2012年03月28日 19:16 イキテコソ


人は、目に見えぬ本に人生を刻み、次に続く生命へ、それを継承して行く。

また、生きる事で、他者の記憶の書庫に、自分の著書を、並べて行くのである。

そう、我々はとても長い物語の著者なのだ。

そして、手記では綴る事が困難な、壮大な物語を、アカシックに刻み続けている。

だが、時としてその歩みを、刹那的な感情や、鬱積した己への殺意で、止めてしまう者がいる。

その瞬間、物語は終焉を迎え、アカシックからも除外されるのだ。




全ては、生きてこそ、刻まれるのである。

自己による死は、何も創造する事はない。

ただ、暗澹の慟哭に、呑み込まれるだけだ。

神は、生命を粗末にする存在の、魂の跳梁を許しはしない。

その魂は、虚構の中で、無限の絶叫を続けるだけだ。

やはり、人生は生き抜いて、なんぼのモノである。

楽しんでなんぼ!

頑張ってなんぼ!

乗り越えてなんぼ!

生きて己を、天地に刻め!

そう、生きてるって素晴らしい!!

どんな逆境に立たされようと、生存を諦めなければ、必ず太陽は昇るのだ!!!

どん底だったら、後は太陽のように上昇すればいい!!!!

それに、太陽だって沈むんだ!

だったら、俺達が沈まない事の方がおかしいだろう。




逆境なんぞ、道端の石ころと同じで、俺達の人生には、適当に転がっているもんだ。

そんなモノに、負けてどうする?

それが、超巨大な岩であろうと、誰かと一緒なら、必ず退く事が出来る。

一人で背負込み、潰れるのは勿体ない。

そう、自殺は勿体ない事である。

どれだけの可能性を、イレイズするかよく考えろ。

宝くじの大当たりを失くす事なんぞ、比では無い程に、勿体ない事だ。

生きてりゃ見れる夢がある。

生き抜きゃ残せる想いがある。

それを忘れる事なかれ。




古い親戚ではあるが、マラソンの選手だった方が、伸び悩む成績を苦に、線路に脚を置いて、電車に轢断させて自殺した。

他にも、首を吊り自殺し、灯油で焼身自殺をした者がいる。

叔母は、車で海に突っ込み、植物状態となってしまった・・・。

私は、自ら無残と化した人々の姿と、周囲の悲しみを見つめて来た。

その悲しみの先に、何が残ったか・・・。

何も無かったのである。

無いどころか、目に見えぬ穴が広がり、そのブラックホールは、故人を完全に消し去り、中には超重力で、押し潰された遺族がいた。

命は、とても重い。

それが、失われる事は、もっと重い。

失われ方により、それが残された者を押し潰す。

我々は、それを噛みしめ、かけがえのない人生を、屈託を打ち払い、強くも儚くも、突き進んで行こう。