2012年03月14日 17:03 自分の存在価値とは・・・。


誰しも、周囲からの評価が気になり、自己の存在価値を、探求する事があるだろう。

中には、それを何処までも模索し、迷走した挙句に、己を疑ってしまう者もいる。

だが、周囲による自分への評価を、自己の中で見つけ出す事は、不可能に近いのではないだろうか?

まあ、当然と言えば当然だが、そうと割り切れぬのが人である。

では、具体的な考察をしてみよう。

紛れもない純粋な自分、仕事における自分、その他にも内在する様々な自分・・・。

移ろいゆく、全ての経過を含め、それを知っているのは自分だけだ。

私は、周囲からの評価を、自分の中で拾い上げる行為は、決して答えのない、簡単な問題を解く事と感じる。




確かに、周囲からの評価は気になる所だ。

それにより、自己の存在価値を、明確化したい気持ちは理解出来る。

しかし、自分を誰よりも知っているハズの本人が、
それを曖昧にしか導き出せないのであれば、考察を続けるのは、合理的ではない。

そもそも、人間は何処までも深い存在だ。

それを、要点だけを捉え、理解するだけでも至難である。

それが、自身であっても、完全に把握するのは、容易い事ではない。




結局、周囲が抱いている大概の評価は、漠然としていて、評価とも言えぬ状態だ。

そう、尋ねられてから、始めて考えるのが実情である。

評価を心がける立場の者でさえ、結果や他者の意見を総合し、上澄みから掬い上げた、言葉を並べるだけだ。

まあ、知り得る範囲や、評価する側の定規も様々で、一概には言いきれぬのが実情だ・・・。




人々が、他者に対し抱く評価は、関係が何処までも深まっていようと、
以下のような単語に集約される次元で、シンプルな答えなのではないのだろうか?

やさしい・いいひと・かわいい・すごい・がんばりや・好き・愛してる

しかし、このシンプルな答えには、口頭では伝えきれない、深い重みがある。

これを考察すると、深層の探求は不要と感じる。




考察を深めれば深めるほど、無数にあると思い込んでいる、
存在しない複雑な答えに翻弄され、時間と自身を、すり減らしてしまう。

だったらその分、自分自身による、自己への評価を高くする事に、努力・邁進すべきだろう。

それが出来れば、人は十二分である。

だって、君は頑張れる人なのだからね。

そうなれば、気にする必要は何もないさ。

そもそも、存在価値の明確化は不要だ。

誰しも、それは無限である。

存在価値は、継承され続ける。

誰だって子孫に、大きな繁栄を望むだろう。

それが、繰り返されてきたのだ。

確かに、身勝手な存在がいたかもしれない。

そんな連中は、忘れてしまえばいい。




我々は、命を継承してきた、究極の宝玉である。

それを見つめれば、自分の存在価値を疑う事の、儚さと無意味さを知るだろう。

家族・友人・同僚・様々な人々が、君の存在を願うのではなく、当たり前の事と知覚している。

それを、忘れてはいけないよ。

大切なのは、精神と肉体の健康を第一に、自己による評価向上の努力をする事と、
周囲を信じ互いを想いやり、命の大切さを噛み締め、前に進む事である。