2011年06月01日 02:18 福島第一原発『問題』との戦い方(修正版)


福島第一原発の問題に対し、福島第一原発のあらゆる問題は勿論、原子力における全問題だけを掲げ、
是正に臨もうとすれば、超絶極まる不備・不足によって、それは失態・失敗で終わってしまう。

当然、脱原発に関しても、原子力における全問題と、あらゆるエネルギー問題だけでは、絶頂極まる無能を晒す破目となる。
最小限において成すべきは、総合要因を前提とする、包括的な大是正である。

それが出来ぬのであれば、何もせぬ事と大差ない。

結局、この最小限を基盤とし、発展した活動でなければ、何かが変わったとしても、
上澄みを弄った程度で終わり、腐った本質は是正されぬ。

過去の公害問題と、福島第一原発の問題に対する、改善を求める一連の流れが、
同次元で展開されている以上、それを否定する事は絶無だ。

そう、被害者が空前絶後の絶叫を味わい、その無残な屍が積算した頃に、政府が笑みを浮かべ謝罪する・・・。

それが、日本で繰り返されて来た。

各国についても、毎度の御決まりの流れがあり、それが幾度も繰り返されている。

あまつさえ、誰も本質を改めなかった末路、因果の応報が肯定派・傍観派・否定派に降り注ぐのだ。

それは、かの福島第一原発において、最高峰の超過失によって発生した、
自爆事故によってバラ撒かれた、莫大な放射線のようにである。

はたまた、あるかぎりの非人道的問題で撒き散らされた、数多の災厄のようにである。

そして、人は同じ事を繰り返す。




袋小路たる坩堝から抜け出すには、包括的な問題をピックアップし、成すべきは何かを導き出す必要がある。

さすれば、センセーショナルな、問題の是正を確実に実現する、打開の道が開かれるのだ。

しかし、これには手間がかかる。

残念だが、誰もが容易である、大したリスクを負わぬ、自己満足の行進で、満足をしている者達には、
本懐を果たす道を、微塵も切り開く事が出来ず、甘んじて活動をする者達には、求めるのは酷な事である・・・。

そもそも、相手は遥かに手間をかけ、その行進を遮るのだ。

何より、鼻を明かせたい相手からすれば、脱原発なんぞは、枝葉の問題にすぎない。

葉っぱに群がった虫が、木を倒そうと葉っぱを食いつくそうとするが、
数が足りない上に、その葉っぱにすら歯が立たない状態だ。

そう、主張して歩くだけでは、努力が甚だ不足である。

それに、重箱の隅をつつく次元以下では、相手にもされぬ。
だが、卑劣極まる行為で、振り向かせようとすれば、本末転倒である。

もし、その誘いに乗ってしまえば、目的の成就は見果てぬ先へと消えて行く。




現時点で、有効な手段としては、相手側に内在する同法を集め、共に包括的な是正を訴える事である。

問題を限定しなければ、活動は効率的に展開し、己達で是正を実現するまでになる。

それは、多様な問題への働きかけが、個別の問題に内在する、様々な偏見を緩和する事は勿論、
多種・多彩な人材に対し、参加の弊害となる壁を、可能な限り低くするからだ。

そうでなければ、間接的な上澄み弄りで、頭打ちになってしまう。

連中の肝を冷やしたいのであれば、一連でどれだけの人々が、見殺しにされたのかを把握し、
それに対する明確な責任を、金銭ではない形態で、特定の政治家に求める活動を実施すればいい。

本質的な、是正者の到来を願う人々は、肯定派・否定派は当然とし、安全論者・危険論者を突き放し、
可能な範囲での被曝の予防は勿論、包括的な健康管理を、心がけて頂けると幸いだ。

何より、家族との時間を大切にして欲しい。

奪われるのは刹那だ。

何もかも失うのは一瞬だ。

だが、手に入れるには、気が遠くなる時間が必要となる。

奪われぬため・失わぬための活動も大切だが、身近な存在に傍らで尽くす事が、それよりも遥かに重要だ。

現状では、奪われた時・失われた時に、互いが絶望しないための選択が求められる。

だからこそ、最善・最良を尽くす必要がある。

しかし、それはデモではない。

そもそも、デモに対する対応は、既に確定している事だ。

デモは、民意でもなければ、世論でもない。

厳密には、その氷山の一角にすぎぬのだ。

だったら、署名をした方が、己の尊厳を失わずに済む。




重要なのは、世論調査に対し、日本経済がなんたらかんたらと、気取った素人臭い返事をするのではなく、
人としての良き良心に基づく、倫理・道徳・正義を前提とした、事実・真実・現実・実質・本質を見極めた返答をする事だ。

現実的と見せかけた、怠惰で傲慢な意見に翻弄されるのは、とても、とても、恥ずかしい事である。

そうでなくとも、連中は金を捨てて行く・・・。

そう、自己満足のため、大浪費を続けるのだ。

連中は、無用な事に手をつけて、結果が伴わずとも、己の成果と喜び悶える。

何もせぬ、そんな連中に首を絞められるより、何かさせた連中にされる方がまだマシだ。

集計による世論が、大きなカギとなる。

政治家は、世論が動かねば、国民に責任を分散出来なければ、何も出来ない赤ちゃんだ。

我々が、おしゃぶりになって、あやしてやらねば、何も出来ずに泣き喚く。

だが、世論との逆行を、明確に連中が始めたら、顎が外れるサイズのおしゃぶりを咥えさせ、
スパイクのついた鋼鉄製の特大ガラガラで、あやしてやらなければならない。

臨界突破において、最悪の災厄が、世界を満たさぬ事を切に願う。