2012年04月06日 04:14 悔い改めぬ存在に、真の発展はない。


旧約聖書に記された、アダムとイブが、エデンの園に戻れなかったのは、
発端の行為を後悔はすれど、懺悔をしなかったためである。

知恵の樹の実を食し、二人は莫大な知識を得た。

そう、得たのは知識だけだ。

善悪を判断する、精神が未熟な者に、知識を与えるのは、とても危険な事だ。




知識がなければ、無垢な動物と大差はない。

だが、知識を有しても、善と悪を見極める、天秤無き人間は、欲望に身を委ねた獣となる。

それは、何をするか想像もつかぬ、珠玉の殺戮兵器の可能性すらあるのだ。

二人の好奇心が、生命の樹へと向けられ、その実に噛り付いていたならば、終焉の鐘がエデンを震撼させただろう。

強靭な欲望の跋扈が、全てを滅ぼすのだ。




神は、破滅に到る前に、二人を追放した。

知恵の樹の実で、知恵を得た獣が、生命の樹の実で、不滅の化物となり、全てを食らい尽くす事を、阻止したのだ。

しかし、神は待っているのだ。

人類が悔改め、邁進する日々の到来を・・・。




世界が、傲慢で満たされれば、それは容易く滅んでしまう。

傲慢を恥じ、間違いを認め、先進的な判断に徹する事が出来れば、上澄みだけが綺麗な世界で、終焉を迎える事は無い。

ならば、永遠の社会を、築く事すら可能である。




無知を認め、無智を認め、無恥を後悔する事で、人は成長を続ける。

傲慢な者は、無知・無智・無恥のまま、不完全な存在を、不健全に運用し、改善を忘却し、吹き飛ばす。

政治と原発は、良き見本である。




我々は、自身が傲慢なのかどうか、己による肯定・否定に関わらず、そこそこ曖昧なのが実情だ。

そもそも、己に内在する全ての自分が、傲慢ではないと、言い切るのは絶無だ。

だからこそ、それを故意に認める事によって、柔軟な思考を形成し、己を磨く必要がある。

さすれば、得る存在が必ずある。

より良き明日には、より良き己が相応しい。