも、
このような考え方もあるのだと、優しく諭しながら、抱擁する必要がある。

互いの問題を一方通行で指摘すれば、互いに違う方向へと進みながら、
最初は普通の声で話し、距離が離れると怒鳴り合い、
最後は声すら届かなくなってしまう。

それでは、何も変わる事は無く、双方が愚かなままだ。

現状では、己の主張を一方的に叩きつけ、それを認めない者達を、
自分より下と決め付けて、思いあがっている連中が、大多数見受けられる。

原発事故により、自身の無力を人々は痛感し、それをはぐらかす事に必死となり、
いつの間にか融通が利かない、四角四面の疑似勇者や疑似賢者に、落ちぶれてしまった。

その思考方式は、安全・安心とバラ撒いた、御用学者と扱われる人材と酷似している。

なんせ、前提となる条件を最小限に絞り、都合のいい仮説や解釈を利用し、
莫大な真実を無視した状態で、自分の言いたい事が言えてしまうのだ。

そうだ、洞察力や観察力や推察力は勿論、思考力すら些少で、自己満足が出来る。

その者は、自己満足に対する指摘を、ただの嫌がらせと受け取る場合がある。

指摘する側も、上手にそれが出来ていない場合がある。

だが、その程度で悦に入り、自分を絶対と信じている存在には、
誠心誠意で対応をしようとも、どうにもならぬ場合がある。

互いにそれに気づけねば、事態は平行線を辿り続け、時間は無駄に過ぎ去っていく。

残念だが、見切りをつける事が必要だ。

もしくは、確固たる証拠を提示するか、その者が信頼する存在に事実を語らせるか、
固定観念・先入観・既知の事実の外側から、精神を刺激しなければならない。

それにしても、世界中で薄汚い大人達が、重火器を利用してイジメをしてるのに、
無能な大人が領土問題で、喧嘩や悪戯で能天気を曝け出しているのに、
子供にそれを止めろというのは、余りにも都合が良すぎる。

そもそも、見本なくして、子供が納得する道理は無い。

大人に出来ない事を子供に強要しては、子供はその矛盾に苛まれる。

だからと言って、不都合な情報を隠匿し、捏造した大人の理想図を掲げ、
子供を操作し矯正しようとすれば、絶大なしっぺ返しを食らうのだ。

憐みを感じるのは、それとこれとは別の問題と、自分に都合のいい御託を並べる連中だ。

それでは、聖戦だの民主化だのと、己に都合の良き言葉を並べ、人々を惨殺する怪物共と同類となる。

それは、己の能力が絶望的に低いため、それしか出来ぬから垂れ流す、穢れた綺麗事にすぎぬのだ。

結局、戦争へと誘われるのも、政治家の無能の末路である。




人は、犯してしまった間違いを、悔い改める事で成長を遂げる。

新星爆発において、経験なくして成長はない。

しかし、政治家に関しては、責任を分散する仕組により、後悔による経験の蓄積すら望めん。

時点で政治家を目指すのは、温室で腐れ果てた農作物か、
野晒でも逞しく成長した、雑草と思い上がっている、
失態を反復させる、猪口才な人材にすぎない。

それでは、己すら救えぬのだ。

自分と国家に裏切られ、自身と第三者に弄ばれる、抗議活動に邁進する人々は当然とし、
日本政府・大手報道・電力会社のスタッフは、己と家族の自衛を欠かしてはならない。

上層が実施する、不適切で不条理な応対や、アリバイの形成を臭わせる、
微妙な情報の開示が引き金となり、それで決断する存在の襲来により、
想像を絶する恐怖へ引き込まれても、不自然ではない状態だからだ。

私が懸念するのは、原発事故に対し無関心すぎた人々が、遅延して抗議活動に刺激され、
或いは杜撰な方法により、事故の実態を伝えられた場合、危険な行動へと走る事だ。

それと、2011年の7月末頃より、薬品や病原菌を利用した、
小規模から大規模のサイレントテロが横行している。

要は、バレ難い方法により、相手の生命と健康を脅かし、悦に浸るための破壊工作だ。

以前から、実施されていた可能性はあるが、なんとも言えぬ状態だと、警察の友人からは伺っている。

中国と韓国に関しては、政府が主導となり、類似した処理活動を、数年前から実施している。

まあ、ガス抜きの抗議活動を実施させ、そこに集結する不遜な住民と、
いつかは不要となる道具の掃除は、一括で実施する事に価値がある。

神意超克において、我々が注意すべきは、固定観念・先入観・既知の事実の外側からの猛攻だ。

既に、日本中の国民がそれに晒され、日本政府・大手報道・電力会社よる対応が、
それを実施する知能犯を確実に生み出す、流れを描いていた事が伺える。

保身を考える必要性を作為に排除し、自己の有限性を淘汰した、
モンスターの軍団が引き起こす犯罪は、想像すると恐怖で震えそうになる。

仮初の平穏が、そのような者達によって、破られぬ事を切に願う。

ここまでの詳細は、以下の日記から辿って頂けると幸いだ。

☆ 確実たる惨状・・・。(改良版)




愛国心の必要性を論じる、政治家や専門家が多い国家ほど、
国民に対し後ろめたい事を、長年に渡り実施している。

各国の政府が、腐れ外道による、汚職天国なのが真実だ。

中国政府も韓国政府も日本政府も、各国の政府も肥溜めである。

各国の国民はそれを念頭に置き、国家のためと見せかけている、
下劣で不浄な政治家の思惑に、利用されぬ心構えが必要だ。

政治家が注意すべきは、ポピュリズムとレッテルを貼られる行為を、
特に愛国心を刺激する活動を、これからは実施せぬ事である。

それをすれば、とんでもない枠組に、劈かれてしまうからだ。

総神がいたとしても、それを止める事は叶わない。




総合商社が、我々の健康を多角的に脅かす。

業界全体が原因となり、提供する商品たる要因により、人々は蝕まれているのだ。

その、総合要因に晒されては、ひとたまりもない。

それが、当たり前だと誤魔化せなくなり、互いを憎しんでしまう末路が、到来するのは時間の問題である。

顧客から金銭を奪い取り、健康と生命すら強奪し、指摘には他の影響は考慮せず、問題はないと垂れ流す。

それは、誠実ではない。

私は、陰極である表裏一体の世界から、犠牲を極限まで抑え、脱却する事を策謀している。

我々は、良き部分の裏側と悪き部分の裏側を見つめなければ、
自分すら含めた大量殺人の、主犯や共犯となってしまう。

そうならぬよう、成すべきを実現し、是正しなければならない。

誰しも、誰かの影響を受けて成長する。

だからこそ、自分自身を研ぎ澄まし、より良き影響を与えられるよう、手を取り合い進む必要がある。

その先に、本当の明日が来るのだから。